深海ライブラリ📕

深海の底に眠る過去の記録に光を当てる。揺り起こす。

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    (情報整理をしようと思いつつ、そのままのノート)

    今日、インドは「破壊と再生」を司るシヴァ神を祀る祝祭日、マハー・シヴァラートリ(Maha Shivratri/偉大なシヴァの夜)であった。インドは毎年、暦によって変わる「移動祝日」が大半。そんな中、東日本大震災、そして原発事故から10周年を迎えた今日、「破壊と再生」という言葉を噛み締める縁を思う。

    ★ドイツ、原発ゼロ22年達成へ、再生エネに急転換
    ➡︎http://nikkei.com/article/DGXZQOGR09BBV0Z00C21A3000000/

    ★ハチドリ電力/自然エネルギーの発電
    ➡︎https://hachidori-denryoku.jp/

  • MANDARA

    1986年。35年前、20歳の春休み。発作的に描いた2枚の曼陀羅。

    大学の寮から帰省し、実家で過ごしていたある日。実家に掛かっていた曼荼羅の絵を見て、自分も描いてみたくなった。部屋にあった、高校時代の絵具や筆、画用紙を使い、アルバイトの合間を縫って、わずか数日で2枚描いた。

    1枚目は、ほとんど模倣。ただ、自分の名前を「隠し絵」のようにして紛れ込ませた。先日の『アンベードカルとインド仏教、佐々井秀嶺上人』のセミナー動画で、その写真を紹介した(動画では19歳と言ったが調べたら20歳のときだった)。すると、ご覧になった方から、曼荼羅に感銘を受けたとのメッセージをいただいた。

    動画で紹介した1枚は、実家に飾られている。もう一枚は、手元にあるはずだ。今朝、クローゼットを開いて久しぶりに発掘、しみじみと眺めた。描いた当初は、暑苦しい画になってしまった気がして、あまり気に入ってはいなかった。しかし35年ぶりにじっくり眺めると、かなり感慨深い。

    当時のわたしは、その半年前に初めて海外旅行を体験、1カ月の米国滞在した直後で、感性が炸裂していた。それはこの年、大学祭実行委員長を引き受けて、準備、実施するまで続くのだが、まさに若い力が漲っていたころだ。

    インターネット台頭以前。絵の素材は印刷媒体を参考にした。

    子どものころから自然破壊や環境問題に敏感だったことは過去にも記したが、その思いは多分、常に根底にあったのだろう。

    この絵を描く数カ月前の1月28日。スペースシャトルのチャレンジャーが発射73秒後に爆発。飛行士7名が死亡した。その経緯をレポートする『ニューズ・ウィーク』誌の特集にあった写真を見て、スペースシャトルを描いたことは覚えている。

    月の満ち欠けは、歳月の流れを表している。その上には涅槃。

    しかし右上は、ゴミの山。埋立地に林立する団地に押し寄せる津波……。

    昭和40年代、わたしが育った福岡市東区名島、千早界隈。かつては海辺だった場所が埋め立てられ、「城浜団地」ができた。かつて山だった場所が造成されて「三の丸団地」ができた。
    その変遷を、この目で見てきた。高度経済成長に伴う環境の歪みを、本能的に感じ取っていた。思えばあれは、野生の勘のようなものだった。

    中学2年のころ。大反抗期で成績は急下降していながらも、作文の宿題はしっかりやり、それが福岡県知事賞を受賞、テレビに出演し、朗読した。その作文も、同様のテーマだ。

    試験管はそのまま、「試験管ベイビー」を意味している。1978年、英国で初めて「体外人工受精」により、子供が誕生した。今ではごく一般的な治療と生誕の形になっているが、当時は物議を醸した。

    ちなみにわたしは卒業論文で「安部公房」を取り上げたのだが、彼は1977年に発表された『密会』という作品の中で、すでに「試験管ベビー」という表現を使い、人工授精で生まれた女性を登場させている。

    そもそも理系である安部公房の先見の明や世界を見る目には驚嘆すべき点が多々あるのだが、この予見には、今改めて、鳥肌が立つ。

    ミツバチのモチーフは、多分、ミツバチがいなくなると、人間の存在が危うくなるという話をどこかで知り、使ったのだと思う。農薬などへの危機感も、わたしの中にあったのかもしれない。嫌な予感は当たり、今やミツバチは減少の一途を辿っている。

    そしてリンゴ。当時は、アダムとイヴの禁断のリンゴ=原罪を表すために描いた。しかし、今の世界を席巻しているAppleのiPhoneを予見していた……とは、こじつけだ。

    そして、ムンクの叫び。これは、絵の中の人物が叫んでいるのではない。

    彼は「耳を塞いでいる」。以下は、ムンク本人が、この絵に言及した一文だ。

    「私は2人の友人と歩道を歩いていた。太陽は沈みかけていた。突然、空が血の赤色に変わった。私は立ち止まり、酷い疲れを感じて柵に寄り掛かった。それは炎の舌と血とが青黒いフィヨルドと町並みに被さるようであった。友人は歩き続けたが、私はそこに立ち尽くしたまま不安に震え、戦っていた。そして私は、自然を貫く果てしない叫びを聴いた。」
    自然を貫く果てしない叫び。

    35年前には、耳を澄まさなければ聞こえなかった叫びは、今、地球全体に轟轟と響き渡っている。

    くどいようだが、先日も紹介したデイヴィッド・アッテンボローの『地球に暮らす生命 (NETFLIX)』。

    地球環境を改善するために我々人間ができることが、最後の最後で提案されている。

    一人でも多くの人に見て欲しいと思う。

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    Spring break in 1986. I returned home from the university dormitory. One day, when I saw a mandala painting hanging at my parents’ house, I wanted to draw it myself. I painted 2 pieces of them.

    The first piece was almost an imitation of the original painting. However, I drew my name as a “hidden picture”.

    Another one. I opened the closet this morning and searched. I took it out after a long time. At the time I drew it, I didn’t like it because it didn’t look sophisticated. However, when I see it for the first time in 35 years, I am quite moved.

    January 28, a few months before I drew this picture. The Space Shuttle Challenger explodes 73 seconds after launch. Seven aviators have died. I drew this picture after seeing a photo in a special feature of Newsweek magazine reporting the accident.

    The phases of the moon represent the passage of time. On top of that is Nirvana.

    However, the upper right is a pile of garbage. A tsunami rushing to a housing complex that stands in reclaimed land.

    Fukuoka city where I grew up in the 1960s. The former seaside area was reclaimed, the former mountain was shaved, and countless apartment buildings were built.

    I have seen the transition with my own eyes. I instinctively felt the distortion of the environment due to the high economic growth. It was like a wild intuition.

    The test tube as it is means “test tube baby”.

    In July 1978 Louise Brown was hailed as the world’s first “test-tube baby”, born through the fertility treatment IVF. It is now a very common form of treatment and birth, but at the time it was controversial.

    I think I used the honeybee motif because I learned somewhere that the existence of human beings would be jeopardized if the honeybees disappeared.

    Concerns and a sense of crisis about the use of pesticides may have been in me. My unpleasant premonition was right, and now the number of bees is steadily decreasing.

    And an apple. It was drawn to show the forbidden apple = original sin of Adam and Eve. However, I foresaw Apple’s iPhone, which is sweeping the world today … That should not be.

    The Scream.

    Created by Edvard Munch. He later described his inspiration for the image:

    I was walking along the road with two friends – the sun was setting – suddenly the sky turned blood red – I paused, feeling exhausted, and leaned on the fence – there was blood and tongues of fire above the blue-black fjord and the city – my friends walked on, and I stood there trembling with anxiety – and I sensed an infinite scream passing through nature.

    The person in the picture is not screaming. He is blocking his ears. The following is a sentence that Munch himself mentioned about this painting.

    An endless cry that penetrates nature.

    Thirty-five years ago, the screams were still quiet. But now, it’s roaring all over the globe.

    Please watch this movie. David Attenborough’s “A Life on Our Planet”. (NETFLIX)

    What we humans can do to improve the global environment is proposed at the very end. I want as many people as possible to watch this movie.

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    先進国/新興国/途上国/資本主義……諸々に違和感

    今朝は月に一度のFM熊本収録日につき、早朝起床。今回のテーマは、価値観の見直しが必要な時代の到来について。

    数分間で軽く語れるテーマではないことも、テーマとしては重めであることも承知のうえで、思うところを伝えたい。

    昨今のCOVID-19世界を眺め、軒並み「先進国」とされる世界が混沌としているのを見るにつけ、海外生活を始めた直後の25年前から、常々感じてきた世界の「優劣」の定義に、今、改めて、強い違和感を覚えている。

    たとえインドに暮らしている日本人でも、ここに住んでいる理由、あるいは、住んでいる土地、主たる情報源、また関わる人たちによって、物の見方や考え方、感受性は著しく異なる。ゆえに、日本に暮らす人は、インドに対して偏った情報しか得られないのはやむを得ないだろう。なお、わたし一個人の立場から、この状況を見るに、インドにおけるCOVID-19は、収束に向かいつつあると実感している。無論、他の社会問題は山積しているが。

    * * *

    今年に入って「知能指数より知恵指数」とか、「不易流行」とか、いろいろ書き続けているが、これからも、世間からの反応が薄いのを覚悟で、しつこく発信し続けていくつもりだ。

    今日、お勧めしたいのは、デイヴィッド・アッテンボローの映画『地球に暮らす生命』。NETFLIXで見られる。手書きノートにも軽く言及しているが、とにかくは「最後まで」見てほしい。地球に生きる人間として、この事実は知っておくべきだし、知った上で行動せねばならないと思う。この映画を見た後に、わたしは諸々が腑に落ちて、思うところを発信し続けようとの思いを強くした。

    わたしは子どものころから、地球環境の破壊や天災に対して敏感で、異様なほどの恐怖心を抱いていた。その傾向を強くさせた一つに映画『ノストラダムスの大予言』がある。1973年に公開されたその映画。他の映画を見るために訪れた映画館で、予告編を見ただけで恐怖の極みに陥り、何の映画を見に行ったのかは覚えていないにもかかわらず、その予告編だけが脳裏に刻まれた。

    以来、「わたしは33歳で死ぬのだ。夫と二人の子供もいっしょに……」などと、妄想していた。実際のところ、33歳のわたしはまだ独身で、55歳の今も元気で生きているのだが。

    アッテンボロー『地球に暮らす生命』を見た後、ふと『ノストラダムスの大予言』を思い出して検索した。ビンゴだった。この映画は、単に恐怖心を煽るパニック映画ではない、「環境問題への真剣な警告」が主旨の、未来予測の映画であった。なんとかして見てみたいものだ。

    以下、Wikipediaよりあらすじの一部を抜粋。

    「……良玄は、人類の行き過ぎた開発が人類を滅亡させるとして、必要以上の生産を止めるよう提言するが、人々の興味は生活の向上や生産の増加に向いており、逆に「ヒューマニズムの崩壊」と批判される始末。国際会議も、発展途上国の人口増加が環境破壊に拍車をかけていると主張する先進国と、先進国の資源浪費が環境破壊の原因だと反論する発展途上国が対立して紛糾する。そんな中、太平洋上の海面が凍りつき、エジプトで雪が降るなどの異常気象が発生。さらに、成層圏に滞留した放射能がニューギニアに降り注いだとの知らせが届き、国際合同調査隊が派遣されることになった……」

    ほんといい加減、方向転換しないと、人類。

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    『地球に暮らす生命』を見て、デイヴィッドの最後の言葉を聞いて、子どものころからずっと抱え続けてきた違和感を拭うための、自分なりの解決法を、今日、はじめて「言語化」できた。

    いろいろなことが、腑に落ちた。そして、この言葉が浮かんだ。

    自分が心がけてきたこと、やってきたことの多くを、ひとまとめにできる、わかりやすい「指針」が生まれた。ひとつの方向性。これから少しずつ、整理していこう。

    In the coming era, we should improve not only IQ (Intelligence Quotient) but also WQ (Wisdom Quotient).

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    JALの機内誌、『SKYWARD』が、今日、ようやく手元に届いた。ゲラ(校正刷り)は、編集部とオンラインでやりとりしていたが、実際の上がりを見ると、達成感もひとしおだ。

    フォトグラファーが捉えたバンガロールは、しかし自分もその場にいて、被写体を見つめていたこともあり、厚かましくも、まるで自分が撮ったかのような気分になる心地よさ。わずか11ページではとても収まりきれなかったバンガロールの魅力を、もっともっと、こうして紙面にできたらとの思いが湧き上がる。

    魅力的な写真で読者の視線を引き付けられれば、きっと文章も読んでもらえるはず。2月は短く、しかし日本航空の国内線、国際線、すべてのフライトに乗せられ、世界中を巡るこの雑誌。無数の機上の人々に、バンガロール(ベンガルール)の存在を知ってもらえることだろう。

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    多くのインド人にとって、クリケットとは決して欠かすことのできない一大エンターテインメントとしてのスポーツだ。インドに移住する前、米国在住時から、夫のクリケットに対する熱心さには、ときに驚き、ときに呆れていた。

    2005年11月にインドへ移住してからは、このクリケットが、多様性の巨大国家インドにおいて、国民の意識を集約することができる、極めて重要なスポーツであるということを認識した。

    2019年5月現在、インドはIPL(インディアン・プレミア・リーグ)開催の真っ只中だ。さらに今年は、4年に一度のワールドカップも控えており、インド世間のクリケット観戦の日々はまだまだ続く。

    クリケットの概要を知っておくと、インドの人たちとの「世間話」も、無難に盛り上がる。ここでは、過去、クリケットに関して記した記事を一括して紹介している。かつて5年に亘って寄稿していた西日本新聞のコラム『激変するインド』の記事も転載した。古い記事が中心だが、11年前にIPLが誕生した経緯やスタジアム観戦の記録などもあり、雰囲気をつかめることだと思う。

    下部には、クリケットに言及したブログのリンクもはっている。参考にしていただければと思う。

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    ●クリケット:プロリーグ誕生に沸く(2008年4月)

    多様性の国、インドにおいて、宗教や言語、階級の違いを超え、国民が一丸となって熱狂するスポーツがクリケットだ。

    英国発祥のこのスポーツは、オーストラリアやニュージーランド、インド、パキスタン、南アフリカなどの英連邦諸国や、かつて英国統治下にあった国々で人気がある。日本人にはなじみが薄いが、白いユニフォーム姿の選手が、緑鮮やかな芝生のフィールドでゲームをしている様子を映画などで目したことがある方も多いのではないか。

    クリケットは野球の原型とも言われ、各11人の2チームが、攻守交代しながら得点を競う。野球との大きな違いは、そのゆったりとした時間の流れだ。伝統的な国別対抗戦である「テストマッチ」の場合、通常1試合に4、5日を要する。「ワンデイマッチ」でも1試合に7時間。主要な試合が行われるときには、国民の多くがテレビに釘付けとなるため、各種業務は滞り、一方で交通渋滞がなくなる。

    特に4年に一度行われるワールドカップ期間中は、その盛り上がりが一段と激しい。試合中は、たとえ自分がテレビを見ていなくても、同じタイミングで、ご近所のあちこちから歓声や拍手が聞こえて来るため、おのずと試合の運びがわかる。

    ところで我が家のインド人(夫)も、例に漏れずクリケットファンだ。ことあるごとに、「これは大事な試合だから」と、テレビに見入っている。一年のうちにどれだけ大事な試合があったか、数えきれない。

    さて、つい先日、インドのクリケットに新たな潮流が誕生した。プロクリケットリーグのIPL(インディアン・プレミア・リーグ)がそれだ。シーズンは44日間、8チームによって全59試合がインド各地のスタジアムで開催される。試合形式は、近年登場した「トゥエンティ・トゥエンティ (Twenty 20)」。1試合約3時間程度で終了する。

    4月18日、当地バンガロールにて、IPLの歴史的な開幕試合が行われた。ボリウッド映画の大物俳優シャールク・カーンが所有する「コルカタ・ナイト・ライダーズ」と、著名な実業家のヴィジャイ・マリヤが所有する「ロイヤル・チャレンジャーズ」との対戦だ。ふだんはクリケットに関心のないわたしも夫とともにテレビに向かう。華やかなパフォーマンスによる幕開けのあと、派手なユニフォームに身を包んだ選手たちがフィールドに散らばった。

    オーストラリアやニュージーランドからの外国人選手らの姿も見られる。カメラワークも従来のクリケット試合とは異なり非常にアクティブ。盛り上がる観客席の様子や、セクシーなコスチュームのチアリーダーたちを映し出し、まるで米国のスポーツゲームを見ているようだ。国内外企業の広告も華やかに、経済効果の高さもしのばせる。

    さて、翌々日の20日。コルカタでの第2戦を居間で観戦していた夫が、突然、不満の声を上げた。聞けば、スタジアムが停電となり、復旧まで試合中断とのこと。画面には、慌てるでもなく実況中継をするリポーターや、のんびりと再開を待つ観客らが映し出されていた。やはりインドはインドだな、と苦笑させられるとともに、なぜか少し、ほっとした。

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    ●クリケット:スタジアムで気分が高揚(2011年6月)
     
    米国に住んでいたころの夫は、故国インドに対する関心が低かった。しかしクリケットの試合に関しては別。ワールドカップ(W杯)の開催時は、たとえ深夜でも、試合を受信できるケーブルのあるインド系の飲食店へ赴く。普段は睡眠不足を嫌う夫が、朝方帰宅し、爽やかに出勤する姿に、目を見張ったものだ。

    多様性の国と呼ばれるインドにおいて、国民が一丸となって熱狂するスポーツ、クリケット。野球の原型と言われているが、速やかな試合運びの野球とは異なり、長時間を要する。伝統的な国別対抗戦「テストマッチ」は、1試合が4、5日間に亘る。「ワンデイマッチ」でも1試合が約7時間だ。主要な試合開催時は、世の中の機能が滞る。家電店の前には人だかりができ、通行人が試合に見入る。飲食店では、お客も従業員も、テレビの画面に視線が釘付けだ。

    今年の4月は、4年に一度のW杯がインドで開催された。特に盛り上がりを見せたのは、インド対パキスタンの準決勝戦。パキスタンのギラニ首相も訪れ、インドのシン首相と並んで観戦した。この状態をして「クリケット外交」と呼ばれる。インド勝利後、シン首相が感情を抑え、穏やかに拍手をする姿が印象的だった。最終的に、インドは決勝まで上り詰め、スリランカを破って28年ぶりに優勝。勝利の瞬間、近所に歓声が響き渡り、市街の随所で花火が打ち上がった。

    W杯の興奮冷めやらぬ直後、今度はインド国内のプロクリケットリーグ、IPL(インディアン・プレミア・リーグ)のシーズンが始まった。2008年に誕生したIPL。インド各地拠点の10チームが、各都市で戦う。試合形式は、1試合約3~4時間で終了する「トゥエンティ・トゥエンティ」。国内外の名選手たちが顔を揃え、チアリーダーが花を添える。加えて広告合戦も白熱。紳士のスポーツというよりは、一大エンターテインメントだ。

    今年は夫に誘われて、わたしは初めてスタジアムで観戦した。大渋滞のスタジアム周辺は、縁日のような賑わい。地元チーム「バンガロール・ロイヤル・チャレンジャーズ」のロゴ入りTシャツや、旗などが売られている。観客席には家族連れがあふれ、試合前から熱気でいっぱいだ。

    この日の対戦チームは人気俳優が所有する「コルカタ・ナイト・ライダーズ」。選手たちが入場するや、歓声がとどろき、クリケットファンでないわたしでも、気分が高揚する。夫にルールを教わりながら観戦。テレビで見るのとは異なり、ポジションや動きの全容を見られるので、試合の流れがよくわかり、想像以上に楽しい。

    あいにく途中で雨が降り出した。延期かと思いきや、巨大なビニルシートが運び出され、フィールドを覆う。観客は、雨が上がるのを根気よく待つ。結局2時間後に試合再開。待ち時間が長かった分、約4時間の試合はむしろ短く感じた。

    インド生活6年目にして、ついにわたしも、クリケットを楽しめるようになってきたようだ。
     

    【過去、ブログに記したクリケット関連の記事】

    ◎みんながっくりクリケット。(2007年3月)

    インドに暮らし始めて1年余りが過ぎたころ。夫が、世間が騒ぐクリケットに関心がなかったものの、一応、世の趨勢をまとめてみた記録。

    ◎プロリーグ誕生クリケット。でもやはり、インドなのだ。(2008年4月)

    インド経済にバブルの香りがプンプンと漂っていたころ。インドにて、クリケットのプロリーグIPLが誕生したときの、最初の試合をテレビで観戦したときの記録。


    ◎クリケットのワールドカップ、インドが28年ぶりに優勝!
    (2011年4月)

    4年に一度開催されるクリケットのワールドカップにて、インドが優勝した時の、世間の盛り上がりをレポート。

    ◎クリケット国内リーグ観戦@スタジアムの午後(2011年5月)

    夫の熱心な誘いに根負けして、初めてスタジアムに足を運び、クリケット観戦をしたときの記録。試合云々よりも、普段は時間にルーズな夫が、「超前倒し」で家を出るべく妻を急かしてスタジアムに向かったことや、途中で大雨が降ったにも関わらず、観客は去ることなく根気強く待ったこと、さらには、雨が降り出すや否や、スタジアムが巨大なビニルシートで覆われ、雨後は巨大なスポンジボブがスタジアムの水分を吸収したことなど、試合とは関係ないところのエピソードが濃い。

    ◎超ヒーロー、サチンにやられっぱなしの午後♥(2011年9月)

    日本料理店EDOにてサンデーブランチを楽しんでいたとき、隣席にクリケットのスーパーヒーロー、サチン・テンドルカールほか数名選手がやってきた! サチンがどれほどの選手かというと、日本の野球選手にたとえるならば、全盛期の王貞治と長嶋茂雄を足して割らずに煮詰めたくらいの存在感。例えが古いか。イチローと松井を煮詰めた感じか。それもやや古いか。ともあれ、彼の存在感には、目が♥にさせられたのだった。

    ◎またしても、スタジアムへクリケット観戦に!(2011年9月)

    一回で十分、と思っていたクリケット観戦だが、RKBラジオの収録を前に、鮮度の高い話題を仕入れておこうと、夫に誘われるがままスタジアムへ。地元ロイヤル・チャレンジャーが勝利し、決勝進出! の盛り上がった試合だった。

    ◎クリケット印パ戦。英国入り直後、バーミンガム近郊へ(2017年6月)

    マルハン家は年に一度、米国永住権維持の目的でニューヨークを訪れている。その経由地ロンドン(英国)でゆっくり滞在したかった妻の思いは却下され、なぜか夫のクリケット印パ戦に付き合わされてバーミンガムくんだりまで訪れたときの記録。

    * * *

    ◎泥沼に咲く蓮の花。印パのクリケット試合(2004年3月)

    米国在住時。クリケットに全く関心のなかったわたしだが、夫のクリケット熱の強さに影響され、印パのクリケット外交に関する記事を、当時発行していたメールマガジンに記している。

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    多くのインド人にとって、クリケットとは決して欠かすことのできない一大エンターテインメントとしてのスポーツだ。インドに移住する前、米国在住時から、夫のクリケットに対する熱心さには、ときに驚き、ときに呆れていた。

    2005年11月にインドへ移住してからは、このクリケットが、多様性の巨大国家インドにおいて、国民の意識を集約することができる、極めて重要なスポーツであるということを認識した。

    2019年5月現在、インドはIPL(インディアン・プレミア・リーグ)開催の真っ只中だ。さらに今年は、4年に一度のワールドカップも控えており、インド世間のクリケット観戦の日々はまだまだ続く。

    クリケットの概要を知っておくと、インドの人たちとの「世間話」も、無難に盛り上がる。ここでは、過去、クリケットに関して記した記事を一括して紹介している。かつて5年に亘って寄稿していた西日本新聞のコラム『激変するインド』の記事も転載した。古い記事が中心だが、11年前にIPLが誕生した経緯やスタジアム観戦の記録などもあり、雰囲気をつかめることだと思う。

    下部には、クリケットに言及したブログのリンクもはっている。参考にしていただければと思う。

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    ●クリケット:プロリーグ誕生に沸く(2008年4月)

    多様性の国、インドにおいて、宗教や言語、階級の違いを超え、国民が一丸となって熱狂するスポーツがクリケットだ。

    英国発祥のこのスポーツは、オーストラリアやニュージーランド、インド、パキスタン、南アフリカなどの英連邦諸国や、かつて英国統治下にあった国々で人気がある。日本人にはなじみが薄いが、白いユニフォーム姿の選手が、緑鮮やかな芝生のフィールドでゲームをしている様子を映画などで目したことがある方も多いのではないか。

    クリケットは野球の原型とも言われ、各11人の2チームが、攻守交代しながら得点を競う。野球との大きな違いは、そのゆったりとした時間の流れだ。伝統的な国別対抗戦である「テストマッチ」の場合、通常1試合に4、5日を要する。「ワンデイマッチ」でも1試合に7時間。主要な試合が行われるときには、国民の多くがテレビに釘付けとなるため、各種業務は滞り、一方で交通渋滞がなくなる。

    特に4年に一度行われるワールドカップ期間中は、その盛り上がりが一段と激しい。試合中は、たとえ自分がテレビを見ていなくても、同じタイミングで、ご近所のあちこちから歓声や拍手が聞こえて来るため、おのずと試合の運びがわかる。

    ところで我が家のインド人(夫)も、例に漏れずクリケットファンだ。ことあるごとに、「これは大事な試合だから」と、テレビに見入っている。一年のうちにどれだけ大事な試合があったか、数えきれない。

    さて、つい先日、インドのクリケットに新たな潮流が誕生した。プロクリケットリーグのIPL(インディアン・プレミア・リーグ)がそれだ。シーズンは44日間、8チームによって全59試合がインド各地のスタジアムで開催される。試合形式は、近年登場した「トゥエンティ・トゥエンティ (Twenty 20)」。1試合約3時間程度で終了する。

    4月18日、当地バンガロールにて、IPLの歴史的な開幕試合が行われた。ボリウッド映画の大物俳優シャールク・カーンが所有する「コルカタ・ナイト・ライダーズ」と、著名な実業家のヴィジャイ・マリヤが所有する「ロイヤル・チャレンジャーズ」との対戦だ。ふだんはクリケットに関心のないわたしも夫とともにテレビに向かう。華やかなパフォーマンスによる幕開けのあと、派手なユニフォームに身を包んだ選手たちがフィールドに散らばった。

    オーストラリアやニュージーランドからの外国人選手らの姿も見られる。カメラワークも従来のクリケット試合とは異なり非常にアクティブ。盛り上がる観客席の様子や、セクシーなコスチュームのチアリーダーたちを映し出し、まるで米国のスポーツゲームを見ているようだ。国内外企業の広告も華やかに、経済効果の高さもしのばせる。

    さて、翌々日の20日。コルカタでの第2戦を居間で観戦していた夫が、突然、不満の声を上げた。聞けば、スタジアムが停電となり、復旧まで試合中断とのこと。画面には、慌てるでもなく実況中継をするリポーターや、のんびりと再開を待つ観客らが映し出されていた。やはりインドはインドだな、と苦笑させられるとともに、なぜか少し、ほっとした。

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    ●クリケット:スタジアムで気分が高揚(2011年6月)
     
    米国に住んでいたころの夫は、故国インドに対する関心が低かった。しかしクリケットの試合に関しては別。ワールドカップ(W杯)の開催時は、たとえ深夜でも、試合を受信できるケーブルのあるインド系の飲食店へ赴く。普段は睡眠不足を嫌う夫が、朝方帰宅し、爽やかに出勤する姿に、目を見張ったものだ。

    多様性の国と呼ばれるインドにおいて、国民が一丸となって熱狂するスポーツ、クリケット。野球の原型と言われているが、速やかな試合運びの野球とは異なり、長時間を要する。伝統的な国別対抗戦「テストマッチ」は、1試合が4、5日間に亘る。「ワンデイマッチ」でも1試合が約7時間だ。主要な試合開催時は、世の中の機能が滞る。家電店の前には人だかりができ、通行人が試合に見入る。飲食店では、お客も従業員も、テレビの画面に視線が釘付けだ。

    今年の4月は、4年に一度のW杯がインドで開催された。特に盛り上がりを見せたのは、インド対パキスタンの準決勝戦。パキスタンのギラニ首相も訪れ、インドのシン首相と並んで観戦した。この状態をして「クリケット外交」と呼ばれる。インド勝利後、シン首相が感情を抑え、穏やかに拍手をする姿が印象的だった。最終的に、インドは決勝まで上り詰め、スリランカを破って28年ぶりに優勝。勝利の瞬間、近所に歓声が響き渡り、市街の随所で花火が打ち上がった。

    W杯の興奮冷めやらぬ直後、今度はインド国内のプロクリケットリーグ、IPL(インディアン・プレミア・リーグ)のシーズンが始まった。2008年に誕生したIPL。インド各地拠点の10チームが、各都市で戦う。試合形式は、1試合約3~4時間で終了する「トゥエンティ・トゥエンティ」。国内外の名選手たちが顔を揃え、チアリーダーが花を添える。加えて広告合戦も白熱。紳士のスポーツというよりは、一大エンターテインメントだ。

    今年は夫に誘われて、わたしは初めてスタジアムで観戦した。大渋滞のスタジアム周辺は、縁日のような賑わい。地元チーム「バンガロール・ロイヤル・チャレンジャーズ」のロゴ入りTシャツや、旗などが売られている。観客席には家族連れがあふれ、試合前から熱気でいっぱいだ。

    この日の対戦チームは人気俳優が所有する「コルカタ・ナイト・ライダーズ」。選手たちが入場するや、歓声がとどろき、クリケットファンでないわたしでも、気分が高揚する。夫にルールを教わりながら観戦。テレビで見るのとは異なり、ポジションや動きの全容を見られるので、試合の流れがよくわかり、想像以上に楽しい。

    あいにく途中で雨が降り出した。延期かと思いきや、巨大なビニルシートが運び出され、フィールドを覆う。観客は、雨が上がるのを根気よく待つ。結局2時間後に試合再開。待ち時間が長かった分、約4時間の試合はむしろ短く感じた。

    インド生活6年目にして、ついにわたしも、クリケットを楽しめるようになってきたようだ。
     

    【過去、ブログに記したクリケット関連の記事】

    ◎みんながっくりクリケット。(2007年3月)

    インドに暮らし始めて1年余りが過ぎたころ。夫が、世間が騒ぐクリケットに関心がなかったものの、一応、世の趨勢をまとめてみた記録。

    ◎プロリーグ誕生クリケット。でもやはり、インドなのだ。(2008年4月)

    インド経済にバブルの香りがプンプンと漂っていたころ。インドにて、クリケットのプロリーグIPLが誕生したときの、最初の試合をテレビで観戦したときの記録。


    ◎クリケットのワールドカップ、インドが28年ぶりに優勝!
    (2011年4月)

    4年に一度開催されるクリケットのワールドカップにて、インドが優勝した時の、世間の盛り上がりをレポート。

    ◎クリケット国内リーグ観戦@スタジアムの午後(2011年5月)

    夫の熱心な誘いに根負けして、初めてスタジアムに足を運び、クリケット観戦をしたときの記録。試合云々よりも、普段は時間にルーズな夫が、「超前倒し」で家を出るべく妻を急かしてスタジアムに向かったことや、途中で大雨が降ったにも関わらず、観客は去ることなく根気強く待ったこと、さらには、雨が降り出すや否や、スタジアムが巨大なビニルシートで覆われ、雨後は巨大なスポンジボブがスタジアムの水分を吸収したことなど、試合とは関係ないところのエピソードが濃い。

    ◎超ヒーロー、サチンにやられっぱなしの午後♥(2011年9月)

    日本料理店EDOにてサンデーブランチを楽しんでいたとき、隣席にクリケットのスーパーヒーロー、サチン・テンドルカールほか数名選手がやってきた! サチンがどれほどの選手かというと、日本の野球選手にたとえるならば、全盛期の王貞治と長嶋茂雄を足して割らずに煮詰めたくらいの存在感。例えが古いか。イチローと松井を煮詰めた感じか。それもやや古いか。ともあれ、彼の存在感には、目が♥にさせられたのだった。

    ◎またしても、スタジアムへクリケット観戦に!(2011年9月)

    一回で十分、と思っていたクリケット観戦だが、RKBラジオの収録を前に、鮮度の高い話題を仕入れておこうと、夫に誘われるがままスタジアムへ。地元ロイヤル・チャレンジャーが勝利し、決勝進出! の盛り上がった試合だった。

    ◎クリケット印パ戦。英国入り直後、バーミンガム近郊へ(2017年6月)

    マルハン家は年に一度、米国永住権維持の目的でニューヨークを訪れている。その経由地ロンドン(英国)でゆっくり滞在したかった妻の思いは却下され、なぜか夫のクリケット印パ戦に付き合わされてバーミンガムくんだりまで訪れたときの記録。

    * * *

    ◎泥沼に咲く蓮の花。印パのクリケット試合(2004年3月)

    米国在住時。クリケットに全く関心のなかったわたしだが、夫のクリケット熱の強さに影響され、印パのクリケット外交に関する記事を、当時発行していたメールマガジンに記している。

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    多くのインド人にとって、クリケットとは決して欠かすことのできない一大エンターテインメントとしてのスポーツだ。インドに移住する前、米国在住時から、夫のクリケットに対する熱心さには、ときに驚き、ときに呆れていた。

    2005年11月にインドへ移住してからは、このクリケットが、多様性の巨大国家インドにおいて、国民の意識を集約することができる、極めて重要なスポーツであるということを認識した。

    2019年5月現在、インドはIPL(インディアン・プレミア・リーグ)開催の真っ只中だ。さらに今年は、4年に一度のワールドカップも控えており、インド世間のクリケット観戦の日々はまだまだ続く。

    クリケットの概要を知っておくと、インドの人たちとの「世間話」も、無難に盛り上がる。ここでは、過去、クリケットに関して記した記事を一括して紹介している。かつて5年に亘って寄稿していた西日本新聞のコラム『激変するインド』の記事も転載した。古い記事が中心だが、11年前にIPLが誕生した経緯やスタジアム観戦の記録などもあり、雰囲気をつかめることだと思う。

    下部には、クリケットに言及したブログのリンクもはっている。参考にしていただければと思う。

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    ●クリケット:プロリーグ誕生に沸く(2008年4月)

    多様性の国、インドにおいて、宗教や言語、階級の違いを超え、国民が一丸となって熱狂するスポーツがクリケットだ。

    英国発祥のこのスポーツは、オーストラリアやニュージーランド、インド、パキスタン、南アフリカなどの英連邦諸国や、かつて英国統治下にあった国々で人気がある。日本人にはなじみが薄いが、白いユニフォーム姿の選手が、緑鮮やかな芝生のフィールドでゲームをしている様子を映画などで目したことがある方も多いのではないか。

    クリケットは野球の原型とも言われ、各11人の2チームが、攻守交代しながら得点を競う。野球との大きな違いは、そのゆったりとした時間の流れだ。伝統的な国別対抗戦である「テストマッチ」の場合、通常1試合に4、5日を要する。「ワンデイマッチ」でも1試合に7時間。主要な試合が行われるときには、国民の多くがテレビに釘付けとなるため、各種業務は滞り、一方で交通渋滞がなくなる。

    特に4年に一度行われるワールドカップ期間中は、その盛り上がりが一段と激しい。試合中は、たとえ自分がテレビを見ていなくても、同じタイミングで、ご近所のあちこちから歓声や拍手が聞こえて来るため、おのずと試合の運びがわかる。

    ところで我が家のインド人(夫)も、例に漏れずクリケットファンだ。ことあるごとに、「これは大事な試合だから」と、テレビに見入っている。一年のうちにどれだけ大事な試合があったか、数えきれない。

    さて、つい先日、インドのクリケットに新たな潮流が誕生した。プロクリケットリーグのIPL(インディアン・プレミア・リーグ)がそれだ。シーズンは44日間、8チームによって全59試合がインド各地のスタジアムで開催される。試合形式は、近年登場した「トゥエンティ・トゥエンティ (Twenty 20)」。1試合約3時間程度で終了する。

    4月18日、当地バンガロールにて、IPLの歴史的な開幕試合が行われた。ボリウッド映画の大物俳優シャールク・カーンが所有する「コルカタ・ナイト・ライダーズ」と、著名な実業家のヴィジャイ・マリヤが所有する「ロイヤル・チャレンジャーズ」との対戦だ。ふだんはクリケットに関心のないわたしも夫とともにテレビに向かう。華やかなパフォーマンスによる幕開けのあと、派手なユニフォームに身を包んだ選手たちがフィールドに散らばった。

    オーストラリアやニュージーランドからの外国人選手らの姿も見られる。カメラワークも従来のクリケット試合とは異なり非常にアクティブ。盛り上がる観客席の様子や、セクシーなコスチュームのチアリーダーたちを映し出し、まるで米国のスポーツゲームを見ているようだ。国内外企業の広告も華やかに、経済効果の高さもしのばせる。

    さて、翌々日の20日。コルカタでの第2戦を居間で観戦していた夫が、突然、不満の声を上げた。聞けば、スタジアムが停電となり、復旧まで試合中断とのこと。画面には、慌てるでもなく実況中継をするリポーターや、のんびりと再開を待つ観客らが映し出されていた。やはりインドはインドだな、と苦笑させられるとともに、なぜか少し、ほっとした。

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    ●クリケット:スタジアムで気分が高揚(2011年6月)
     
    米国に住んでいたころの夫は、故国インドに対する関心が低かった。しかしクリケットの試合に関しては別。ワールドカップ(W杯)の開催時は、たとえ深夜でも、試合を受信できるケーブルのあるインド系の飲食店へ赴く。普段は睡眠不足を嫌う夫が、朝方帰宅し、爽やかに出勤する姿に、目を見張ったものだ。

    多様性の国と呼ばれるインドにおいて、国民が一丸となって熱狂するスポーツ、クリケット。野球の原型と言われているが、速やかな試合運びの野球とは異なり、長時間を要する。伝統的な国別対抗戦「テストマッチ」は、1試合が4、5日間に亘る。「ワンデイマッチ」でも1試合が約7時間だ。主要な試合開催時は、世の中の機能が滞る。家電店の前には人だかりができ、通行人が試合に見入る。飲食店では、お客も従業員も、テレビの画面に視線が釘付けだ。

    今年の4月は、4年に一度のW杯がインドで開催された。特に盛り上がりを見せたのは、インド対パキスタンの準決勝戦。パキスタンのギラニ首相も訪れ、インドのシン首相と並んで観戦した。この状態をして「クリケット外交」と呼ばれる。インド勝利後、シン首相が感情を抑え、穏やかに拍手をする姿が印象的だった。最終的に、インドは決勝まで上り詰め、スリランカを破って28年ぶりに優勝。勝利の瞬間、近所に歓声が響き渡り、市街の随所で花火が打ち上がった。

    W杯の興奮冷めやらぬ直後、今度はインド国内のプロクリケットリーグ、IPL(インディアン・プレミア・リーグ)のシーズンが始まった。2008年に誕生したIPL。インド各地拠点の10チームが、各都市で戦う。試合形式は、1試合約3~4時間で終了する「トゥエンティ・トゥエンティ」。国内外の名選手たちが顔を揃え、チアリーダーが花を添える。加えて広告合戦も白熱。紳士のスポーツというよりは、一大エンターテインメントだ。

    今年は夫に誘われて、わたしは初めてスタジアムで観戦した。大渋滞のスタジアム周辺は、縁日のような賑わい。地元チーム「バンガロール・ロイヤル・チャレンジャーズ」のロゴ入りTシャツや、旗などが売られている。観客席には家族連れがあふれ、試合前から熱気でいっぱいだ。

    この日の対戦チームは人気俳優が所有する「コルカタ・ナイト・ライダーズ」。選手たちが入場するや、歓声がとどろき、クリケットファンでないわたしでも、気分が高揚する。夫にルールを教わりながら観戦。テレビで見るのとは異なり、ポジションや動きの全容を見られるので、試合の流れがよくわかり、想像以上に楽しい。

    あいにく途中で雨が降り出した。延期かと思いきや、巨大なビニルシートが運び出され、フィールドを覆う。観客は、雨が上がるのを根気よく待つ。結局2時間後に試合再開。待ち時間が長かった分、約4時間の試合はむしろ短く感じた。

    インド生活6年目にして、ついにわたしも、クリケットを楽しめるようになってきたようだ。
     

    【過去、ブログに記したクリケット関連の記事】

    ◎みんながっくりクリケット。(2007年3月)

    インドに暮らし始めて1年余りが過ぎたころ。夫が、世間が騒ぐクリケットに関心がなかったものの、一応、世の趨勢をまとめてみた記録。

    ◎プロリーグ誕生クリケット。でもやはり、インドなのだ。(2008年4月)

    インド経済にバブルの香りがプンプンと漂っていたころ。インドにて、クリケットのプロリーグIPLが誕生したときの、最初の試合をテレビで観戦したときの記録。


    ◎クリケットのワールドカップ、インドが28年ぶりに優勝!
    (2011年4月)

    4年に一度開催されるクリケットのワールドカップにて、インドが優勝した時の、世間の盛り上がりをレポート。

    ◎クリケット国内リーグ観戦@スタジアムの午後(2011年5月)

    夫の熱心な誘いに根負けして、初めてスタジアムに足を運び、クリケット観戦をしたときの記録。試合云々よりも、普段は時間にルーズな夫が、「超前倒し」で家を出るべく妻を急かしてスタジアムに向かったことや、途中で大雨が降ったにも関わらず、観客は去ることなく根気強く待ったこと、さらには、雨が降り出すや否や、スタジアムが巨大なビニルシートで覆われ、雨後は巨大なスポンジボブがスタジアムの水分を吸収したことなど、試合とは関係ないところのエピソードが濃い。

    ◎超ヒーロー、サチンにやられっぱなしの午後♥(2011年9月)

    日本料理店EDOにてサンデーブランチを楽しんでいたとき、隣席にクリケットのスーパーヒーロー、サチン・テンドルカールほか数名選手がやってきた! サチンがどれほどの選手かというと、日本の野球選手にたとえるならば、全盛期の王貞治と長嶋茂雄を足して割らずに煮詰めたくらいの存在感。例えが古いか。イチローと松井を煮詰めた感じか。それもやや古いか。ともあれ、彼の存在感には、目が♥にさせられたのだった。

    ◎またしても、スタジアムへクリケット観戦に!(2011年9月)

    一回で十分、と思っていたクリケット観戦だが、RKBラジオの収録を前に、鮮度の高い話題を仕入れておこうと、夫に誘われるがままスタジアムへ。地元ロイヤル・チャレンジャーが勝利し、決勝進出! の盛り上がった試合だった。

    ◎クリケット印パ戦。英国入り直後、バーミンガム近郊へ(2017年6月)

    マルハン家は年に一度、米国永住権維持の目的でニューヨークを訪れている。その経由地ロンドン(英国)でゆっくり滞在したかった妻の思いは却下され、なぜか夫のクリケット印パ戦に付き合わされてバーミンガムくんだりまで訪れたときの記録。

    * * *

    ◎泥沼に咲く蓮の花。印パのクリケット試合(2004年3月)

    米国在住時。クリケットに全く関心のなかったわたしだが、夫のクリケット熱の強さに影響され、印パのクリケット外交に関する記事を、当時発行していたメールマガジンに記している。

  • 50314424_10215845755473963_6072506551594123264_o

    初の海外取材先である台湾からの帰国後は、それまで以上に苛酷な仕事が待っていた。寝ても覚めても編集作業に追われる日々が続いていたころ。新年明けてまもない寒い朝、昭和天皇崩御のニュースが届いた。昭和が終わり、翌日から平成がはじまった。バブル経済のピークを迎えていた当時の日本は、不自然に浮かれていた。街ゆく若い女性たちは、ワンレングスの長い髪にボディコンシャスなワンピース、高級ブランドのハンドバッグを携え煌びやかだ。安い衣類に身を包み、概ね疲労していたわたしにとって、そんな浮世の趨勢は、遠くから聞こえる太鼓の音のようだった。

    台湾のガイドブックが校了した直後、一息つくまもなく、シンガポールとマレーシアの取材を命じられた。どんなに多忙でも、海外出張に行けることは、うれしかった。取材前に不可欠なのは情報収集。書店や図書館で関連書籍を入手し、未知なる国の情報を得る。観光事情に関しては、都内にある各国の政府観光局を訪れ、地図やパンフレットなどを収集した。

    シンガポールに関する知識がほとんどなかったわたしにとって、得られる情報すべてが新鮮だった。シンガポールもまた台湾同様、大日本帝国の影響を受けていた。シンガポールは1819年、イギリス東インド会社の書記官だった英国人トーマス・ラッフルズの上陸を契機に、大英帝国による植民地時代が始まった。第二次世界大戦中の1942年に英国支配は終焉。代わって大東亜共栄圏の構築を目指す日本軍による占領が始まり、シンガポールは「昭南島」と改名された。シンガポールを象徴する高級ホテル「ラッフルズ・ホテル」は接収後、「昭南旅館」と呼ばれ、日本陸軍将校の宿舎となった。同国の日本統治は、1945年8月の日本の敗戦まで続き、以降は再び英国の支配下に戻った。完全に独立したのは1965年、わたしが生まれた年のことだ。

    50314424_10215845755473963_6072506551594123264_o

    シンガポール取材は、年上の男性編集者と外部カメラマン2名の計4人が2班に分かれて行われた。シンガポールは、東京23区より少し大きいくらいの国土面積であることから、全容を把握しやすく、移動は比較的、楽だった。観光地やレストラン、ホテル、ショップなどを片っ端から取材したのだが、年上の男性編集者が、「おいしいとこ取り」をしていた。人気店の大半を自分が担当し、残りをわたしに回していたのだ。今、当時のガイドブックを開けば、「チリクラブは、ほんと旨い」とか「フィッシュヘッド・カレーは最高」とか「ペーパーチキンは絶品」とか「あのチキンライスは抜群」といった彼の言葉が、30年経ってなお、忌々しくも鮮やかに思い返される。

    50314424_10215845755473963_6072506551594123264_o

    残念な記憶の一方で、シンガポールでは目に映るものすべてが、日本と同じアジアの国とは思えぬ多様性に満ちていて、興味深かった。英国統治時代の影響を受けたコロニアル様式の白亜の建築物が目を引く一方で、漢方薬の香り漂うチャイナタウン、山積みの唐辛子やスパイスが店頭を賑わすリトルインディア、モスクからコーランの旋律が響くアラブ・ストリート……と万華鏡のような街並みに心を奪われた。当時は古びた建物ばかりで、それがエキゾチシズムをより強くしていた。香水の匂いが漂う、冷房の効いたショッピングモールが林立するオーチャードロードを歩くよりも遥かに楽しかった。

    50314424_10215845755473963_6072506551594123264_o

    フランス、イタリア、スイス、ロシア、中国、インド、タイ、ヴェトナム、韓国、メキシコ、マレー系のニョニャ料理……と、世界各地の料理店の存在も、この国の多様性を物語っていた。ホウカーセンターと呼ばれる屋台街の喧騒、シーズンだったドリアンの強烈な匂いも記憶に鮮やかだ。英国統治時代の名残を映したハイティーがまた、魅力的だった。ランチとディナーの間のティータイムに、ケーキやスナックを楽しむ習慣だ。取材当時、ラッフルズ・ホテルが改装中だったので、やはり英国統治時代の面影残すグッドウッドパーク・ホテルのハイティーを取材した。しかし、この取材は写真撮影だけで、味わうに至らず。

    結果的に、この取材では、深く心に残る味覚に出合えなかった。ただ、忘れ得ぬエピソードをひとつ、残しておきたい。

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    とある日本料理店を取材したときのことだ。ランチ営業を終え、傾き始めた陽光が差し込む店内で、従業員がカーペットに掃除機をかける中、黒いスーツに身を包んだ店長に話を聞いた。一通り取材を終えたあと、多分わたしは、「海外でのお仕事はたいへんですね」といったことを、口にしたのだと思う。すると彼は淡々と、話を始めた。彼は赴任当初、ローカル・スタッフが時間にルーズで、仕事が遅いことに不満を持っていた。事あるごとに従業員を叱責していたあるとき、マレー系マネージャーに言われたのだという。

    「あなた方は数年間だけ、この暑い国で働いて、成果を出せればそれでいいでしょう。しかし、僕たちは生涯、永遠の夏の中で過ごすんです。あくせく働いては、いられません」

    「永遠の夏」という言葉に、店長は、我に返った。自分たちの価値観を押し付けていたことを顧みる契機になり、諸々を改善したのだという。「永遠の夏」は、23歳のわたしの心にも深く刻印された。今でもシンガポール取材を象徴する大切な思い出として、心に在る。

  • 🌏Singapore (July1989)

    50314424_10215845755473963_6072506551594123264_o

    初の海外取材先である台湾からの帰国後は、それまで以上に苛酷な仕事が待っていた。寝ても覚めても編集作業に追われる日々が続いていたころ。新年明けてまもない寒い朝、昭和天皇崩御のニュースが届いた。昭和が終わり、翌日から平成がはじまった。バブル経済のピークを迎えていた当時の日本は、不自然に浮かれていた。街ゆく若い女性たちは、ワンレングスの長い髪にボディコンシャスなワンピース、高級ブランドのハンドバッグを携え煌びやかだ。安い衣類に身を包み、概ね疲労していたわたしにとって、そんな浮世の趨勢は、遠くから聞こえる太鼓の音のようだった。

    台湾のガイドブックが校了した直後、一息つくまもなく、シンガポールとマレーシアの取材を命じられた。どんなに多忙でも、海外出張に行けることは、うれしかった。取材前に不可欠なのは情報収集。書店や図書館で関連書籍を入手し、未知なる国の情報を得る。観光事情に関しては、都内にある各国の政府観光局を訪れ、地図やパンフレットなどを収集した。

    シンガポールに関する知識がほとんどなかったわたしにとって、得られる情報すべてが新鮮だった。シンガポールもまた台湾同様、大日本帝国の影響を受けていた。シンガポールは1819年、イギリス東インド会社の書記官だった英国人トーマス・ラッフルズの上陸を契機に、大英帝国による植民地時代が始まった。第二次世界大戦中の1942年に英国支配は終焉。代わって大東亜共栄圏の構築を目指す日本軍による占領が始まり、シンガポールは「昭南島」と改名された。シンガポールを象徴する高級ホテル「ラッフルズ・ホテル」は接収後、「昭南旅館」と呼ばれ、日本陸軍将校の宿舎となった。同国の日本統治は、1945年8月の日本の敗戦まで続き、以降は再び英国の支配下に戻った。完全に独立したのは1965年、わたしが生まれた年のことだ。

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    シンガポール取材は、年上の男性編集者と外部カメラマン2名の計4人が2班に分かれて行われた。シンガポールは、東京23区より少し大きいくらいの国土面積であることから、全容を把握しやすく、移動は比較的、楽だった。観光地やレストラン、ホテル、ショップなどを片っ端から取材したのだが、年上の男性編集者が、「おいしいとこ取り」をしていた。人気店の大半を自分が担当し、残りをわたしに回していたのだ。今、当時のガイドブックを開けば、「チリクラブは、ほんと旨い」とか「フィッシュヘッド・カレーは最高」とか「ペーパーチキンは絶品」とか「あのチキンライスは抜群」といった彼の言葉が、30年経ってなお、忌々しくも鮮やかに思い返される。

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    残念な記憶の一方で、シンガポールでは目に映るものすべてが、日本と同じアジアの国とは思えぬ多様性に満ちていて、興味深かった。英国統治時代の影響を受けたコロニアル様式の白亜の建築物が目を引く一方で、漢方薬の香り漂うチャイナタウン、山積みの唐辛子やスパイスが店頭を賑わすリトルインディア、モスクからコーランの旋律が響くアラブ・ストリート……と万華鏡のような街並みに心を奪われた。当時は古びた建物ばかりで、それがエキゾチシズムをより強くしていた。香水の匂いが漂う、冷房の効いたショッピングモールが林立するオーチャードロードを歩くよりも遥かに楽しかった。

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    フランス、イタリア、スイス、ロシア、中国、インド、タイ、ヴェトナム、韓国、メキシコ、マレー系のニョニャ料理……と、世界各地の料理店の存在も、この国の多様性を物語っていた。ホウカーセンターと呼ばれる屋台街の喧騒、シーズンだったドリアンの強烈な匂いも記憶に鮮やかだ。英国統治時代の名残を映したハイティーがまた、魅力的だった。ランチとディナーの間のティータイムに、ケーキやスナックを楽しむ習慣だ。取材当時、ラッフルズ・ホテルが改装中だったので、やはり英国統治時代の面影残すグッドウッドパーク・ホテルのハイティーを取材した。しかし、この取材は写真撮影だけで、味わうに至らず。

    結果的に、この取材では、深く心に残る味覚に出合えなかった。ただ、忘れ得ぬエピソードをひとつ、残しておきたい。

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    とある日本料理店を取材したときのことだ。ランチ営業を終え、傾き始めた陽光が差し込む店内で、従業員がカーペットに掃除機をかける中、黒いスーツに身を包んだ店長に話を聞いた。一通り取材を終えたあと、多分わたしは、「海外でのお仕事はたいへんですね」といったことを、口にしたのだと思う。すると彼は淡々と、話を始めた。彼は赴任当初、ローカル・スタッフが時間にルーズで、仕事が遅いことに不満を持っていた。事あるごとに従業員を叱責していたあるとき、マレー系マネージャーに言われたのだという。

    「あなた方は数年間だけ、この暑い国で働いて、成果を出せればそれでいいでしょう。しかし、僕たちは生涯、永遠の夏の中で過ごすんです。あくせく働いては、いられません」

    「永遠の夏」という言葉に、店長は、我に返った。自分たちの価値観を押し付けていたことを顧みる契機になり、諸々を改善したのだという。「永遠の夏」は、23歳のわたしの心にも深く刻印された。今でもシンガポール取材を象徴する大切な思い出として、心に在る。

  • 🌏【異郷の食002】Taipei, Taiwan (November 1988)

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    大学2年の夏、米国西海岸で経験した1カ月のホームステイ留学を契機に、地元福岡で国語の高校教師になるという進路を見直した。就職情報が乏しい時代。資料を集めて読み漁り、検討した結果、東京の出版社を目指すことにした。就職活動が解禁になった大学4年の夏。東京のウイークリーマンションに1カ月間、部屋を借りた。

    インターネットのない時代。願書などは「郵便」でのやりとりだったゆえ、受験できる会社も10社が限界だった。東京に住んでいたボーイフレンドの助けを借りつつ東奔西走したが、結果は全滅。しかし世はバブル経済にわいている。一旦、東京に出てアルバイトをしながら、就職先を探そうと決めた。

    1988年3月。大学の卒業式の謝恩会で、お世話になった大学教授にその旨を話したら、大いに呆れられた。見かねた教授は、東京に住む大学時代の友人のつてで、旅行ガイドブックを作る編集プロダクションを紹介してくれ、面接にまで同行してくれたのだった。教授の計らいで職を得られたことは切にありがたかったが、労働条件は過酷だった。

    手取り11万円の薄給ゆえ、住まいは千葉県柏市の礼金敷金なしの安アパート。通勤には片道1時間半〜2時間かかる。華やかなバブル景気とは裏腹な、極貧生活が始まった。コンピュータはおろか、ワープロさえないオフィスには、常に紫煙が漂っている。書籍や資料で埋め尽くされた社員らのデスク。灰皿やゴミ箱、流しやトイレを掃除するのも新入社員の仕事だった。

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    その編集プロダクションでは、大手旅行会社が発行する国内外の各種旅行ガイドブックや情報誌の制作を行っていた。ページネーション作りにはじまり、外部ライターへの原稿の発注、文字校正、写真選び、デザイン発注、写植入稿、印刷所への版下入稿など、コンピュータによるDTP(デスクトップパブリッシング)が主流となった現在では想像を絶するような「アナログ」な編集工程を、先輩の作業を見ながら学んだ。労働環境は、今でいう「ブラック」の極みだ。

    入社間もないころから、関東近辺の取材を命じられた。初取材とて一人。見かねた外部のカメラマンに取材の流儀を教わることもあった。一事が万事、極めて雑なOJT(On-the-Job Training)だった。

    とある温泉地へ取材へ赴く前、先輩編集者から「モデル」もやるよう命じられた。もちろん嫌だった。ボーイフレンドも反対した。しかし、逆らうという選択肢はなかった。今のわたしなら当然断る。尤も、今のわたしに誰も脱げとは言うまいが。モデルでもないのに、半裸でカメラマンの前に現れねばならぬという苦行。

    しかし、その一部始終に一番驚いていたのは、ほかでもない取材先の温泉宿の女将だった。それまで宿について質問をしては、メモを取っていた、色気もくそもない編集者が、突然服を脱ぎ、眼鏡を外し、手ぬぐい一枚で現れるのだから。

    だから挙げ句の果てに、仕上がった写真を見た先輩編集者から、「坂ちゃん、二の腕が太い! この写真、使えない!」と言われた時には拳が震えた。時代が時代なら、#MeTooものである。

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    一つ言えることは、わずか半年足らずで「旅行誌編集者」としての基本を徹底的に叩き込まれたということだ。そして入社して半年後、初めての海外取材を命じられた。行き先は、台湾だ。この台湾取材が、その後のわたしの「旅する人生」に大いなる影響を与えることになる。

    「異国を旅するに際しては、歴史を学ぶべし」ということだ。

    ●1895年、日清戦争に勝利した日本は台湾統治を開始。以降、1945年に日本が敗戦するまでの50年間に亘り、台湾は日本だった。この間、台湾で生まれた人は、日本名を受け、日本語を話す、日本人だった。

    ●1949年、中国における「国共内戦」の結果、毛沢東率いる共産党が「中華人民共和国」を建国。一方、蒋介石総統率いる国民党政府であるところの「中華民国」は、その拠点を喪失したことから、臨時首都を台北に移転。戒厳体制が発布される。台湾では「犬(日本)が去って猿(中国)が来た」と形容される。

    ●1987年、米国からの圧力、及びソ連ゴルバチョフ政権の「ペレストロイカ」による緊張緩和政策の影響などにより、38年に亘る戒厳令が解かれる。

    ●1988年1月、蒋介石の息子、蒋経国総統が死去。李登輝が総統に。

    このような歴史的変化が起こった直後の1988年11月、海外からの旅行者を受け入れるべき台湾が門戸を開いたこともあり、ガイドブックの取材対象国となった次第である。歴史的背景を学ぶこともないまま、自分と同じ23歳の先輩編集者二人と、外部のカメラマン二人とで、台北へと飛び、2班に分かれての取材となった。240ページのガイドブックを制作すべく、台北、高雄、台中、台南、花蓮、墾丁などを3週間かけて巡る強行スケジュールだ。

    なにしろ、「手書き」の時代である。バックパックに山ほどの資料を詰め込んで、連日、レストラン、店舗、観光地、ホテルなどを何十件も取材する。通訳は、日本統治時代に生まれ育ったおじいさんゆえ、彼には随所で休憩してもらい、どうしても通訳な必要なところだけ、同行してもらった。

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    取材中は毎晩、資料整理に追われ、数時間しか眠ることができず、慢性的な疲労に襲われていたものの、初めて食する台湾の料理のおいしさには、目がさめる思いだった。蒋介石が臨時政府を樹立する際、中国本土各地の名シェフを連れてきたというだけあり、台湾では、北京、広東、四川、上海、湖南……と、中国各地の料理が揃っていた。

    また、茶藝館では、得も言われぬ芳しい香りを放つ黄金色した凍頂烏龍茶のおいしさに衝撃を受けた。日本で飲んでいたあの茶色い飲み物はいったいなんだったのか、と思わせられる、別世界の味覚だった。

    東京では、極貧生活ゆえ、ろくなものを食べていなかったわたしにとって、それらの料理は、たとえ写真撮影を終えたあとの冷めたものであっても、おいしすぎた。疲労でお腹の調子が悪かったにもかかわらず、毎日毎日、よく食べた。満腹のあと、しかし胃腸を整えてくれる「高雄牛乳大王」の濃厚なパパイヤミルクを何杯飲んだことだろう。

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    数ある食の記憶の中でも、突出している店がある。そのひとつが、鼎泰豊だ。繁華街沿いの、古びた3階建てのその食堂は、しかし早朝の開店時からお客でいっぱいだった。店頭では、何人もの従業員が、小さな小さな小籠包をせっせと包んでいる。

    「小籠包(しょうろんぽう)」という言葉さえ、日本にはまだ届いていなかった時代。テーブルには、シンプルな豚挽肉の小籠包をはじめ、蟹味噌入り、青菜入り、あんこ入りと、次々に蒸籠が供される。蓋を開ければ、立ち上る湯気と芳香! このときほど、写真撮影の時間が長く感じたことはない。

    やや冷めてしまったものの、その肉汁たっぷり、風味濃厚な小籠包のおいしさたるや、筆舌に尽くし難く、疲労困憊の五臓六腑に染み渡る滋味であった。その後、同店は世界的に有名になり、わたしもシンガポールや香港の店に立ち寄った。もちろん、おいしい。おいしいが、あの台北の本店で食べた時の衝撃は、唯一無二だ。

    社会人として初の海外取材先となった台湾では、各地で日本統治時代の残像を目にし、未知なる世界の入り口を目の当たりにした。この取材は、わたしにとっての「世界を見る目」を開く、契機となったのだった。

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    *取材時、カメラマンが撮ったポジティヴ・フィルムに残された23歳のわたし。疲労困憊でやつれている割に、ばっちりとメイクをしているところが涙ぐましい。時代を映す真紅の口紅。エスニック雑貨店で買ったストールは、今見るに、インドもの。