深海ライブラリ📕

深海の底に眠る過去の記録に光を当てる。揺り起こす。

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    ●バンガロールの日常とはパラレルワールドのマンハッタン生活。

    先週の土曜日、バンガロールに戻って来た。

    インドは1カ月に亘って全国各地で投票が行われていた総選挙の、その日は開票日であった。これまで10年に亘って政権を握ってきたコングレス(インド国民会議派)が惨敗し、BJP(インド人民党)が勝利した。

    このことによって、インドのこれからは、かなり大きな変化が見られることだろう。この選挙の結果次第では、インドに見切りを付けて米国に戻りたいと主張していた我が夫。そうなれば、わたし自身も一旦はこの国を離れることになる。

    不動産、動産の管理などが煩雑になるし、また、ややこしい人生が始まるかもしれぬとの懸念があった。ともあれ、夫も、また夫の業界も、この結果には好意的で、「今しばらくは、インドにて」状態が、この先も続きそうである。

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    今回のニューヨークでは、いつもに増して、自分の気持ちが街に溶け込み、インドでの日々を忘れきっていた。異なる世界が同時進行するパラレルワールド、「胡蝶の夢」状態。しかし、どちらも現実である。

    歳を重ねるほど、時間は伸縮自在となりつつある気がする。個人的な出来事、歴史は、起こった順序通りに、心に刻まれるに非ず。記憶の濃淡によって、構成される。即ち「時間旅行」を楽しみやすくなる、という気がしている。

    そう。時間旅行。まさに今回のニューヨークは、わたしにとってタイムトラベルだったのかもしれない。

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    ●母国が見えない。放射能汚染。現実問題を語ることが、なぜタブーになるのか。

    ところで、インドやニューヨーク。即ち日本から離れた場所から、母国を眺めるに、このごろの趨勢は、本当に、理解するのが難しい。

    特定秘密保護法って?

    集団的自衛権って?

    ネット上でさまざまな人の、ざまざまな立場からの、さまざまな意見を目にするにつけ、果たして自分はどう考えるのか、というところに至るまでのプロセスに、かなりの学習を要する。一概に善し悪しをいえるほど、あらかじめの知識がないが故に。

    それよりなにより、全く収束していない原発の問題。この際、反原発だとか脱原発だとか、原発推進だとか、そういうイデオロギーの問題はさておいて、今、起こっている悲劇、これから起こるであろう惨劇に対し、どう向き合い、どう対処すべきかを、日本という国も国民も、もっと建設的に考えるべきなのではないか。

    放射能汚染によって、人間だけではない、遍く地球の生き物、地球そのものが蝕まれているのは、火を見るより明らかなのに、それをなかったことにしようとする為政者やメディアの趨勢、それを支持する、あるいは全く関心を持たない多くの国民……。

    原発事故そのものもさることながら、このごろは、そちらの方が恐ろしい。

    放射能汚染の話をすることすらタブー。わたしがこうして書いていることさえも、嫌悪する人の方が多いだろう。その心理を理解できないでもないが、理解したくないし、すべきではないと思っている。

    大人はまだしも、子どもたち。子どもは未来の宝だ。子どものいないわたしが言うのもなんだが、子どもは、社会の宝でもある。そんな子どもたちを、どうにか安全な地に住まわせる方法はないのか?

    ……この件については、書き始めると終わらない。今日のところはこれ以上、触れまい。ただもう、このごろの日本の偏った報道を目にするにつけ、敢えて真実の在処を探す努力をしなければ、とも思うのだ。

    あんまり書くと、蚊帳の外(海外)から何を言うのだ、という声も聞かれそうでもある。本当に、途方に暮れる。

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    ●スマートフォンに依存しすぎる人々に、懸念を覚える

    それにしても、今回のニューヨーク。さまざまに思うところ、感じるところのある滞在ではあったが、一つ、これは何だか危機的な状況なのではなかろうか、と感じたのは、人々の「スマートフォンに依存しすぎた様子」である。

    内面的なことはさておき、表面的なことについて。

    インドでは、町歩きをする機会がほとんどないので、あまり感じることはないのだが、マンハッタン。歩きながらスマートフォンを見ている人の、なんと多いこと! ともかく危ない。危ないのだ。

    わたしも滞在中、何度か人にぶつかられそうになった。ぶつかられたこともあった。人をよける瞬発力のない高齢者にとっても、町歩きのリスクが高まっているのではなかろうか。

    数日前のニュースで、ニューヨークで、エレベータの事故により、若い女性が負傷したとの記事があった。そこには、古いタイプのエレベータで、ドアが開いたにも関わらず、人を乗せる「カゴ」が到着しておらず、女性は落下したとのことである。

    普通、ドアが開いて、そこが空洞だったら、だれも中に入り込まないだろう。多分、スマートフォンを見つめていたに違いない。

    加えて、「ながら食事」をする人の多いこと多いこと。フォークやスプーン、あるいは箸を片手に、そしてスマートフォンを片手に、食べ物をろくに見もせず、食事をしている。

    そういう人が大多数だから、最早わたしの意見は少数派であり、煙たがられるに違いないのだが、敢えて書くならば、「行儀が悪い」のひと言に尽きる。そんなことでいいのか、と言いたくなる。

    たとえ一人でも、食事のときは食事に気持ちを配るべし。なにしろ、そんな食事の仕方では、食べ物がきちんと消化されず、身体のためにもよくない。 姿勢も悪いし、なにより、見た目もみっともない。

    食事中のマナーに関しては、最早、個人的な問題だから干渉すべきでないにしても、歩きながらのスマートフォン使用に関しては、世間一般、控えるべきではないのかと、切に思う。

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    ●利便性が高くなるほど、劣化する側面もあるのだ、人間の力。

    先進国の「最先端」が、時に、人間を劣化させる。

    新興国としてのインドに住んでいると、進んだ先にある闇について、懸念せずにはいられない。

    旧態依然であるべきところ。

    改善されるべきところ。

    進化すべきところ。

    いろいろあるはずだ。

    しかし、先進国のそれらは、誰によって吟味されることなく、ただ怒濤のように押し寄せる。「上から目線」の「文明」が、歴史や伝統や文化をなぎ倒しながら、濁流のように流れ込む。

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    わたしはもう、ニューヨークに住んでいる時からずっと、同じようなことを書き続けているなと思いつつ、でも、曲げられない信念は曲げずにいようとも思う。

    声を上げ続けなければ、自分を見失ってしまいそうな世界でさえ、あるから。

    ……久しぶりのバンガロールにて、なんだか湿っぽい話題となってしまったが、個人的なライフに関しては、通常通りの健全さだ。

    ちなみに土曜の早朝到着し、荷解きその他をすませたあと、夕方、アーユルヴェーダのマッサージに出かけた。これがあるから、リフレッシュできると、本当に思う。

    アーユルヴェーダのマッサージのおかげか、土曜、日曜と熟睡でき、今のところ時差ぼけもなく、通常の生活に戻れている。

    きちんと寝て、きちんと食べる。きちんと休む。

    そのことが、結果的には、時間のロスなく健康的に生活できることにも結びつくのだということを、身を以て実践しているライフスタイルだ。

    さて、今日から仕事もスタートする。

    ミューズ・クリエイションの活動、ミューズ・リンクスの活動も、少しずつ、確実に進めつつ、新生インドと日本を結ぶべく仕事について、これからも積極的に取り組んで行かねばと思っているところだ。

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    2013年12月5日午後6時過ぎ、チェンナイにて開かれた、天皇皇后両陛下御拝謁の茶会に参席するという、すばらしい機会を授かった。翌日金曜の朝、チェンナイから戻り、数日が過ぎたが、未だに心が湧き立っている。

    このかけがえのない経験を、いったいどこから綴ろうか、頭の中を、まだ整理できていない。長編となってしまいそうだが、自分のため、そして関心のある読者の方々に対して、しっかりと書き残しておこうと思う。

    なお今回、天皇皇后両陛下のインドご訪問の最終地であるチェンナイにおいて、旅程の最後に組み込まれていた南インド在留邦人を対象としたこの茶会にお招きいただけたことは、ひとえに「幸運であった」としか言いようがない。

    首都ニューデリーでは、ビジネス界のエグゼクティヴや、インドで活躍するスポーツマン、アーティストなど、ステイタスのある方々が招かれての会合が催されたようだった。

    一方、チェンナイにおける茶会のゲストは、日本人会や日本商工会、日本人補習校の役員など、主には「一般の人々の代表」という趣が強いものだった。だからこそ、わたしが幸いにも百数十名のうちの一人に選ばれたのだと理解した。この件については、後に触れたい。

    🇯🇵日本を離れて17年。年を重ねるごとに増す、日本人としての自意識

    1996年に日本を離れ、海外で暮らすようになって17年が過ぎた。海外に住むと、自分が日本人であるということを日常的に意識せざるを得ない。日本にいれば、「坂田さん」「美穂さん」という認識のされ方だが、海外ではおおよその場合、「日本人のミホ」「日本人女性のミホ」あるいは単に、「あのジャパニーズ・レディ」という具合に、なにかにつけて、「日本」がまとわりつく。

    ましてや、我が家のように、夫がインド人となると、日常生活や会話の中にも、「日本は」「日本人は」というフレーズが頻出し、日本を客観的に捉えながら語ることが多い。従っては、好むと好まざるとに関わらず、自分の行動は一個人のものに留まらず、「日本」という国のイメージにさえ影響を与えるようなことも、しばしばある。同時に、日本についての諸々を尋ねられ、自分が日本を表現せねばならない機会が増える。

    自分自身が日本人であることの自覚も芽生え、日本の歴史や文化についてもっと知らねばならない、とも実感する。

    わたし個人に関していえば、ここ数年「わたしなりの愛国心」のようなものが、徐々に強くなっていた。そしてそれを、何らかの行動に反映せずにはいられなくなってきた。たとえばムンバイにある日本人墓地(供養塔)を、ムンバイに行くたびに訪れるようになったことも一例だ。

    まだ実現してはいないが、インパール作戦の悲劇の舞台となったナガランド州コヒマにある日本人の慰霊碑にも詣りたいと切望するようにもなった。

    先月の日本帰国時には、靖国神社を参拝し遊就館を見学した。その際に記した通り、靖国神社参拝は、わたしにとって、非常に意義深い出来事であった。靖国神社では、 皇室の菊花紋(十六八重表菊)と同様の、靖国神社の象徴のひとつであろう菊花紋章に桜花が施されたお守りのストラップを購入し、旅行用のバッグにつけた。そして、皇室と神道との結びつきについても、少し勉強をせねばな……と思い巡らせたのだった。

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    🇯🇵日本からの帰路、招待のメールを受け取る。動揺する。興奮する。

    その連絡を受けたのは、福岡からバンガロールへ戻る途中の経由地、シンガポール空港だった。シンガポールに降り立った直後、いつものトランジットホテルでマッサージを受け、シャワーを浴び、軽く食事を済ませてコーヒーを買い、ラップトップを広げ、インターネットに接続した。

    そのとき、一通の、一見して重要度の高い件名のメールが目に飛び込んだ。真っ先にクリックした。そこには、天皇皇后両陛下にお目にかかれる茶会への招待に関することが記されていた。驚きのあまり、何度も読み返した。わたしが招かれたということに、ともかく驚いた。なぜ、功労者でも著名人でもない、フリーランスのわたしが含まれているのか。他には、どんな人が招かれているのだろう。

    誰かに尋ねたいところだが、「配偶者以外には他言無用」とある。招待客の選出には、色々な事情がありそうなことは、たやすく察しがつく。自分ですら驚いているのだから、世間に「なぜ、坂田が?」といぶかしく思う人もいるだろう。誰かに聞くわけにもいかない。

    招待状には、夫婦揃っての出席が促されている。わたしは、何をおいてもチェンナイへ赴くと即決したが、夫はちょうどそのころ、南アフリカ旅行の予定が入っている。彼の予定を確認すべく、シンガポール空港からバンガロールへ電話をする。しかし夫は、わたしの興奮とは裏腹に、非常に淡々とした様子で、「南ア出発の前日だけど、ぎりぎりで行けるかも。調整するよ」とあっさりしている。さほど驚いた様子もない。

    天皇陛下、皇后陛下にお目にかかれるということが、どれほどありがたいことなのか、この心境は日本人と、ごく一部の外国人にしか理解できないのかもしれないということを、このあと、夫とのやり取りの中で、痛感するのだった。

    🇯🇵ドレスコードに、頭を抱える。何を着て行けばよいのだ?

    驚きと喜びの直後に、現実的な問題が降り掛かってきた。ドレスコードだ。招待状には、通常の丈のワンピース、ツーピース、アンサンブル・スーツなどを着用するよう記されている。露出度が高いものや、透けるような素材に問題があるというのはわかるが、パンツ・スーツもだめだという。更には、黒、濃い灰色、濃い紫一色ものも避けねばならない。

    ……ない。

    該当する服を、持っていない。

    そもそも、通常丈(膝下)のスカートすら、持っておらず、従ってはストッキングさえない。最後にストッキングをはいたのがいつだったか、覚えてさえいない。

    もう2日早ければ、日本でそれらしき衣類を調達できたものを、インドでは望むものが手に入りそうにない。これは布を購入して仕立てるしかないな……と、あれこれ考えているうちにも、あっというまに搭乗時刻が過ぎていた。

    ゲートへと急ぎ足で向かう途中、靖国神社で買った菊の御紋のお守りの鈴がチリンチリンと鳴り続けた。その音を聞きながら思った。このお守りのご利益だろうか。だとしたら、強烈な威力を持つお守りだ。

    得も言われぬ感慨が、胸を満たした。

    🇯🇵ムンバイで布を買い、仕立てるつもりが……20年前のドレスを発掘。

    日本からバンガロールへ戻って数日後、ムンバイへ2泊3日で赴くことになっていた。ムンバイにはお気に入りのテキスタイル店があるので、そこで生地を買おうと決めた。ストッキングはインドで探すのは難しそうだから、早速、海外通販にてネットショッピング。約1週間後には到着するとのことで、十分間に合う。便利な世の中である。

    靴は、5、6年前にニューヨークで買ったものがあるし、パンプスならインドでも買える。バッグもある。ともかく、問題は服である。ムンバイへ赴く前夜、荷造りをしながら、ふとひらめいた。そういえば、あの服があったではないか!

    ダイニングルームの、ロフトの階段を駆け上がる。そして、冬のコートやジャケットなど、インドでは着用しないが一応保存している服を収納しているクローゼットを開いて、探す。

    あった! これ、これ。ぴったりじゃない!

    急いで着てみる。……取り敢えず、はいった!

    映像の中で、天皇陛下は国際親善の重要性を説かれている。

    「国際親善の基は、人と人との相互理解であり、そのうえに立って、友好関係が築かれていくものと考えます。国と国との関係は経済情勢など良い時も悪い時もありますが、人と人との関係は、国と国との関係を越えて、続いていくものと思います」

    今回の御拝謁を巡っての一連の心の動き、そして両陛下の御活動の一端を、今更のように知ったことで、わたし自身が、自らの将来の方向性について、よりいっそう真摯に向き合い、丁寧に生きていかなければとの思いを強めた。

    このような機会を与えてくださった方々に、心から感謝すると同時に、この経験を必ず、意義ある未来に結びつけるべく、これからの人生、精進したいと思っている。

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    これが、そのドレス(ワンピース)だ。わたしの好きな、百合の花があしらわれている。

    これは、今から20年ほど前、亡父が買ってくれたものだ。

    当時東京に住んでいたわたしが、福岡へ帰省していた時のこと。確か家族で、ホテルニューオータニに赴き、食事をしたのだと思う。そのとき、ニューオータニの中にあるMs. REIKOというブティックに立ち寄った。当時、わたしの母が気に入っていたブランドだが、20代のわたしには、どうにもおばさん臭いデザインであった。

    しかし、その日、ブティックでこのドレスを見つけた両親から、「似合うから買いなさい」と、しきりに勧められた。わたしが、「いらない」と、繰り返したにも関わらず。

    そんなことは、あとにも先にもこのとき限りだった。

    実は当時、父親の事業はうまくいっておらず、経済的にも不安定だった。だから尚更、なにかを買ってもらいたいという欲求などなかった。そもそも、20代のわたしにとって、その高価な服は身の丈に合っていなかったし、着て行く場所もなかった。

    そんな次第で、買ってはもらったものの、案の定、袖を通す機会はなく、歳月は流れに流れた。

    30代に入り、ニューヨークへ渡り、アルヴィンドと出会った。いつの年だったか、比較的フォーマルなクリスマスパーティに招かれた折、着てみようかと試したことがあった。しかし、夫から「それ、老けて見えるからやめて」と言われ、「そうだよね、おばさんっぽいよね」と同意して、着替えたのだった。

    以来、ニューヨーク、ワシントンD.C.、カリフォルニア、インド……と、このドレスは、わたしと一緒に、旅をしてきた。他の服はどんどん処分したけれど、これだけは、一緒だった。

    そのドレスが、ついには20年の眠りを破り、出番を迎えた。ずいぶん長いこと、お待たせしたものだ。48歳のわたしには、最早、「老けて見える」もなにもなく、普通に、似合うようになっていた。

    夫に見せたところ、「オールドファッションだけど……悪くないね」と、前回よりは遥かに、好意的である。もう、服を仕立てる必要はない。これを着ようと決めた。 亡父もきっと、喜んでいることだろう。

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    🇯🇵夫の先祖と、我が先祖。形見の品々を用意して、準備は万端。

    このドレスには、どんなジュエリーを身に着ければいいだろう。パールが上品かしら、それとも……と思っていたときに、またひらめいた。ダディマ(アルヴィンドの父方の祖母)の形見のジュエリーセットがぴったりではないか、と。

    祖母が結婚当時に買ったという約80年前のもの。わが守護石でもある、エメラルドとパールのジュエリーだ。身につけてみれば、インドものにしては華美すぎず、いい感じである。

    腕時計は、先月、日本へ一時帰国した際に引き取ってきた、我が父方の祖父が約40年前に購入したSEIKOのHI-BEAT。フレームが18金の、立派な腕時計である。ベルトは銀座の三越にあるフランスの時計ベルト専門店、カミーユ・フォルネで新調した。

    バングルは、普段から身につけている義母の形見。今から45年ほど前、義理の両親が結婚した際に義母が身につけていた22金のバングルである。

    そしてハンドバッグは、亡父が生前、母に贈っていたものを、わたしが一昨年、譲り受けていたものを持って行くことにした。

    唯一、靴だけは、自分で購入したもの。以前ニューヨークで見つけた、イタリア製の履き心地がよい靴だ。しかしこれも、インドでは履く機会がほとんどなく、ずっとシューケースの奥で眠っていたのだった。

    🇯🇵なにかと気ぜわしく、心が落ち着かない約1週間。

    ムンバイから戻って以降は、OWCのクリスマスバザールにミューズ・クリエイションが出店、出演することから、準備などに追われていたが、チェンナイへのフライトの予約や、ホテルの手配はすませておいた。

    本当は、夫が南アフリカに行っている間、久しぶりにどこかへ「一人旅」をする予定でいたのだが、この茶会の件が舞い込んで以来、とても一人旅を計画する精神的余裕がなくなってしまった。ともかくは、この日を終えなければ、次に進めない。それくらいに、わたしにとっては、重要な一大イヴェントであった。

    無事にOWCのクリスマスバザールを終えた日、天皇皇后両陛下が、インドのニューデリーに到着された。そのころから、数日後に控えた茶会に向けての緊張感が、急に高まり、心が湧き立つような状態が続いた。

    チェンナイへのフライトは、ちゃんと時間通りに到着するだろうか。風邪などを引いたりしないだろうか……などと、今までどんな旅のときにも心配しなかったようなことが、急に気になり始めた。

    そんなわたしの様子をして、夫はといえば、「なに、そんなにナーヴァスになってるの? 落ち着こうよ、ミホ」と相変わらずである。

    「天皇陛下と皇后陛下にお目にかかれるということは、格別なことなのよ。緊張して、あたりまえじゃない!」

    と力説すれども、理解してもらえない。それは思えば仕方がないことである。インド人にとって、いや、日本人以外の他国の人にとって、天皇皇后両陛下に相当するような人物があられる国は、たぶんそうたくさんはないはずだ。

    「マンモハン首相とか、オバマ首相に会う気分とは違うよね」

    という夫に、

    「全・然、違・い・ま・す!」

    と、半ば苛立ちながら、返答するしかない。

    日本人なら言わずもがなわかるであろう、 天皇皇后両陛下にお目にかかることは、 一国の首相と面会するという心持ちとは、まったく性質を異にするということを。

    思えば数年前、東京で開催された日印グローバルパートナーズサミットに、わたしは招かれてもいないのにわざわざ一時帰国し、自ら高額な参加費を支払って出席した。

    晩餐会の席では、VIPでもないのに、 VIP席の近くに座り、ガードが緩かった安倍元首相(当時)や鳩山元首相に話しかけ、名刺交換までし、更には2ショットで写真さえ撮ってもらうなど、なかなかに度胸のある行動をとったものだ。

    年齢と経験を重ねるとともに、度胸がついてきたわたしであるが、今回の件を前にしては、すべてが「振り出しに戻る」ような、純粋な緊張っぷりである。

    畏れ多い、という言葉が先に立ち、お目にかかれる場を想像するだけで、鼓動が高まり、目頭が熱くなった。なんだかわたしも、歳をとったなあ、と思うと同時に、自分の中の、とてつもない日本人っぷりを再認識した。

    さて、出発を数日後に控えた月曜日の午後、夫から「明日から急にムンバイ出張が入った。1泊2日の予定だ」との電話があった。事態が煩雑になってきた。水曜の深夜、ムンバイからバンガロールに戻り、木曜の早朝バンガロールからチェンナイに飛び、金曜の早朝チェンナイからバンガロールに戻り、同日の深夜、南アフリカに飛ぶ。

    考えただけで、ストレスフルだ。

    そこで思いついた。ムンバイからバンガロールに戻らず、直接チェンナイに入ってもらうことにしたのだ。そうすれば、わたしも一日早くチェンナイに入れる。当日、飛行機の遅れなどを心配する必要もなくなる。チケットの予約変更などに少々手間取ったものの、無事に夫を火曜日に送り出し、わたしはチェンナイへの荷造りをすると同時に、夫の「南アフリカ向け」の荷造りも同時進行で行う。

    無闇に、胸がドキドキしてくる。

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    🇯🇵かつて天皇陛下と何度かお目にかかっていた夫側の親戚のこと。

    インドのご訪問に先立っての、天皇陛下のお言葉が、宮内庁のホームページに掲載されている。そこには、以下のような一文がある。

    「私どもが建設の儀式に携わったインド国際センターは立派に完成し,運用されており,この度,再び訪問することになっています。かつて外務大臣の時にお会いしたムカジー大統領閣下やシン首相に再びお会いすることと共に,この度の訪問で楽しみにしていることの一つに挙げられます。」

    このインド国際センターは、わたし個人にとっても、非常に思い出深い場所である。夫と結婚式を挙げるべく、ニューヨークから、初めてインドへと飛んだ2001年。日本の家族より一足先に夫の故郷であるニューデリーに到着したわたしは、最初の数日、夫の実家に滞在したが、日本の家族が到着した初日は、このインド国際センターに宿泊したのだった。

    義姉スジャータの夫、ラグヴァンは優れたサイエンティストであるが、その父親のヴァラダラジャン博士は、更に高名で、久しくインド国際センターの理事を務めていた。インド国際センターの礎石が、53年前に、当時皇太子だった天皇陛下によって施されたなど、日本との関わりが深い場所であることから、日本の家族を歓迎し、ここに宿を取ってくれたのだった。

    しかし、非常に申し上げにくいことであったが、その宿泊施設は、あまりにも「オールドスタイル」だった。なんというか、数十年に亘って時間が止まってしまったかのような、つまり質素な宿だったのである。

    折しも、結婚式は7月。デリーの7月とは、過激に蒸し暑い時期である。誰も結婚式など挙げない季節である。恰幅よく元気そうには見えるが、当時、父は末期の肺がんを告知されてのち、抗がん剤治療で復活したばかりであった。家族の体調を鑑みれば、快適なホテルに滞在して欲しいと思い、インド国際センターには1泊だけして、市井のホテルに移動したのだった。

    結婚にまつわるイヴェントは、都合4日間に亘り、毎晩のように行われたが、2日目、伯父の主催によってハビタットセンターで行われたレセプションでは、初めて大勢の身近な親戚やファミリーフレンドと対面した。その際、ヴァラダラジャン博士とゆっくりお話ししたのだが、彼は、日本で開催された世界科学者会議に幾度か足を運び、その際には、天皇陛下とお言葉を交わす機会があったという。

    今回の天皇のご訪問にも森喜朗元首相は同行されていたが、その科学者会議の際は森首相が在任中だったとのことで、面談された旨を披瀝された。親戚やファミリーフレンドの中には、ヴァラダラジャン博士だけでなく、外交で日本を訪れた人もいれば、日本の著名な財界人と懇意にしている人もいる。

    まるで当然のように、「源氏物語は、全巻読破しましたよ」などという、アジア文学研究家の人からは、大学での専攻を尋ねられ、焦ったことを思い出す。「日本文学部日本文学科です」などと言おうものなら、いろいろと突っ込まれて恥を書くこと必至だ。

    そういえば、久しくダディマが暮らしていた夫のニューデリーの実家の隣人は、インド人男性と日本人女性のご夫婦だった。その女性とダディマは非常に親しく、お互い伴侶に先立たれたことから、寂しさを慰め合ったものだと、ダディマはしばしば話してくれたものだ。

    レセプションを主催してくれた伯父はといえば、祖父の代に築かれた鉄鋼会社と砂糖工場を運営しており、鉄鋼会社は日本企業との取引も多く、日本へも頻繁に訪れていた。ちなみに、その後、伯父の息子、即ち夫の従兄弟に引き継がれたそのISGECというその会社は、数年前、日立造船と合弁会社を設立するなど、益々日本との繋がりを深めている。

    そんな次第で、インドの家族や親戚は、わたしが登場する遥か以前から、みなさんそれぞれに、日本との関わりが深かった。ゆえに本来、同じバックグラウンドの人との結婚が重視されるインドにあって、なんの反対もなく、むしろ好意的に国際結婚が実現したものと理解している。

    ……懐かしい12年前の写真を引っ張り出してみた。

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    🇯🇵準備万端。前日の朝、バンガロールを発って、チェンナイへ。

    そんなこんなで、天皇皇后両陛下のご来印を契機に、過去の思い出を紐解くなど、センチメンタルな気分を高めつつ、チェンナイ行きの日を迎えた。

    いつも利用するジェットエアウェイズ(厳密にはジェットコネクト便)のチェンナイ行きは、午前と午後遅めに到着する便が数本あるだけ。もしも当日、午前中の便を逃したら、午後5時過ぎの集合時間に間に合わない。それを考えると、前日に入ることにしてよかったなと思う。

    そのことは、翌日、他の参加者の「チェンナイに至るまでのさまざまなドラマ」をお聞きして、実感したのだった。

    せっかくだから早めに現地入りしようと午前中の便を選んだところ、バンガロール在住の日本人男性にお会いした。彼は、今回の件に関わる仕事のために、早めにチェンナイ入りをされているようである。

    彼の話によれば、今回、日本人会や商工会の役員の方々と、その伴侶が招かれているとのこと。予想はしていたが、わたしは、ミューズ・クリエイションの活動をしているということで、招かれたのだと確信した。多分、今年の2月に地元のロータリークラブからいただいた国際親善賞も、影響していると察せられる。

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    🇯🇵そして3年ぶりのチェンナイ。街に日章旗は翻らず、いつも通り。

    最後にチェンナイを訪れたのは3年前。視察旅行のコーディネーションで訪れたときだった。当時はまだ工事中だった新空港が完成し、非常に広々と快適な空港になっている。

    プリペイドのタクシーカウンターも整備されていて、つつがなく6時間の予約をし、支払いを済ませ、クルマをピックアップすることができた。

    この日、天皇皇后両陛下もチェンナイ入りをすることから、街には日章旗が翻っているのではなかろうか、と思っていたのだが、どこを見ても、日の丸の一つも目に入らない。現在、選挙戦の真っ最中らしく、とてつもなく派手な選挙のポスターが、町中を埋め尽くしていた。

    ニューデリーでは盛大に歓迎されたとのニュースを目にしていただけに、この、あまりにも「通常通り」のムードが、なんだか寂しい。セキュリティの都合上、あまりアピールをしていないのだろうか、などと思い巡らせているうちにも、ホテルに到着した。

    なお、茶会の会場は、市街中心部にあるタージ・コロマンデルであったことから、無理を承知でタージ系列のホテルの予約を試みたが、案の定、すべての客室がブロックされていた。従っては、会場からほど近い場所にあるハイアット・リージェンシーに予約をいれていたのだった。

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    🇯🇵チェンナイで最もお気に入りの場所、アメジストへ直行。

    到着した日は、チェンナイの市街を少し巡ったが、そのことを記すのは、今回は割愛しておく。ともあれ一カ所、アメジスト AMETHYSTと呼ばれる、いくつかのブティックやカフェレストランが共存するお気に入りの場所に赴いたことだけ、記しておこう。

    ここの緑に囲まれた心地のよいテラスで、遅めのランチをとった。フィッシュ&チップスが思いのほかおいしくて、幸せであった。普通なら、軽く白ワインでも飲みたいところだが、この日はしかし、お酒を飲むような気分にはなれず、ただただ、心が浮ついている。

    意識的にしっかりと咀嚼しながら食事をし、フレッシュライムソーダを飲み、明日、万が一、天皇陛下、もしくは皇后陛下にお声をかけられた際、なんと答えようか、と思いを巡らす。なるだけ簡潔に、自分がしていることを伝えるための、短い文章……。

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    食事を終え、上階のブティックで服などを見るも、気もそぞろ。しかし、お気に入りのジャイプール発のジュエリーショップ、AMRAPALIでは、ちょっとした集中力で、商品に見入る。

    と、これは! と思えるイアリングを発見。ナブラトナ・ストーンズがあしらわれた、かわいらしいイアリングだ。たいてい、ごっついデザインのものが多いのだが、これはかつて見たことのない上品さだ。約5年前に購入した指輪も同じAMRAPALIのものだから、お揃いになる。

    「これだ!」と思うジュエリーに出合うことは、そうしばしばあることではない。もっとも、しばしばあっても困るので、滅多にないくらいがちょうどよいのではあるが。

    「天皇皇后両陛下御拝謁記念」に、購入することに決めた。ルビーの赤が、あたかも日の丸の赤に見えるような気がしないでもない。

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    🇯🇵夫もチェンナイ入り。ホテルのロビーで友人夫妻と遭遇。

    さて、夕方早めにホテルの部屋へ戻る。やがて夕刻、夫がムンバイからチェンナイ入りし、ホテルのダイニングで軽い夕食をすませた。その後、ロビーを歩いていたときに、友人夫妻に出会った。日本人会会長のMさんご夫妻だ。彼らも来訪されるだろうとは思っていたが、同じホテルだとは当然、知らなかった。そもそも、他に誰が招かれていたのか、互いに確認することもできなかったから、ミューズ・クリエイションのメンバーであるMさんの姿を見たときには、ほっとした。

    「明日、何着て行く?」などとの会話をして、ようやく、緊張の糸が解けたのだった。

    なにしろ今回の件、本当に、アルヴィンド以外は誰にも話しておらず、日本の母にすら、伝えていなかった。母にあらかじめ伝えると、むしろ喜ばれすぎて、万一、実現しなかったときに落胆させることを恐れていたのだ。ともかくは、「絶対に確実なタイミングで知らせよう」と決めていた。つまりは茶会の会場に到着して初めて、電話をしたのだった。

    そんなこともあり、この栄誉、感動を今ひとつ理解しきれない夫とのみ、情報をシェアし続けてきた数週間は、それなりに、ストレスフルであった。

    なお、茶会は翌日午後6時からの開始だが、会場へは5時15分までに入場しておくよう指示されていた。とはいえ、ぎりぎりに到着するのも不安である。宿泊しているホテルから会場のホテルまでは数キロに満たない。普通なら15分もあれば到着する。しかし、セキュリティが厳しく渋滞しているかもしれない。ひょっとすると30分や1時間かかるかもしれない。そんなことを妄想しているともう、なにがなんだかわからなくなる。いったい何時にホテルを出ればいいのだ?

    と、M夫妻が「3時15分から30分の間に出ようと思います」とおっしゃる。一緒に車で行きませんか、とお誘いくださった。それくらい早く出れば、確実すぎるほどに確実だ。

    これはラッキーだ、と安心した。というのも、我が夫は、わたしが急かしても、絶対に早めに行こうとはしない男である。5時15分集合なら、4時45分に出れば十分だといいそうである。確かに、通常ならばそれには間違いないが、今回は、ともかく異例なのだ。

    ホテルの部屋でやきもきしながら過ごすよりは、とっとと現地に赴いて、カフェでお茶でもしている方がよい。

    どなたかと一緒なら、夫も時間を意識してくれるだろうし、「ミホはいつも、時間を気にし過ぎ!」などと言われないですむ。それにしても、この緊張感を夫婦揃ってシェアできるお二人を、このときばかりは、うらやましく思った。

    🇯🇵そしていよいよ、迎える当日。アルヴィンド、急に皇室の勉強。

    そして遂には、その日の朝を迎えた。招待の知らせを受けてから数週間。長かった。朝は、さほど早起きの必要もないのに、早くに目が覚めてしまい、二度寝もできない。まだ寝ている夫を横目にラジオ体操をして身体を伸ばし、ゆっくりと湯船に浸かってリラックスし、一人でさっさと朝食をとりにゆく。

    夫はわたしよりも1時間ほど遅れて一日を開始し、その後は、ラップトップに向かって仕事をしていた。なにしろ翌日の深夜より2週間余り海外に出るため、仕事が山積している様子。やはり、一旦バンガロールに戻らず、こちらに直行してよかった。

    わたしはといえば、朝食を終えて出発するまでの午後3時まで、いったい何をしていたのだろう、というくらい、落ち着きがなかった。何をするにも集中できないので、ネットの動画で日本のテレビドラマを見たり、着て行く服やバッグの写真を撮ってみたり、雑誌を広げてみたり……。ランチはルームサーヴィスですませ、午後2時には準備を開始。改めてシャワーを浴び、髪の毛を入念にブローする。 夫はといえば、そのころになってようやく、Wikipediaで皇室についてを調べ始めた。

    「Michikoは三島由紀夫と見合いをしてたの?」

    「ねえ、エンペラー、エンプレスって、日本語でなんていうの?」

    「ウェルカム、インディアって、日本語でなんていえばいいの?」

    あああ、もう、静かにしてくれ!

    「ようこそ、インドへ」と、教えたにも関わらず、

    「ヨロシク、インドへ!」などと言い出したり、果ては、

    「アケマシテ、オメデトウゴザイマス!」とか、「オタンジョウビ、オメデトウゴザイマス!」などと、知っている限りの祝福の言葉を並べ始め、わが神聖なる心持ちを悉く破壊する。こ、この男は……。

    心底、パンチを食らわしたくなる。

    (平常心、平常心……)と自分に言い聞かせ、まるで禊(みそぎ)でも行うかのように、静かに、丁寧に、何年ぶりかにストッキングを履くのだが、うまく履けず、やり直したりなどして手間がかかる。

    そして3時には準備完了。夫は壊れたレコードのように、「ヨウコソ、インドへ!」を繰り返している。ああぁぁもう、置いていくよ、まじで。

    そして3時10分。落ち着きのない妻は、部屋を出て、吹き抜けのフロアからロビーを見下ろす。と、案の定、早くもM夫妻はロビーのソファーに腰かけていらっしゃる。やっぱり日本人。嗚呼、同志よ! あなたがたも、いてもたってもいられないのですね。

    アルヴィンドをせき立てて、3時15分ちょうどにロビーへ。

    M夫妻とわたしの緊張感が伝染したのか、クルマに乗り込んだあと、アルヴィンドが急に真剣に、メモを取り出して、「テンノウヘイカ、コウゴウヘイカ、ヨウコソ、インドへ!」を練習しはじめた。

    今更かよ! 

    そんなうろ覚えでは、いざご対面の際に間違えてしまうこと必至。もう「ヨウコソ、インドへ!」だけでいいから、と諭す。

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    🇯🇵そして会場のホテルに到着。友人知人ら、みな、ちょっとおかしい。

    会場となったホテル、タージ・コロマンデルには、3時半ごろには到着した。特にセキュリティが厳しいわけでもなく、やはり日章旗が掲げてあるでもなく、驚くほどに、「普通」である。こんなことでいいのだろうか、と訝しく思うほどに。

    ホテルのロビーには、すでに招待客だと思われる日本人が相当数見られた。ロビーで顔見知りの人たちと挨拶を交わしているうちにも、次々に知り合いが到着する。

    言葉を交わす友人らそれぞれに、地上から10センチくらい浮かんで歩いているような、なんとも「普通ではない」テンションだ。夕べは寝られなかったのよ〜、という方もいらっしゃる。

    と、4時を過ぎたころ、ミューズ・クリエイションのメンバーでもあるバンガロールの友人が到着した。彼女曰く、今朝のフライト(スパイスジェット)が2時間遅れで出発したことから、ホテルで着替える時間がなかったため、空港から直行したとのこと。2時間も遅れるとは、なんというストレスフルな経験!

    彼女は、フライトが遅れるとわかって、まずバンガロール空港でストッキングをはき、チェンナイの空港でスカートとブラウスを着替え、ホテルに到着してジャケットを羽織り靴を履くという「時間差作戦」をとられたとのことで、一見涼しげに登場されたが、しかし相当に、ハラハラされたことであろう。人ごとながら、胃が痛い。

    その直後、友人夫妻がまさに「ストレスフル」な表情で到着。彼らもスパイスジェットに乗っていたらしい。妻の方は、まだ着替えもすませておらず、カジュアルな格好だ。

    彼らは、このホテルに予約を入れているから、チェックインして着替えると言っていたようで、それを聞いた友人は、なぜブロックされているはずのこのホテルの予約がとれたのだろうといぶかしく思ったらしい。

    が、蓋を開けてみれば、彼は間違って、「来年の12月5日」の予約をいれていたとのこと。なんということ!

    ……みんな、やっぱり、通常どおりの対応ができていない模様だ。

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    🇯🇵会場で受付をすませ、説明会。絶妙のタイミングでお手洗いへ!!

    午後5時。会場の入り口で入場手続きをする。招待状とパスポートを提示し、携帯電話をお預けする。会場では、チェンナイの日本国領事館の方が、非常に適切かつフレンドリーに、式次第を説明してくださる。

    そして「これだけは、していただきたくないこと」として、写真撮影や録音、お手紙などをお渡しすること、そして握手をすることの3つを挙げられた。まったく異存はない。

    会場にはいくつかの背の高い立食用の丸テーブルが設置されており、そのテーブルを囲むように、集まった人々が都市別に分かれて立つことになっていた。

    チェンナイ、ハイダラバード、ケララ、ポンディチェリ、バンガロールと、南インド各都市から訪れたゲストは、総勢百数十名。

    この茶会の目的は、「天皇皇后両陛下が在留邦人を御引見する」こととされていた。時間は約30分を予定されている。わたしのイメージとしては、各都市の代表の方々があらかじめ選ばれていたので、その方々とのみ、お言葉を交わされるのだろうと理解していた。

    さて、諸々の説明が終わってからも、開始の6時までにはまだ、かなり時間がある。今のうちにお手洗いへ行こうと会場を離れ、ロビーを横切ってお手洗いへ。再び、会場へ戻ろうとしたとき、なんというタイミングか、ちょうどエントランスに、天皇皇后両陛下がご到着されたところだった。

    主には関係者が出迎えていたその場に、偶然居合わせることができたわたしの幸運といったら! ちょうどわたしはエレベータの前あたりに立っていたのだが、両陛下はまさにそのエレベータで上階へ上がられるため、わたしの目の前を横切られた。その際、両陛下はわたしの方をご覧になった。

    皇后陛下が口を開いて、わたしに対して、なにかお声をかけてくださるような御様子だったのを、警備の人に促されてエレベータにお乗りになられた。わたしは深くお辞儀をして、そのお姿を見送った。

    その時点でもう、わたしは胸がいっぱいで、目頭が熱くなり、動悸が高まり、感動の極みであった。もう、十分。目を合わせていただいただけで、もう、幸せ。

    お二人の存在感の、静かで穏やかでおやさしいにも関わらず、すさまじい威力。なんなのだろう、この圧倒的な存在感は……。

    🇯🇵招かれた人すべてが、ありがたい御交流のひとときを、いただけた。

    6時に近くなったころ、招待客にワインやビール、ジュースなどのドリンクが振る舞われた。お茶会と言いながらも、状況は「カクテル」である。領事館の方々は、「どうぞみなさん、お召し上がりになってください」とお酒を勧められる。

    まさか天皇皇后両陛下とお会いする前にアルコールを摂取するなど、想像だにしていなかったので、非常に驚く。取り敢えず、水のグラスを取って、喉を潤す。アルヴィンドは赤ワインを片手に、談笑している。さすがインド人。余裕である。

    そしていよいよ、両陛下のご入場だ。服を着替えてからのこの数時間というもの、ずっと背筋を伸ばしての緊張状態が続いていたのだが、このときにはもう、肩の凝りがピークに達していた。

    いや、正確には肩の凝りだけではない。20年前のドレスを着ていることをして、世間からは「体型が変わっていないのね」と言われたが、実は当時よりも体重は数キロ増えており、油断するとお腹の辺りがぼよよ〜んとなってしまうため、常に少々、お腹を凹ませていなければならなかったのだ。

    そんな次第で、背筋を伸ばし、お腹を凹ませて、拍手をしながら両陛下をお迎えした。天皇陛下と皇后陛下は、お二人少し距離を置かれてお立ちになり、そこにご対面する形で、各都市から選ばれていたご夫妻が並んだ。

    と、そのあと、招待客が急に、どどっと、その背後に並び始めた。わたしは一瞬事情がつかめず、ぼ〜っとしていた。アルヴィンドに「僕たちも並ぼう」と促されて最後尾に立った。

    立ったあと、アルヴィンドが「僕たち、どうして並んでいるの?」というから、「どうしてだろうね」と、わたしもボケた返事をしたのだが、このときになってようやく、百数十名を超える招待客全員が、ひと言ずつ、お言葉を交わすことができるのだという事態を把握したのだった。

    確かに領事館の方は「皆様全員に、お話をしていただきます」とおっしゃっていたが、それはなんというか、取り巻きのように我々が立ち、そこでランダムに、お二人がお声をかけるような形になるのだろうと思い込んでいたのだ。

    新聞のレポートによると、今回の公式訪問におかれては、歓迎式典や市民との交流、在留邦人との茶会など、行事が多い日で7回、6日間で計22回というハードスケジュールをこなされていた。この茶会は、22回目、すなわちご帰国前の最後の行事であり、時間も押している模様である。それよりなにより、かように濃密なスケジュールをこなされたあとで、お疲れになっているのに違いないのである。

    なにしろ、この日の午前中は、地元の公園を散策され、市民ら250名と交流をされている。その後、午後にはタミルナドゥ州の障害者協会を訪ね、心身に障害のある生徒らとの交流もされている。

    多くの人々と交流することは、どれほどエネルギーを要することか。そのお力のすばらしさに感嘆する。驚くほどに新鮮で、輝かしい笑顔を放ちながら、一人一人に、やさしくお言葉をかけてくださるお二人。

    なんということだろう。

    🇯🇵そしてついには皇后様と。アルヴィンドに至っては、握手まで!

    時間が少ないにも関わらず、天皇陛下、皇后陛下、それぞれに、それぞれの招待客とじっくりお話をされている。遠目に見ているときには、声は聞こえないものの、お二人が積極的にお声をおかけになっている御様子がわかる。外遊の際、お二人は訪問国の歴史や文化などを事前にしっかりとお調べになるとのことだが、本当に幅広く多くのことをご存知であるのだということを、つぶさに拝見した。

    わたしたちは後尾に立っていたことから、時間的にも無理かもしれないと思っていた。正直なところ、特にお話ししたい、お伝えしたいと思うことはなかった。むしろ、他の方々とお話する御様子を間近に見られるだけでも、いいと思っていた。が、ここにきて、やはりひと言ご挨拶をさせていただきたいという思いが強くなる。

    ゆっくりとお話されるお二人を、領事館や、多分宮内庁の方であろうか、時間を気にして次の人に移るよう促していらっしゃる。こちらも、気が気ではない。

    そしていよいよわたしたちの番が近づいたときにはもう、かなり終盤に近かったせいか、担当者の方がわたしたちを含めて3組の夫婦をまとめて、「こちらはバンガロールからいらした方です」と紹介をしてくださった。すると皇后陛下は、

    「まあ、遠いところからわざわざありがとうございます。飛行機でいらっしゃったのですか?」と尋ねられる。と、隣のご夫婦が「いえ、車で◎時間かけて来ました」と返答。と、皇后陛下は、そのことに感謝を述べられた。

    そして次の瞬間、わたしの方を見て、おっしゃったのだ。

    「先ほど、お迎えしてくださった方ですよね。こちらで、なにをなさっているのですか?」

    わたしのことを、きちんと覚えていてくださったのだ。なんという、有り難き幸せ! 

    お時間をとってはいけないと、かなり早口で手短かに、自分がフリーランスのライターやレポーターとして日本にインドを紹介する仕事などをしていること、また日本人女性とともに慈善活動を行っていることをお伝えした。すると、

    「すばらしい活動ですね。がんばってください」とのお言葉をくださった。もう、胸がいっぱいいっぱいだったが、ここでアルヴィンドも紹介しておかねばと、「彼は夫です、インド人です」と彼の背中を押した。

    と、皇后陛下はアルヴィンドに向かって手を差し伸べられ、握手をしてくださったのだ。外国人特典!!!

    アルヴィンドは、「ヨウコソ、インドへ」と、その部分だけ日本語で、あとは英語で「お目にかかれて光栄です」「お招きいただけて幸せです」と、同じようなことを繰り返していた。皇后陛下は、ずっとアルヴィンドの手を握ったまま、「遠くからわざわざありがとう」と、流暢な英語で声をかけてくださった。

    遠くから来てくださったのは、天皇皇后両陛下、お二人の方である。が、我々を労ってくださる優しさには、本当に、打たれた。その後はもう、放心状態である。最後の招待客との対話を終えられたお二人を、再び拍手でお見送りする。

    なお、会場には森元首相もいらしていた。森元首相は、日本ではほとんど報道されていないが、日印友好に尽力されているほか、ロシア連邦、アフリカ諸国や南アジア諸国などに対して、積極的な外交交渉を行い、国際連合内での発言力向上に貢献されていた。首相在任中は、外遊の数が非常に多かったという。外交に関して、まさに「縁の下の力持ち」のような存在感でいらっしゃるような気がしている。

    さて、両陛下をお見送りしてのち、招待客みなそれぞれに、かなりおかしなテンションで、興奮を分かち合っていた。

    アルヴィンドは、この場では多分ほぼ唯一、皇后陛下と握手をさせていただいたこともあり、他の人に自慢げに報告しては、「間接握手」の嵐にあっている。

    「僕の掌は、やわらかくて握り心地がいいから、皇后陛下もずっと握っていてくれたんだろうなあ」と、見当違いな自己陶酔状態だ。

    スクリーンショット 2022-02-05 午後10.35.17

    🇯🇵一連の出来事を終えて、思うこと。

    あの日から、数日が過ぎた。こうして、記録を綴ることで気持ちを整理しようと思ったが、経験を書き残すことはできても、自分自身の心の動きについては、実はまだ消化できていない。

    果たして皇室とは、天皇陛下、皇后陛下とは、わたしにとって、いかなる存在なのか。なぜここまで無条件に、畏敬の念を抱き、尊ぶのか。

    日本国憲法第1条は、天皇を日本国と日本国民統合の「象徴」と規定している。

    象徴。その概念だけでは、説明がつかない。そもそも、特段皇室に関心があったわけでも、日ごろから両陛下に対して格別の念を抱いていたわけでもないわたしが、なぜこれほどまでに、心を奪われてしまう経験をしたのか。実は自分でも、よくわからないのだ。

    これは、後天的な知識や経験によって育まれた感情というよりもむしろ、日本人として生まれた自分自身の遺伝子に組み込まれた、決して外部からの干渉を受けることのない確固たる本能、のようにさえ、思える。うまく表現できないが、自分の意思を超えた強い感情が、内部から沸き上がっていたように思うのだ。

    両陛下の御活動や御人柄について、熟知しているわけでもなく、従っては「尊敬申し上げている」などと口にすることさえ軽率でおこがましいと思っている。にもかかわらず、この内なる熱狂は、いったいなんなのだろう。

    日本人として、古事記や日本書紀を理解し、神道についての知識を得ておく必要もあるかもしれないと、今、思い至っている。

    今回のことを通して、天皇皇后両陛下の御活動などをレポートする動画をいくつか見た。それらを見て初めて、いかにお二人が、外交にも力をいれていらしたかがつぶさにわかり、心の底から、深い感銘を受けた。以下の動画(宮内庁による)もそのひとつである。非常に長いものではあるが、すばらしい記録なので、お時間のある方には、ぜひご覧になることをお勧めする。

    映像の中で、天皇陛下は国際親善の重要性を説かれている。

    「国際親善の基は、人と人との相互理解であり、そのうえに立って、友好関係が築かれていくものと考えます。国と国との関係は経済情勢など良い時も悪い時もありますが、人と人との関係は、国と国との関係を越えて、続いていくものと思います」

    今回の御拝謁を巡っての一連の心の動き、そして両陛下の御活動の一端を、今更のように知ったことで、わたし自身が、自らの将来の方向性について、よりいっそう真摯に向き合い、丁寧に生きていかなければとの思いを強めた。

    このような機会を与えてくださった方々に、心から感謝すると同時に、この経験を必ず、意義ある未来に結びつけるべく、これからの人生、精進したいと思っている。

  • M019

    気がつけば、11月も終盤。2005年11月10日、わたしたちがバンガロールに移住した日から、早くも丸8年が過ぎた。なんと濃厚で、波乱に満ちた歳月だったろう。その気候のよさのせいか、年中フル稼働でいられるこの地バンガロールにおいては、適宜、休息を挟みつつも、有意義に動き続ける日々である。

    ところで先日、日本への一時帰国中、東京のクライアントで行ったセミナーのテーマは、「写真を通して見る、インドの10年」~新旧が混在する日常から~というものであった。セミナーの時間はわずか1時間余り。しかし、その準備には、当初予定していた以上のエネルギーを費やした。

    それは、「ちりも積もれば山となる」の好例であった。過去のブログの写真などを遡り、発掘し始めるときりがなく、ずいぶんとまあ、こまごまと記録を残して来たものだと、我がことながら感心させられた。

    移住前の旅行時からのものも含め、 ネット上に眠るインドの過去約10年の光景が次々と目を覚まし、わたしの記憶もまた刺激され、時間を要したとはいえ、作業の過程は非常に意義深いものであった。

    今回の件を通して、どんなに写真を撮っていても、ネット上にアップロードしていないものは、のちのち敢えてデータから拾うことはないということも悟った。バックアップのハードディスクに、延々と眠り続けるばかりである。

    今年はブログという体裁をやめ、ネット上に記録を残す頻度は激減したが、しかし、とどめておきたい光景は、なるたけそのときどきで写真を整理して載せておいたほうがよいと思わされた。従っては、今回のムンバイ滞在の写真は、敢えてたくさん載せておこうと思う。未来の自分が、今を回想をするときのためにも。

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    日本から帰国して数日後にも関わらず、なぜ夫の出張に便乗してわざわざムンバイへ2泊3日の小旅行に出かけたかといえば、今回の夫の滞在先が南ムンバイのタージマハル・パレス (The Taj Mahal Palace) だったからにほかならない。古くからの読者ならご記憶かもしれないが、わたしは、このホテルに対して、なぜかしら強い思い入れがあるのだ。

    わたしが初めてインドの土を踏んだのは、ニューヨーク在住時の2001年7月のこと。結婚式を挙げるためにニューデリーを訪れ、その後、新婚旅行でウダイプールに足をのばした。

    ムンバイを初めて訪れたのは、結婚から数年後、「ひょっとして、インドに住んでみたいかも」と思い始めたころ、2004年4月のことである。そのときは、ムンバイ、バンガロール、デリー、チェンナイを巡ったが、最初に入ったのは、忘れもしない、このムンバイであった。

    空港に降り立った途端、独特の湿気を含んだ空気に包まれる。夜の街をひたすら南へと走り、たどりついたのが、このホテルだった。タクシーを降りて真っ先に目に飛び込んで来た、ホテルの向かいにあるインド門……。当時の旅の記録は、下記のブログに残している。

    まだインドを知らず、100%の旅人だったわたしが、次々に襲いかかるトラブルや、カルチャーショックに見舞われつつも、「刺激に満ちあふれた」「退屈することのない、退屈できない」旅を楽しんでいる様子が伝わって来る。あれからまもなく、10年だ。

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    このホテルの魅力は、単にラグジュリアスなホテルであるから、ではない。このホテルが育んで来た歴史、ストーリーに、心ひかれるのである。インド彷徨 (2) の「英国統治時代の、インド人のプライド」という項目でも記しているが、ここにも改めて残しておく。

    上の写真は、インドの海の玄関口、Gateway of India。ムンバイの最南端、コラバに位置するランドマークだ。1911年、英国のジョージ5世とメアリー王妃がムンバイに訪れたのを記念して建立された。

    その海洋に面してどっしりと立つタージマハル・パレス。インドが英国の植民地下にあった1903年に完成した。

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    そのインド門の真向かいに立つのが、このホテルである。ちなみにこの写真は、2004年に撮影したもの。インド門の前からの眺めだ。左側がオールドウイング(旧館)、右側のタワーがニューウイング(新館)と呼ばれ、双方に客室がある。宿泊するなら、独特の情趣に満ちた旧館がお勧めだ。

    このホテルが建てられたのは、インドが英国の植民地下にあった1903年。今から110年前のことだ。当時、インドにある高級ホテルのほとんどは、インドに在るにも関わらず、インド人は宿泊することができなかった。「インド人と犬はお断り」などとするホテルもあったという。

    英国人によって翻弄されていたインドにあって、しかしビジネスで成功を治めていたインド人の実業家、タタ・グループの創始者であるジャムシェトジー・タタは、インド人が泊まれる高級ホテルの建設に着手した。当時としては最先端のエレベータや天井のファンを備え、クーポラの鉄筋はエッフェル塔と同じものが用いられているなど、建物そのものにも、さまざまなストーリーがある。

    以下、Wikipediaの文章に少々手を加え、転載しておく。

    タタ・グループは、インド最大の財閥であり、ペルシア一帯(現在のイラン)からインドに渡ってきたパールシー(ゾロアスター教徒)の子孫であるジャムシェトジー・タタ(1839年-1904年)が、1868年にボンベイ(ムンバイ)で設立した綿貿易会社をその始まりとする。

    1870年代には綿紡績工場を建ててインド有数の民族資本家となった。彼は大きな製鉄所、世界的な教育機関、大ホテル、水力発電所をインドに建設することを夢見たが、そのうち生前に実現したのは1903年に建てられたタージマハル・ホテルのみであった。しかし彼の残した構想は、タタ・スチール、インド理科大学院(バンガロールにあるIIS)、タージ・ホテルズ・リゾーツ&パレス、タタ・パワーとして結実した。

    彼の富と名誉の結晶は、他のどのホテルにも劣らない歴史的なホテルとして誕生し、以来、百年以上に亘り、世界中の人々を招き入れてきた。華やかな、あるいは重要な、歴史の舞台として人々の記憶に刻まれ続けるホテル。エントランスに足を踏み入れれば、晴れ晴れと、優麗な空気に包まれる。

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    オールドウイングのチェックインは、上の写真、このラウンジで行われる。到着するやいなや、芳しい花の香りが漂うこのラウンジに通され、座り心地のいい椅子を勧められ、リラックスしてチェックインできることの優雅さといったらない。

    これまで、幾度か泊まったが、いつもここに来ると、心底、ほっとする。大きなホテルに見えながらも、アットホームで親密なもてなしをしてくれることが、くつろいだ心持ちにさせられる理由でもあるだろう。

    もっとも、あいにく、今回の滞在は、ニューウイング。夫の会社の、ニューヨーク本社はじめ各国のパートナーたちが一堂に会するアニュアル・ミーティングが開催されており、会社側がまとめて予約をとっていることから、自由はきかなかった。が、贅沢を言ってはいられない。

    夫がタージのゴールドメンバーであることから、訪れるたびに部屋をアップグレードしてもらえるので、普段は、その恩恵に便乗している。以前は、日本からのクライアントとともに新館を予約していたのだが、たまたま同じタイミングでムンバイに出張に来た夫の計らいでクライアントもオールドウイングにアップグレードしてもらえたときには、本当にうれしかった。

    せっかくならば、「より素敵な方」に泊まっていただき、インドのファンタスティックな一面を体験してもらいたい。ホテルが快適かどうかで、滞在の印象は大きく変わるものである。特にインドのような、一歩外に出ると混沌の渦に巻き込まれる国においては。

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    こちらはニューウイングのロビー。ニューウイングとて、十分にラグジュリアスではある。磨き上げられたフロアを歩くだけでも気分よく。フロントの背後の絵画は、インド現代絵画の巨匠、M・F・フセインによるもの。彼はインド人でありながら、その作品が物議を醸し、海外で亡命生活を送っていたのだが、2年前に亡くなった。

    ちなみに彼はインドに住んでいたころ、このホテルをよく利用していたとのことで、館内にある老舗の靴店「Joy Shoes」の入り口には、彼の足跡がアートとして残されている。ちなみにこの靴店のサンダル類はとても履き心地がよく、夫もわたしも愛用している店だ。女性用の「スワロフスキーのクリスタルを鏤めたサンダル」は、日本人の目には、まばゆすぎるが、インド富裕層の女性たちには好評のようである。

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    このホテルに対する思い入れは、本来であれば、わたしよりもむしろ、わが夫のアルヴィンドの方が強く持つべきであるのかもしれない。夫が子供のころ、ロメイシュ・パパは転勤が多かったことから、学業の心配をした実母(夫が大学生のときに他界)が、姉のスジャータと彼を自分の父親に託した。

    即ちアルヴィンドの祖父である。実業家であり、政界にも籍を置いていた祖父は、非常に厳格な人物で、夫と子どもたちの間を1カ月ごとに行き来して暮らしていた母親の来訪を、アルヴィンドはいつも心待ちにしていたという。

    祖父がビジネスでムンバイに来るときには、このホテルのスイートルームに宿泊するのが常で、そのときには、姉と二人で喜んで同行したという。広々とした快適な部屋で、普段、家庭のテレビでは見られない、米国の映画を「カラーテレビ」観たり、プールで泳いだり、あるいは普段とは違う料理やデザート類を食べられるのが、ことのほか、楽しみだったそうだ。

    超庶民の我が子供時代とはかけ離れた、優雅なお子様時代である。個性豊かなわが夫の個性が育まれた経緯を知ることは、彼の現在を理解することにも結びつき、彼のファミリーヒストリーは、興味深い。それは夫として、ではなく、あるインド人とその家族の物語として。

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    ニューウイングとオールドウイングを結ぶ回廊の一隅に飾られた写真。このホテルを訪れた、各国のセレブリティたちの写真が静かに展示されている。ホテルの部屋のテレビには、このホテルを案内するプロモーションヴィデオが入っており、歴史的なエピソードを説明してくれる。それもまた、非常に興味深いものだ。

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    エッフェル塔と同じ鉄筋が用いられているというキューポラ。この吹き抜けの回廊の独特の雰囲気には、いつも魅了される。

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    この上階が、オールドウイングの客室。過去の記録に別のアングルからの写真も残しているので、建築構造に興味のある方は、後に記すリンクをご覧いただければと思う。

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    館内を彩る花々は、奇をてらわず上品にオーソドックスに、しかし、確実な存在感を放っている。ストレートな美しさが、いい。

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    このホテルが完成した翌年に他界した、タタ・グループの創業者、ジャムシェトジー・タタの胸像。キューポラの下の回廊の、一番目立つ場所で、静かにたたずんでいらっしゃる。

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    このホテルにお世話になったのは、宿泊客として、だけではない。わたしたちは、夫の仕事の都合で、2008年から2009年12月までの2年間を、ここムンバイで過ごした。もっとも、バンガロールとの二都市生活を送っており、わたしは月に一度は1週間ほどバンガロールに滞在していたが、たいていはムンバイで夫と暮らしていた。

    住まいは、このホテルのあるコラバ地区に接するカフパレードと呼ばれるエリア。高層アパートメントが立ち並ぶ場所だ。住んでいた当時、蒸し暑い中、よくコラバ界隈を散策したものである。

    散策というにはあまりにもタフな、ごちゃごちゃとした商店街をくぐり抜け、それは毎度、探検のようでもあった。そんな探検を終えた後、執着地点がこのホテルであり、このホテルの「シーラウンジ (Sea Lounge)」だった。

    いつも、インド門を見下ろす窓辺のテーブルに席を取り、時を過ごすのだ。この場所は、わたしを深く「ぼ〜っ」とさせてくれる。実は「ぼ〜っとできる場所」というのは、そうそうあるものではない。思うところをペンでノートに綴ったりなどしつつ、ただ、コーヒーを飲みながら、道ゆく人々を眺め、ひたすらに、静かな時間を過ごせる。いわば、瞑想のような状況である。

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    気がつけば、いつのまにか太陽が傾いていた……ということが、この場所ではしばしば起こる。こんな風に、自分と波長が合う場所は、実はそうあるものではない。

    今、「自分と波長の合う場所」を思い返そうとしても、すぐには次々に、他の例が出て来ない。

    たとえば20年前に訪れた、イタリアのアッシジの修道院ホテル。やはりイタリアの、シエナのカンポ広場。プラハの旧市街、バルセロナのやはり旧市街。アリゾナ州&ユタ州のモニュメント・ヴァレー、ニューヨークのセントラルパーク……。

    波長、というのは、理屈を超えて、非常に個人的なものであり、それが「合う」「長居したい」という感覚を育む。長居したいと思える場所に出合えることは、実は簡単なことではないのかもしれないと、今、過去に訪れた場所を回想しながら、そう思う。

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    ホテルの朝食は、ニューウイングのカフェテリア、プールサイド、そしてこのシーラウンジでとることができる。到着の翌朝は迷わず、シーラウンジへ。料理の数などはカフェテリアの方が多いのだが、わたしもいい加減「大人」なので、食のヴァラエティよりは、環境を重視である。

    いつものように、まずはフルーツをたっぷりと。そのあと、パンケーキや卵など、温かい料理を注文する。新鮮なスイカジュースがおいしい。煎れたてのダージリンティもまた。そして最後は焼きたてのクロワッサン(美味!)とカフェラテで締めくくる。

    ……どう考えても、十分にヴァラエティ豊かな朝食かつ、食べ過ぎだ。

    この日は、昼ごろに、ワールドトレードセンターに赴いた。かつて暮らしていたカフパレード、住んでいたアパートメントも真向かいにあるワールドトレードセンター。ムンバイ在住時には、なにか展示会などが行われるたびに、足を運んでいたものだ。

    ネットで現在開催されているイヴェントを調べたところ、ベーカリービジネスのエキシビションが開催されていたので、訪れた。なかなかに収穫のあるイヴェントであった。そのときの写真は、後ほど載せるとして、午後は再びホテルへ戻り、「意識的に」ホテルでゆっくりと過ごすことにする。

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    前日の夜は、MiPhone@Indiaに記録を残していた通り、夫と近所のインディゴ・デリで軽めの夕食だった。今夜は一人ゆっくりと過ごせる。というわけで、夕飯というよりは、遅めのハイティーを楽しむことにした。シーラウンジでは、午後3時から6時まで、ハイティーをサーヴしているのだ。

    部屋の冷蔵庫で、昼間ワールドトレードセンターの(やや)高級スーパーマーケット、NATURE’S BASKETで調達しておいた、ハーフボトルのスパークリングワイン、SULA BRUTを冷やしている。夜はそれをゆっくりと飲むのもいいだろう。

    夕暮れ時のシーラウンジもまた、いいものだ。アラビア海が夕映えに染まるころ、静かなピアノの演奏に耳を傾けつつの、ティータイム。ハイティーはブッフェスタイル。十分な量をお皿に取って来たのだが、シーラウンジならではの「老齢の給仕」がやさしく微笑みながら、この3段のプレートを供してくれる。

    シンプルなサンドイッチも、そしてスコーンも、とてもおいしい。スナック類も、どれも、見た目よりもずっとおいしい。至福のひとときとは、まさにこういう時間をいうのだな、と思う。少なくとも、わたしにとっての。

    あまり人が来たがらず、うらやましがられもしないような、ごちゃごちゃとしたムンバイという地の、このオアシスで。

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    わたしにとって、とても大切な場所であったこのホテルが、テロリストの標的となり、血の海となったあのときの衝撃は、だから相当のものであった。

    2008年11月26日。そのとき、わたしと夫は、二人で京都を旅していた。翌朝、テレビをつけてニュースを見て、目を見張った。このホテルが、炎と煙に包まれているではないか!

    ニューヨークに住んでいるときには、9/11を経験し、そしてムンバイに住んでいるときに、またしてもこの大きなテロを経験するとは、なんという因果だろうかと思った。

    テロリストの標的となったのは、このホテルだけではない。このホテルと同様、外国人や富裕層が多く出入りするオベロイホテル(トライデントホテルと隣接)や、ヴィクトリアステーション、外国人旅行者の多いコラバのカフェ&バー、ユダヤ人会館なども悲劇の場となった。

    夫のオフィスはオベロイホテルのすぐそばだったことから、テロ発生の直後に周辺が閉鎖され、彼の同僚は一晩、オフィスから出られなかったという。わたしたちがのんきに京都の夜を楽しんでいたころ、こんな悲劇が身近に起こっていた。やり場のない怒りと悲しみが沸き上がり、不条理に、茫然とする思いだった。

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    なぜこんなことが、起こってしまうのか。という出来事を、経験するたびに思うことは、月並みではあるけれど、今を大切に生きること。今置かれている自分の環境を慈しむこと。

    未来設計は大切だが、楽しみを先延ばしにしすぎるのも、賢明だとは思えない。自分がこの先どれほど生きられるのかなど、誰にもわからないのだから。「蟻とキリギリス」の両側面を巧みに調和させながら生きることが大切なように思う。

    足りないものを追うのではなく、満たされているものに目を向けること。わが信条であるところの「身の丈を知る」「足るを知る」こともまた、わたし自身が生きる上で、非常に大切なコンセプトだ。

    テロにせよ、戦争にせよ、そもそもは、自分と異なる価値観を受け入れられないところから発生する悲劇である。相手を理解する努力をする前に、攻撃をしかける。その途方もない乱暴で凶暴な力を前にすると、素手の我らは非力の極みだ。だからこそ、争いや戦いは忌むべき、回避すべきことである。

    その心持ちは、普段の日常生活においても、同じことだ。

    異文化を見下したり、異文化を嫌悪する前に。他人を中傷したり、責めたりする前に、相手を理解しようとする姿勢が大切だ。自分に対しては厳しくてもいいが、他者にはそこそこ寛大でありたいとも、思う。さもなくば、日常は争いの渦だ。

    ……と、話が横道にそれてしまった。

    こんなことに、しみじみと思いを馳せることができるのも、さまざまな経験を重ね、それらを振り返る精神的な余裕が育まれているからこそだと思う。そして、諸々に思いを馳せる時間的、精神的、空間的余裕があるからこそ、でもある。同時にこれは、年齢を重ねたからこそ至れる心境であり、醍醐味であるかもしれない。

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    次の朝は、プールサイドで朝食をとった。優雅なプールサイドの、しかし中空には、ハトが舞い飛ぶ。カラスが舞い飛ぶ。喧噪の外の世界と隔絶されたこの優雅な空間は、まるで箱庭のようでもあり。

    塀を軽々と乗り越えて、鳥は舞い、風は吹き抜け、ああ、なんとちっぽけなことで、幸せにも不幸にもなれる、自分という人間の存在。

    このホテルがオープンした当初は、このプールのある方が、メインエントランスであったという。その当時の様子を脳裏に思い描きながら、暑すぎず、心地のよい風が吹く、よい時節のムンバイの朝を過ごす。

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    自分自身の便宜のためにも、以下、このホテルに関して記した記事をいくつか転載しておく。もしも、興味のある方がいらっしゃれば、どうぞご覧いただければと思う。

    ■インド彷徨 (2) 2004年4月

    インド移住前の旅行。初めてタージマハル・パレスに宿泊。

    ■安全地帯で過ごす午後。2004年10月

    インド移住前の旅行の記録。シーラウンジでのひととき。

    ■インド彷徨(4) 2005年8月

    インド移住直前の旅行。再び、タージマハル・パレスに宿泊。わたしの誕生日と同じ日にオープンした日本料理店WASABIにて、40歳の誕生日を迎えた。このときは、ホテルの写真を山ほど撮影している。

    ■ムンバイ着。無口な一日。 2005年12月

    ■SEA LOUNGE: 饒舌の給仕

    インド移住の直後から、ムンバイ、デリーと夫の出張が続き、なぜか同行していた我。ホテルライフに飽きた、などと言っていたころ。

    ■インド社交界のクリスマス 2005年12月

    引っ越しだなんだをやりながら、飛び回っていた移住直後の年末。このときはHDFC銀行のCEOだったディーパック・パレックの招きで、彼が主催するクリスマスパーティに参加するため、タージマハル・パレスへ赴いた。自分としては、このときがインド社交界デヴューであり、興味深い経験をさせてもらった。それにしても、サリー姿がぎこちない、初々しい我よ。

    ■同窓会。伴侶のためのツアーに参加 2006年1月

    夫の卒業した米国のMBA、WHARTONのリユニオンがムンバイで開催されたので、妻も同行。数日に亘り、タージマハル・パレスほかムンバイの随所で、さまざまなイヴェントが催された。

    ■WASABIで過ごす誕生日の夜。鉄人森本氏にも再会。 2008年8月

    我が誕生日を祝すべく、夫とタージマハル・パレスの日本料理店WASABIへ。ちょうどインドを訪れていたWASABIの主役である料理の鉄人森本氏と再会し、いろいろなサーヴィスをしていただき、本当に幸せな夜だった。まさかこの数カ月後に、ここが悲劇の舞台になるなど、予想だにしなかった。

    ■ムンバイでまた、たいへんなことが起こってしまった。2008年11月

    夫婦で京都を旅行中、テレビのBBCニュースで知ったムンバイのテロ。燃え盛る見慣れた建築物の姿に、息が詰まる思いだった。

    ■遠く京都で、ムンバイを、インドを思う。 2008年11月

    京都を旅しながらも、心ここにあらずだった一日。ムンバイを思って記す。

    ■失いてのちに、取り戻せるもの。取り戻せないもの。 2008年12月

    日本旅から戻り、ムンバイ宅へ帰宅。数日後、コラバ地区を歩き、テロリストの攻撃を受けたLeopold cafeを訪れた。その後、塀で囲まれ、閉ざされたタージマハル・パレスへ。「Working to restore a symbol of Mumbai’s enduring spirit & dignity. ムンバイの、不屈の精神と尊厳の象徴を取り戻すべく、工事中」の文字に、涙。

    ■ムスリムの休日、ビーフバーガー食べタージを思う。 2008年12月

    西日本新聞に5年に亘り連載していたコラム『激変するインド』にて、躍進するタタ財閥についてを記しつつ、タージマハル・パレスのことなども、記した記録。

    ■米国在住ムンバイカーのジェイと、テロを巡る夜。 2008年12月

    夫のMBAの同窓生で、DELLコンピュータのトップエグゼクティヴであるジェイ。世界数カ国を駆け回る多忙な男だが、時折、母親の暮らすムンバイを訪れている。テロ後、彼と久しぶりに再会した夜、テロを巡るさまざまな話を聞いた。その後、彼の案内で出かけた「ムンバイ・ナイトツアー」は、本当に、忘れ難き思い出。

    ■ふたつのホテル、一部、営業再開。 2008年12月

    ムンバイの自宅の窓から見えていた、タージマハル・パレスのキューポラ。テロの後、夕闇に溶け込んでいたのだが、約1カ月後、一部の営業を再開したことから、ライトアップされた。うれしかった。

    ■嘆きの霧に包まれて、覚束なきタージマハル・ホテル。 2008年12月

    ホテルが一部再開したことを受け、早速、訪れてはみたが……。辛かった。

    ■残る弾痕。臆せず営みを。 2008年12月

    西日本新聞の連載『激変するインド』に記した、ムンバイの同時多発テロの話題。

    ■テロ後の再誕 2009年7月

    テロの悲劇を乗り越えて、再び扉を開いたタージマハル・パレスに初めて訪れた日。シーラウンジのテーブルをいつも彩っていた黄色いバラが、白いバラだった。

    ■ムンバイ。思いがけないギフト。ホテルでの時間。 2011年2月

    ムンバイとバンガロールの二都市生活を終えたあと、ムンバイを訪れたときにタージマハル・パレスに宿泊したときのこと。 テロの後、初めて泊まったこのときにも、思うところ多く、あれこれ書いている。

    ■モンスーン開けやらぬ、ムンバイ滞在の断片を。 2011年7月

    ムンバイを訪れるときには必ず立ち寄り、Sea Loungeでひとときを過ごす。そのような旅の記録の一つ。

    ■ムンバイで一番好きな場所 2012年5月

    Sea Loungeとの初めての出合いから8年。ラウンジの雰囲気は変わらないが、メニューの内容とお値段は激変した。ともあれ、優雅な時間を与えてもらえるのだから、訪れる価値はあるのである。

    ■ボンベイ/ムンバイ、ひとり旅。2泊3日の時間旅行。2015年4月

    (多分、更年期障害その他で)心身が疲れていたころ。病み上がりにもかかわらず、どうしてもムンバイに行き、タージ・マハルパレスホテルに泊まりたくなって、一人旅を決行。10年後の今、読み返すに、いつもそれなりに、試行錯誤の繰り返しだった。

    ■目まぐるしく変貌する都市へ。2年ぶり2泊3日のムンバイ旅。

    久しぶりのムンバイ旅。いつも訪れる日本人墓地はじめ、さまざまにお気に入りの場所を一人巡る。

    ■豪雨直後の南ムンバイ。街は渋滞もなく。友人と過ごす1日。2018年7月

    雨降るムンバイ。馴染みの場所を巡ったあと、タージ・マハルパレスのお気に入りの場所、Sea Loungeでハイティーを。

    ■ゾロアスター教と、ボヘミアン・ラプソディと、タージマハル・ホテル。2019年7月

    iPhoneの進化のおかげで、写真が徐々にクリアになっている。ゾロアスター教(パールシー)の歴史などに触れつつ、ホテルを描写した記録。

    ■英国統治時代からの物語が詰まったタージマハル・パレスホテル。個人的にも思い入れ深いエリアにて①2022年9月

    ■英国統治時代からの物語が詰まったタージマハル・パレスホテル。個人的にも思い入れ深いエリアにて②2022年9月

    最も新しく、クリアにタージ・マハル・パレスホテルの状況が見てとれる記録

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    ミューズ・チャリティバザールのレポートを記してから、早くも半月が過ぎた。折に触れて日々を綴ることは、経験を整理するのにも、考えをまとめるのにも、役に立つ。

    インドに暮らしてまもなく、丸8年になる。が、記す話題は少なくなるどころか、書いておきたいこと、誰かに伝えたいことは、益々、募る。それは日常の些細なことから、大きなテーマまでさまざまだ。インドは本当に、奥深く、興味が尽きない。

    翻って日本。

    今年も今月末より来月にかけての2週間余り、一時帰国する。それもあって、今月もまた、少々立て込みそうだ。

    それにしても、2020年の東京オリンピックの開催には、心底驚いた。福島の原子力発電所の現状が、コントロールされているかのような安倍首相のスピーチにも、言葉を失った。

    2011年3月に起こった震災は、「震災」という言葉のせいで、あたかも「天災」のような印象を受ける。しかし福島原発の事故に関しては、「福島第一原子力発電所大爆発事故」とでも明確に記し、それが人災であることを強調すべきだと思う。

    黒澤明監督による日米合作映画に、1990年公開の『夢』という作品がある。8つの物語によって構成されたオムニバス形式の映画だ。その一つに「赤冨士」という話がある。

    富士山が大噴火を起こして、人々が逃げ惑っている。空は怪しく不可解な色に染まり、まさにこの世の終わりのような光景が広がっている。しかし実は、背後にある原子力発電所の、6つの原子炉が爆発していたのだった。

    黒澤氏のすごいところは、目に見えない放射能に色をつけて、視覚的に放射能を捉えさせ、恐怖を与えているところだ。空も、海も、怪しい色に染まりゆく悪夢。

    しかし実際の放射能は、目には見えない。だから看過することができる。それが、恐ろしい。

    「猿は火を使わない。火は自分たちの手で負えないことを知っているからだ。ところが人間は核を使い出した。それが自分たちの手に負えないとは考えないらしい。火山の爆発が手に負えないのをわかっているのに、原子力発電所の爆発ならなんとかなると思っているのはどうかと思うね。」(黒澤明の手記より抜粋)

    福島原発の、とてつもなく深刻な状況に関して、また日本の原発に対しては、かつてのブログでも折に触れて記してきたが、学ぶほどに、書きたいことが山ほどある。が、この件に関して深入りすると、絶望的な気分になるので、今日のところは久しぶりの記録につき、このへんにしておこうと思う。

    この映画は、本当にすごい。全くもって、日本の現状を予測している。結局は、作中にあるように、「知らずに殺されるか、知ってて殺されるか、それだけだ」という違いだけ、なのだろうか。

    映画の中では、6つの原子炉が爆発したとされているが、奇しくも福島第一原子力発電所には、6つの原子炉がある。

    『生きものの記録』という映画も、強烈だ。いやはや、日本では「この期に及んで」も、反原発を訴える人が、この映画の中の三船敏郎(当時35歳の彼が70歳の役を演じて話題になったらしい)のような存在感で見られている節があるのだから、途方に暮れる。

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    最後に更新してから、20日近くもたっていた。濃い、日々だった。5泊6日のムンバイ出張は、モンスーンの時節ながらも天候に恵まれ、つつがなく業務を完了することができた。特に後半の視察旅行は、大雨でも降られようものなら、道路は渋滞し、自由に街を歩けず、視察が全く異なる内容となってしまう可能性もあったので、雨が降らなかっただけでもラッキーだったとさえ思う。

    出張から戻った8月31日は、48回目の誕生日。自宅でゆっくりと過ごしたいところだったが、夫がレストランの予約を入れておいてくれたので、外食をすることに。二人で静かなバースデーナイトを過ごした。

    歳を重ねて思うのは、大切なことは年齢の数ではなく、「経験とその質」であり、また「健康的な心身を保つこと」だということ。自分の情念や衝動を、瑞々しく保つ努力は、惜しんではならないと思う。

    それは、自分のためだけではなく、家族のためでもあり、また何らかの形で社会に貢献し続けるためでもある。自分の経験を生かして、世の中に還元できることは、幸福なことだと、最近は思う。

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    それにしても、気が晴れない。ここ数週間の世間のニュースを目にするにつけ。まずインド。インド経済の落ち込みや、政治の腐敗ぶり、そして来年の選挙へ向けての、なんとも残念な政党の現状。夫もまた、ほとほとインドに嫌気がさし、「米国に帰りたい気分」が再燃している。それでもわたしは、インドに住み続けたいと思っているのだが。

    それより何より、我が母国。2011年3月から延々と、なに一つ収束することなく、危機的な状況が続いている福島の原発。関連の情報にアクセスすれば、高濃度の放射能で汚染された水が、今までずっと漏れ続けていたことなど、そしてこれからもそれが続くであろうことも、それ以外にも諸々の危機的な事態が重なっていることも、手に取るようにわかる。日本のメディアが大々的に報道していなくても、小さく、しかし確実に情報を提供している現場の人々の声は、拾い集めることは可能だ。

    にもかかわらず、あたかもつい最近、汚染水問題が発生したかのようなトーンのニュースが巷にあふれた。そして国費投入の報道。事故から2年以上もたった今、事態は悪化の一途をたどっているというのに、たかだか470億円で汚染水問題が解決するはずがない。現在の福島の状況を考えれば、全然足りない数字だと、素人のわたしでさえ、察しがつく。

    国民一人当たりに換算すれば、400円程度。このような対応しかできない政治家を選んだのは、国民の責任でもある。2年以上、この件について、政府の収束宣言などを鵜呑みに信じる方も愚かだということを自覚すべきだ。血税云々の不満を言っている場合ではない。

    一人一人が、1000円でも、いや1万円でも負担して、国を挙げて、解決を目指すべき重大なる事態である。すでに汚染水は、海を介して世界に広がっている。 日本だけの問題ではない。地球そのものに、多大なる影響を与えている恐ろしい事態なのだ。これから5年先、10年先、100年先、いや何千年、何万年たっても、毒を吐きを続ける放射性物質。

    今、生きているわたしたちが、全員死んでしまったあと、何度生まれ変わっても、延々と、地球を汚し続けている。なんと恐ろしいものに、人間は頼って生きることになってしまったのか。と、考えればきりがないのでこの件については、これ以上は触れない。

    そして極めつけは、東京オリンピックの開催決定。オリンピック誘致に関する盛り上がりを見せた報道。愕然としたのは、安倍首相のことばだ。「福島の状況は、コントロール下にある」という。

    そんな嘘が、国際社会で通用してしまうことが恐ろしい。いや、東京での開催が決まったことは、最早日本だけの力ではない。原発を推進している国々の、何らかの思惑が働いているのではないか、とさえ思う。

    確かに経済効果はあるだろう。オリンピックに向けて、今まで放置されて来た福島の現状に対し、世界のメディアもより注意を払うことになるだろう。そこで、何か、前向きな方策がとられることを、最早、祈るしかない。

    わたしは、以前からも折に触れて書いて来たが、福島の現状に対して、絶望的な気分でいる。しかしながら、日本人として、ただ政治や東電に対する不満だけを口にするのも本意ではなく、自分にできることを模索している。今のところ、某団体にささやかながら、寄付をさせてもらっている。それが焼け石に水でも、ともかく自分がなにか、関わっているのだという行動を起こさなければ、気持ちのやり場がない。

    この話を分かち合える人は、残念ながら、身近にいない。そういうものだということも、理解している。しかし、どんなに疎ましがられても、この件に関しては、わたしは看過するつもりはない。日本人として生涯抱え続けねばならない、大いなる問題であると認識している。

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    ムンバイの最南端、カフパレード(コラバ地区)に暮らしていたのは、2008年から2009年にかけての約2年間だった。夫が一時、ムンバイ拠点の会社に勤務していたことから、バンガロールとの二都市生活を送っていた。あのころは、月の大半をムンバイで過ごし、毎月1週間ほど、バンガロールに戻っていた。

    2008年9月のリーマンショック、そして11月のムンバイ同時多発テロは、わたしたち個人の暮らしにも、少なからず影響を与えた。その詳細はさておき、わたしたちの濃厚なインド生活の中でも、特に波乱に満ちた2年間だった。だからこそ、この街に対する心情は、ニューヨークとはまた異なる形で、個人的に強い。

    年に数回は訪れたいと思いつつ、今回は1年ぶりの来訪となった。年々、目覚ましい勢いで増え続ける高層ビルディングに目を見張り、しかし以前から変わらぬ様子の町並みに、少し安心したりもする。

    今回、北ムンバイのバンドラにあるホテルに滞在したものの、訪れたのはすべて、南ムンバイであった。ニューヨークで購入した一眼レフのカメラを持参して、今回は積極的に写真を撮影した。インドに暮らし始めて以来、撮り続けている写真は、大切な資料としてデータを残している。仕事でも使う機会が少なくなく、「これは!」と思う光景は、撮っておくにこしたことはない。

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    新しいブティックが次々に開店している高級モールのパラディアム。

    ムンバイの一大洗濯場、ドビーガート。

    貧困層の女性たちによる手工芸品を販売する団体、WIT。

    アルフォンソ・マンゴーがあふれるクロフォードマーケット。

    なじみの老舗パン&チャイ屋、ヤズダニ・ベーカリー。

    1年前にオープンしたばかりのスターバックス・カフェ。

    インドの伝統的なテキスタイル、サリーを扱うカラ・ニケタン。

    おしゃれなブティックが並ぶオベロイ・ショッピング・センター。

    コラバ地区の、最先端ファッションを扱うセレクト・ショップ数店。

    インド門、そしてタージマハル・ホテル。

    お気に入りのテキスタイル&サリー店、靴専門店のJOY SHOES、

    そして、いつものシーラウンジ……。

    わずか2泊3日の間、数々の場所を巡ったが、しかし今回のハイライトは、日本山妙法寺への訪問と、初めて訪れる「日本人墓地」であった。

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    ムンバイに到着した日。ホテルでチェックインをすませ、ランチをとったあと、バンドラ・ウォルリ・シーリンクを渡って南ムンバイへ。橋をおりてすぐのウォルリの目抜き通り沿いにある日本山妙法寺へ、まずは立ち寄った。この寺院はムンバイのビルラ財閥によって創設された。

    実は、ムンバイに住んでいるときには一度も訪れる機会のなかった日本山妙法寺だが、2011年、初めて訪問し、森田上人とお会いした。

    「日本山妙法寺」とは、日本山妙法寺大僧伽(にっぽんざんみょうほうじだいさんが)と呼ばれる日蓮系の宗教団体のお寺。この宗教団体は、1917年、藤井日達によって創始された。世界各地で太鼓を叩きつつ平和行進を続けていることでも知られている。

    わたしの父方の祖母が日蓮宗、ことに藤井日達上人の熱心な信者であったこと、また福岡県糟屋郡久山町にある仏舎利塔の建設に際し、建設会社を営んでいた亡父がお手伝いをしたことなどの背景があることから、わたし個人は信者ではないものの、日本山妙法寺とご縁があった。

    その詳細に関しては、2年前の記録に残している。また、昨年訪れたスリランカのゴールでも、日本山妙法寺を訪れた経緯がある。

    ■絆が見えた日。父と、仏舎利塔と、日本山妙法寺:2011/5/4

    ■海へも行かずフォート。夕暮れ南無妙法蓮華経:2012/1/27 

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    今回、2度目にお会いする森田上人。最初にお会いしたときにも、ゆっくりお時間をいただいて、いろいろなお話をさせていただいた。森田上人は、非常に溌剌とお元気で、気さくな方である。我が祖母と信仰の話題に始まり、インドでの暮らし、わたしの仕事、インドに暮らす日本人のこと、そして過去の日本人のことなど、さまざまな話題を語り合ううちにも、瞬く間に時間が過ぎてゆく。

    今回はまた、わたしが日本に帰国した際、実家に残されていた祖父母のアルバムから、日蓮宗に縁のあるものを数枚、インドに持って来ていたものをお見せしたのだった。

    その中の一枚、昭和14年に熊本県の花岡山行勝寺で撮られた一枚の写真が、森田上人がお持ちの、信者の方の自費出版の冊子の中に見いだされ、二人して、深く感じ入る。

    当時は福岡県に暮らしていたはずの祖母が、熊本の花岡山まで訪れ、藤井上人はじめ信者の方々とともに、一枚の写真におさまっているのが認められる。写真から、若かりし祖母を見つけるヒントとなるのは、その「なで肩」で、それがわたしにも引き継がれていることが血縁。古い写真に思いは巡る。

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    森田さんは、現在、藤井上人の足跡をまとめるべく、写真などの資料をお集めになっているとのことで、これらの写真は後日、きれいにスキャンをしてキャプションを添え、お渡しする予定である。

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    これは、我が七五三のときの写真。このときわたしは、慣れない着物が気持ち悪くて、始終泣き、大人たちを困らせたことを覚えている。

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    晩年は恍惚の人となって久しく、数年前に他界した祖母。このころはまだ50代だろう。若い。母も若い。そしてわたしも超若い。が、今とあまり変わらない顔をしている気がする。ちなみに、幼児期のわたしは、体格もよく、男子のようであった。

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    祖父母とお出かけ、といえば必ず訪れていた福岡市の東公園。ここには日蓮像があるのだ。日蓮さんはさておき、わたしは「ハトに餌をやる」のが好きで、喜んでついて行っていた記憶がある。思えば祖父は、機械が好きだった。当時、上質のカメラを携え、折に触れてわたしたちを撮影していた。新しもの好きでもあり、ナショナル(松下電器)の商品を愛用。電子レンジやヘアドライヤー、ミニカセットレコーダーなど、新製品が出るたびに購入していた。昭和40年代のことだ。

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    祖父とわたしと、妹と。少々成長しても、まだハトに餌をやるのを楽しんでいる模様。素朴な時代だ。

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    個人的な記録はこの辺にしておこう。

    さて今回、日本山妙法寺を訪れたあと、そこから1キロほど離れた場所にある「日本人墓地」を訪れた。その存在を知ったのは、2年前。しかし訪問するのはこれが初めてである。

    ウォルリの、ショッピングモールや高級ホテルとスラムが混沌と共存するエリア。フォーシーズンズ・ホテルの真向かい。道路に面しているわけではなく、低所得者層の暮らす古びたアパートメントビルディングの門をくぐり、その裏手へと向かわねばならない。そこに、ひっそりと、その墓地(墓石)はあるのだった。

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    上の写真は、スラムの中に屹立するフォーシーズンズホテル。そして左下の写真が、墓地に連なるアパートメントの入り口。

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    同行してくれたのは、大学を休学してインドに来訪、日本山妙法寺にしばらく滞在して奉公されている日本人女性のアヤメさん。太鼓を叩きつつ、「南無妙法蓮華経」と唱えながら、墓地へと赴く。

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    墓地自体は、1908年に設置され、この墓石は1933年に立てられたという。「供養塔」とある。

    100年以上前、この地に3000人ほども暮らしていたという日本人。最初に訪れたのは「からゆきさん」で、そのほか、「綿」の貿易に関わる仕事に携わる人々などが、この国際都市を訪れていた。この地で命を落とした人々のほか、第二次世界大戦中、捕虜になっていた日本兵の御霊も祀られている。

    こんなにも、ひっそりと。

    墓石の側面には、亡くなられた人々の名前が刻まれている。名前は祀られている人の一部だと思われる。

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    敷地内にある御堂。中には仏壇があり、戦没者の霊も祀られているが、寂れている感は否めず。墓守の女性がいて、手入れをしてくださっているが、しかし蜘蛛の巣があるなど掃除が行き届いている様子はなく、少し、心が痛む。ともかくは、自宅から持参した日本のお線香を焚いて、手を合わせる。

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    墓石と向かい合うようにして立つ、日本山妙法寺の宝塔。威風堂々と。

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    ムンバイ滞在の最終日、改めて、日本山妙法寺を訪れた。折しもその翌日、5月25日は仏陀の生誕祭であったので、そのお供えのマンゴーをカゴに詰めて、日本山妙法寺へお持ちした。そして、花のない墓石が寂しかったので、改めて花を手向けに、日本人墓地へ。墓石を水で清め、花を添え、線香を焚き、手を合わせる。心が澄む。実は5月27日は亡父の命日でもあったので、日本へ帰れぬわたしは、ここで、父の命日を祈らせてもらったのだった。

    異国の地にあって、母国に縁のある場所で、こうして祈りを捧げられるということは、本当にありがたいことだ。異郷に暮らしながらも、ささやかに、しかし確実に、ひとつの心の寄る辺のようなものが、ここにあるような気がして、とてもうれしい。

    またムンバイを訪れる際には、ここへ立ち寄りたいと思う。もっと多くの方々にも、この日本人墓地の存在を知っていただけたなら、とも思う。この墓地の存在を知ることで、日印の歴史の一端をまた、知ることもできるのだ。実はそのことが、また非常に興味深いものである。

    以下、明治維新以降、この墓地が作られるまでの日印の関連について、資料から拾い上げて見た。この簡単な年表を見るだけでも、当時の様子が透けて見え、非常に興味深い。

    1868年:[明治維新]
    1868年:ジャムシェトジー・タタが綿貿易会社を創業(タタ財閥の母体)

    1877年:日本へのインド綿糸輸入が増加

    1882年:大阪紡績設立

    1889年:日本のインド綿業視察団がインドを訪問

    1893年:ジャムシェトジー・タタ訪日
    1893年:日本郵船がボンベイ〜神戸間航路開通
    1893年:三井物産がボンベイに出張所を開設

    1894年:[日清戦争勃発]
    1894年:在ボンベイ日本国領事館開設
    1894年:横浜正金銀行がボンベイ支店開設

    1902年:岡倉天心がインドを訪問し、ラビンドラナート・タゴールと親睦を深める

    1903年:東京に日印協会が設置される
    1903年:タタ財閥がボンベイ(ムンバイ)にタージ・マハル・ホテルを創業

    1904年:[日露戦争勃発]

    1907年:在カルカッタ日本国領事館開設

    1908年:ボンベイに日本人墓地が設置される

    ムンバイの日本人墓地の100周年にあたる2008年を記念し、ムンバイの日本人会がその記念誌を発行している。非常に読み応えのある冊子だ。どの方が書かれた記事も、それぞれに、学ぶところ多く、 わたしもたいへん勉強になった。

    幸いにも、ムンバイ日本人会のサイトに内容がアップロードされているので、ネット上でも読むことが可能だ。インドに暮らす方々は特に、知っておいて損はない事柄だと思われる。

    下記、お時間のあるときにでも、ご一読をお勧めする。

    『西海の地に眠る大志と孤愁』

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    それにつけても、と思う。自分が生まれる以前からの縁が、今の自分に映し出される。

    わたしが、ミューズ・クリエイションの活動などを行っているお話をした折、森田上人が、

    「わたしたち、同じようなことをしてますね」

    と、ありがたくも畏れ多いお言葉をくださった。森田さんが数十年に亘ってこの地でされてきたことを思えば、わたしが行っていることなど、足下にも及ばぬことは承知している。

    更には、信心深いわけでも、慈悲の心に富んでいるわけでも、私欲がないわけでもなく、ただ、「衝動を優先で」行動しているわたしではあることも、重々自覚している。しかし、敢えてそのことをここに記すのは、そのような言葉をかけてくださる方のお心の広さが切にありがたく、うれしかったからだ。

    そのお言葉が契機となり、わが気持ちが格段に引き締まり、そして、少しでも世の中の役に立つことをしていこう、という思いを新たにさせられる。褒められて伸びる。喜ばれると張り切る。まるで子供のようではあるが、まさにそれだ。

    もちろん、自身の矜持を保つためには、少なくとも今のわたしは、ビジネスとしての仕事を継続して行くことは必要で、これからも慈善活動と並行して行うつもりだ。しかし、それを前提としながらも、たとえ微力であったとしても、日印の間を結ぶためにできることを、模索していきたいものだと、痛感するのだった。

    本当に、いい旅だった。

  • Hh06

    久しぶりに、のんびりとした週末を迎えている。大きな仕事の山を乗り越えて、あとは4月中旬からのニューヨーク行きを控え、中小の山をいくつか残すのみ。

    先週は、かなり濃い1週間であった。仕事の締め切りが迫っているなか、夫が「来月、米国へ行く前に、物件の購入手続きをしたいから、下見に行こう」と言うのだ。

    インドにおいて、不動産への投資は資産運用の典型的な在り方だ。数年前から、バンガロールにもう一つ不動産購入をしたいと夫は言っていたのだが、なんとなく、そのままになっていた。

    その間にも、バンガロール市街、そして郊外には驚くほどの勢いで、アパートメントビルディング、ゲーテッドコミュニティなどが続々と誕生している。今回、周囲から諸々の情報を得た夫は、目的のエリアの地価が近々値上がりするため、急ぎたいようである。

    ところでゲーテッドコミュニティ (Gated Community) とは、「ゲートによって囲われた広大な敷地内」に一軒家が建ち並ぶ住宅街だ。関係者以外は内部に立ち入れない分譲住宅地、といったところか。

    個人的には、インドであってインドらしくない、米国的なその居住区に暮らすことに関心がなかった。わざわざ米国からインドに引っ越して来て、なにゆえ、米国的な場所に暮らす必要があろうか、との思いがあったからだ。しかし、2軒目なると話は別である。管理面なども考え合わせるに、ゲーテッドコミュニティは無難な選択だ。

    現在、わたしたちが暮らしているのは、バンガロール市内の比較的利便性の高い立地にある低層アパートメントビルディング。約40世帯と小規模な上、我が家は庭のある1階の角地に位置しているため、樹木に囲まれ、市街の喧噪から遠く、一軒家に暮らしているかのような環境ではある。

    もう一軒を購入するのであれば、いずれ自分たちが住まうことも考え、現在急速に開拓が進んでいる市街北部の空港界隈がいいのではと、そのあたりの物件をあたることにしたのだった。

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    インドでは、不動産投資は一般的だと記した。しかしその管理は、非常に困難だ。

    まず、土地だけを購入した場合。目を離したすきに、ゴミの山になる可能性は高い。スラムが立ち並んだりすることもある。長い間放置していたら、いつのまにかハイウエイの橋脚が立っていたりする。

    土地を購入するにも、ここには書き尽くせない諸々があるので、割愛する。

    では一軒家はどうだろう。これを人に貸す、ということについても、多大なるリスクがある。貸したが最後、出て行かない住人が発生することも、普通にあるからだ。

    夫曰く、インドには、「強制退去」を執行するべく法が定まっていないらしい。詳細は不明だが、ともあれ、住み着かれたら最後なのである。だから、借りる人の素性を確認するのも重要な仕事のひとつなのだ。

    デリーの郊外にファリダバードという町がある。ここには、夫の祖父が残してくれた一軒家がある。しかしこの家も、誰に貸すでもなく、すでに20年ほども、使用人が住み続けるばかりである。

    あのあたりの土地も当時に比べれば高騰しているゆえ、敢えてリスクを冒して人に貸すより、ただ守っていた方が賢明だというわけだ。

    夫も、もしも家を貸すならインド人ではなく、「絶対にいつかは帰任する駐在員に貸したい」と言っている。

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    面倒なのはそれだけではない。家屋のメンテナンスの手間は、先進国のそれからは想像を絶するほどに、煩雑だ。わたしも折に触れて、過去のブログで記してきたが、まずは生活インフラストラクチャーの問題。

    停電、漏水、その他諸々、たとえ高級物件であっても、問題がない物件などはまずありえないと考えた方がいい。一軒家ともなると、そのメンテナンスが非常に手間であるのに加え、セキュリティの問題もある。

    諸々を考え合わせた上で、現在、開発中、あるいは開発予定のゲーテッドコミュニティを当たってみたのだった。

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    実質1日半の間に、異なるデヴェロッパー(開発会社)による、4つのゲーテッド・コミュニティを巡った。あるところはモデルルームを見、あるところは、建築中の内部を見、諸々、いい経験だった。

    バンガロールの人口がこの十年で倍増したことは、ここでも幾度か記した。それだけでも、とてつもない変化であるのに加え、急速な近代化に伴うライフスタイルの変化も同時進行している。

    都市開発による樹木伐採などの自然破壊、電力不足に水不足、ゴミ処理問題、道路工事の不備、各種公害、各種インフラストラクチャーの不全、スラムの増加(現在バンガロール市内の人口の30%以上がスラム居住者)……。社会問題を挙げれば枚挙に暇がなさ過ぎる。

    そんな中、この市街北部、空港周辺のエリアも将来、深刻な水不足が懸念されている。そのようなリスクをも考え合わせた上で、デヴェロッパーが果たしてどのような対策を講じているかを聞き出す必要もある。

    バンガロールの水問題について語るとまた長くなるが、ともあれ、隣のタミル・ナドゥ州とカヴェリ川の水源使用の権利を巡って、十年以上対立しており、楽観的な見通しは立っていない。

    さて、今回見て回った物件は、平均して4〜7千万ルピーで売りに出されていた。まるでリゾートホテルのごとき物件に至っては、2億ルピーを超えるものもあった。この郊外で、この値段。予測はしていたが、不動産の上昇率には本当に驚かされる。

    現在、我々が住んでいる物件でも、この5年間で倍近く上昇している。ちなみに、それ以前の20年間で、地価は100倍上昇していたのである! 

    それに伴い、貧富の差は激烈に広がるばかりだ。

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    そんな高級物件が売れているのか、と思われよう。それが、驚くほどに、瞬く間に、売れているのである。

    インド財務省の発表によると、インド全国で年収1千万ルピー(約1,700万円)以上は4万1000世帯だという。夫からその話を聞いて、二人して呆れつつ、憤ったものである。人口12億人のこのインド。そんなに少ないわけがない。

    いかに、ブラックマネーが横行しているか、納税していない人が大勢いるかを顕著に物語っている。インド全国で、現在どれほどの高級外車が販売されているか。高級不動産物件が売れまくっているか。その数を全部合わせれば、そんな統計がいかに真実から離れ、実践的でないかがわかるだろう。

    インドほど、不正が主流の国はほかになく、不正の数字に拠るか拠らぬかわからねど、経済やらなんやらが、回っていることが、本当に奇跡のように思えてならない。

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    投資物件として不動産を購入する人の多くは、物件を深く吟味することなく、販売情報が公開されると同時に、広告などが出る以前に購入するのである。そして数年後に転売する。

    購入者のバックグラウンドもまた、興味深いところであるが、その点に言及すると話が終わらないのでこのへんにしておく。

    わたしはといえば、あちこちの物件を巡り、間取り図を見、建築物のクオリティを細かくチェックし、素材などについてもあれこれと質問し、情報を得続ける間にも、最早、自分がいったい何をしているのかわからなくなってくる。

    そんな高級物件が売れているのか、と思われよう。それが、驚くほどに、瞬く間に、売れているのである。

    インド財務省の発表によると、インド全国で年収1千万ルピー(約1,700万円)以上は4万1000世帯だという。夫からその話を聞いて、二人して呆れつつ、憤ったものである。人口12億人のこのインド。そんなに少ないわけがない。

    いかに、ブラックマネーが横行しているか、納税していない人が大勢いるかを顕著に物語っている。インド全国で、現在どれほどの高級外車が販売されているか。高級不動産物件が売れまくっているか。その数を全部合わせれば、そんな統計がいかに真実から離れ、実践的でないかがわかるだろう。

    インドほど、不正が主流の国はほかになく、不正の数字に拠るか拠らぬかわからねど、経済やらなんやらが、回っていることが、本当に奇跡のように思えてならない。

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    結論からいえば、わたし自身は「投資として」などという発想はできないということだった。家を見るとき、自分が住みたいと思えるか否か、その視点がない限り、探そうという意欲もわかない。

    そういう意味で、豪奢な建築物よりも、環境を重んじた物件に心をひかれる。夫ともその点では意見が一致した。そういうクオリティ重視のデヴェロッパーがあることを、今回知ることができただけでも、意義深い経験であった。

    参考までに、ここに特徴のあった物件のリンクをはっておきたい。まず最初、こちらはエンバシーと呼ばれる開発会社が手がける最高級のゲーテッドコミュニティ。モデルルームへ入るにも、靴を脱ぐか、靴にカヴェーをかけるかの徹底ぶり。

    内装のほとんどが先進国から輸入されたものでまとめられている。高級リゾートに住んでいるかのような雰囲気だ。興味深く見学したが、個人的には、住みたいという気分にはならないプロジェクトであった。という言い方も、ずいぶん偉そうではあるが。

    居住面積は4,000〜7,000スクエアフィート。広大な庭を備える物件も見られる。Villasの文字をクリックすると、各物件の内部写真が見られる。

    ■EMBASSY BOULEVARD (←Click!)

    あともう一つ。これは、個人的にかなり気に入ったデヴェロッパー。上部後半の3枚の写真と、下の写真がそれだ。ファミリーフレンドのラナが、自分たちも別のエリアに購入したといって紹介してくれたもので、住宅開発を環境面を重んじながら行っているというコンセプトに感銘を受けた。

    なお、上の写真は東部郊外のホワイトフィールドにすでに完成している物件で、参考までに見学した次第。ほとんどが売却済である。

    内装などもオーダーメイドで一貫して引き受けてくれるという。

    (インドにしては)高品質のレンガを用いた外観。広々とした窓(バンガロールの場合、南向きだと暑すぎるので注意が必要)。ソリッドウッド(天然木)を使用した家具……。

    フランク・ロイド・ライトのプレイリースタイルを思わせる。また、緑がふんだんに配された建物などは、昨年訪れたスリランカの、ジェフリー・バワの建築を彷彿とさせる。物件によってクオリティにもばらつきがあるようだが、非常に興味深い出合いであった。

    下のサイト、ProjectsのResidentialをクリックすると、手がけられている物件が見られる。

    ■TOTAL ENVIRONMENT (←Click!)

    スクリーンショット 2022-02-02 午後11.21.11

    「半年はお試し期間」と、夫は言いながら、暮らし始めたインドで、8回目の夏を迎えている。今年の夏は、今までで一番暑く、この先、この年の環境がどんどん変わるであろうことが予想される。

    ガーデンシティ、エアコンシティの面影は消えゆき、いったいわたしたちは、この先どれほどの間、ここに暮らすのかさえもわからない。ただ、一年を通して行動しやすい気候にあるこの地は、暮らしの拠点にするには非常に便利だ。

    そんなこんなに思いを巡らせつつ、しかし、この先、この地で自分はなにをしたいのか、将来の方向性さえ見定めるのが難しくなるほど、インド世界は「家」という一つをとっても、考えさせられる、決して軽くないテーマだ。

    夫はともあれ、わたし自身の行く先は、やはり社会貢献であると、このバブリーな世界を目の当たりにしつつ、思うのだった。

    今はただ、自分の見識を広げるという点において、さまざまな世界に関心を持つことは悪くないだろう。と、自分に言い聞かせつつ。

    足るを知る。身の丈を知る。

    我が座右の銘が、脳裡で虚しく鳴り響いている。

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    あなたの行う行動がほとんど無意味だとしても、それでもあなたは、それをやらなければなりません。

    それはあなたが世界を変えるためではなく、あなた自身が世界によって変えられないようにするためです。

    (マハトマ・ガンディ)

    ■逆説の戒律 マザーテレサの座右の銘

    (ケント M. キース)

    人は、不条理で、理不尽で、自分勝手だ。
    さあれど、人を愛せよ。

    善を行えば、利己的な下心があるはずだと責められよう。
    さあれど、善を行え。

    成功すれば、偽りの友と、真の敵を得るだろう。
    さあれど、成功せよ。

    今日の善行は、明日には忘れられよう。
    さあれど、善を行え。

    率直で正直な姿勢は、人を無防備にするだろう。
    さあれど、率直で、正直であれ。

    壮大な構想を持つ偉大なる男女は、
    狭小な考えに囚われた卑小な男女に撃ち落とされるかもしれない。
    さあれど、大きく考えよ。

    人は弱者に親切だが、しかし、強者にのみ従う。
    さあれど、弱者のために闘え。

    歳月をかけて築いたものが、一夜で破壊されるかもしれない。
    さあれど、築け。

    真に助けを望む人を助けたにも関わらず、彼らに攻撃されることさえもある。

    さあれど、人々を、助けよ。

    力の限りに献身しても、ひどい目をみることもあろう。
    さあれど、力の限りに献身せよ。

    (訳:坂田マルハン美穂)

    The Paradoxical Commandments (by Dr. Kent M. Keith)

    People are illogical, unreasonable, and self-centered.
    Love them anyway.

    If you do good, people will accuse you of selfish ulterior motives.
    Do good anyway.

    If you are successful, you will win false friends and true enemies.
    Succeed anyway.

    The good you do today will be forgotten tomorrow.
    Do good anyway.

    Honesty and frankness make you vulnerable.
    Be honest and frank anyway.

    The biggest men and women with the biggest ideas can be shot down by the smallest men and women with the smallest minds.
    Think big anyway.

    People favor underdogs but follow only top dogs.
    Fight for a few underdogs anyway.

    What you spend years building may be destroyed overnight.
    Build anyway.

    People really need help but may attack you if you do help them.
    Help people anyway.

    Give the world the best you have and you’ll get kicked in the teeth.

    Give the world the best you have anyway. 

  • FALAK06

    ■姫気分は遠く、余韻にすがりつつの今週は。尽きぬ旅情。旅せよ若者。

    ファラクヌマ・パレスの旅から、早くも1週間が過ぎてしまった。

    旅の余韻に浸るまもなく、流れるように平日。しかし、コンピュータのスクリーンの写真を宮殿ホテルの一葉に差し替えたりと、心は未だ、ファラクヌマ状態だ。

    今年に入ってからは、スリランカといいカシミールといい、鮮度も高く、再来訪を願う旅に恵まれている。しかし、実際に、二度三度と訪れられることは、稀なことであると、最近は痛感する。

    未踏の地を訪れたい思いもある。休暇の調整もある。年に一度は必ず米国へ訪れねばならぬし、日本も気になる。

    このごろは、欧州に出かける頻度が低く、旅情は募る。

    そんなことを思うにつけ、20代から30代の前半にかけて、公私に亘り、取り憑かれたように旅をしていて、本当によかったと思う。

    若いうちの旅とは、本当にかけがえのないものであると、それは常々感じていることであり、若者よ、旅に出よ。との思いは強く。

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    ナルシスト。と呼んでくれ。

    最早、なんと思われてもよし。自分で写真を見ながら、

    「ああ、すてき。サリーと部屋のインテリアが調和がたまらん……」

    などと思うのだから。このサリーは、ムンバイの老舗サリー店、KALA NIKETANで購入したバラナシ・シルク。

    ワクワク動物柄が個性的なサリーなのだ。上の写真、拡大していただくとわかるが、布の光沢、陰影が、なんともいえず、美しいのだ。

    特にパルー部分(サリーの肩から背後に落ちるヒラリとした部分)の、渋みのある金糸の色合い、光沢が味わい深い。

    米国在住時、LUCKY BRANDかリーバイスのジーンズと、J.CREWの無地のTシャツばかり愛用していたわたしが、こんなことになろうとは。

    切に恐るべし、インド。である。

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    月曜日は、夫婦して待ちに待っていた「トレッドミル」が届いた。庭の改装工事が終わり、トレッドミルを置く場所が確保できたからだ。

    トレッドミルとは、ジムにある「走る装置」である。トレッドミルで走ると、どうにも「回し車で走るネズミ」を連想し、同時に三半規管が弱いわたしは、走行後に軽く目が回るので、あまり好きではなかった。

    しかし、ここはインド。

    マンハッタン在住時には、セントラルパークでウォーキングを、ワシントンD.C.在住時には、お向かいの国立大聖堂やご近所の散策を楽しめたが、我が家の近所にそんな公園はない。

    夫は毎朝ヨガをやっているが、心身の健康を保つに有効とはいえ、ヨガでは痩せない。

    わたしも以前は数日に一度、ヨガをやっていたが、このごろは、怠りがち。

    朝は弁当の準備やらなんやらかんやらで、なんだか気ぜわしく「早く一日を始めたい」というせっかちな思いが精神集中を阻むのだ。

    そもそも、学生時代にバスケットボールで腰を痛めて以来、ジョギングは避けていたが、早歩きが好きであった。

    時速6.5~7km程度の速度で早く歩くのは、心身が活性化されるようで非常に気分がいいのだ。

    しかし、このごろはその単純な早歩きさえもままならず、やっぱりトレッドミルしかないだろうか……とは思っていた。

    契機は数カ月前。マンハッタンを訪れた際、パレス・ホテルに滞在した時のことだ。

    眺めがワンダフルなジムだったこともあり、毎朝通っては、トレッドミルでエクササイズをしたところ、夫婦揃って、「これはいいんじゃないのか」という結論に達した。

    なにしろ、「汗をかく」のが気分いい。

    早歩きや斜面歩きも自由自在。雨の日も風の日も、天候に左右されず使用できる。

    それにしても、パレス・ホテル。滞在時は「すてき♥」と思っていたが、今、写真を見たら、「ま、悪くないわね」くらいにしか、思えない。

    恐るべし、ファラクヌマ効果。

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    ■インドを語る。今回は、大学生を対象に。

    のちのち、我が家の庭の「工事前/工事後」をご紹介しようと思うのだが、取り敢えず、火曜日の一枚を。

    朝、一番に日が差すのが、仏像の背後だというのが、ワンダフルだ。仏陀の背後に後光が射す感じがすてき。

    で、左上の写真は、久しぶりに黒を着る我。インドの柄物色物満載な衣類を着慣れていると、久々のシンプルが気持ちいい。

    思えば、スーツを着なくなって久しく、急にスーツを着てみたくなる。

    スーツというのは「できる女。」な気分を盛り上げてくれる服である。気持ちまで、きりりと引きしまる。久々に着てみたいと思うが、このインド生活において、スーツを着る機会はほとんどなく。

    クライアントを案内する際にも、むしろ「インド・デザイナーズ」をアピールしたく、インドのファッションを着用することが大半。

    レクチャーの際には、日本でもインドでも、サリーを着用して、雰囲気を盛り上げる。

    実に、スーツ着用のチャンスがない。

    ちなみにこのバッグは我がお気に入り。コルカタの昔の写真がプリントされたもの。ニューデリーのハウズカースで、この4月に購入したものだ。

    詳しくは、こちらを参照されたい。

    思えば今年は、デリーへも頻繁に訪れたい、などといっておきながら、結局4月に訪れたきり。

    デリーの実家の1フロアを改装して、別宅にする計画を立てていたのだが、今年はもう、バンガロール宅の庭改装工事で尽きた。

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    前置きが長くなったが、今回のレクチャーの対象は、日本からバンガロールへ2週間の研修に訪れている大学生6名、及びインターン生2名。

    学生たちを斡旋している会社からの依頼で受けた仕事で、先方の要望は、主に「インドの食生活」に関するレクチャーであった。

    しかし、インドは食生活を語る前にも、まずはこの国の概要をレクチャーする必要がある。

    レクチャーの時間は、質疑応答を含めて2時間半。

    絶え間なく語り続けても、時間は足りない。まだまだ伝え足りないことばかりで、インドとは実に無辺世界だと、レクチャーを行うたびに、毎度思わされる。

    わたしが初めて海外(米国西海岸)を訪れたのは、20歳のときだった。

    あのときの衝撃は、言葉には尽くせぬほどに強烈だった。あの旅の延長線上に今のわたしが在る。

    だからこそ、学生たちには、その吸収力抜群の脳みそで、怒濤のように語るわたしの話を、ぐんぐんと吸い込んでもらいたく思った。

    わたしは、20歳の時に初めて渡米して体験した出来事を、今でも克明に覚えている。そして、心に深く刻まれている。

    IMG_0354←ところでこちらは、1985年のミポリン。

    「1986年のマリリン」 BY 本田美奈子.とかけてみたのだが、わかる人は少なかろうと、敢えて注釈を書く哀しさよ。

    画像調整せずとも、すでにセピアがかった写真が歳月の流れを物語る。

    この味わい、デジタルでは出せないというものだ。

    それはそうと、このときのことは、今でも鮮明に思い出せる。

    カリフォルニアの空の青さが、目に、心にしみたものである。

    というわけで、彼らにとってもきっと、わたしとの出会いは、心に残るに違いない。若いころの記憶とは、本当に尊いものだから。

    10年後、20年後、たとえわたしの名前は忘れても、

    「そういえば、あのときインドで、やたら熱く語る人に出会ったなあ」

    ということは、忘れないはずだ。だからこそ、大切に伝えたいし、大切に語りたい。そして、その対象は、できれば熱意を持っている人たちであってほしい。

    レクチャーの際、同様のテーマを語る際には、すでにあらかじめ作っておいた資料に手を加えたパワーポイントを用いる。

    しかし、似通った資料を用いていても、当然ながら相手によって、話す内容を変える。

    今回は、大半が初めてのインドである。彼らの基礎知識や熱意、また理解力がどの程度なのか、会ってみるまではわからない。

    同じ話の内容でも、その広がり、深度は、相手のニーズによっても調整せねばならない。

    今回の場合は、レクチャーの最中、彼らの様子を見て、かなり理解してくれていることを実感できたので、途中からはかなり濃密に、深度も掘り下げて語ったのだった。

    相手が熱意を持って聞いてくれているのがわかると、こちらも熱が入る。

    そういう意味で、相手の様子を確認できる人数(10人程度)の前で話すのは、こちらにとっても非常に勉強になると実感した。

    学生たちからは、その会社を通して、感想のメールが届いた。これはまた、わたしにとっても勉強になるし、非常にうれしいことであった。

    レクチャーの仕事は、今後インド国内においても、本格的に増やして行こうと思っている。と以前も書いた気がするが、もっと積極的に。というわけで、また改めて告知したい。

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    なんだか、前半で飛ばしすぎたので、もう、書く気力が失せてしまった。毎年訪れているDASTKARというクラフトバザールのことを書こうと思ったが、見送る。

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    ■ミューズ・クリエイションの活動も、わが日常になじみ。

    こちらは昨日、金曜日に開催したサロン・ド・ミューズの一こま。

    当初、参加の連絡が5名と少なかったので、軽いお菓子を用意しておこうと思っていたが、前夜になって急に「連絡が遅くなりました!」と10名超の連絡。

    5人と15人とじゃ、えらい違いですからね。

    人数が増えると、やっぱり、何か作りたいわ。という気になってしまうわたしの勝手な都合でもあるのだが。

    そんなわけで、参加者の方は、せめて前日の午前中までにご連絡を! 

    ともあれ、冷凍していたタルト生地で、急遽、バナナのタルトを作った。卵や牛乳、バターやフルーツは、幸い、ストックがあったので、ノープロブレム。

    更に今回は、ゲストからのお土産のお菓子もあれこれと、賑やかなティータイムとなった。

    サロン・ド・ミューズは、飲み食いの会ではないのだが、しかし作業の合間の、おしゃべりをしながらのティータイムは、楽しいひとときでもあるのだ。

    ということに、会を重ねるごとに実感している次第。

    右上の写真は、我が家に隣接しているアパートメント・ビルディング。ここには日本人の駐在員家族が多数、暮らしているようだ。

    「うち、あそこなんです!」

    と指差しているの図。玄関が別の道路に面しているため、ぐるっと迂回して訪れねばならず、こんなに近いと気づかない人も多い。

    塀をぶち破って専用通路を作れば、徒歩1分弱なんだけどね。

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    ■大繁盛のジャーマン・カフェ(CAFE MAX)でランチ。

    今日は、アーユルヴェーダでマッサージのあとに、先日ご紹介したCAFE MAXへ。夫もぜひ「かたつむりシェイプのソーセージを」ということで、張り切って訪れた次第。

    ところが、たいへんな繁昌ぶりで、満席。カウンターでしばし待ち、テーブル席を得た。

    今日はソーセージとお勧めのビーフ、そしてパスタを注文。

    ビーフは思ったほどの味ではなかったが、やはりかたつむりなソーセージは美味だった。家庭的なペペロンチーノもおいしかった。

    この次は、他のお勧め料理、ミートローフやサーモンにトライしてみたい。一人でも訪れやすいこの店。この込み具合を見るに、平日が狙い目だ。

    ■新装開店Cafe Maxで地産地消のドイツを味わう。 (←Click!)

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    気がつけば9月5日。週明け早々、なんやかんやで慌ただしく、週末の「姫気分」がすっかり忘却の彼方となりつつある。

    あの素敵な体験は、記録に残さずにはいられないものなので、急ぎまとめておこうと思う。

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    先週の金曜から日曜にかけての週末、ハイデラバードに昨年オープンした宮殿ホテル、「タージ・ファラクヌマ・パレス TAJ FALAKNUMA PALACE」に滞在した。

    まさに、「姫気分満喫」の2泊3日であった。

    一般庶民に、ここまでプリンス&プリンセスな気分を楽しませてくれる場所が、ほかにあるだろうか。

    いやない。

    と、自分に問いかけずにはいられないほど、実に優雅な時間を過ごせたのだった。

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    夫は、会社関連の行事で、昨年末、ここを訪れていた。

    ニューヨーク本社、ムンバイ、バンガロール支社の面々が、年に数回、インド国内に結集し、ビジネスミーティングと親睦を兼ねた会を設けているのだ。

    日本でいうところの「慰安旅行」のようなものであろう。

    彼からホテルの詳細を聞き、「行きたい! わたしも行きたい!!」

    と切望していたところ、夫の計らいで、我が誕生日の週末を宮殿ホテルで過ごすことになった次第。

    ハイデラバードは、バンガロールと同じ南インド、デカン高原にある都市。バンガロールよりも北部だが標高が低いため、かなり暑い。

    気温が上がる4月以降、ホテルはオフシーズンに入っているのだが、幸いモンスーンのあと。気候も比較的穏やかで、過ごしやすい滞在だった。

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    タージ・グループは、インド国内のいくつかの宮殿を、マハラジャ一族との共同事業により大々的な改装を行い、ホテルとして生まれ変わらせている。

    このホテルもまた、10年もの歳月をかけてリノヴェーションされたもので、2010年11月にオープンした。

    ハイデラバードのバックグラウンドを語らずして、このホテルについても語れぬのだが、書き始めると尽きない。

    今日のところは写真を中心に、最小限の情報だけを記しておこうと思う。

    なお、今回はホテルにチェックインしたあと、一歩も外へ出ることなく過ごした。ハイデラバードの街については、過去2007年に訪問した際の記録があるので、それをご覧いただければと思う。

    写真に添えて、情報もかなり載せている。

    ●ハイデラバードで小さな旅 (←Click!)

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    ハイデラバードのあるアンドラ・プラデーシュ州はムスリム(イスラム教徒)が多い土地としても知られている。

    この地は、1724年から、インドの独立直後の1948年まで、「ニザーム王国」あるいは「ニザーム藩王国」と呼ばれる、インド亜大陸最大の藩王国だった。

    他の藩王が「マハラジャ」と呼ばれるのに対し、この地の藩王は「ニザーム」と呼ばれていた。

    英国統治時代には、政治的に英国の影響を強く受けていたとのことである。歴代ニザームの中には、世界で一番の富を誇っていた人もあったとのことで、その豊かさが偲ばれる。

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    この宮殿が完成したのは、1893年。当時、ハイデラバードには35もの宮殿があり、この宮殿はその一つに過ぎなかったようだ。

    しかし、ハイデラバードの町並みを一望する小高い丘の上の立地という点においても、中心的な存在であったに違いない。

    なお、この宮殿は、建設時のニザームの星座に因んで、サソリの形をしているという。この正面が頭部。客室が胴体で、尾の先端部分がダイニングエリアとなる。

    さて、ハイデラバードが富裕であった理由の一つは、ダイヤモンドにある。

    インドは、18〜19世紀に南アフリカやブラジルでダイヤモンドの鉱脈が発見されるまで、唯一のダイヤモンド産出国だったらしい。

    中でもハイデラバードの、とくにゴルコンダは優良なダイヤモンド鉱山だったとのことで、エリザベス2世の王冠に輝く巨大なダイヤモンドも、かつてこの地で採掘されたものらしい。

    現在は、ダイヤモンドは産出されていないようだが、真珠の集積地として世界的に有名。世界各地で穫れる真珠がここに集められ、加工されている。

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    上の写真は、かつてワシントンD.C.のスミソニアン博物館群の国立自然史博物館にて、撮影したもの。

    ホープ・ダイヤモンドだ。

    これを手にした人は不幸に見舞われるという、呪いの伝説をも持つ世界最大のダイヤモンドである。このダイヤモンドが発掘されたのも、ここ、アンドラ・プラデーシュ州だと言われている。

    詳しくは下記を参照されたい。

    ●ホープ・ダイヤモンド (←Click!)

    この宮殿は、6代目ニザーム、ミール・マフブーブ・アリ・カーンの邸宅として建てられた。

    8代目ニザームであるムカラム・ジャー(1967年死去)の妻、プリンセス・エスラは存命で、この宮殿ホテルの10年に亘るリノヴェーションに大きく貢献したとのこと。

    ホテルのブティックで購入したこの本の冒頭にも、彼女からの言葉が寄せられている。

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    バックグラウンドを調べているときりがないので、このへんにしておく。さて、以降は、2泊3日の様子を写真を中心に紹介したい。

    なお、今回は、ゆっくりとホテルに滞在する心づもりで、写真も最低限の撮影にとどめようと思っていた。従っては、バッテリーチャージャーも持参していなかった。

    ところがもう。

    初日から、阿呆のように写真を撮りまくってしまい、バッテリーが尽きてしまう次第。数多くの写真から、一部を選んだつもりだが、それでも膨大な量となってしまった。

    ちなみに、館内の撮影は、宿泊客のみに許されており、レストランの利用者や観光客は外観しか撮影させてもらえない。

    なお、今後、このファラクヌマ・パレスへ訪れる予定のある方は、この記録を見すぎないことをお勧めする。

    予備知識はあったほうがいいと思うが、しかし、先入観やあらかじめのイメージが強すぎるのは、旅の鮮度を落とすとも思われるので……。

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    さて、8月31日金曜日。我が誕生日の朝。バンガロールからハイデラバードまで約45分の空の旅を経て、空港に到着した。バンガロール空港と時を同じくして、数年前に改築されたこの空港。

    バンガロール空港よりも広く、設備が整っているとの噂通り、快適な空港だ。空港からの街へ至る道も美しく整備されており、「ここ、シンガポール?」と錯覚するような麗しさ。

    しかし、一旦街へ入れば、ここはインド。なじみの喧噪をくぐりぬけた先に、やがて小高い丘が見える場所へ至る。

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    ホテルの敷地内に入った途端、あたりの風景は一変し、静寂に包まれる。

    車窓から、緑豊かな庭園を眺めていると、クジャクが羽根を広げている!!

    間近で羽根を広げるクジャクを見るのは初めてのことだったので、とてもうれしい。

    ところで夫はといえば、実は2日前から、ハイデラバード入りしていた。偶然、出張が入っていたのだ

    夫も午前中のミーティングを終えた後、昼ごろにはホテルにチェックインするとのことだったので、ランチを共にしようと予定をたてていた。

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    ホテルの間近のゲートでタクシーを降りる。そこで「馬車」に乗り換えるのだ。

    贅沢にも一人で馬車に乗り込む。石畳にカツカツと響く蹄の音も心地よく、否応なく気分が盛り上がるというものだ。

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    ホテルの入り口では、マネージャーを筆頭に数名のスタッフが屹立して出迎えてくれる。みな口々に、

    「ハッピー・バースデー! ようこそいらっしゃいました!」

    と歓迎してくれて、もうたまらん。

    2種類のウェルカムドリンク、いずれもハーブやスパイスが用いられた爽やかなヘルシー飲料を勧められる。迷っていると、「両方どうぞ」といわれたので、どちらも味見をさせていただく。

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    曇天ではあるものの、気温が上がりすぎないので、むしろ助かる。もちろんバンガロールよりも蒸し暑いが、しかし、さほどではない。

    グラスを片手に、ハイデラバードの町並みを見下ろしながら、マネージャーに話を聞く。

    このホテルは規模が大きいという印象を持っていたのだが、実際には客室数はわずか60室だという。

    それを聞いた時点で、よりいっそう、気分が盛り上がる。ゲストが多いよりも少ない方が、ずっとくつろげるからだ。

    しかも現在はオフシーズンで、稼働率は20〜30%程度だとのこと。

    10年もかけてのリノヴェーションを経てのホテル化と聞けば、その大いなる投資もたやすく想像できる。それに比して、この客室数と稼働率ではまったく採算は合わないだろう、とも思う。

    タージという大きな母体があってこその、このホテルの誕生であったのだな、ということが、察せられる。

    最早、文化事業のような印象さえ受ける。

    47BD09ホテルの歴史や建築についての話を聞いているうちにも、いいタイミングでアルヴィンド、到着

    彼としては、わたしと一緒に馬車で参上したかったようだが、彼の到着を待っていたのでは、クジャクは見られなかった。

    マネージャーに、クジャクの写真を見せたところ、大いに驚かれた。

    「僕はここで3年間働いていますが、クジャクが羽根を広げているところは、一度も見たことがないんですよ! あなたは幸運ですね〜!」

    と、周囲に立っているスタッフたちも、わたしのカメラを覗き込み、一様に感嘆している。

    夫を含め、そこにいる誰もが、羽根を広げているところは見たことがないとのこと。クジャクからさえも、ワンダフルなお誕生日プレゼントをもらった気分だ。

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    馬車とホテルを背景に、記念撮影。ここでは、ホテルのスタッフも我々を撮影してくれ、チェックアウトの際、写真をフレームに入れて、プレゼントしてくれたのだった。

    ウダイプールのレイクパレスでもそうだったが、タージのパレス系ラグジュリアスなホテルでは、このようなサーヴィスが行き届いていて、ささやかながらも確実な喜びを与えてくれる。

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    ニザームはじめ、貴賓たちを歓迎するときと同様の様式で、我々ゲストをホテルへ誘ってくれる。階段を上がったところで、空からバラの花びらが降って来るではないか!

    こういうところでは、大人らしくエレガントに振る舞うべし。

    と、わかってはいるのだが、これが喜びの声を上げずにいられようか。

    いや、いられまい。

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    エントランスホールは、イタリアン・ネオクラシックの建築。……と、このホテルの内装についてを、丁寧に語るのは無謀なので、詳細は避ける。

    避けるが、大雑把に書き留めておくならば、まず、建築家は英国人。

    宮殿内は「欧州の建築様式にイスラムの意匠を加味したもの」で、インド的な建築様式は取り入れられていない、とのことである。

    ルネサンス様式、バロック調、アールデコ、アールヌーヴォー……といったさまざまな欧州の建築様式が取り入れられているとのこと。

    改築の際には、できる限りオリジナルの内装、家具調度品を生かしながら、細心の配慮のもと、当時の雰囲気を再現しているという。

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    エントランスホールのすぐ右側は、ニザームの書斎だった場所。この奥にレセプションがあるが、ゲストはここでチェックインの手続きをする必要はない。

    チェックアウトの際に利用するだけである。

    チェックインは、部屋で身分証明書などをスタッフに渡し、ペーパーに記入する。マネージャー曰く、

    「ホテルのゲストとして事務的にお迎えするのではなく、宮殿のゲストとして、家庭的にお迎えしたいからだ」

    とのことである。

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    書斎の脇には、当時、ニザームが使用していた電話番号のリストが置かれている。首相をはじめとする要人への直通電話番号が記されているのが興味深い。

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    調度品の細部を見れば。その豪奢さが見て取れて、きりがない。今、こうして写真を整理して改めて見るに、もっと時間をかけて、ひとつひとつをしっかりと眺めておきたかったとさえ、思える。

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    このマーブルの階段が伸びるホールがまた、すてき。支柱の上に並ぶ彫像は、紛れもなくミューズ!

    ニューヨーク在住時に起業した「Muse Publishing, Inc.」。

    そのミューズである。ミューズとは、ギリシャ神話に登場する、芸術を司る9人の女神の総称だ。

    詳しくは、下記をご覧いただきたい。

    ■ムーサ(ミューズ) 

    階段にはしかし、8体のミューズしかいない。聞けば、1体は、壊れてしまったとのこと。あいたたた。

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    部屋では、またしてもスタッフ数名が待機。花束とバースデーケーキを準備してくれていた。

    みなで声を揃えて Happy Birthday♪を歌い、誕生日を祝福してくれる。またしても、かたじけない。

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    小ぶりながらもみっしりと重量感のあるチョコレートケーキ。練り込まれたナッツも香ばしく、実に美味だ。ランチを控えている時刻ゆえ、小さく一口、二口を味わう。

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    ともあれ、まずはインド産SULAのスパークリングワインで乾杯。仕事やら、家庭内のなんやかんやの雑事から開放される、貴重な2泊3日の幕開けだ。

    この滞在では、ひたすら怠惰に、のんびりと、だらだらと、過ごそうと思う。それもまた、贅沢なものである。

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    ホテルには、インド料理とイタリアン(コンチネンタル)、2種類のレストランがある。そのダイニングエリアの中央に、ハイデラバードの町並みを見下ろすテラスがある。

    心地よい風が吹き抜けるテラスの、なんとも居心地がいいこと!

    ここからは、朝な夕なに、それぞれの時刻ならではの、美しい景観を見渡せた。コーラン鳴り響くころは、五感が旅愁と異国情緒で満たされて、言葉にし難いひとときだ。

    ところで、ファラクヌマ(Falak-numa)とは、現地のウルドゥ語で “Like the Sky” あるいは “Mirror of the Sky” という意味だという。

    天空の鏡。

    うまく命名されたものだと思う。

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    さて、ランチタイム。店内はほとんど貸切状態。静かでくつろげる。

    二人ともあまり空腹ではなかったので、軽くシーザーサラダとハンバーガーをシェアする。インドのいいところは、たとえ高級店でも、料理のシェアをすることを疎ましがられないこと。

    そればかりか、あらかじめ半分ずつをお皿に盛りつけて、供してくれる店も少なくない。

    たとえばこのハンバーガー。ご丁寧に半分に切られているのがお分かりだろうか。かつて食べたことがないような、滑らかな挽肉の、実に上品なビーフバーガーであった。

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    食後は館内を見学。希少価値が高いらしい「コレクター垂涎」の書籍がずらりと納められたライブラリー。

    テーブル、椅子、ランプ、花瓶……。調度品は細部に至るまで、どれもこれも上質のアンティーク。まるでミュージアムである。いや、ミュージアムそのものだ。

    実際のミュージアムであれば、ロープが張られており、家具などに触れることはできないところだが、ここでは「普通に使える」ところが、たまらない。

    そう。滞在中はまさに、ミュージアムの中に暮らしていたようなものであった。

    それは即ち、過去へさかのぼり、栄華を極めた人々のライフを少しばかり追体験するかのごとくでもあった。

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    なんだか居心地がよかった右上の部屋は、それもそのはず「女性たちのおしゃべりの間」であったらしい。

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    ここはプリンセスの寝室。バスルームには、古くからそのままにあるバスタブやシャワーの設備が展示されている。

    このバスタブについているパイプは、全方向から「ウォータージェット」が楽しめる代物だとか。今とさほど変わらぬ「モダンな」造りに驚かされる。

    ちなみに写真を取り損ねたが、便器はアールヌーヴォー調であった。

    一通り館内を見学したあと、部屋に戻り、再びスパークリングワインを飲みつつくつろいでいるうちにも、睡魔に襲われ、なんとも心地のよいベッドに潜り込む。

    「600スレッドカウント」の滑らか〜なエジプト綿がすべすべで、ひんやりと肌に気持ちがいい。

    心地よく眠っていたところで、夫に叩き起こされる。

    「ホテルの館内ツアーが始まるから、着替えて。出かけるよ!」

    だらだらとしていたいがしかし、だらだらは、明日でもできる。今日のところは、ツアーに参加して、多少なりとも知識を得るのがよいであろう。

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    ツアーの参加者は、約5組の宿泊客。案内をつとめてくれるのは、このホテルがオープンする以前から、宮殿に仕えていたドアマンの男性だ。

    彼の口調からは、この宮殿をこよなく愛しており、その歴史の断片を訪れる人に伝えるのが喜ばしき使命だと感じているに違いない、そんな静かな情熱が伝わってきた。

    夕方の5時半から開始するこのツアーは「シャンパン・ツアー」と呼ばれるだけあり、まずはピンク・シャンパン(ロゼ・シャンパン)がサーヴされる。

    シャンパンのグラスに夕暮れの光が溶け込んで、なんとも言えず麗しい。

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    ミューズたちの像が配された大理石の階段を上り、上階へ。

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    ボールルーム。舞踏場。シャンデリアはヴェネツィア産だという。

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    カーテン、タッセル、ソファー、絵画、フロア、ドア……。どこに目をやっても、味わい深い調度品。我が好みにストライクすぎて、なんだかもう、言うことなし! の気分だ。

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    そしてここが、必見のバンケットホール。33メートルのテーブルに、88の椅子が並んでいる。長っ!!

    夫は会社での「慰安旅行」の際、この部屋で夕食を楽しんだらしい。

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    食器はヴェルサーチ(by ローゼンタール)。タージ系列のラグジュリアスホテルには、この食器が使用されている。

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    テラスのフロアに目を落とせば、これまた彩り豊かなタイル。これらは英国のミントン社製。

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    夕暮れ時のテラスからの眺めがまた格別。ここでハイティーも楽しめるのだが、楽しんでいてはとてもディナーにたどりつけない。

    が、この眺望とハイティーは、ワンダフルすぎるシチュエーション。どんなに食べても増量しない体質だったらよかったのに、と、小さく無念だ。

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    館内はといえば、さほど広いわけではないのだが、しかし、それぞれの場所が味わい深く、何度、往来しても、新たな発見が尽きず、実に深い。

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    そしてここは、ジェイド・ルーム。翡翠の間と呼ばれるサロン。ロココ・リヴァイヴァルとオリエンタリズム、そしてムスリムの「星形」の意匠が渾然一体と調和した部屋だ。

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    日本を思わせる彫像や花瓶などが配され、独特の趣。天井とフロアの紋様の対比がまた面白い。とにもかくにも、ディテールへのこだわりに圧倒される

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    説明によれば、やむなく新しい調度品に取り替えたものもあるらしいが、大半がそもそも宮殿にあったものをそのままに生かしているとのこと。

    カーペットなども、何十回も洗浄して、現在も使用しているらしい。宮殿全体が、そのような作業を経て生まれ変わったのだと思うと、改装に10年かかっても不思議ではないと思える。

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    左上のキャビネットは「オーケストラ装置」で、おそらく欧州から輸入されたものだとのこと。パイプオルガンにシンバル、ドラム、トライアングルが内蔵されている。

    修理には莫大な予算がかかるとのことで、今は音が聴けない。このオーケストラ装置が奏でる音楽を、ぜひとも聴いてみたかった。

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    気がつけば、街は暮れなずみ、喧噪は遠く、得も言われぬ静寂に包まれている。ツアーが終わった後も、名残惜しく、館内の随所を眺め歩く。

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    ボールルームで、踊ってみる。

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    ガイドのおじさんに勧められ、プリンス&プリンセスの座に腰かける。

    わたしはサリーを2枚持参していたが、こうなったらアルヴィンドにもシャルワニを持ってこさせて記念撮影をとるべきだった、とさえ思う。

    家具に触ったり座ったりすることをとがめられるどころか、勧めてもらえるところに、過去と現在が連なっているさまを実感する。

    それは、エローラ遺跡で感じたことと似ている。

    エローラ遺跡の仏像に、触れながら祈る人々を見て、これらは世界遺産に指定されており、大切に保存されるべきだとの認識がある一方、信者にしてみれば、いにしえから延々と連なる祈りの対象なのだ。

    人に住まわれてこその建築物。触れられ、使われてこその家具調度品。

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    そして気がつけば、日が暮れて、空を見上げれば、満月で。なんという、贅沢な景観であろうか。

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    さて、夜はインド料理店で食事を楽しむ。

    本来であれば、ハイデラバード名物のビリヤニを試したいところだが、辛いものが苦手な夫、ここのビリヤニはかなりチリ(唐辛子)が効いているらしいとあって、却下。

    わたしは、少々辛いくらい、ノープロブレムなのだけれど。

    そんなわけで、軽めのダルとサグ(ホウレンソウ)のカレー、そしてタンドーリ・チキンをオーダー。どれも素材の味が生きた洗練された味わいで、非常においしかった。

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    ちなみに夕食の際には、サリーを着用したのだった。サリーはまた、こういう場所にもよく似合う。

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    ゲストも誰もおらず、館内は貸切状態。調子に乗って、使ったことのないカメラのアート機能などを使って、セピア色にしてみたりと、遊ぶ。

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    随所に立っているスタッフが、あちらこちらで「撮影してあげましょう」と申し出てくれる。もう、二人してモデル状態だ。

    と、気がつけば、カメラのバッテリーが点滅している。わずか半日で、いったいどれほど撮影したのか、という話だ。

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    さて、翌朝はゆっくりと朝寝をして、遅めの朝食。ここからの写真はiPhoneによるものだが、光が回っている場所では、それなりにきれいに撮れるからすばらしい。

    朝食はアラカルトメニューから好きなものを選ぶことができる。

    あれこれと迷うところだが、たくさん食べられるわけでもない。フルーツの盛り合わせや卵料理、パンケーキなどを注文して、夫とシェアする。

    コーヒーは南インド産の「モンスーン・マラバー」。かつて、欧州の人々に愛されたコーヒーだという。わたしが普段飲んでいるのも、南インド産のコーヒー。

    いつものコーヒーに、少し深みが増した、おいしいものであった。

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    ところで、この朝、着用していたのは、前夜、ホテル内のブティックで購入していたブラウス。タージ系列のラグジュアリーホテルに入っているブティック、KHAZANA。

    ホテルによって品揃えは異なるのだが、この店のそれは、かなりよかった。ちなみに上の写真の鏡に映り込んでいるのは、店のスタッフ。

    まるで絵画のようだ。

    ところで、このブラウスは、実は非常にユニークなデザイン。

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    前後が変則的なデザインで、個性的なのだ。後ろには、水彩画のようなタッチで花が描かれている。素朴で高品質な素材が、肌に心地よい。

    Nigel Preston & Knight. 個性的なレザージャケットで知られる英国のブランドだが、デザイナーは、インドと英国を拠点として活動しているとのこと。

    このブラウスも、インドで作られたものらしい。

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    ところで、ここはニザームの書斎。デスクにゲスト・ブックが置かれていたので、孔雀の羽根の万年筆でメッセージを残しているところ。

    ちなみに、かつてニザームは、このデスクの上で、巨大なダイヤモンドの塊を文鎮代わりに使っていたとのことである。最早、なんのこっちゃ、という感じだ。

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    そしてホテルで、ひたすらにくつろぐ一日。

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    緑に包まれたプール&プールサイドがまた心地よく。泳いだり、デッキチェアーでまどろんだり。なにしろ、プールを使っているのはわたしたちだけ。

    ここでもまた、貸切状態なのが幸せすぎる。

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    そして夕方には、スパへ。毎週、アーユルヴェーダのオイルマッサージを受けているが、それは確かに身体によい。

    身体によいが、トリートメント自体は、言わば「療法」であるゆえ、ラグジュリアスでも優雅でもない。それにひきかえ、このスパ。

    好みの香りのオイルを選び、心地よいアロマに包まれて、ワンダフルなマッサージを受ける。

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    マッサージの後は、テラスで夕日を眺めつつ、ハーブティーを飲みつつ、またしても至福のひととき。

    こうして、「特に、なにもしない一日」を送ってみてはじめて、日ごろ、どれほどドタバタな日々を送っているかが実感できる。

    日々、しっかり睡眠はとっているし、時間にもそれなりにゆとりある生活を送っているつもりだが、しかし、ここはインド。知らず知らずのうちに、いろいろと抱え込んでいるのも事実。

    そもそも、この1カ月余りは「庭の大改装工事」で、それなりに大変だったからな。

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    そして2日目のディナーはイタリアン。食前に出されるパンを食べるとお腹がいっぱいになるとわかっているのだが、おいしくて、ついつい食べてしまう。

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    エビのリゾットと魚のフライ。これがまた、どちらも美味であった。デザートは入らない状態なのに、コーヒーを頼むとついて来るスイーツ。嗚呼。

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    そしてこの日も、懲りずに写真撮影を楽しみつつ、夜のホテル内を巡るのだった。

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    そして2泊3日の短い滞在も終わり、最後の朝食。昨日は勧められても飲めなかったが、今日は爽やかに、朝からピンク・シャンパンを。

    夫は上品に焼き上げられたオムレツを。

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    そしてわたしは、サーモンとフェタチーズのサラダ&ブレッド。

    アラカルトメニューは豊富で、もちろんインド料理もあれこれとある。また来なければ、と思わせられる。

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    フライトは夕刻の便だったので、レイトチェックアウトを依頼し、午後3時まで、ホテルでのんびりと過ごしたのだった。

    ざっと記すつもりが、またしても膨大な記録となってしまった。

    また、改めて行きたいと思う場所が増えた。

    すばらしいバースデー・ウイークエンドをありがとう。

    FALAK06