深海ライブラリ📕

深海の底に眠る過去の記録に光を当てる。揺り起こす。

MUSE INDIA / HOMEPAG

✈︎ 過去ブログ/2005〜2025

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    🌸Photos/ April 2003, Washington, D. C.

    今年もまた、米ワシントンD.C.のポトマック河畔で、桜が満開になり、多くの花見客でにぎわっているとのニュースが届いた。

    毎年、D.C.の、桜の開花のニュースを目にするにつけ、2004年4月7日に他界した同じ歳の友人、小畑澄子さんのことを思い出す。

    「桜の季節以外にも、思い出してよ!」

    と、言われてしまいそうだが……ごめん。もう、そんなにしょっちゅうは、思い出さなくなってしまった。けれど、わたしにとって、彼女が掛け替えのない友だったということは、どんなに歳月を重ねた今でも、変わらないし、これからも変わることはない。

    1996年4月。当時、日本でフリーランスのライター&編集者だったわたしは、旅行誌の取材で海外出張が多かったにもかかわらず、英語力がなかった。ゆえに1年間の語学留学予定でニューヨークへ渡った。

    ところがなんだかんだあり、同年9月には、現地の日系出版社で現地採用で働くことになった。業種は「広告営業」。本来はライターか編集の仕事をしたかったのだが、社長から営業職を勧められた。短期間のことだし、新しい経験だからと、その仕事を始めた。

    小畑澄子さんは、その出版社で編集を担当するライターだった。

    その会社に在籍していたときには、ほとんど交流のないまま、彼女はハズバンドと共にダラスへ移住。わたしが1998年に出版社ミューズ・パブリッシングを立ち上げ、一人で東奔西走しながら働いていたころ、彼女たちはマンハッタンへ戻ってきた。

    当時、ミューズ・パブリッシングが発行していたフリーペーパー『muse new york』の国際結婚のカップルを紹介する記事で彼女を取材したころから、交流が深まった。

    思えば彼女は、メールマガジンや旅の記録、拙著『街の灯』など、ありとあらゆるわたしの文章を、しっかり読んで、折に触れて感想を伝えてくれる、本当に稀有な存在だった。

    嫌がる夫を説き伏せながら、じわじわとインド移住へ向けての外堀を埋めていった当時のわたし。強い決意で、何もかもを自分で決めてきたような気がしていたけれど、今振り返れば、彼女からの前向きなことばが、どれほど心丈夫だったろう。

    今日は、インターネットの海の底に眠る小畑澄子さんの記録をそっとすくいあげて、ここに転載した。転載しながら、泣けて仕方がない。

    「生きられる人間は、生きている以上、ちゃんと生きなきゃ。」

    過去の自分に叱咤される。

    以下、長い記録だが、小畑さんの生き様の断片が滲んでいる。ぜひ、読んでいただければと思う。

    思えばわたしが、夫と日々バトルを展開しつつも、なんだかんだ20年間、夫婦でいられるのは、思えばあのときの彼女の言葉が、心のどこかにあったからかもしれない。いや、明らかにあると、久しぶりに読み返して気がついた。

    「互いに対する期待値を下げたら、いい関係を保てるようになった。」

    今更ながら、本当に、そうだ。

    小畑さん、ありがとう……!

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    🌸当時、我々夫婦が暮らしていたアッパー・ジョージタウンのALBAN TOWERの斜向かい、国立大聖堂の庭園。窓からカセドラルが見える、こんなすんばらしい場所に住んでいながら、インドを目指した自分がミステリアスでしかない。
    https://www.equityapartments.com/washington-dc/cathedral-heights/alban-towers-apartments

    🇺🇸坂田マルハン美穂の海外生活25周年を記念して、ニューヨーク、ワシントンD.C.、インド生活の3本の動画を作成。動画内の資料は、坂田による若者向けセミナーで使用したものを転用しています。

    🌸『サクラ色』は、アンジェラ・アキがワシントンD.C.で暮らしていたころ、物事がうまくいかなかった時代を回顧して描いた楽曲だという。この時代のことを自ら「桜色の時代」だったと表現、ポトマック河畔の桜に託した楽曲とのこと。坂田もまた、911世界当時多発テロのあと引っ越したワシントンD.C.では、精神的にきつい出来事が続いた。ポトマック河畔の桜はまた、忘れ得ぬ思い出を運んでくれる。

    【2014年4月15日の記録】

    米ワシントンのポトマック河畔で、桜が満開になり、多くの花見客でにぎわっているとのニュースを目にして、今日。たちまち、ワシントンD.C.の春の頃に、記憶が飛ぶ。

    2001年9月11日、ニューヨークとワシントンD.C.を襲った同時多発テロを契機に、それまで暮らしていたマンハッタンを離れ、結婚したばかりの夫が暮らすワシントンD.C.に移り住んだ。当面は遠距離結婚を、と思っていたが、それは半年で幕を閉じた。

    ワシントンD.C.。その一見麗しい米国の首都での日々は、しかしわたしにとって、苦い思い出もまた、多かった。自分自身のこと。そして周囲のこと。このころは、「命」に対して考えることが多かった。

    2000年1月、父が末期の肺がんを言い渡された。2001年9月、米国当時多発テロの直後、友人の小畑澄子さんが、末期の大腸がんを言い渡された。その二人が他界したのは、2004年。ポトマック河畔、タイダル・ベイスンに桜が咲き誇っていたころだ。

    二人とも、「余命宣告」より遥かに、長く、強く、生きていた。しかし小畑さんは、2004年の4月7日に、そして父は、5月27日に、この世を去った。さらには6月、母方の祖母も、長い入院生活を経て他界したのだった。

    ワシントンD.C.の、タイダルベイスンの桜は、見事だ。その見事な桜の苗木は、1912年、当時東京市長だった尾崎行雄から贈られたものだ。この「ヨシノ」以外にも、ワシントンD.C.には、随所で、さまざまな種類の桜を見ることができる。

    あの街に暮らしていた4年間。長い冬を経て、この桜が咲くころが、本当に待ち遠しかった。

    ナショナル・カセドラル(国立大聖堂)の庭、ビショップス・ガーデンに咲くしだれ桜。わたしたちは、このカセドラルの斜向いに住んでいた。実に、実に麗しい、ご近所であった。しかし、あのころのわたしは、この街から脱出したくてならなかった。結果、インドに住む現在のわたしに至る。

    それにしても、デジタルで記録された写真の、色あせないことよ。まるでつい最近のことのように蘇り、時間の距離感が伸縮して、気持ちが落ち着かない。

    かれこれ30年ほど前、サクラカラーが、「百年プリント」というフィルムを発売した。山本寛斎が、このプリントは、百年間、美しさを保ちます……といったことをアピールするTVCMが記憶に残っている。

    当時は、「百年後なんて、誰も生きていないし、わからないし。」などと思っていた。ともあれ、あの当時、今のようなデジタルカメラが登場し、こうして一般に普及することを予測できた人は、きっとほとんどいなかったに違いない。

    Anyway.

    当時ニューヨークに住んでいた小畑澄子さんは、2003年の春、わたしの住むワシントンD.C.に遊びに来てくれた。あの数日間の出来事は、わたしにとって、かけがえのない思い出だ。

    二人で郊外までドライヴし、ヴァージニア州の「日本風の温泉」に出かけた。ワシントンD.C.に戻ってからは、彼女の夫がジュイッシュだったこともあり、彼女がかねてから行きたかったというホロコースト・ミュージアムへも足を運んだ。その衝撃的なミュージアムはまた、わたし一人では決して行くことがなかったであろう場所でもあった。

    ……彼女との短いながらも大切な思い出は、書き始めるときりがないので、このへんにしておこう。

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    生きられる人間は、生きている以上、ちゃんと生きなきゃ。

    と、強く強く思うようになったのも、テロを身近に経験したり、大切な人々の死に直面した、このころの経験ゆえだ。

    こうして当時のことを思い出しつつ、その思いを大切に蘇らせて、また再び、大切に、きちんと、生きていこうと思わせられる。

    そして、自分の心身を、大切に。

    2009年7月、小畑さんの夫であるケヴィンから、5年ぶりにメールが届いた。 彼はわたしの名を、Facebookで見つけて、メールを送ってくれたのだった。

    5年間、悲嘆に暮れていた。

    彼女の写真を見ることができなかった。

    しかし最近ようやく、彼女のことを書くことができ、ウェブサイトに載せた……との知らせだった。

    ところで、彼女が亡くなって、ちょうど半年経ったとき、奇妙な夢を見た。そのときのことを、当時のホームページの「片隅の風景」に書き残した。それを、今ここに改めて、転載する。今でも、このときの気持ちを思い出すと、本当に不思議な感覚に包まれる。

    あれは、夢だったのに夢ではなかったような気がするのだ。この夢のエピソードを、ケヴィンに送るために英訳したので、それも添えておく。

    下の写真は、夢から目覚めた直後、ベッドから抜け出して窓から眺めた、まだ明けあらぬ朝の光景を、撮影したものだ。

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    The view at dawn from our home in Washington D.C. /October 6, 2004

    「携帯電話」

    桜の花が散るころ、大切な友だちが死んだ。

    新緑が芽吹くころ、日本に住む父が死んだ。

    そして初夏の風が吹くころ、祖母が死んだ。

    * * *

    夜明け前。

    眠りの中で、わたしは、死んだ友だちと、電話で話をしていた。

    彼女の携帯電話に電話をしたら、いつもの声で「もしもし」と彼女が出た。

    「久しぶり!」

    「元気?」

    「相変わらずよ。そっちはどう?」

    「結構、居心地いいわよ。あなたのお父さまにお会いしたわよ。おばあさまにも」

    「すぐにわかった?」

    「うん、全然問題ない。お二人とも、お元気そうだったわよ」

    「またこの番号にかければ話せるよね」

    「うん」

    「また電話するね」

    電話できるんだったら、死んでしまった感じがしないな、会えないだけで。

    そして、目が覚めた。

    地平線の真下に、太陽が潜んでいる時刻はまだ、

    夢と現が入り乱れ、

    息を潜めて、携帯電話を見つめる。

    (2004年10月6日の『片隅の風景』より)

    “Cellular phone.”

    At the time that the cherry blossoms were falling, I lost my precious friend.

    At the time that fresh greens were appearing, I lost my father.

    At the time that the summer breeze was blowing, I lost my grandmother.

    * * *

    Today, before dawn.

    I was talking on the phone with my friend who had passed away.

    I called her cellular phone.

    She picked up and said “Hello”.

    “Long time no talk!” I said.

    “How are you?” She replied.

    “I am doing well. How about you? How are you doing there?”

    “Yes, this place is pretty comfortable. I met your father. Your grandmother, too!”

    “Could you make them out easily?”

    “No problem. Both of them were fine.”

    “If I call this number, we can talk again, can’t we?”

    “Sure.”

    “Great! I’ll call you again!”

    I thought, if I could call her, I wouldn’t feel that she passed away.

    Just that we can’t meet.

    * * *

    Then I woke up.

    It was the time that dawn breaks.

    The moment that the sun was under the horizon, I was in between reality and a dream.

    I stared at my cellular phone, and held my breath.

    (OCTOBER 6, 2004)

    Sumiko

    ✏️以下は、ネットの海に沈む、小畑澄子さんのことを書いた取材記事や記録。

    互いに対する期待値を下げたら、いい関係を保てるようになった。
    (“muse new york” Vol.5, Fall, 2000)

    ◉小畑澄子さん (Sumiko Obata) 1965年埼玉県生まれ/翻訳家、ライター
    ◉ケヴィン・ヘルドマンさん (Kevin Heldman) 1965年ニューヨーク生まれ、ユダヤ系米国人/ジャーナリスト

    Obata

    クリスチャンだった祖母の影響もあり、澄子さんは中学時代から、米国の大学留学を考えていた。高校卒業後、英語学校に通う傍らアルバイトで資金を貯め、24歳の時、渡米した。

    澄子さんがケヴィンと出会ったのは、ニューヨーク州立大学に在籍中のこと。彼女が1年生の時、彼は4年生。ケヴィンが卒業した後、彼が二人の共通の友達を訪ねて、学生寮に遊びに来るようになってから親しくなり、付き合い始めるようになった。

    大学の卒業を控え、澄子さんは今後の身の振り方について悩んだ。日本に帰るべきか、米国に残るべきか。その結果、コロンビア大学の大学院に進むことにした。もちろん、ケヴィンの存在も大きかった。彼女の大学院進学と同時に、二人は一緒に暮らし始めた。

    澄子さんは大学院でアジア研究科を専攻。小人数のクラスでドナルド・キーンの講義を受けるなど、刺激的な環境の中で学んだ。一方、州立大学を卒業後、コロンビア大学のジャーナリズムスクールを卒業していたケヴィンは、昼間は肉体労働、夜はレジュメや企画書を作り、ジャーナリストとしての仕事を探す日々を送っていた。

    やがて澄子さんの大学院卒業が近づいて来た。卒業すれば、ビザが切れることはケヴィンも知っていることだった。

    「私たち、二人とも、結婚願望ゼロなんです。いや、マイナスといった方がいいくらい」

    しかしながら、このままだと澄子さんは日本へ帰らざるを得なくなる。

    「結局、ケヴィンが結婚を提案してきたんです。私のグリーンカードのために。彼には色々と事情があって、家族と縁を切っていたから、周囲の干渉は一切ありませんでした」

    結婚を決めた直接のきっかけはビザの問題だったが、もちろん、お互いを生涯のパートナーと認め合ったからこその結婚である。

    「その頃、彼が言ったんです。『料理をしている時間があれば、新聞を読め』って。その言葉を聞いたとき、ああ、この人とならやっていけるなと思いました」

    二人はシティホールで結婚の申請をし、式を挙げた。指輪はケヴィンがふざけて買った、25¢のガチャガチャで出てくるおもちゃだった。

    結婚はしたものの、澄子さんの心に引っかかっていたのは日本の家族のことだった。

    「うちは両親と姉、妹、みんな仲がよくて家族愛も強い。だから、家族に黙って結婚したことが心苦しくて……」

    もし結婚したことを告げても、これまで通り、両親は決して反対したり文句を言うことはないだろう。しかし、いくら電話では言いづらかったとはいえ、相談なしに結婚したことを知れば、悲しむに違いないと思った。

    「当時、私たちは貧しくて、日本に帰るお金がなかったんです。結局、結婚して数年後、ようやくケヴィンと一緒に帰国しました」

    帰国前、二人は話し合った。この帰国は「結婚します」という報告の帰国で、アメリカに戻って籍を入れるということにしようと。

    澄子さんの家族は二人を温かく迎えてくれた。ところが、日を追うごとにケヴィンの様子がおかしくなってきた。食欲がなくなり、夜はうなされて目を覚ます……。そもそも家族愛に恵まれていなかった彼は、澄子さんの家族の優しさに触れ、自分たちが嘘をついていることに耐えられなくなったのだ。

    滞在予定の2週間も残りわずか、2日後には日本を離れるという時になって、彼は澄子さんに訴えた。やっぱり本当のことを言おうと。

    「真実を言うにしても、彼は日本語をしゃべれないし、結局私が話さなければなりません。父は仕事に出ていたから、母と姉を部屋に呼んで。本当に緊張しました」

    「母は悲しむどころか大喜び、涙もろい姉は、感極まって泣き出すし……。最後の日、ケヴィンは人が変わったように元気になって、ご飯もバクバク食べてました。今思えば、本当にバカなことをしたと思います(笑)」

    彼と結婚して、今年で6年なる。出会ったころは、自分たちは似たもの同士だと感じていたが、時が経つにつれ、違いが見えてきた。

    「映画の趣味とか、部屋のインテリアを気にしないとか、嗜好の共通点は多いけれど、性格は違うんです。彼は生まれつきのジャーナリスト。討論が好きで、とことん話し合う。行動的でじっとしていない。一方、私は家で落ち着いている方が好きだし、多弁でもない」

    お互いが、相手を自分の基準に合わせようとすればするほど、喧嘩が増えてきた。 

    「ある日、ケヴィンに、彼の将来に対する助言を求められたんです。『どうにかなるさ』という私の考え方を、彼はどうしても受け入れられない。意見を言うからには、必ず根拠も必要。そこで口論が始まって……。何が何でも突き詰めようとする彼の姿勢に耐えられず、長いこと、口を利きませんでした」

    そして2カ月後、和解し合えなければ、別れることも覚悟の上で、彼女は自分の考えを綴ったEメールを彼に送る。毎日顔を合わせてはいたものの、直接話すのには抵抗があった。

    その日の午後、彼女の勤務先に花束が届いた。添えらたカードには、彼女が以前勤めていた会社の社長の名前が。ケヴィン流のいたずらがにじんだプレゼントだった。

    この頃から二人の関係が変わった。お互いに対する期待値の尺度を、ぐっと下げることにしたのだ。相手を自分に合わせようと多くを望むから喧嘩になる。互いの存在を必要としていながら、争うのは苦痛だ。だからこそ、過剰に干渉し合わない関係を保つことにした。

    最近は、いい精神状態で付き合えるようになってきた。喧嘩によるストレスも減った。

    「去年、二人で日本に帰った時、彼が、米国人が収監されている横須賀刑務所を取材したいというので、通訳として同行したんです。彼の熱意が所長さんに伝わり、所内を見学させてもらうなど、私自身も得難い経験ができました。彼はその記事で、この4月、ジャーナリズムの賞を受賞しました」

    お互いのやりたいことを尊重し、ほどよい距離を保ちながら、それぞれが自分の仕事や好きなことに専念できる時間を大切にする。意見を交わし合い、試行錯誤を繰り返しながら、彼らは自分たちの関係を育み続けている。

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    小畑澄子さんの死 (坂田マルハン美穂のDC&NY通信:4/12/2004)

    今年も、ワシントンDCに、桜が咲いた。

    小畑澄子さんの体調は、年末から芳しくなかった。いつも前向きだった彼女が初めて、

    「もう、万策が尽きたって感じ。正直言って、ちょっと怖い」

    と、言った。けれど、わたしたちは、今まで通り、楽しいことばかりを話した。

    彼女とわたしが出会ったのは、1996年の夏。わたしが渡米して間もない時期、1年ほど勤めてた日系出版社の、彼女は同僚だった。

    当時のわたしたちはさほど親しくもなく、だから彼女が夫ケヴィンの仕事の都合で一時期ダラスに移転していたときも、連絡を取り合うほどの仲ではなかった。

    わたしがミューズ・パブリッシングを興して独立し、彼女がダラスから戻り翻訳会社に勤め始めたころから、共通の友人らを交えて数カ月に一度、食事をするようになった。

    彼女とわたしは、同じ歳で、文章の書き手であり、学生時代にバスケットボールをやっていた、ということ以外に、ほとんど共通点はない。

    彼女は子供のころからアントニオ猪木の大ファンで、格闘技が好きだ。それからフットボールの試合も大好きで、男友達とスポーツバーで観戦することを楽しんでいた。一人でラスベガスを旅行して、ギャンブルに熱中したという話しもよく聞かされた。

    何を聞いても「あ、そう……」としか返せない話題だった。一方、

    「ねえねえ、坂田さん、ルイ・ヴィトンって、何?」

    「ティラミスって、何?」

    そんなことを尋ねる浮世離れしたところもあった。食事に頓着せず、何を食べに行っても「おいしい!」と喜んで食べた。スリムだったけれど食欲は旺盛で、そしてよく飲んだ。お酒はすごく強かった。

    共通点が少なかったにも関わらず、会話は尽きなかった。わたしはなにか通じ合うものを、彼女には感じていた。

    小畑さんは、思ったことをはっきりと言い、さっぱりとした性格で、努力家だ。勉強や仕事に一生懸命で、新聞を読むことが大好きだった。彼女には、一言では表現しがたい、独特の個性があった。

    その彼女の魅力を知るきっかけになったのは、2000年夏、『ミューズ・ニューヨーク』の「国際結婚をした日本人女性」という連載で、彼女のことを取材したときのことだ。

    小畑さんは高校卒業後、英語学校に通う傍らアルバイトで資金を貯め、24歳のとき渡米した。ニューヨーク州立大学に在学中、のちに伴侶となるケヴィンと知り合う。彼はニューヨーク生まれのユダヤ系アメリカ人で、ジャーナリストでもある。

    その後、小畑さんはコロンビア大学の大学院を出たあと、マンハッタンの日系出版社に編集者として就職した。新聞を読むのが大好きな彼女は、『料理をしている時間があれば、新聞を読め』という彼の言葉を聞いたとき、この人となら一緒にやっていけると思った、という。

    ダウンタウンの日本料理店で寿司を食べ、ビールを飲みながら、彼女はいいことも悪いことも、まったく頓着することなく話してくれた。

    「ケヴィンは議論好きで、よく喧嘩になるのよ~。激激激口論も、何度もやった。ああいうときって、この男が世界で一番憎いって思うのよね~」

    「わかるわかるその気持ち。かわいさ余って憎さ100倍よね」

    彼女の英語力はわたしよりも遥かに上だか、それでも

    「やっぱり英語でウワッーッと言いくるめられると負けるから悔しいよね。日本語で勝負したいよね」

    わたしたちは、悔しさを分かち合った。

    そして最後に言った。

    「坂田さん。あなたが好きなように、何を書いてくれてもいいから」

    この言葉は、以降何度も、彼女から聞くことになる。彼女のことを書く機会があるたび、わたしは尋ね、彼女は同じように答えた。今まで何人もの人々を取材してきたけれど、そんなことを言う人は、彼女だけだった。わたしは、この取材以来、彼女を尊敬すべき友人として一目置いていたのだった。

    とはいえ、それ以降も数カ月に一度、顔を合わせる程度で、あとは仕事を通して翻訳の仕事を何度か頼んだりするくらいの付き合いだった。ただ、彼女はわたしの文章を愛読してくれ、ホームページやメールマガジンの感想をときどき送ってくれた。そんな彼女の律儀さを、当時は意外に思ったものだ。

    文章での彼女は、実際の口調よりも丁寧でやさしく、必ず励ましや同感を添える気遣いがあった。

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    2001年9月。テロの直後、ワシントンDCからニューヨークに戻り、精神的に混乱していたある朝。共通の友人Nさんから電話があった。小畑さんが、がんの手術のため入院したとの知らせだった。身体の変調に気づいて病院に行ったところ、末期の結腸がんであることがわかったのだという。

    電話を切った後、わたしは放心状態になった。何にも手に付かず、外に飛び出した。街を、ひたすら歩いた。歩きながら、人の生き死にのこと、自分の来し方行く末を、とめどなく考えた。もう、何が何だか、訳がわからなくなっていた。その日のわたしには、世界中が悲劇に満ちているとしか思えなかった。

    その夜、わたしはニューヨークを離れ、A男(夫)の住むワシントンDCに移ることを決意した。A男に何度も懇願されて、そのたびに大喧嘩になっても、わたしはニューヨークを離れないと主張してきた。しかしその主張が、最早、さほど重大なことに思えなかった。

    ニューヨークを離れる前、わたしは何度か小畑さんを見舞った。大手術をしたにも関わらず、驚くほどの回復力で、彼女は日常生活に戻っていた。

    わたしは、自分の父がその1年前に肺がんを発症したのをきっかけに、がんに関してさまざまに調べていたので、彼女に少しでも役に立つ情報があればと思い、これはと思うものを選んで、彼女に知らせた。

    彼女が退院して間もない頃、彼女の家へ、お見舞いに訪れた。少し緊張した心持ちでドアを開けると、思っていた以上に顔色がよく、元気な声の彼女が出迎えてくれた。彼女が敬愛するアントニオ猪木の顔が大きくプリントされたTシャツを着ている。部屋には千羽鶴が飾られ、「闘魂!」と大きく書かれたリボンが添えられていた。

    彼女はその夜、手術に至るまでの経緯をゆっくりと話してくれた。彼女はそれまで、タバコを吸い、お酒を飲み、食生活もデリバリーの外食中心で、「栄養のバランスなんて考えたこともなかった」というくらい健康に無頓着な生活をしていた。その分、彼女の情熱は、仕事や趣味に傾けられていた。

    そもそも身体が強かったこともあり、きついときにもかなり無理をしていたようだ。病院に行くのも、薬を飲むもの嫌いで、体調が悪いときも、極力、薬を避けて気力で治してきたという。

    だから、9月に入ってまもなく、少しずつお腹が張ってきたときには「どうしたんだろう」と思う程度で深刻に考えなかった。妊娠していないことはわかっていたから、おかしいと思ったものの、日増しに腹部が膨らんでいく。しかし痛みはない。食欲もあるし便通もいつも通りだった。

    あとから気づいたことと言えば、その前月に生理が2回あったということくらいで、それ以外は、がんを患っているなどと思わせる予兆は全くなかったという。

    彼女の身体の異常に気づいたケヴィンから「とにかくすぐに病院に行って来い」と言われ、ひどく忙しい最中だったにも関わらず、時間を見つけてしぶしぶ病院へ行った。お腹の張りが気になりだしてから2週間目のことだ。

    最初に訪れた大病院で、即刻、詳しい検査を促される。「今日は忙しいからこの次に……」という彼女を、ドクターは厳しい口調でたしなめ、事態の深刻さを告げた。結局、その日のうちに検査を受け、思いもよらなかった結果を聞くこととなる。

    ドクターいわく、お腹の膨らみは腫瘍によるもので、すぐにも手術が必要だとのこと。心の準備もなにもない、面と向かっての告知である。まさか自分ががんであるなどとは予想もしていなかったから、たいへんな衝撃だった。

    とはいえ、まだそのときは、ドクターの言葉が本当なのか、半信半疑だった。セカンド・オピニオンを得た方がいいだろうと、その直後にケヴィンと2人でメモリアル・スローン・ケタリングというがん専門の大病院を訪れた。やはり腫瘍に間違いなかった。そして数日後に手術を受けた。

    施術したドクターに、

    「君のお腹にはフットボールとバスケットボールほどの大きい腫瘍があった」

    と言われた。

    手術の際、いくつかの臓器とその一部を切除した。転移しているがんについては、通院しながらキモセラピー(抗がん剤による化学療法)により治療することになった。

    日本では、抗がん剤を投与されているがん患者は、継続的に病院に入院するが、米国は医療費が高いためか、あるいは根本的にシステムが違うのか、手術を終えた患者は即退院する。

    外科内科手術、いずれの入院期間も日本のそれより著しく短い。出産の際も、特に異常がなければ、翌日か翌々日には退院させられるという。

    従って、キモセラピーもまた、通院して受けるのが一般的だ。また白血球を上げるための定期的な注射は、本人が自宅で打つように指導される。

    「わたし、日本にいたら、ずっと入院させられる状況なんだよね。とてもじゃないけど、耐えられない。考えただけで気が滅入ってくる」

    副作用があり、体調の悪い日はあるものの、彼女はそれまで通り会社へも通勤していた。

    米国の、明るく清潔感にあふれた病院にですら、彼女はいられないというのだから、暗くてどんよりした古い病棟の、6人部屋に入院していた父が、どれほど憂鬱だったか、察せられる。

    「今回、病気になったことでね、ほんっとに思ったんだけど……。こんなに家族とか友達がありがたいものとは、思わなかった」

    思いを込めた口調で小畑さんはそういいながら、いくつかのノートやメモを私に示してくれた。彼女のお母さんが、「健康にいい料理」のレシピを書き連ねた、それは手書きのノートだった。表紙に「すみ子」と大書きされている。

    キッチンの壁には、彼女のお姉さんによる「食のアドバイス」が貼られている。がんにいい食べ物やその効能など、一つ一つにお姉さんからのコメントが添えられている。小畑さんの姪の絵も壁にある。

    手術後、家族が日本から来た折に、キッチン用品や調味料も買いそろえてくれたという。

    「今までは塩とこしょうと醤油しかなかったんだけど、今はみりんも味噌もあるのよ!」

    笑いながら彼女は言った。

    「私が料理をするなんて、ほんと信じられない」

    そう言いながら、その日彼女は、訪れたわたしたち友人のために、讃岐うどんをゆでてくれ、麻婆豆腐を作ってくれた。できあいの「麻婆豆腐の素」を使うのじゃなく、ちゃんと一から作ってくれたのだ。とてもおいしかった。

    やがてケヴィンが帰ってきた。

    「ハグしないの? ハグ? キスは~?」

    不躾なことを言って冷やかすわたしに、

    「もう、ちょっとやめてよ~。わたし、そういうの、全然、苦手なんだから」

    と小畑さんは言う。

    ケヴィンは部屋に入るなり、彼女に紙袋を手渡した。中にはきれいな色のスカーフが3枚入っていた。副作用で髪が抜け始めた彼女へのお土産だった。

    その日わたしは初めて、ケヴィンとゆっくり話した。彼らは互いに互いの仕事を尊重し、いわば「同志」のような絆を持つ二人だが、今回のことで、彼が相当に、彼女のことに心を砕いていることが、察せられた。

    人の生命力というのは、医学的な側面だけからは推測することができない、さまざまな要素が絡み合って、決定づけられるものではないかと思う。なにしろ「笑うこと」が、がん細胞の増加を阻むというデータもあるくらいなのだから。

    父だって、発病した直後は、ドクターから「2年以上生存する確率は限りなくゼロ」だと言われた。けれど、父は負けるもんかと、4年経った今も闘い続けている。

    小畑さんのことだから、徐々に生活の在り方を改善し、自分なりにうまく病と向き合いながら、これからも生き生きと暮らしていくのだろう。わたしは、そう信じた。

    Musecapital

    2002年1月。わたしはワシントンDCに移った。それからは、ニューヨークに行くたびに他の友人も交えて彼女に会った。むしろ、ニューヨークにいたころよりも、頻繁に合うようになっていた。

    しかし、彼女のがんは容赦なく、その春、小脳にまでも転移した。手術は幸いうまくいき、がんを切除することに成功した。ホルモン剤の副作用で、顔が丸く太ったことを気にしていたけれど、7月15日の誕生日の翌日、彼女は元気そうな顔で約束のレストランに現れた。

    食欲も旺盛で、本当に手術をしたばかりだとは思えないほど元気そうだった。

    「ねえねえ、昨日、ケヴィンがどこに連れていってくれたと思う? なだ万よ、なだ万! わたしもう、びっくりしちゃった」

    普段は二人で外食をすることなどまったくないと彼女は常々言っていた。そんな彼が、彼女の誕生日を祝って、日系ホテルにある高級日本食レストランに予約を入れて置いてくれたのだという。

    「わたしが病気になってから、気味が悪いくらいやさしいんだよね~」

    そう言いながらも、彼女はとてもうれしそうだった。

    がんは、発症以来、常に彼女の身体のなかにあった。だから、次々に、新しい薬を試した。抗がん剤は数回投与すると、身体に免疫ができるため、効果がなくなってしまう。まるでいたちごっこのような治療法なのだ。

    次々に襲いかかる副作用にも耐え、彼女は普通通りの生活を続けた。

    「わたし、スローン・ケタリングの結腸がんの患者の中で、2番の成績って言われたの。わたしよりがんばってる男性がいるらしいのよ~。悔しいわ!」

    彼女は冗談交じりでそう言った。スローン・ケタリングとは、米国で最も優れたがん専門の大病院で、数多くの患者を抱えている。

    彼女はわたしのホームページを、いつも隅々まで読んでくれていた。そして、わたしが日記に記す、A男のボケネタをこよなく愛していた。

    「昨日の日記には笑わせてもらったわ」

    彼女は律儀に、電子メールで感想を送ってくれるのだった。

    また、わたしが綴る大ざっぱな「食の記録」を読んでは、

    「私みたいに案の浮かばない人間にとって、とても参考になります。ありがとう」

    「今度、あのワッフルミックスの素、探してみたいと思っている」

    と、コメントが届くのだった。

    わたしが『街の灯』を出版したとき、彼女は真っ先に感想を送ってきてくれた。心に残った一話一話に対し、自分の感想を盛り込んだ、やはり丁寧なメールだった。アマゾンの書評にも、彼女の言葉が残っている。

    clip 著者と共にNYを感じる 2002/11/6 Sumiko

    さて、街の灯、拝読しました。正直、すごーーくよかった。とても質の良い読み物で、久しぶりに読後にいろいろと考えさせてもらいました。ひとつひとつのエピソードが、何気ないんだけど、ただの「出来事」に終わらず、坂田さんの気持ちとか考えが確実に挿入されていて、読者もあなたの「感情」と一緒に、その場の状況を共有できる感じ。それに、ひとつの章を読み終わるごとに、自分の生活とか今ある状態と、坂田さんの経験を比較するチャンスも与えてくれるような文章だった。

    今回もロングアイランドに行った時に、ふらっとその土地のダイナーみたいな所に入って、期待以上の食事をしたいなと思ったり(ギリシャ旅情)、洗濯物をたたんでいるときにシーツをたたむ老人を思い浮かべたり(シーツをたたむ二人)。私も日本語をうまく話せるキャブドライバーに会ったし(あなたなしでは)、タクシーに乗るたびにその人の「プロ具合」を評定している(プロの仕事)。

    「寒くても温かい」は大好き。私も読みながら、坂田さんとまったく同じ感想を持っていた(子供も一緒に笑ってくれるような子だったらいいなと)。学生時代にウエイトレスをしていたときは、外国人の寿司の食べ方に圧倒されたこともあるし、バスボーイの人たちと一緒に食事して、彼らのくったくのなさに心が洗われたりしたことも思い出した(しっかり、ご飯)。他にも好きな章はたくさんあるけれど、これは友人としてではなく、一読者として、良い本を読ませてもらってありがとう、と言いたいわ。これからも、どんどんと執筆を続けてくださいね。

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    2003年春。ちょうど桜の花が満開のころ、小畑さんはワシントンDCにやって来た。運転が好きな彼女は、自分の四輪駆動車に乗って、マンハッタンから4時間かけて来た。

    訪問の目的は、DCで行われる結腸がんのカンファレンスに出席することだったが、滞在中は我が家に泊まり、週末は郊外に一泊旅行をする予定でいた。

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    わたしたちは、タイダル・ベイスンの桜を見に行った。

    長生きしている桜の木から「気」をもらおうと、二人で大木にしがみついたりもした。

    一年のうちで、この街が一番美しい数日間を、彼女と過ごせたことは、真にうれしいことだった。

    週末には、アパラチアン山脈のふもと、シェナンドア渓谷にある温泉宿を目指して、彼女の車でドライブした。

    青空が広がる、天気のいい午後だった。

    この宿は、米国人男性と日本人女性が経営しており、美しい山並みを見晴す日本的な展望風呂があるのだ。

    心地よい温泉に浸かり、浴衣を着て、夜更けまでワインを飲みつつ、おやつを食べつつ、語り合った。

    翌朝は、和風の朝食が用意されていた。清らかな湧き水で作られた味噌汁、サーモンのグリル、切り干し大根やヒジキの煮付け、新鮮な卵での卵かけごはん……。二人して、朝からたっぷりとご飯を食べた。

    この次は、夫たちを連れてこようね。Cさん(小畑さんの親しい友人)と彼女のボーイフレンドも誘おうよ。できれば夏がいいね。バーベキューをしようね。わたしたちは約束した。

    しかし、その直後、再び脳にがんが転移していることがわかり、またもや手術をせねばならなくなった。

    6月には、わたしたちの共通の友人Nさんが、フランスで結婚式を挙げることになっていて、小畑さんは出席する予定だった。Nさんと小畑さんは翻訳会社の同僚で、二人はとても仲が良かったのだ。

    彼女は、フランスに行けなかったことを、本当に悔しがっていた。

    「プレゼントも買ったのに。Nちゃんのウエディング姿を見たかった……」

    彼女は何度も言った。

    インド人一家が来るため、そもそもから出席できなかったわたしに、

    「今度、秋ごろになったら、一緒にフランスに行こうよ」

    と、彼女は言った。

    夏が過ぎて、秋になっても、彼女の体調は思わしくなかった。がんによる痛みが彼女の身体を襲い、けれど、それでも、彼女は会社にも行って仕事をしていた。

    「病気になって初めて、お先まっくら状態。でも、どうしても負けたくないから、闘魂と気合いでがんばるぞ!」

    そんなメールが届いた。

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    彼女と最後に食事をしたのは、わたしが学校に通い始める直前にニューヨークへ行った、去年の夏のことだ。

    ミッドタウンの寿司屋のカウンターで、わたしたちは、食べて、語った。彼女は、インド人一家が訪れたときのエピソードを聞きたがり、聞くたびに笑い、笑う度に

    「笑うと、お腹のがんが痛いから、笑わせないで」

    といいながら、笑った。

    わたしは、本で読んだ「霊気」の方法に従い、彼女に気を送ったりした。彼女はそういう非科学的なことを一切信じない人だったけれど、わたしが彼女の背中に両手を当てると、

    「うわあ、気持ちいい。あなたの手、すごく熱く感じる。その手、持って帰りたい」

    と言った。

    わたしは、彼女が病気だから、わたしが彼女に同情したり、親切なのだと思われるのがいやだった。わたしは彼女の人柄に惚れていて、その彼女が病に直面しているのを、ただ、見過ごすことはできなかった。

    でも、わたしにせよ、多分彼女にせよ、粘着的な付き合いをするタイプでもなかったから、いくら心配でも、一定の距離をおいておくのがいいだろうとも思った。

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    去年の年末あたりから、彼女の病状は悪化していた。わたしがインドに行く前も、最近はかなり調子が悪いとのメールが届いた。それでも彼女は、わたしのホームページを読んでるわよ、と感想を添えることを忘れなかった。

    わたしはだんだん、せっぱ詰まった気持ちになっていた。何かをせずにはいられなかった。インドの旅先からは、ホームページのかわりに、彼女にたくさんの絵はがきを送った。

    「ほんっと、いつもごめんね~。わたしがしてもらうばっかりで。ありがとう」

    わたしは、してあげているわけじゃない。彼女は、わたしに色々な、目に見えない大切なことを気づかせてくれている、わたしは目に見えることをしているだけだ。わたしはそのことを、うまく彼女に伝えることができていただろうか。

    わたしが何かをすることで、むしろ彼女が気を遣うことになってもいけないと思った。けれど、何かをせずにはいられなかった。

    彼女は、わたしと電話をするとき、必ずわたしの父の病状を尋ねた。それはここ数年の、彼女の変わらぬ姿勢だった。彼女の方が多分父よりも、かなり病状が悪いのに、

    入退院を繰り返している父を察し、

    「日本は入院しなきゃだめだからたいへんよね」

    と父を案じてくれた。

    父が再発するたび、

    「わたしの場合は、再発もなにも、ずーっとがんが身体の中にある状態でも元気なんだから、お父さまにも大丈夫だってお伝えしてね」

    と、励ましてくれた。

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    今年に入ってから、小畑さんの調子が著しく悪くなり、一時、入院した。コンピュータに向かっていられなくなったと連絡があった。

    「今回はしばらく会社を休んで、治療に専念しようと思う」と彼女は言った。

    「もうすぐ別の新薬が承認されるから、それに賭けてみる」とも言った。

    ある日、ケヴィンから、彼女が入院したとのメールが届いた。1月27日、マンハッタンに雪が舞い降る日、わたしは彼女の病院を見舞った。

    わたしが訪れたとき、彼女は一日で一番調子のいい時間だったらしく、モルヒネの点滴を受けていながらも、いつもとほとんど変わらない知的で快活な口調で、自分の状況を客観的に語り、互いの近況を報告しあった。

    わたしがインド移住を目論んでいることを語ると、がんばってねと励ましてくれた。

    彼女のがんは、もう全身に転移していて、歩くのさえ辛い状況だったけれど、それでも食事をしっかり取り、読書をし、自分の病状を客観的に捉えて、なんとしても生き延びようと、その方策を考えていた。

    彼女のベッドの傍らで休憩しているケヴィンが痛々しかった。

    わたしがインド旅日記をホームページに載せたから印刷して送るよ、と言ったら、

    「元気になったら、コンピュータで自力で読むから、送らないで!」と返した。

    ワシントンDCに戻ってきたら、小畑さんからお見舞いのお礼の電話が入っていた。メッセージの最後に彼女はこう言った。

    「今日のニューヨークタイムズにインドの記事が出てたんだけど、そこにすごくきれいなインド人女性たちの写真が載ってたのよ。あなた、インドに行くのはいいけど、こんなきれいな人たちとコンピート(張り合う)しなきゃならないなんて、たいへんね~。がんばってね。また電話します」

    彼女が自宅療養に入ってからは、しばしば連絡を取り合うようになった。彼女は、今回だけは、かなり堪えていると、今まで口にしなかった悲観的なことを言った。わたしはそういうとき、何を言えばいいのかわからなくて、

    「春になったら、きっと調子が良くなるよ」

    などと、気休めのようなことしか言えなかった。もうすぐ春が来るから。冬が過ぎたら、きっと体調もよくなるだろうから、また一緒に桜を見に行こう、そして温泉に行こう。

    彼女は、いつも、周りに気を遣っていた。日本の家族を心配させることを悔やみ、ケヴィンに迷惑をかけていると悔やんだ。わたしのせいで、彼が自分のやりたいことをできなくなるのは申し訳ないと言った。わたしは大丈夫だから、仕事なり遊びなり、行ってほしいのだとも言った。

    同時に、彼女を献身的に世話をするケヴィンに、深い感謝と愛を感じていることが察せられた。

    ケヴィンはとても繊細で難しい人で、家族との折り合いも悪くて、彼をわかってあげられる真の友達はわたししかいないから、わたしがいなくなるわけにはいかないのだ、と、いつも彼女は言った。

    わたしは、弱音も吐かず、周りのことを第一に考える彼女の人間性に、心底、頭の下がる思いだった。どうして、彼女はこんなに毅然としていられるのだろう。

    2月の下旬だったか、わたしは自分が診てもらった医者の心ない言葉に憤った旨を話した。すると彼女は言った。彼女も、つい最近、スローン・ケタリングのドクターに、ひどいことを言われたのだと。どんなことでもあっけらかんと話す彼女が、

    「ごめん。内容は、今はちょっと話せる心境じゃない」

    と言った。

    彼女は、色々な事柄と闘っているのだと言うことを改めて知った。

    2月中旬。わたしがA男と、週末、温泉に行くことを知ると、

    「ああ、わたしも行きたい! 絶対に一緒に行こうね」と彼女は力強く言った。

    2月末、A男の出張に伴って出かけたロスのホテルのカフェから電話をしたときも、

    「あなた、いいご身分ね~。うらやましいわ~。5分でも10分でもいいから、今のあなたの時間を、わたしにちょうだい!」笑いながら、彼女はそう言った。

    わたしは本当に、わたしのこの穏やかな時間を、彼女に分けてあげたかった。

    わたしたちは、いつも新しい抗がん剤など新薬の話や、代替治療についての話しもした。鍼やリフレクソロジーが痛みを緩和することもあるからと、最近はセラピストに来てもらっているとも言っていた。

    今年に入ってから会社に一度も行っておらず、有給休暇をもらっていることに罪悪感をも覚えていた。

    「あなたは今まで、どんなにきつくても会社に行って、会社に貢献してきたんだから、本当に辛いときくらい、仕事のことは忘れて、自分が休憩することに専念した方がいいわよ。ともかく、無理をしないで」

    無理をしないで。ゆっくりして。おいしいものを食べて。また遊びに行こう。

    同じような台詞を、話の合間に、何度も繰り返した。わたしは彼女に、もはや何を言っていいのか、わからなかった。

    そのころから、彼女は近くに住んでいる友人のCさんに、夕食を作ってもらうことを頼んでいた。

    「Cは、ああ見えても、家庭的で料理がうまいのよ。すごく助かってる」

    年下の友人Cさんのことを、まるで妹のことを話すみたいに、彼女は話してくれた。自分とはまったく異なるタイプの性格なのに、とても気が合うのだ、とも言った。

    小畑さんにはまた、仕事を通して出会ったという友人Tさんがいた。彼女はボルチモアに住む人で、実際二人は会ったことがなかったのだが、電話やメールのやりとりをよくしていたらしい。

    Tさんが、常々小畑さんのことを気にかけ、メールやファックスを送ったり、郵便で彼女が興味を持つような記事を送ったり、生活に便利そうな何かを送ったり、ともかく、本当にこまやかに彼女のことを気にかけてくれているのだと感謝していた。

    「わたし、Tさんとは、会ったことがないけれど、わたしたちにとって天使みたいな人だねってケヴィンと話してたんだよ」

    Tさんとわたしは面識はなかったが、あるとき電話で話す機会があった。小畑さんは、彼女には、わたしには話さなかった不安を、伝えているようだった。

    「わたしとは会ったことがないから、むしろ本音をいいやすいのかもしれません」

    Tさんは言った。

    Tさんの話を聞いて、わたしは少し安心した。いつもいつも、周りを気にするばかりで決して弱音を吐かなかった小畑さんが、いったい、心の苦しみをどうやって吐き出していたのだろうと、そのことがとても気になっていたからだ。

    わたしはだから今まで通り、「もしも」の話はせず、明るく楽しい、前向きな話だけをしていようと思った。

    3月9日。ボストンから電話をしたとき、彼女は、ホスピス治療に入ったと言った。ホスピス治療に入ったけれど、わたしはまだ、諦めてないから、とも言った。この間認可されたばかりの、新しい抗がん剤を使える可能性があるかもしれない、とも言った。

    最早、コンピュータに向かえない彼女に、わたしは膨大なインド旅日記を、写真も見られるようカラープリントして郵送していた。

    「インド旅日記を、今少しずつ読んでいるよ、楽しんでるわ。ありがとう」

    一気に読むのは疲れるってこともあるけれど、でもすぐに読み終わるのはつまらないから、ゆっくり読んでいるのだ、と彼女は言った。

    彼女は、自宅と病院を行き来してのホスピス治療を始めた。

    それからは、電話を控え、ファックスを送るだけにした。

    3月16日。その日、どうしても気になって電話をした。電話にはケヴィンが出た。

    「彼女の具合が悪ければ、かわらなくていいから」

    わたしはそう言ったが、ケヴィンは、

    「大丈夫。今、Sumi、起きてるから」

    と言って、電話をかわった。でも、多分彼女はかなり調子が悪かったのだろう、

    「ごめん。あとでコールバックするね」

    そう言った。それが、わたしが聞いた、小畑さんの最後の声だった。

    もう、彼女とは電話をできないかもしれない。わたしが電話をしたところで、何もできないことは、わかっていた。周りには手伝ってくれる人もいるだろうし、わたしが遠くから案じたところで力になることはできない。

    その後、小畑さんを見舞った共通の友人から、彼女が痛みにさいなまれ、覚醒している時間が短くなっているとのことを、聞いた。

    どんなに痛みにさいなまれていても、小畑さんも、ケヴィンも、少しでも長く、一緒にいたいと思っているに違いないのだと思うと、やりきれなかった。

    一方、わたしの父の肺がんもまた、年末あたりから活動を再開していた。病院からは即入院し、また抗がん剤治療を受けるように勧められた。父は身体の健康な細胞までも破壊してしまう抗がん剤の治療を拒否し、東洋医学や民間医療を融合した統合治療を施してくれるクリニックに通い始めた。

    そのうちにも、がんは父の身体を攻撃し、3月に入ってからは、父は高熱と猛烈な咳とで、著しく体力を落としていた。電話をするたび、母の声の向こうで、父が激しく咳込むのが聞こえる。電話越しで聞いているだけでも胸が迫るのに、朝から晩まで、咳こむ声を聞き続けている母の心労を思った。

    離れていると、何もできない。

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    そして3月末。春が来て、町の至るところで桜が次々に開いた。タイダル・ベイスンの桜を見ても、カテドラルの桜を見ても、去年、小畑さんとここに来たことを思い出した。一緒に見られないことが残念でならなかった。

    そして4月6日。わたしは久しぶりに集中して長い原稿を書いたせいか、全身が凝っていたので、近所に住む指圧・マッサージの日本人セラピストのところへ電話をした。あいにくその日は予約がいっぱいだったのだが、午後になりキャンセルが出たとの電話が入り、わたしは出かけた。

    青空が澄み渡る、少し肌寒い夕暮れ時。早めに家を出て、散り始めた桜を眺めつつ、再来週にはインド旅行だというのに、なぜかやるせない気持ちでゆっくりと散歩しながら、彼女の家に向かう途中のことだ。

    このあたりは緑の広々とした芝生の空き地や庭が点在し、いつもリスたちが走り回っている。リスは普通、人間が近寄ると一目散に逃げるのだが、ある一匹のリスだけが、木の実を食べながらわたしの方をじっと見ている。

    わたしがどんどん近づいていっても、逃げようともしない。逃げようともしないどころか、わたしに近づいてくる。このあたりのリスは木の実が潤沢にあり、人間に餌を請う必要はない。第一、そのリスは、食事中だったのだ。

    なのに、わたしの足許まで来ると、立ち止まったわたしの周りをクルクルと回り、じっとこちらを見つめている。わたしはカメラを持ち歩いていて、どんな動物もたいてい、カメラに気づくと慌てて逃げるのに、そのリスはむしろ、写真を撮られることを好んでいるかのように、カメラ目線さえ送ってきた。

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    いつまでたっても逃げようとしないので、変なリス、と思いながら、わたしは歩き始めたのだが、リスはわたしの方をみて、じっと立ちすくみ、いつまでも見送ってくれている。何度か振り返っても、まだ立ち上がったまま、こちらを見ている。

    わたしはその健気な愛らしい姿に不思議な思いで、

    「バイバイ!」とリスに向かって手を振りながら声をかけたのだった。

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    その翌日。わたしは朝から、小畑さんのことが気になって気になって仕方なかった。でも、ケヴィンに直接電話をするのは怖かった。午後になり、しかし、胸騒ぎを抑えることができず、仕事に集中できない。もしかして、という気がしてならない。

    わたしはCさんの携帯に電話をした。Cさんはすぐに電話に出た。彼女の声は硬直していた。彼女はつい、数時間前に、その知らせを受けたという。

    小畑さんが今日、4月7日の早朝3時に、息を引き取ったと。

    わたしは呆然としながら、虫の知らせって、ほんとうにあるんだ。と思った。

    わたしは、何にも手を付けることができず、コンピュータに向かった。そして、今まで彼女から届いたたくさんのメールを、一つずつ開いて、一つずつ、読んだ。こうして読み返すと、改めて、彼女の大らかな性格の裏にある、律儀さ、繊細さ、思いやりが、感じ取れた。

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    夕方になって、小畑さんのためにキャンドルに灯をともし、白檀のお線香を焚いた。

    やがてA男が帰宅し、玄関のドアを開け、キャンドルを見るなり、言った。

    「わお! ロマンティック!」

    このボケを、小畑さんに聞かせたいと思った。

    数時間後、日本の母から電話があった。久しぶりに晴れ晴れとした声だった。

    父が今朝は、約一カ月ぶりに、咳をせず、静かに、穏やかに、目覚めたというのだ。こんなに気分のいい朝を迎えられたのは本当に久しぶりだから、美穂にも伝えようと思って電話をしたのだと言ってくれた。

    わたしは小畑さんのことを母には言えず、よかったね、と言って、電話を切った。翌日、父はクリニックに行き、「峠を越しましたね」と言われたという。

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    4月7日。奇しくも去年のその日、わたしは小畑さんと共に過ごし、桜を見た。

    わたしは、彼女がどこかに行ってしまう前に、このワシントンDCにも立ち寄ってくれたのではないかと思う。必ず行くから、と彼女は言っていたから、散る間際の、日本から来た桜を見に来たのだと思う。

    これを言うと、A男は哀れむような顔をして、「それはないと思うよ」とわたしを諫めたけれど、自分でもそれは単なる偶然だとは思うけれど、笑われるのを承知で、でも、敢えて書く。

    あの日、小畑さんはリスに姿を借りて、わたしのところにもお別れを言いに来てくれたのではないだろうかと。

    そして、アメリカ大陸を横切って、太平洋を横断して、日本に帰って、ひょっとすると福岡にも立ち寄って、わたしの父のところに「魔法の粉」をパラパラと振りかけてくれたのかもしれないと。

    そんなことはこじつけだということも、自己満足な思いこみだということもわかっている。ただ、彼女は律儀な人だから、そうやって、自分と関わりのあった人たちのもとに、何かをもたらして、去っていったのに違いないと、わたしは思いたいのだ。

    短い付き合いだったにも関わらず、しばしば顔を合わせていたわけではなかったにも関わらず、次々に思い出があふれてきて、この文章も、いつまでも終わらない。

    ケヴィンや日本のご家族の心中を想像するに、胸が押しつぶされる思いだ。

    わたしの悲しみは、彼らの悲しみの比ではない。

    そして小畑さん自身が、いかに無念だったか。それを思うと、言葉がない。

    「坂田さん。あなたが好きなように、何を書いてくれてもいいから」

    彼女の言葉を受けて、だから今日、わたしはこうして、心おきなく、彼女のことを書かせてもらった。

    彼女から学んだことは、今、ここで書けるようなささやかなものではない。

    小畑澄子さん、いろいろと、ありがとう。

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    (情報整理をしようと思いつつ、そのままのノート)

    今日、インドは「破壊と再生」を司るシヴァ神を祀る祝祭日、マハー・シヴァラートリ(Maha Shivratri/偉大なシヴァの夜)であった。インドは毎年、暦によって変わる「移動祝日」が大半。そんな中、東日本大震災、そして原発事故から10周年を迎えた今日、「破壊と再生」という言葉を噛み締める縁を思う。

    ★ドイツ、原発ゼロ22年達成へ、再生エネに急転換
    ➡︎http://nikkei.com/article/DGXZQOGR09BBV0Z00C21A3000000/

    ★ハチドリ電力/自然エネルギーの発電
    ➡︎https://hachidori-denryoku.jp/

  • MANDARA

    1986年。35年前、20歳の春休み。発作的に描いた2枚の曼陀羅。

    大学の寮から帰省し、実家で過ごしていたある日。実家に掛かっていた曼荼羅の絵を見て、自分も描いてみたくなった。部屋にあった、高校時代の絵具や筆、画用紙を使い、アルバイトの合間を縫って、わずか数日で2枚描いた。

    1枚目は、ほとんど模倣。ただ、自分の名前を「隠し絵」のようにして紛れ込ませた。先日の『アンベードカルとインド仏教、佐々井秀嶺上人』のセミナー動画で、その写真を紹介した(動画では19歳と言ったが調べたら20歳のときだった)。すると、ご覧になった方から、曼荼羅に感銘を受けたとのメッセージをいただいた。

    動画で紹介した1枚は、実家に飾られている。もう一枚は、手元にあるはずだ。今朝、クローゼットを開いて久しぶりに発掘、しみじみと眺めた。描いた当初は、暑苦しい画になってしまった気がして、あまり気に入ってはいなかった。しかし35年ぶりにじっくり眺めると、かなり感慨深い。

    当時のわたしは、その半年前に初めて海外旅行を体験、1カ月の米国滞在した直後で、感性が炸裂していた。それはこの年、大学祭実行委員長を引き受けて、準備、実施するまで続くのだが、まさに若い力が漲っていたころだ。

    インターネット台頭以前。絵の素材は印刷媒体を参考にした。

    子どものころから自然破壊や環境問題に敏感だったことは過去にも記したが、その思いは多分、常に根底にあったのだろう。

    この絵を描く数カ月前の1月28日。スペースシャトルのチャレンジャーが発射73秒後に爆発。飛行士7名が死亡した。その経緯をレポートする『ニューズ・ウィーク』誌の特集にあった写真を見て、スペースシャトルを描いたことは覚えている。

    月の満ち欠けは、歳月の流れを表している。その上には涅槃。

    しかし右上は、ゴミの山。埋立地に林立する団地に押し寄せる津波……。

    昭和40年代、わたしが育った福岡市東区名島、千早界隈。かつては海辺だった場所が埋め立てられ、「城浜団地」ができた。かつて山だった場所が造成されて「三の丸団地」ができた。
    その変遷を、この目で見てきた。高度経済成長に伴う環境の歪みを、本能的に感じ取っていた。思えばあれは、野生の勘のようなものだった。

    中学2年のころ。大反抗期で成績は急下降していながらも、作文の宿題はしっかりやり、それが福岡県知事賞を受賞、テレビに出演し、朗読した。その作文も、同様のテーマだ。

    試験管はそのまま、「試験管ベイビー」を意味している。1978年、英国で初めて「体外人工受精」により、子供が誕生した。今ではごく一般的な治療と生誕の形になっているが、当時は物議を醸した。

    ちなみにわたしは卒業論文で「安部公房」を取り上げたのだが、彼は1977年に発表された『密会』という作品の中で、すでに「試験管ベビー」という表現を使い、人工授精で生まれた女性を登場させている。

    そもそも理系である安部公房の先見の明や世界を見る目には驚嘆すべき点が多々あるのだが、この予見には、今改めて、鳥肌が立つ。

    ミツバチのモチーフは、多分、ミツバチがいなくなると、人間の存在が危うくなるという話をどこかで知り、使ったのだと思う。農薬などへの危機感も、わたしの中にあったのかもしれない。嫌な予感は当たり、今やミツバチは減少の一途を辿っている。

    そしてリンゴ。当時は、アダムとイヴの禁断のリンゴ=原罪を表すために描いた。しかし、今の世界を席巻しているAppleのiPhoneを予見していた……とは、こじつけだ。

    そして、ムンクの叫び。これは、絵の中の人物が叫んでいるのではない。

    彼は「耳を塞いでいる」。以下は、ムンク本人が、この絵に言及した一文だ。

    「私は2人の友人と歩道を歩いていた。太陽は沈みかけていた。突然、空が血の赤色に変わった。私は立ち止まり、酷い疲れを感じて柵に寄り掛かった。それは炎の舌と血とが青黒いフィヨルドと町並みに被さるようであった。友人は歩き続けたが、私はそこに立ち尽くしたまま不安に震え、戦っていた。そして私は、自然を貫く果てしない叫びを聴いた。」
    自然を貫く果てしない叫び。

    35年前には、耳を澄まさなければ聞こえなかった叫びは、今、地球全体に轟轟と響き渡っている。

    くどいようだが、先日も紹介したデイヴィッド・アッテンボローの『地球に暮らす生命 (NETFLIX)』。

    地球環境を改善するために我々人間ができることが、最後の最後で提案されている。

    一人でも多くの人に見て欲しいと思う。

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    Spring break in 1986. I returned home from the university dormitory. One day, when I saw a mandala painting hanging at my parents’ house, I wanted to draw it myself. I painted 2 pieces of them.

    The first piece was almost an imitation of the original painting. However, I drew my name as a “hidden picture”.

    Another one. I opened the closet this morning and searched. I took it out after a long time. At the time I drew it, I didn’t like it because it didn’t look sophisticated. However, when I see it for the first time in 35 years, I am quite moved.

    January 28, a few months before I drew this picture. The Space Shuttle Challenger explodes 73 seconds after launch. Seven aviators have died. I drew this picture after seeing a photo in a special feature of Newsweek magazine reporting the accident.

    The phases of the moon represent the passage of time. On top of that is Nirvana.

    However, the upper right is a pile of garbage. A tsunami rushing to a housing complex that stands in reclaimed land.

    Fukuoka city where I grew up in the 1960s. The former seaside area was reclaimed, the former mountain was shaved, and countless apartment buildings were built.

    I have seen the transition with my own eyes. I instinctively felt the distortion of the environment due to the high economic growth. It was like a wild intuition.

    The test tube as it is means “test tube baby”.

    In July 1978 Louise Brown was hailed as the world’s first “test-tube baby”, born through the fertility treatment IVF. It is now a very common form of treatment and birth, but at the time it was controversial.

    I think I used the honeybee motif because I learned somewhere that the existence of human beings would be jeopardized if the honeybees disappeared.

    Concerns and a sense of crisis about the use of pesticides may have been in me. My unpleasant premonition was right, and now the number of bees is steadily decreasing.

    And an apple. It was drawn to show the forbidden apple = original sin of Adam and Eve. However, I foresaw Apple’s iPhone, which is sweeping the world today … That should not be.

    The Scream.

    Created by Edvard Munch. He later described his inspiration for the image:

    I was walking along the road with two friends – the sun was setting – suddenly the sky turned blood red – I paused, feeling exhausted, and leaned on the fence – there was blood and tongues of fire above the blue-black fjord and the city – my friends walked on, and I stood there trembling with anxiety – and I sensed an infinite scream passing through nature.

    The person in the picture is not screaming. He is blocking his ears. The following is a sentence that Munch himself mentioned about this painting.

    An endless cry that penetrates nature.

    Thirty-five years ago, the screams were still quiet. But now, it’s roaring all over the globe.

    Please watch this movie. David Attenborough’s “A Life on Our Planet”. (NETFLIX)

    What we humans can do to improve the global environment is proposed at the very end. I want as many people as possible to watch this movie.

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    先進国/新興国/途上国/資本主義……諸々に違和感

    今朝は月に一度のFM熊本収録日につき、早朝起床。今回のテーマは、価値観の見直しが必要な時代の到来について。

    数分間で軽く語れるテーマではないことも、テーマとしては重めであることも承知のうえで、思うところを伝えたい。

    昨今のCOVID-19世界を眺め、軒並み「先進国」とされる世界が混沌としているのを見るにつけ、海外生活を始めた直後の25年前から、常々感じてきた世界の「優劣」の定義に、今、改めて、強い違和感を覚えている。

    たとえインドに暮らしている日本人でも、ここに住んでいる理由、あるいは、住んでいる土地、主たる情報源、また関わる人たちによって、物の見方や考え方、感受性は著しく異なる。ゆえに、日本に暮らす人は、インドに対して偏った情報しか得られないのはやむを得ないだろう。なお、わたし一個人の立場から、この状況を見るに、インドにおけるCOVID-19は、収束に向かいつつあると実感している。無論、他の社会問題は山積しているが。

    * * *

    今年に入って「知能指数より知恵指数」とか、「不易流行」とか、いろいろ書き続けているが、これからも、世間からの反応が薄いのを覚悟で、しつこく発信し続けていくつもりだ。

    今日、お勧めしたいのは、デイヴィッド・アッテンボローの映画『地球に暮らす生命』。NETFLIXで見られる。手書きノートにも軽く言及しているが、とにかくは「最後まで」見てほしい。地球に生きる人間として、この事実は知っておくべきだし、知った上で行動せねばならないと思う。この映画を見た後に、わたしは諸々が腑に落ちて、思うところを発信し続けようとの思いを強くした。

    わたしは子どものころから、地球環境の破壊や天災に対して敏感で、異様なほどの恐怖心を抱いていた。その傾向を強くさせた一つに映画『ノストラダムスの大予言』がある。1973年に公開されたその映画。他の映画を見るために訪れた映画館で、予告編を見ただけで恐怖の極みに陥り、何の映画を見に行ったのかは覚えていないにもかかわらず、その予告編だけが脳裏に刻まれた。

    以来、「わたしは33歳で死ぬのだ。夫と二人の子供もいっしょに……」などと、妄想していた。実際のところ、33歳のわたしはまだ独身で、55歳の今も元気で生きているのだが。

    アッテンボロー『地球に暮らす生命』を見た後、ふと『ノストラダムスの大予言』を思い出して検索した。ビンゴだった。この映画は、単に恐怖心を煽るパニック映画ではない、「環境問題への真剣な警告」が主旨の、未来予測の映画であった。なんとかして見てみたいものだ。

    以下、Wikipediaよりあらすじの一部を抜粋。

    「……良玄は、人類の行き過ぎた開発が人類を滅亡させるとして、必要以上の生産を止めるよう提言するが、人々の興味は生活の向上や生産の増加に向いており、逆に「ヒューマニズムの崩壊」と批判される始末。国際会議も、発展途上国の人口増加が環境破壊に拍車をかけていると主張する先進国と、先進国の資源浪費が環境破壊の原因だと反論する発展途上国が対立して紛糾する。そんな中、太平洋上の海面が凍りつき、エジプトで雪が降るなどの異常気象が発生。さらに、成層圏に滞留した放射能がニューギニアに降り注いだとの知らせが届き、国際合同調査隊が派遣されることになった……」

    ほんといい加減、方向転換しないと、人類。

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    『地球に暮らす生命』を見て、デイヴィッドの最後の言葉を聞いて、子どものころからずっと抱え続けてきた違和感を拭うための、自分なりの解決法を、今日、はじめて「言語化」できた。

    いろいろなことが、腑に落ちた。そして、この言葉が浮かんだ。

    自分が心がけてきたこと、やってきたことの多くを、ひとまとめにできる、わかりやすい「指針」が生まれた。ひとつの方向性。これから少しずつ、整理していこう。

    In the coming era, we should improve not only IQ (Intelligence Quotient) but also WQ (Wisdom Quotient).

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    JALの機内誌、『SKYWARD』が、今日、ようやく手元に届いた。ゲラ(校正刷り)は、編集部とオンラインでやりとりしていたが、実際の上がりを見ると、達成感もひとしおだ。

    フォトグラファーが捉えたバンガロールは、しかし自分もその場にいて、被写体を見つめていたこともあり、厚かましくも、まるで自分が撮ったかのような気分になる心地よさ。わずか11ページではとても収まりきれなかったバンガロールの魅力を、もっともっと、こうして紙面にできたらとの思いが湧き上がる。

    魅力的な写真で読者の視線を引き付けられれば、きっと文章も読んでもらえるはず。2月は短く、しかし日本航空の国内線、国際線、すべてのフライトに乗せられ、世界中を巡るこの雑誌。無数の機上の人々に、バンガロール(ベンガルール)の存在を知ってもらえることだろう。

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    多くのインド人にとって、クリケットとは決して欠かすことのできない一大エンターテインメントとしてのスポーツだ。インドに移住する前、米国在住時から、夫のクリケットに対する熱心さには、ときに驚き、ときに呆れていた。

    2005年11月にインドへ移住してからは、このクリケットが、多様性の巨大国家インドにおいて、国民の意識を集約することができる、極めて重要なスポーツであるということを認識した。

    2019年5月現在、インドはIPL(インディアン・プレミア・リーグ)開催の真っ只中だ。さらに今年は、4年に一度のワールドカップも控えており、インド世間のクリケット観戦の日々はまだまだ続く。

    クリケットの概要を知っておくと、インドの人たちとの「世間話」も、無難に盛り上がる。ここでは、過去、クリケットに関して記した記事を一括して紹介している。かつて5年に亘って寄稿していた西日本新聞のコラム『激変するインド』の記事も転載した。古い記事が中心だが、11年前にIPLが誕生した経緯やスタジアム観戦の記録などもあり、雰囲気をつかめることだと思う。

    下部には、クリケットに言及したブログのリンクもはっている。参考にしていただければと思う。

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    ●クリケット:プロリーグ誕生に沸く(2008年4月)

    多様性の国、インドにおいて、宗教や言語、階級の違いを超え、国民が一丸となって熱狂するスポーツがクリケットだ。

    英国発祥のこのスポーツは、オーストラリアやニュージーランド、インド、パキスタン、南アフリカなどの英連邦諸国や、かつて英国統治下にあった国々で人気がある。日本人にはなじみが薄いが、白いユニフォーム姿の選手が、緑鮮やかな芝生のフィールドでゲームをしている様子を映画などで目したことがある方も多いのではないか。

    クリケットは野球の原型とも言われ、各11人の2チームが、攻守交代しながら得点を競う。野球との大きな違いは、そのゆったりとした時間の流れだ。伝統的な国別対抗戦である「テストマッチ」の場合、通常1試合に4、5日を要する。「ワンデイマッチ」でも1試合に7時間。主要な試合が行われるときには、国民の多くがテレビに釘付けとなるため、各種業務は滞り、一方で交通渋滞がなくなる。

    特に4年に一度行われるワールドカップ期間中は、その盛り上がりが一段と激しい。試合中は、たとえ自分がテレビを見ていなくても、同じタイミングで、ご近所のあちこちから歓声や拍手が聞こえて来るため、おのずと試合の運びがわかる。

    ところで我が家のインド人(夫)も、例に漏れずクリケットファンだ。ことあるごとに、「これは大事な試合だから」と、テレビに見入っている。一年のうちにどれだけ大事な試合があったか、数えきれない。

    さて、つい先日、インドのクリケットに新たな潮流が誕生した。プロクリケットリーグのIPL(インディアン・プレミア・リーグ)がそれだ。シーズンは44日間、8チームによって全59試合がインド各地のスタジアムで開催される。試合形式は、近年登場した「トゥエンティ・トゥエンティ (Twenty 20)」。1試合約3時間程度で終了する。

    4月18日、当地バンガロールにて、IPLの歴史的な開幕試合が行われた。ボリウッド映画の大物俳優シャールク・カーンが所有する「コルカタ・ナイト・ライダーズ」と、著名な実業家のヴィジャイ・マリヤが所有する「ロイヤル・チャレンジャーズ」との対戦だ。ふだんはクリケットに関心のないわたしも夫とともにテレビに向かう。華やかなパフォーマンスによる幕開けのあと、派手なユニフォームに身を包んだ選手たちがフィールドに散らばった。

    オーストラリアやニュージーランドからの外国人選手らの姿も見られる。カメラワークも従来のクリケット試合とは異なり非常にアクティブ。盛り上がる観客席の様子や、セクシーなコスチュームのチアリーダーたちを映し出し、まるで米国のスポーツゲームを見ているようだ。国内外企業の広告も華やかに、経済効果の高さもしのばせる。

    さて、翌々日の20日。コルカタでの第2戦を居間で観戦していた夫が、突然、不満の声を上げた。聞けば、スタジアムが停電となり、復旧まで試合中断とのこと。画面には、慌てるでもなく実況中継をするリポーターや、のんびりと再開を待つ観客らが映し出されていた。やはりインドはインドだな、と苦笑させられるとともに、なぜか少し、ほっとした。

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    ●クリケット:スタジアムで気分が高揚(2011年6月)

    米国に住んでいたころの夫は、故国インドに対する関心が低かった。しかしクリケットの試合に関しては別。ワールドカップ(W杯)の開催時は、たとえ深夜でも、試合を受信できるケーブルのあるインド系の飲食店へ赴く。普段は睡眠不足を嫌う夫が、朝方帰宅し、爽やかに出勤する姿に、目を見張ったものだ。

    多様性の国と呼ばれるインドにおいて、国民が一丸となって熱狂するスポーツ、クリケット。野球の原型と言われているが、速やかな試合運びの野球とは異なり、長時間を要する。伝統的な国別対抗戦「テストマッチ」は、1試合が4、5日間に亘る。「ワンデイマッチ」でも1試合が約7時間だ。主要な試合開催時は、世の中の機能が滞る。家電店の前には人だかりができ、通行人が試合に見入る。飲食店では、お客も従業員も、テレビの画面に視線が釘付けだ。

    今年の4月は、4年に一度のW杯がインドで開催された。特に盛り上がりを見せたのは、インド対パキスタンの準決勝戦。パキスタンのギラニ首相も訪れ、インドのシン首相と並んで観戦した。この状態をして「クリケット外交」と呼ばれる。インド勝利後、シン首相が感情を抑え、穏やかに拍手をする姿が印象的だった。最終的に、インドは決勝まで上り詰め、スリランカを破って28年ぶりに優勝。勝利の瞬間、近所に歓声が響き渡り、市街の随所で花火が打ち上がった。

    W杯の興奮冷めやらぬ直後、今度はインド国内のプロクリケットリーグ、IPL(インディアン・プレミア・リーグ)のシーズンが始まった。2008年に誕生したIPL。インド各地拠点の10チームが、各都市で戦う。試合形式は、1試合約3~4時間で終了する「トゥエンティ・トゥエンティ」。国内外の名選手たちが顔を揃え、チアリーダーが花を添える。加えて広告合戦も白熱。紳士のスポーツというよりは、一大エンターテインメントだ。

    今年は夫に誘われて、わたしは初めてスタジアムで観戦した。大渋滞のスタジアム周辺は、縁日のような賑わい。地元チーム「バンガロール・ロイヤル・チャレンジャーズ」のロゴ入りTシャツや、旗などが売られている。観客席には家族連れがあふれ、試合前から熱気でいっぱいだ。

    この日の対戦チームは人気俳優が所有する「コルカタ・ナイト・ライダーズ」。選手たちが入場するや、歓声がとどろき、クリケットファンでないわたしでも、気分が高揚する。夫にルールを教わりながら観戦。テレビで見るのとは異なり、ポジションや動きの全容を見られるので、試合の流れがよくわかり、想像以上に楽しい。

    あいにく途中で雨が降り出した。延期かと思いきや、巨大なビニルシートが運び出され、フィールドを覆う。観客は、雨が上がるのを根気よく待つ。結局2時間後に試合再開。待ち時間が長かった分、約4時間の試合はむしろ短く感じた。

    インド生活6年目にして、ついにわたしも、クリケットを楽しめるようになってきたようだ。

    【追記】インド生活21年目の現在、ワールドカップ決勝でインド対ニュージーランドが白熱の試合を展開しているようだが、わたしはクリケットを全く楽しんでいない。明日は早朝起床で旅だ。早く寝たい。

     

    【過去、ブログに記したクリケット関連の記事】

    インドに暮らし始めて1年余りが過ぎたころ。夫が、世間が騒ぐクリケットに関心がなかったものの、一応、世の趨勢をまとめてみた記録。

    インド経済にバブルの香りがプンプンと漂っていたころ。インドにて、クリケットのプロリーグIPLが誕生したときの、最初の試合をテレビで観戦したときの記録。

    4年に一度開催されるクリケットのワールドカップにて、インドが優勝した時の、世間の盛り上がりをレポート。

    夫の熱心な誘いに根負けして、初めてスタジアムに足を運び、クリケット観戦をしたときの記録。試合云々よりも、普段は時間にルーズな夫が、「超前倒し」で家を出るべく妻を急かしてスタジアムに向かったことや、途中で大雨が降ったにも関わらず、観客は去ることなく根気強く待ったこと、さらには、雨が降り出すや否や、スタジアムが巨大なビニルシートで覆われ、雨後は巨大なスポンジボブがスタジアムの水分を吸収したことなど、試合とは関係ないところのエピソードが濃い。

    日本料理店EDOにてサンデーブランチを楽しんでいたとき、隣席にクリケットのスーパーヒーロー、サチン・テンドルカールほか数名選手がやってきた! サチンがどれほどの選手かというと、日本の野球選手にたとえるならば、全盛期の王貞治と長嶋茂雄を足して割らずに煮詰めたくらいの存在感。例えが古いか。イチローと松井を煮詰めた感じか。それもやや古いか。ともあれ、彼の存在感には、目が♥にさせられたのだった。

    一回で十分、と思っていたクリケット観戦だが、RKBラジオの収録を前に、鮮度の高い話題を仕入れておこうと、夫に誘われるがままスタジアムへ。地元ロイヤル・チャレンジャーが勝利し、決勝進出! の盛り上がった試合だった。

    マルハン家は年に一度、米国永住権維持の目的でニューヨークを訪れている。その経由地ロンドン(英国)でゆっくり滞在したかった妻の思いは却下され、なぜか夫のクリケット印パ戦に付き合わされてバーミンガムくんだりまで訪れたときの記録。

    ◎泥沼に咲く蓮の花。印パのクリケット試合(2004年3月)

    米国在住時。クリケットに全く関心のなかったわたしだが、夫のクリケット熱の強さに影響され、印パのクリケット外交に関する記事を、当時発行していたメールマガジンに記している。

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    初の海外取材先である台湾からの帰国後は、それまで以上に苛酷な仕事が待っていた。寝ても覚めても編集作業に追われる日々が続いていたころ。新年明けてまもない寒い朝、昭和天皇崩御のニュースが届いた。昭和が終わり、翌日から平成がはじまった。バブル経済のピークを迎えていた当時の日本は、不自然に浮かれていた。街ゆく若い女性たちは、ワンレングスの長い髪にボディコンシャスなワンピース、高級ブランドのハンドバッグを携え煌びやかだ。安い衣類に身を包み、概ね疲労していたわたしにとって、そんな浮世の趨勢は、遠くから聞こえる太鼓の音のようだった。

    台湾のガイドブックが校了した直後、一息つくまもなく、シンガポールとマレーシアの取材を命じられた。どんなに多忙でも、海外出張に行けることは、うれしかった。取材前に不可欠なのは情報収集。書店や図書館で関連書籍を入手し、未知なる国の情報を得る。観光事情に関しては、都内にある各国の政府観光局を訪れ、地図やパンフレットなどを収集した。

    シンガポールに関する知識がほとんどなかったわたしにとって、得られる情報すべてが新鮮だった。シンガポールもまた台湾同様、大日本帝国の影響を受けていた。シンガポールは1819年、イギリス東インド会社の書記官だった英国人トーマス・ラッフルズの上陸を契機に、大英帝国による植民地時代が始まった。第二次世界大戦中の1942年に英国支配は終焉。代わって大東亜共栄圏の構築を目指す日本軍による占領が始まり、シンガポールは「昭南島」と改名された。シンガポールを象徴する高級ホテル「ラッフルズ・ホテル」は接収後、「昭南旅館」と呼ばれ、日本陸軍将校の宿舎となった。同国の日本統治は、1945年8月の日本の敗戦まで続き、以降は再び英国の支配下に戻った。完全に独立したのは1965年、わたしが生まれた年のことだ。

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    シンガポール取材は、年上の男性編集者と外部カメラマン2名の計4人が2班に分かれて行われた。シンガポールは、東京23区より少し大きいくらいの国土面積であることから、全容を把握しやすく、移動は比較的、楽だった。観光地やレストラン、ホテル、ショップなどを片っ端から取材したのだが、年上の男性編集者が、「おいしいとこ取り」をしていた。人気店の大半を自分が担当し、残りをわたしに回していたのだ。今、当時のガイドブックを開けば、「チリクラブは、ほんと旨い」とか「フィッシュヘッド・カレーは最高」とか「ペーパーチキンは絶品」とか「あのチキンライスは抜群」といった彼の言葉が、30年経ってなお、忌々しくも鮮やかに思い返される。

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    残念な記憶の一方で、シンガポールでは目に映るものすべてが、日本と同じアジアの国とは思えぬ多様性に満ちていて、興味深かった。英国統治時代の影響を受けたコロニアル様式の白亜の建築物が目を引く一方で、漢方薬の香り漂うチャイナタウン、山積みの唐辛子やスパイスが店頭を賑わすリトルインディア、モスクからコーランの旋律が響くアラブ・ストリート……と万華鏡のような街並みに心を奪われた。当時は古びた建物ばかりで、それがエキゾチシズムをより強くしていた。香水の匂いが漂う、冷房の効いたショッピングモールが林立するオーチャードロードを歩くよりも遥かに楽しかった。

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    フランス、イタリア、スイス、ロシア、中国、インド、タイ、ヴェトナム、韓国、メキシコ、マレー系のニョニャ料理……と、世界各地の料理店の存在も、この国の多様性を物語っていた。ホウカーセンターと呼ばれる屋台街の喧騒、シーズンだったドリアンの強烈な匂いも記憶に鮮やかだ。英国統治時代の名残を映したハイティーがまた、魅力的だった。ランチとディナーの間のティータイムに、ケーキやスナックを楽しむ習慣だ。取材当時、ラッフルズ・ホテルが改装中だったので、やはり英国統治時代の面影残すグッドウッドパーク・ホテルのハイティーを取材した。しかし、この取材は写真撮影だけで、味わうに至らず。

    結果的に、この取材では、深く心に残る味覚に出合えなかった。ただ、忘れ得ぬエピソードをひとつ、残しておきたい。

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    とある日本料理店を取材したときのことだ。ランチ営業を終え、傾き始めた陽光が差し込む店内で、従業員がカーペットに掃除機をかける中、黒いスーツに身を包んだ店長に話を聞いた。一通り取材を終えたあと、多分わたしは、「海外でのお仕事はたいへんですね」といったことを、口にしたのだと思う。すると彼は淡々と、話を始めた。彼は赴任当初、ローカル・スタッフが時間にルーズで、仕事が遅いことに不満を持っていた。事あるごとに従業員を叱責していたあるとき、マレー系マネージャーに言われたのだという。

    「あなた方は数年間だけ、この暑い国で働いて、成果を出せればそれでいいでしょう。しかし、僕たちは生涯、永遠の夏の中で過ごすんです。あくせく働いては、いられません」

    「永遠の夏」という言葉に、店長は、我に返った。自分たちの価値観を押し付けていたことを顧みる契機になり、諸々を改善したのだという。「永遠の夏」は、23歳のわたしの心にも深く刻印された。今でもシンガポール取材を象徴する大切な思い出として、心に在る。

  • 🌏Singapore (July1989)

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    初の海外取材先である台湾からの帰国後は、それまで以上に苛酷な仕事が待っていた。寝ても覚めても編集作業に追われる日々が続いていたころ。新年明けてまもない寒い朝、昭和天皇崩御のニュースが届いた。昭和が終わり、翌日から平成がはじまった。バブル経済のピークを迎えていた当時の日本は、不自然に浮かれていた。街ゆく若い女性たちは、ワンレングスの長い髪にボディコンシャスなワンピース、高級ブランドのハンドバッグを携え煌びやかだ。安い衣類に身を包み、概ね疲労していたわたしにとって、そんな浮世の趨勢は、遠くから聞こえる太鼓の音のようだった。

    台湾のガイドブックが校了した直後、一息つくまもなく、シンガポールとマレーシアの取材を命じられた。どんなに多忙でも、海外出張に行けることは、うれしかった。取材前に不可欠なのは情報収集。書店や図書館で関連書籍を入手し、未知なる国の情報を得る。観光事情に関しては、都内にある各国の政府観光局を訪れ、地図やパンフレットなどを収集した。

    シンガポールに関する知識がほとんどなかったわたしにとって、得られる情報すべてが新鮮だった。シンガポールもまた台湾同様、大日本帝国の影響を受けていた。シンガポールは1819年、イギリス東インド会社の書記官だった英国人トーマス・ラッフルズの上陸を契機に、大英帝国による植民地時代が始まった。第二次世界大戦中の1942年に英国支配は終焉。代わって大東亜共栄圏の構築を目指す日本軍による占領が始まり、シンガポールは「昭南島」と改名された。シンガポールを象徴する高級ホテル「ラッフルズ・ホテル」は接収後、「昭南旅館」と呼ばれ、日本陸軍将校の宿舎となった。同国の日本統治は、1945年8月の日本の敗戦まで続き、以降は再び英国の支配下に戻った。完全に独立したのは1965年、わたしが生まれた年のことだ。

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    シンガポール取材は、年上の男性編集者と外部カメラマン2名の計4人が2班に分かれて行われた。シンガポールは、東京23区より少し大きいくらいの国土面積であることから、全容を把握しやすく、移動は比較的、楽だった。観光地やレストラン、ホテル、ショップなどを片っ端から取材したのだが、年上の男性編集者が、「おいしいとこ取り」をしていた。人気店の大半を自分が担当し、残りをわたしに回していたのだ。今、当時のガイドブックを開けば、「チリクラブは、ほんと旨い」とか「フィッシュヘッド・カレーは最高」とか「ペーパーチキンは絶品」とか「あのチキンライスは抜群」といった彼の言葉が、30年経ってなお、忌々しくも鮮やかに思い返される。

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    残念な記憶の一方で、シンガポールでは目に映るものすべてが、日本と同じアジアの国とは思えぬ多様性に満ちていて、興味深かった。英国統治時代の影響を受けたコロニアル様式の白亜の建築物が目を引く一方で、漢方薬の香り漂うチャイナタウン、山積みの唐辛子やスパイスが店頭を賑わすリトルインディア、モスクからコーランの旋律が響くアラブ・ストリート……と万華鏡のような街並みに心を奪われた。当時は古びた建物ばかりで、それがエキゾチシズムをより強くしていた。香水の匂いが漂う、冷房の効いたショッピングモールが林立するオーチャードロードを歩くよりも遥かに楽しかった。

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    フランス、イタリア、スイス、ロシア、中国、インド、タイ、ヴェトナム、韓国、メキシコ、マレー系のニョニャ料理……と、世界各地の料理店の存在も、この国の多様性を物語っていた。ホウカーセンターと呼ばれる屋台街の喧騒、シーズンだったドリアンの強烈な匂いも記憶に鮮やかだ。英国統治時代の名残を映したハイティーがまた、魅力的だった。ランチとディナーの間のティータイムに、ケーキやスナックを楽しむ習慣だ。取材当時、ラッフルズ・ホテルが改装中だったので、やはり英国統治時代の面影残すグッドウッドパーク・ホテルのハイティーを取材した。しかし、この取材は写真撮影だけで、味わうに至らず。

    結果的に、この取材では、深く心に残る味覚に出合えなかった。ただ、忘れ得ぬエピソードをひとつ、残しておきたい。

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    とある日本料理店を取材したときのことだ。ランチ営業を終え、傾き始めた陽光が差し込む店内で、従業員がカーペットに掃除機をかける中、黒いスーツに身を包んだ店長に話を聞いた。一通り取材を終えたあと、多分わたしは、「海外でのお仕事はたいへんですね」といったことを、口にしたのだと思う。すると彼は淡々と、話を始めた。彼は赴任当初、ローカル・スタッフが時間にルーズで、仕事が遅いことに不満を持っていた。事あるごとに従業員を叱責していたあるとき、マレー系マネージャーに言われたのだという。

    「あなた方は数年間だけ、この暑い国で働いて、成果を出せればそれでいいでしょう。しかし、僕たちは生涯、永遠の夏の中で過ごすんです。あくせく働いては、いられません」

    「永遠の夏」という言葉に、店長は、我に返った。自分たちの価値観を押し付けていたことを顧みる契機になり、諸々を改善したのだという。「永遠の夏」は、23歳のわたしの心にも深く刻印された。今でもシンガポール取材を象徴する大切な思い出として、心に在る。

  • 🌏【異郷の食002】Taipei, Taiwan (November 1988)

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    大学2年の夏、米国西海岸で経験した1カ月のホームステイ留学を契機に、地元福岡で国語の高校教師になるという進路を見直した。就職情報が乏しい時代。資料を集めて読み漁り、検討した結果、東京の出版社を目指すことにした。就職活動が解禁になった大学4年の夏。東京のウイークリーマンションに1カ月間、部屋を借りた。

    インターネットのない時代。願書などは「郵便」でのやりとりだったゆえ、受験できる会社も10社が限界だった。東京に住んでいたボーイフレンドの助けを借りつつ東奔西走したが、結果は全滅。しかし世はバブル経済にわいている。一旦、東京に出てアルバイトをしながら、就職先を探そうと決めた。

    1988年3月。大学の卒業式の謝恩会で、お世話になった大学教授にその旨を話したら、大いに呆れられた。見かねた教授は、東京に住む大学時代の友人のつてで、旅行ガイドブックを作る編集プロダクションを紹介してくれ、面接にまで同行してくれたのだった。教授の計らいで職を得られたことは切にありがたかったが、労働条件は過酷だった。

    手取り11万円の薄給ゆえ、住まいは千葉県柏市の礼金敷金なしの安アパート。通勤には片道1時間半〜2時間かかる。華やかなバブル景気とは裏腹な、極貧生活が始まった。コンピュータはおろか、ワープロさえないオフィスには、常に紫煙が漂っている。書籍や資料で埋め尽くされた社員らのデスク。灰皿やゴミ箱、流しやトイレを掃除するのも新入社員の仕事だった。

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    その編集プロダクションでは、大手旅行会社が発行する国内外の各種旅行ガイドブックや情報誌の制作を行っていた。ページネーション作りにはじまり、外部ライターへの原稿の発注、文字校正、写真選び、デザイン発注、写植入稿、印刷所への版下入稿など、コンピュータによるDTP(デスクトップパブリッシング)が主流となった現在では想像を絶するような「アナログ」な編集工程を、先輩の作業を見ながら学んだ。労働環境は、今でいう「ブラック」の極みだ。

    入社間もないころから、関東近辺の取材を命じられた。初取材とて一人。見かねた外部のカメラマンに取材の流儀を教わることもあった。一事が万事、極めて雑なOJT(On-the-Job Training)だった。

    とある温泉地へ取材へ赴く前、先輩編集者から「モデル」もやるよう命じられた。もちろん嫌だった。ボーイフレンドも反対した。しかし、逆らうという選択肢はなかった。今のわたしなら当然断る。尤も、今のわたしに誰も脱げとは言うまいが。モデルでもないのに、半裸でカメラマンの前に現れねばならぬという苦行。

    しかし、その一部始終に一番驚いていたのは、ほかでもない取材先の温泉宿の女将だった。それまで宿について質問をしては、メモを取っていた、色気もくそもない編集者が、突然服を脱ぎ、眼鏡を外し、手ぬぐい一枚で現れるのだから。

    だから挙げ句の果てに、仕上がった写真を見た先輩編集者から、「坂ちゃん、二の腕が太い! この写真、使えない!」と言われた時には拳が震えた。時代が時代なら、#MeTooものである。

    IMG_9280

    一つ言えることは、わずか半年足らずで「旅行誌編集者」としての基本を徹底的に叩き込まれたということだ。そして入社して半年後、初めての海外取材を命じられた。行き先は、台湾だ。この台湾取材が、その後のわたしの「旅する人生」に大いなる影響を与えることになる。

    「異国を旅するに際しては、歴史を学ぶべし」ということだ。

    ●1895年、日清戦争に勝利した日本は台湾統治を開始。以降、1945年に日本が敗戦するまでの50年間に亘り、台湾は日本だった。この間、台湾で生まれた人は、日本名を受け、日本語を話す、日本人だった。

    ●1949年、中国における「国共内戦」の結果、毛沢東率いる共産党が「中華人民共和国」を建国。一方、蒋介石総統率いる国民党政府であるところの「中華民国」は、その拠点を喪失したことから、臨時首都を台北に移転。戒厳体制が発布される。台湾では「犬(日本)が去って猿(中国)が来た」と形容される。

    ●1987年、米国からの圧力、及びソ連ゴルバチョフ政権の「ペレストロイカ」による緊張緩和政策の影響などにより、38年に亘る戒厳令が解かれる。

    ●1988年1月、蒋介石の息子、蒋経国総統が死去。李登輝が総統に。

    このような歴史的変化が起こった直後の1988年11月、海外からの旅行者を受け入れるべき台湾が門戸を開いたこともあり、ガイドブックの取材対象国となった次第である。歴史的背景を学ぶこともないまま、自分と同じ23歳の先輩編集者二人と、外部のカメラマン二人とで、台北へと飛び、2班に分かれての取材となった。240ページのガイドブックを制作すべく、台北、高雄、台中、台南、花蓮、墾丁などを3週間かけて巡る強行スケジュールだ。

    なにしろ、「手書き」の時代である。バックパックに山ほどの資料を詰め込んで、連日、レストラン、店舗、観光地、ホテルなどを何十件も取材する。通訳は、日本統治時代に生まれ育ったおじいさんゆえ、彼には随所で休憩してもらい、どうしても通訳な必要なところだけ、同行してもらった。

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    取材中は毎晩、資料整理に追われ、数時間しか眠ることができず、慢性的な疲労に襲われていたものの、初めて食する台湾の料理のおいしさには、目がさめる思いだった。蒋介石が臨時政府を樹立する際、中国本土各地の名シェフを連れてきたというだけあり、台湾では、北京、広東、四川、上海、湖南……と、中国各地の料理が揃っていた。

    また、茶藝館では、得も言われぬ芳しい香りを放つ黄金色した凍頂烏龍茶のおいしさに衝撃を受けた。日本で飲んでいたあの茶色い飲み物はいったいなんだったのか、と思わせられる、別世界の味覚だった。

    東京では、極貧生活ゆえ、ろくなものを食べていなかったわたしにとって、それらの料理は、たとえ写真撮影を終えたあとの冷めたものであっても、おいしすぎた。疲労でお腹の調子が悪かったにもかかわらず、毎日毎日、よく食べた。満腹のあと、しかし胃腸を整えてくれる「高雄牛乳大王」の濃厚なパパイヤミルクを何杯飲んだことだろう。

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    数ある食の記憶の中でも、突出している店がある。そのひとつが、鼎泰豊だ。繁華街沿いの、古びた3階建てのその食堂は、しかし早朝の開店時からお客でいっぱいだった。店頭では、何人もの従業員が、小さな小さな小籠包をせっせと包んでいる。

    「小籠包(しょうろんぽう)」という言葉さえ、日本にはまだ届いていなかった時代。テーブルには、シンプルな豚挽肉の小籠包をはじめ、蟹味噌入り、青菜入り、あんこ入りと、次々に蒸籠が供される。蓋を開ければ、立ち上る湯気と芳香! このときほど、写真撮影の時間が長く感じたことはない。

    やや冷めてしまったものの、その肉汁たっぷり、風味濃厚な小籠包のおいしさたるや、筆舌に尽くし難く、疲労困憊の五臓六腑に染み渡る滋味であった。その後、同店は世界的に有名になり、わたしもシンガポールや香港の店に立ち寄った。もちろん、おいしい。おいしいが、あの台北の本店で食べた時の衝撃は、唯一無二だ。

    社会人として初の海外取材先となった台湾では、各地で日本統治時代の残像を目にし、未知なる世界の入り口を目の当たりにした。この取材は、わたしにとっての「世界を見る目」を開く、契機となったのだった。

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    *取材時、カメラマンが撮ったポジティヴ・フィルムに残された23歳のわたし。疲労困憊でやつれている割に、ばっちりとメイクをしているところが涙ぐましい。時代を映す真紅の口紅。エスニック雑貨店で買ったストールは、今見るに、インドもの。

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    大学2年の夏、米国西海岸で経験した1カ月のホームステイ留学を契機に、地元福岡で国語の高校教師になるという進路を見直した。就職情報が乏しい時代。資料を集めて読み漁り、検討した結果、東京の出版社を目指すことにした。就職活動が解禁になった大学4年の夏。東京のウイークリーマンションに1カ月間、部屋を借りた。

    インターネットのない時代。願書などは「郵便」でのやりとりだったゆえ、受験できる会社も10社が限界だった。東京に住んでいたボーイフレンドの助けを借りつつ東奔西走したが、結果は全滅。しかし世はバブル経済にわいている。一旦、東京に出てアルバイトをしながら、就職先を探そうと決めた。

    1988年3月。大学の卒業式の謝恩会で、お世話になった大学教授にその旨を話したら、大いに呆れられた。見かねた教授は、東京に住む大学時代の友人のつてで、旅行ガイドブックを作る編集プロダクションを紹介してくれ、面接にまで同行してくれたのだった。教授の計らいで職を得られたことは切にありがたかったが、労働条件は過酷だった。

    手取り11万円の薄給ゆえ、住まいは千葉県柏市の礼金敷金なしの安アパート。通勤には片道1時間半〜2時間かかる。華やかなバブル景気とは裏腹な、極貧生活が始まった。コンピュータはおろか、ワープロさえないオフィスには、常に紫煙が漂っている。書籍や資料で埋め尽くされた社員らのデスク。灰皿やゴミ箱、流しやトイレを掃除するのも新入社員の仕事だった。

    IMG_9280

    その編集プロダクションでは、大手旅行会社が発行する国内外の各種旅行ガイドブックや情報誌の制作を行っていた。ページネーション作りにはじまり、外部ライターへの原稿の発注、文字校正、写真選び、デザイン発注、写植入稿、印刷所への版下入稿など、コンピュータによるDTP(デスクトップパブリッシング)が主流となった現在では想像を絶するような「アナログ」な編集工程を、先輩の作業を見ながら学んだ。労働環境は、今でいう「ブラック」の極みだ。

    入社間もないころから、関東近辺の取材を命じられた。初取材とて一人。見かねた外部のカメラマンに取材の流儀を教わることもあった。一事が万事、極めて雑なOJT(On-the-Job Training)だった。

    とある温泉地へ取材へ赴く前、先輩編集者から「モデル」もやるよう命じられた。もちろん嫌だった。ボーイフレンドも反対した。しかし、逆らうという選択肢はなかった。今のわたしなら当然断る。尤も、今のわたしに誰も脱げとは言うまいが。モデルでもないのに、半裸でカメラマンの前に現れねばならぬという苦行。

    しかし、その一部始終に一番驚いていたのは、ほかでもない取材先の温泉宿の女将だった。それまで宿について質問をしては、メモを取っていた、色気もくそもない編集者が、突然服を脱ぎ、眼鏡を外し、手ぬぐい一枚で現れるのだから。

    だから挙げ句の果てに、仕上がった写真を見た先輩編集者から、「坂ちゃん、二の腕が太い! この写真、使えない!」と言われた時には拳が震えた。時代が時代なら、#MeTooものである。

    IMG_9280

    一つ言えることは、わずか半年足らずで「旅行誌編集者」としての基本を徹底的に叩き込まれたということだ。そして入社して半年後、初めての海外取材を命じられた。行き先は、台湾だ。この台湾取材が、その後のわたしの「旅する人生」に大いなる影響を与えることになる。

    「異国を旅するに際しては、歴史を学ぶべし」ということだ。

    ●1895年、日清戦争に勝利した日本は台湾統治を開始。以降、1945年に日本が敗戦するまでの50年間に亘り、台湾は日本だった。この間、台湾で生まれた人は、日本名を受け、日本語を話す、日本人だった。

    ●1949年、中国における「国共内戦」の結果、毛沢東率いる共産党が「中華人民共和国」を建国。一方、蒋介石総統率いる国民党政府であるところの「中華民国」は、その拠点を喪失したことから、臨時首都を台北に移転。戒厳体制が発布される。台湾では「犬(日本)が去って猿(中国)が来た」と形容される。

    ●1987年、米国からの圧力、及びソ連ゴルバチョフ政権の「ペレストロイカ」による緊張緩和政策の影響などにより、38年に亘る戒厳令が解かれる。

    ●1988年1月、蒋介石の息子、蒋経国総統が死去。李登輝が総統に。

    このような歴史的変化が起こった直後の1988年11月、海外からの旅行者を受け入れるべき台湾が門戸を開いたこともあり、ガイドブックの取材対象国となった次第である。歴史的背景を学ぶこともないまま、自分と同じ23歳の先輩編集者二人と、外部のカメラマン二人とで、台北へと飛び、2班に分かれての取材となった。240ページのガイドブックを制作すべく、台北、高雄、台中、台南、花蓮、墾丁などを3週間かけて巡る強行スケジュールだ。

    なにしろ、「手書き」の時代である。バックパックに山ほどの資料を詰め込んで、連日、レストラン、店舗、観光地、ホテルなどを何十件も取材する。通訳は、日本統治時代に生まれ育ったおじいさんゆえ、彼には随所で休憩してもらい、どうしても通訳な必要なところだけ、同行してもらった。

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    取材中は毎晩、資料整理に追われ、数時間しか眠ることができず、慢性的な疲労に襲われていたものの、初めて食する台湾の料理のおいしさには、目がさめる思いだった。蒋介石が臨時政府を樹立する際、中国本土各地の名シェフを連れてきたというだけあり、台湾では、北京、広東、四川、上海、湖南……と、中国各地の料理が揃っていた。

    また、茶藝館では、得も言われぬ芳しい香りを放つ黄金色した凍頂烏龍茶のおいしさに衝撃を受けた。日本で飲んでいたあの茶色い飲み物はいったいなんだったのか、と思わせられる、別世界の味覚だった。

    東京では、極貧生活ゆえ、ろくなものを食べていなかったわたしにとって、それらの料理は、たとえ写真撮影を終えたあとの冷めたものであっても、おいしすぎた。疲労でお腹の調子が悪かったにもかかわらず、毎日毎日、よく食べた。満腹のあと、しかし胃腸を整えてくれる「高雄牛乳大王」の濃厚なパパイヤミルクを何杯飲んだことだろう。

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    数ある食の記憶の中でも、突出している店がある。そのひとつが、鼎泰豊だ。繁華街沿いの、古びた3階建てのその食堂は、しかし早朝の開店時からお客でいっぱいだった。店頭では、何人もの従業員が、小さな小さな小籠包をせっせと包んでいる。

    「小籠包(しょうろんぽう)」という言葉さえ、日本にはまだ届いていなかった時代。テーブルには、シンプルな豚挽肉の小籠包をはじめ、蟹味噌入り、青菜入り、あんこ入りと、次々に蒸籠が供される。蓋を開ければ、立ち上る湯気と芳香! このときほど、写真撮影の時間が長く感じたことはない。

    やや冷めてしまったものの、その肉汁たっぷり、風味濃厚な小籠包のおいしさたるや、筆舌に尽くし難く、疲労困憊の五臓六腑に染み渡る滋味であった。その後、同店は世界的に有名になり、わたしもシンガポールや香港の店に立ち寄った。もちろん、おいしい。おいしいが、あの台北の本店で食べた時の衝撃は、唯一無二だ。

    社会人として初の海外取材先となった台湾では、各地で日本統治時代の残像を目にし、未知なる世界の入り口を目の当たりにした。この取材は、わたしにとっての「世界を見る目」を開く、契機となったのだった。

    IMG_9252

    *取材時、カメラマンが撮ったポジティヴ・フィルムに残された23歳のわたし。疲労困憊でやつれている割に、ばっちりとメイクをしているところが涙ぐましい。時代を映す真紅の口紅。エスニック雑貨店で買ったストールは、今見るに、インドもの。