深海ライブラリ📕

深海の底に眠る過去の記録に光を当てる。揺り起こす。

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    大学2年の夏、米国西海岸で経験した1カ月のホームステイ留学を契機に、地元福岡で国語の高校教師になるという進路を見直した。就職情報が乏しい時代。資料を集めて読み漁り、検討した結果、東京の出版社を目指すことにした。就職活動が解禁になった大学4年の夏。東京のウイークリーマンションに1カ月間、部屋を借りた。

    インターネットのない時代。願書などは「郵便」でのやりとりだったゆえ、受験できる会社も10社が限界だった。東京に住んでいたボーイフレンドの助けを借りつつ東奔西走したが、結果は全滅。しかし世はバブル経済にわいている。一旦、東京に出てアルバイトをしながら、就職先を探そうと決めた。

    1988年3月。大学の卒業式の謝恩会で、お世話になった大学教授にその旨を話したら、大いに呆れられた。見かねた教授は、東京に住む大学時代の友人のつてで、旅行ガイドブックを作る編集プロダクションを紹介してくれ、面接にまで同行してくれたのだった。教授の計らいで職を得られたことは切にありがたかったが、労働条件は過酷だった。

    手取り11万円の薄給ゆえ、住まいは千葉県柏市の礼金敷金なしの安アパート。通勤には片道1時間半〜2時間かかる。華やかなバブル景気とは裏腹な、極貧生活が始まった。コンピュータはおろか、ワープロさえないオフィスには、常に紫煙が漂っている。書籍や資料で埋め尽くされた社員らのデスク。灰皿やゴミ箱、流しやトイレを掃除するのも新入社員の仕事だった。

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    その編集プロダクションでは、大手旅行会社が発行する国内外の各種旅行ガイドブックや情報誌の制作を行っていた。ページネーション作りにはじまり、外部ライターへの原稿の発注、文字校正、写真選び、デザイン発注、写植入稿、印刷所への版下入稿など、コンピュータによるDTP(デスクトップパブリッシング)が主流となった現在では想像を絶するような「アナログ」な編集工程を、先輩の作業を見ながら学んだ。労働環境は、今でいう「ブラック」の極みだ。

    入社間もないころから、関東近辺の取材を命じられた。初取材とて一人。見かねた外部のカメラマンに取材の流儀を教わることもあった。一事が万事、極めて雑なOJT(On-the-Job Training)だった。

    とある温泉地へ取材へ赴く前、先輩編集者から「モデル」もやるよう命じられた。もちろん嫌だった。ボーイフレンドも反対した。しかし、逆らうという選択肢はなかった。今のわたしなら当然断る。尤も、今のわたしに誰も脱げとは言うまいが。モデルでもないのに、半裸でカメラマンの前に現れねばならぬという苦行。

    しかし、その一部始終に一番驚いていたのは、ほかでもない取材先の温泉宿の女将だった。それまで宿について質問をしては、メモを取っていた、色気もくそもない編集者が、突然服を脱ぎ、眼鏡を外し、手ぬぐい一枚で現れるのだから。

    だから挙げ句の果てに、仕上がった写真を見た先輩編集者から、「坂ちゃん、二の腕が太い! この写真、使えない!」と言われた時には拳が震えた。時代が時代なら、#MeTooものである。

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    一つ言えることは、わずか半年足らずで「旅行誌編集者」としての基本を徹底的に叩き込まれたということだ。そして入社して半年後、初めての海外取材を命じられた。行き先は、台湾だ。この台湾取材が、その後のわたしの「旅する人生」に大いなる影響を与えることになる。

    「異国を旅するに際しては、歴史を学ぶべし」ということだ。

    ●1895年、日清戦争に勝利した日本は台湾統治を開始。以降、1945年に日本が敗戦するまでの50年間に亘り、台湾は日本だった。この間、台湾で生まれた人は、日本名を受け、日本語を話す、日本人だった。

    ●1949年、中国における「国共内戦」の結果、毛沢東率いる共産党が「中華人民共和国」を建国。一方、蒋介石総統率いる国民党政府であるところの「中華民国」は、その拠点を喪失したことから、臨時首都を台北に移転。戒厳体制が発布される。台湾では「犬(日本)が去って猿(中国)が来た」と形容される。

    ●1987年、米国からの圧力、及びソ連ゴルバチョフ政権の「ペレストロイカ」による緊張緩和政策の影響などにより、38年に亘る戒厳令が解かれる。

    ●1988年1月、蒋介石の息子、蒋経国総統が死去。李登輝が総統に。

    このような歴史的変化が起こった直後の1988年11月、海外からの旅行者を受け入れるべき台湾が門戸を開いたこともあり、ガイドブックの取材対象国となった次第である。歴史的背景を学ぶこともないまま、自分と同じ23歳の先輩編集者二人と、外部のカメラマン二人とで、台北へと飛び、2班に分かれての取材となった。240ページのガイドブックを制作すべく、台北、高雄、台中、台南、花蓮、墾丁などを3週間かけて巡る強行スケジュールだ。

    なにしろ、「手書き」の時代である。バックパックに山ほどの資料を詰め込んで、連日、レストラン、店舗、観光地、ホテルなどを何十件も取材する。通訳は、日本統治時代に生まれ育ったおじいさんゆえ、彼には随所で休憩してもらい、どうしても通訳な必要なところだけ、同行してもらった。

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    取材中は毎晩、資料整理に追われ、数時間しか眠ることができず、慢性的な疲労に襲われていたものの、初めて食する台湾の料理のおいしさには、目がさめる思いだった。蒋介石が臨時政府を樹立する際、中国本土各地の名シェフを連れてきたというだけあり、台湾では、北京、広東、四川、上海、湖南……と、中国各地の料理が揃っていた。

    また、茶藝館では、得も言われぬ芳しい香りを放つ黄金色した凍頂烏龍茶のおいしさに衝撃を受けた。日本で飲んでいたあの茶色い飲み物はいったいなんだったのか、と思わせられる、別世界の味覚だった。

    東京では、極貧生活ゆえ、ろくなものを食べていなかったわたしにとって、それらの料理は、たとえ写真撮影を終えたあとの冷めたものであっても、おいしすぎた。疲労でお腹の調子が悪かったにもかかわらず、毎日毎日、よく食べた。満腹のあと、しかし胃腸を整えてくれる「高雄牛乳大王」の濃厚なパパイヤミルクを何杯飲んだことだろう。

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    数ある食の記憶の中でも、突出している店がある。そのひとつが、鼎泰豊だ。繁華街沿いの、古びた3階建てのその食堂は、しかし早朝の開店時からお客でいっぱいだった。店頭では、何人もの従業員が、小さな小さな小籠包をせっせと包んでいる。

    「小籠包(しょうろんぽう)」という言葉さえ、日本にはまだ届いていなかった時代。テーブルには、シンプルな豚挽肉の小籠包をはじめ、蟹味噌入り、青菜入り、あんこ入りと、次々に蒸籠が供される。蓋を開ければ、立ち上る湯気と芳香! このときほど、写真撮影の時間が長く感じたことはない。

    やや冷めてしまったものの、その肉汁たっぷり、風味濃厚な小籠包のおいしさたるや、筆舌に尽くし難く、疲労困憊の五臓六腑に染み渡る滋味であった。その後、同店は世界的に有名になり、わたしもシンガポールや香港の店に立ち寄った。もちろん、おいしい。おいしいが、あの台北の本店で食べた時の衝撃は、唯一無二だ。

    社会人として初の海外取材先となった台湾では、各地で日本統治時代の残像を目にし、未知なる世界の入り口を目の当たりにした。この取材は、わたしにとっての「世界を見る目」を開く、契機となったのだった。

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    *取材時、カメラマンが撮ったポジティヴ・フィルムに残された23歳のわたし。疲労困憊でやつれている割に、ばっちりとメイクをしているところが涙ぐましい。時代を映す真紅の口紅。エスニック雑貨店で買ったストールは、今見るに、インドもの。

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    ◎月に一度の、FM熊本のラジオ収録のため6時起床。今回で147回目、今年から11年目に入る。年初の話題は「インドの祝祭日と宗教」について。国民の休日のほか、各種宗教の祝祭、地方ごとの祀りごとなど、なにかと「休み」になることが多いインドだが、それに加えて昨日今日のようなストライキなどもあれば、モンスーンシーズンのムンバイなどでは豪雨で休みになることもある。

    ◎ヒンドゥー教、イスラム教、キリスト教、スィク教、仏教、ジャイナ教、ゾロアスター教……と、各宗教の正月や祝祭日は、太陰暦などそれぞれの暦に基づいていることが多く、つまり毎年、祝祭期間が変更するのも、ややこしさを助長する。

    ◎もう何度となく言及してきたことだが、インドでは少なくとも「週休3日制」と考え、さらに9月以降のホリデーシーズンに至っては、「週休4、5日制」と思ってスケジューリングをしたほうがいい、ということも言い添える。仕事の間に休むのか、休みの間に働くのか、何が何だかよくわからないのがインドの日常だ。そうしてこの国は成り立っているのだから、合わせるしかない。

    ◎さて、ストライキ2日目の本日。「予定通り」であれば、すでに昨年、完成していたはずの新居の進捗状況を見に行くことにした。空港へ向かう途中のヤラハンカというエリアにあるヴィラだ。「家が完成しても、周りに何もないから引っ越したくない」と言っていた夫だが、物件を購入した当初から比べると、ずいぶん開発が進み、利便性が高くなっているようだ。

    ◎最後に見に行ったのは昨年3月。以来9カ月は経っているはずだが、案の定「気持ち、進んだかな?」という程度。昨年はかつてなく雨が多かったし、工事が遅れることは想定内だったが、意表をついて「意外に進んでる?」なサプライズが欲しかった。ないな。

    ◎このデヴェロッパーは「仕事は遅いがクオリティは高い」(インド比)という信頼できる筋の評価があり、さらにはわたし自身、いくつもの物件を見て回った結果、「たとえ遅れてもここがいい」と決めた経緯もあるがゆえ、ひたすら完成を待つのみである。建物の基盤と箱がほぼ出来上がっているので、ここからは、さほどかからないと「希望的観測」される。

    ◎インドに住んでいると、「長生きしないとな」との思いが、改めて強くなる。完成してからしばらくは、今の家と新居を行き来してライフスタイルを決める予定だ。などということも、「出来上がってから考えたら?」と自分に言い聞かせる。

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    ◎帰路、久しぶりに韓国料理店アリランへ。この店に来るのは、いつも慈善団体訪問のあと。夫と来るのは7、8年ぶりではないだろうか。夫の好物である石焼ビビンパとパジョンを味わって満足。売店でモヤシや木綿豆腐、キムチ、深ねぎも購入した。ここの豆腐やモヤシ、どちらも新鮮でおいしいのだ。今夜の食卓も韓国風になりそうだ。

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    海と山に抱かれた山陰地方の小さな女子大。地元の福岡で、高校の国語教師を目指して日本文学科の教職課程に進んだわたしは、入学以来、大学と寮とを往復する日々を送っていた。漱石、三島、芥川……。日本文学を読み漁る一方で、海外への憧憬は募った。

    バブル経済に賑わう世間とは隔絶された世界で、午後7時の寮の門限に息を詰まらせた籠の鳥は、自ら扉を開け放ち、太平洋を飛び越え、カリフォルニアへと羽ばたいた。旅行会社が主催する1カ月の語学留学&ホームステイプログラムへの参加を決めたのだ。1985年の夏。九州近辺しか行き来したことのなかったわたしが、初めて異国の地を踏んだ夏。

    「日本は狭い。小さな国だ」と言われても、日本しか知らないわたしにとって、玄界灘は広く、阿蘇山は大きかった。しかし、その尺度は、ロサンザルス国際空港に降り立った瞬間に、吹き飛んだ。それぞれに異なる肌の色、髪の色をした、周囲を歩く人々。わたしたちのスーツケースをバスまで運んでくれたポーターの黒人男性の、見たこともないほど大きな靴。日本では大柄と言われている自分が華奢に見えるほど、たくましい体格をした女性たち。

    どこまでも青く広い空。延々と連なる山脈……。その1カ月間、見聞きしたあらゆるものが、それまでの、わたしの尺度や価値観を、ことごとく打ち砕いた。大きな存在を知って初めて、小ささを知る。テレビや活字では感じえない、実物大の衝撃。わたしはこのときはじめて、「尺度(スタンダード)」という言葉の曖昧さを知った。「大きい」「小さい」という単純な尺度でさえ、普遍のものではない。多くを見ればみるほど、その基準は行ったり来たりする。

    数十名の日本人学生は、ロサンゼルス郊外のチノヒルズという町の家庭にホームステイをし、平日は語学学校に通うという生活だった。わたしがお世話になったのは、モンロー家。ホストマザーのバーバラとは、渡米以前から何度か手紙のやりとりをしていた。父親のグレッグはロス市警の刑事。長男マシュー、長女ヘザー、次男ジョン、次女クリスタの6人家族だ。まだ5歳だった末っ子のクリスタは、英語が覚束ないわたしに対し、まるで「妹」のように、世話をしてくれた。家の中のものを説明してくれたり、ご近所さんへの「挨拶回り」に連れ出してくれたりもした。

    初めての異国での食生活は、何もかもが新鮮な驚きに満ちていた。モンロー家は敬虔なモルモン教徒だということもあり、教義に従って料理にほとんど調味料を使わなかった。食卓には塩と胡椒が出され、丸ごとのトウモロコシや、蒸しただけのマッシュドポテト、ひき肉だけのハンバーグなどに、自分で味をつけて食べるのだ。すなわち、決して美味とは言い切れなかったが、稀有な経験だった。一方の外食では、毎回ポーションの大きさに驚いた。ジュース1杯、水1杯のグラスの大きさ。一人前のお皿の大きさ。ヴォリュームたっぷりのアイスクリームにトッピングされる、缶から絞り出される生クリームの迫力。黒と赤の、まるでゴムのようなリコリッシュという名のお菓子。クリスタに「おいしいから食べて」と言われ、渋々、口に入れたが、あまりのまずさに吐き出しそうになった。

    一方、ドリトスのトルティーヤチップスには、はまった。まさにやめられない、とまらないおいしさ。日本にはないスナック菓子の歯ごたえと味わいにすっかりはまったものだ。日本でも販売されればいいのに……と思いつつ帰国した。その翌々年の1987年、ジャパン・フリトレーからドリトスが販売された時は、本当にうれしかったものだ。

    ある日、バーバラが「今日はチョコチップ・クッキーを焼きましょう」というので、わたしも手伝いますとキッチンに立った。わたしは中学のころからお菓子を作るのが好きで、時折、クッキーやタルトなどを焼いていた。当時、まだ几帳面だったわたしは、レシピに忠実に、クッキーの厚みやデコレーションなども丁寧に、芸術作品を制作するがごとく、菓子作りを楽しんでいた。

    さて、バーバラはキッチンで、小麦粉、バター、砂糖、チョコチップ、卵、ベーキングパウダーなどの材料を取り出すと、計量もそこそこに、全てをブレンダーのボウルに投入。スイッチを入れて一気にかき混ぜること1分程度だったか。少し柔らかめのその生地をスプーンですくい、大きなベイキングシートに、ぽとん、ぽとんと並べ落として、準備完了。手伝う必要皆無! わたしはといえば、(これでいいわけ?)と心中で叫びつつ、その大雑把なプロセスに目を見張るばかりだ。「味見してもいい?」というクリスタに、バーバラが焼く前の生地を食べさせているのにも驚愕した。

    日本の平均的なオーヴンの軽く4倍はありそうな、巨大なオーヴンに入れて焼くこと十数分。家中が甘い香りに包まれたころ、チョコチップ・クッキーもこんがりと焼きあがった。粗熱がとれたあと、1枚、食べてみる。サクサクと香ばしい生地、とろりと溶けたチョコレート。その甘すぎるほどに甘いクッキーのおいしいこと! 時間をかけて丁寧に作るもいいけれど、こういう大雑把なものもありなのだな、と、目から鱗が落ちた。

    カリフォルニアの空の下で「このパスポートが切れる前に、わたしはまた必ず海外を旅する」と決めた願いは叶い、わたしは大学卒業後に上京。海外旅行誌の編集者として、社会人の第一歩を踏み出した。この一カ月のホームステイの延長線上に、わたしの人生は、連なり続けている。

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  • 🌏【異郷の食 001】Chino Hills, California, U.S.A. (Summer 1985)

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    海と山に抱かれた山陰地方の小さな女子大。地元の福岡で、高校の国語教師を目指して日本文学科の教職課程に進んだわたしは、入学以来、大学と寮とを往復する日々を送っていた。漱石、三島、芥川……。日本文学を読み漁る一方で、海外への憧憬は募った。

    バブル経済に賑わう世間とは隔絶された世界で、午後7時の寮の門限に息を詰まらせた籠の鳥は、自ら扉を開け放ち、太平洋を飛び越え、カリフォルニアへと羽ばたいた。旅行会社が主催する1カ月の語学留学&ホームステイプログラムへの参加を決めたのだ。1985年の夏。九州近辺しか行き来したことのなかったわたしが、初めて異国の地を踏んだ夏。

    「日本は狭い。小さな国だ」と言われても、日本しか知らないわたしにとって、玄界灘は広く、阿蘇山は大きかった。しかし、その尺度は、ロサンザルス国際空港に降り立った瞬間に、吹き飛んだ。それぞれに異なる肌の色、髪の色をした、周囲を歩く人々。わたしたちのスーツケースをバスまで運んでくれたポーターの黒人男性の、見たこともないほど大きな靴。日本では大柄と言われている自分が華奢に見えるほど、たくましい体格をした女性たち。

    どこまでも青く広い空。延々と連なる山脈……。その1カ月間、見聞きしたあらゆるものが、それまでの、わたしの尺度や価値観を、ことごとく打ち砕いた。大きな存在を知って初めて、小ささを知る。テレビや活字では感じえない、実物大の衝撃。わたしはこのときはじめて、「尺度(スタンダード)」という言葉の曖昧さを知った。「大きい」「小さい」という単純な尺度でさえ、普遍のものではない。多くを見ればみるほど、その基準は行ったり来たりする。

    数十名の日本人学生は、ロサンゼルス郊外のチノヒルズという町の家庭にホームステイをし、平日は語学学校に通うという生活だった。わたしがお世話になったのは、モンロー家。ホストマザーのバーバラとは、渡米以前から何度か手紙のやりとりをしていた。父親のグレッグはロス市警の刑事。長男マシュー、長女ヘザー、次男ジョン、次女クリスタの6人家族だ。まだ5歳だった末っ子のクリスタは、英語が覚束ないわたしに対し、まるで「妹」のように、世話をしてくれた。家の中のものを説明してくれたり、ご近所さんへの「挨拶回り」に連れ出してくれたりもした。

    初めての異国での食生活は、何もかもが新鮮な驚きに満ちていた。モンロー家は敬虔なモルモン教徒だということもあり、教義に従って料理にほとんど調味料を使わなかった。食卓には塩と胡椒が出され、丸ごとのトウモロコシや、蒸しただけのマッシュドポテト、ひき肉だけのハンバーグなどに、自分で味をつけて食べるのだ。すなわち、決して美味とは言い切れなかったが、稀有な経験だった。一方の外食では、毎回ポーションの大きさに驚いた。ジュース1杯、水1杯のグラスの大きさ。一人前のお皿の大きさ。ヴォリュームたっぷりのアイスクリームにトッピングされる、缶から絞り出される生クリームの迫力。黒と赤の、まるでゴムのようなリコリッシュという名のお菓子。クリスタに「おいしいから食べて」と言われ、渋々、口に入れたが、あまりのまずさに吐き出しそうになった。

    一方、ドリトスのトルティーヤチップスには、はまった。まさにやめられない、とまらないおいしさ。日本にはないスナック菓子の歯ごたえと味わいにすっかりはまったものだ。日本でも販売されればいいのに……と思いつつ帰国した。その翌々年の1987年、ジャパン・フリトレーからドリトスが販売された時は、本当にうれしかったものだ。

    ある日、バーバラが「今日はチョコチップ・クッキーを焼きましょう」というので、わたしも手伝いますとキッチンに立った。わたしは中学のころからお菓子を作るのが好きで、時折、クッキーやタルトなどを焼いていた。当時、まだ几帳面だったわたしは、レシピに忠実に、クッキーの厚みやデコレーションなども丁寧に、芸術作品を制作するがごとく、菓子作りを楽しんでいた。

    さて、バーバラはキッチンで、小麦粉、バター、砂糖、チョコチップ、卵、ベーキングパウダーなどの材料を取り出すと、計量もそこそこに、全てをブレンダーのボウルに投入。スイッチを入れて一気にかき混ぜること1分程度だったか。少し柔らかめのその生地をスプーンですくい、大きなベイキングシートに、ぽとん、ぽとんと並べ落として、準備完了。手伝う必要皆無! わたしはといえば、(これでいいわけ?)と心中で叫びつつ、その大雑把なプロセスに目を見張るばかりだ。「味見してもいい?」というクリスタに、バーバラが焼く前の生地を食べさせているのにも驚愕した。

    日本の平均的なオーヴンの軽く4倍はありそうな、巨大なオーヴンに入れて焼くこと十数分。家中が甘い香りに包まれたころ、チョコチップ・クッキーもこんがりと焼きあがった。粗熱がとれたあと、1枚、食べてみる。サクサクと香ばしい生地、とろりと溶けたチョコレート。その甘すぎるほどに甘いクッキーのおいしいこと! 時間をかけて丁寧に作るもいいけれど、こういう大雑把なものもありなのだな、と、目から鱗が落ちた。

    カリフォルニアの空の下で「このパスポートが切れる前に、わたしはまた必ず海外を旅する」と決めた願いは叶い、わたしは大学卒業後に上京。海外旅行誌の編集者として、社会人の第一歩を踏み出した。この一カ月のホームステイの延長線上に、わたしの人生は、連なり続けている。

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    〈以下は2018年12月の記録。3年後の今、この思いをさらに強くしている〉

    ●「この先の自分の人生の中で、今日の自分が一番若い」という言い回しを、昨今、よく耳にする。フェイスブックに現れた、9年前のこの写真を見てしみじみと、「言い得て妙だ」と思う。44歳だったときの、この自分は、身体の欠点を見つけては「40過ぎて、なんか老けたな」とか、体調不良に陥ると「これって、やっぱり更年期?」などと、いちいち老化を確認していた。しかし今、この写真を見たら、若々しいじゃないか。ロン毛も似合ってるじゃないか。結構、かわいいじゃないか! 

    ●世の中には、誰が見ても顔立ちが整った美男美女というのは、絶対的に存在する。しかし、平均的な人々の美醜は、その人の表情や境遇、考え方や生き方によって左右されるということを、この年齢になり、多くの人と関わってきて、実感する。笑顔は無敵。それだけで魅力が増す。まさに笑門来福だ。1日のうち、なるたけ長い時間、笑顔でいられる人生を送りたい。

    ●4050グラムでこの世に生まれ、幼少時から大柄で、一重まぶたに低い鼻という「平たい顔族」の典型のような顔をしているわたしは、幼少時から縦横大きく、「体格のいいお嬢さんですね」と言われるのが常であった(わたしは幼児期からの記憶がかなりはっきりと残っている)。ゆえに「体格がいい」=「かわいい」という意味と、誤解していた時期もあった。「体格がいい」の本来の意味を知った時は、軽い衝撃を受けたものだ。

    ●幼児期から、身内に「大人になったら目と鼻の整形手術をしたほうがいい」などとも言われていた。自己評価が低くなっても仕方ないというものだ。アルヴィンドと出会って間もない30代のころ。同情されることを期待して、この話を打ち明けたところ、「僕も同感!」と屈託なく言われて、こけそうになった。正直な男だ。

    ●ともあれ、子供がいる人には、その子が図に乗りすぎることのない程度に「あなたはかわいい」「魅力的だ」の言葉を、かけてやってほしい。ありのままの姿を褒められることは、自我の成長に、好意的に働くと思う。

    ●結構なコンプレックスを抱いていた自分をして、「いうほど悪くないのではないか」と思い始めたのは、20歳で初めて米国を訪れたときだ。ロサンゼルス郊外における1カ月のホームステイ経験は、わたしのその後の人生を変えるべく、あらゆる物に見方において偉大なる価値観の転倒を与えてくれた。自身の風貌に関しても然り。

    ●街を歩けば、わたしよりも大きい女性が、ゴロゴロしている。わたしなど、むしろ「華奢?」に思えるほどの、ダイナミックな容姿をした人々を目の当たりにして、物事の尺度と価値観が大きく覆された。肌の色、髪の色、体型、顔立ち……みなそれぞれに、バラバラだ。世界の広さと、日本の狭さを痛感した。わが座右の銘、夏目漱石『三四郎』の、「囚われちゃ駄目だ」の一文に、ここでも影響を与えられた。

    ●背筋を伸ばして歩こう。と、思った。

    ●しかしそれでも、日本に暮らし働けば、年齢で自分を制限させられる風潮が強かった。当時は、20代後半ですでに「お局」と呼ばれる趨勢。職場では「おばはん」などと言われる。年を重ねることが「よくないこと」とされる傾向が強い。体型にしても然り。そもそも日本では、服を買おうにも、欲しいものは大抵小さくて入らない。わたしにとって、「フリーサイズ」は、不自由極まりない存在だった。

    ●日本では、長身でスラリとした女性が、しかし、猫背気味な人の、いかに多いことか。ファッションモデルのようにスタイルのいい女性が、しかし申し訳なさそうに頭を低くしている姿を見るにつけ、なんと勿体無いことだろうとも思う。

    ●30歳でニューヨークへ渡ってからは、さらに気持ちが自由になった。ニューヨークでは、わたしのサイズ(8〜10)が、最も標準的でたくさんそろっている。欲しい服が入らない、ということがないのが、うれしくてならなかった。入る服が多いということで、うっかり太りすぎてしまったが。

    ●老若男女問わず、自分の好きなブランドの服を、自分の好みのデザインの服を着る。それを着て、楽しくて、幸せな気持ちになれば、それでいい。無論、場をわきまえて、見苦しくない服装をすることは大切だと思うが、「好きなもの」を身にまとう方が、楽しい。

    ●日本人女性は、自己評価を低めにし、周囲との調和を重んじ、「もう年だから」とか「それは若い人に」とかいう風潮が強い気がする。日本にいれば、それも仕方がないことなのかもしれないが……。生まれた瞬間から、他の誰のものとも交換できない、自分だけの肉体。容姿。自己評価高めに、慈しんだ方がいいと、今になって切実に思う。

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    ●日印の精神的な土壌には著しい相違が多いが、着るものひとつとってもそう。両国の結婚式を見れば一目瞭然だ。インドでは、参列者も艶やかに華やかに着飾って、その場を盛り上げる。日本の結婚式で、ゲストがこんなド派手な服を着ていたら、大顰蹙かつ伝説に残るであろうが、インドの結婚式では、花嫁はたいてい「超ド派手」に飾られるので、ゲストが少々派手なくらい、なんということはないのである。ちなみに上の写真は、2011年、デラデューンで開かれた親戚の結婚式の様子。

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    花嫁に勝るとも劣らぬ派手なお方は、新郎の母。かつてミス・インディアだったという才媛だ。日本でこんなことをやったら、袋叩きに合いそうである。

    インドでは、「人にどう見られるか」よりも「自分がどんな服を着たいか」が優先なのだ。それはそれで、いいことなのだ。会場では、艶やかなサリーやサルワールカミーズ、レンガー・チョーリーなどに身を包んだ女性たちでいっぱい。みんな楽しげに、記念写真を撮り合っている。派手派手が多い中、シンプルなドレスを着ている人たちが、むしろ爽やかで目に優しく、印象に残るくらいだ。

    ●「50歳を過ぎたら、渋めのサリーを頻繁に着よう」とか、「白髪が目立ち始めたからショートカットにしよう」とか、かく言うわたしも最近は、「守り」の思考に陥りつつあったが、この写真を見て、少し考えが変わった。健康で難なく生きていられるとしたら、この先まだまだ、人生は長い。ときに守り、ときに攻め、緩急つけつつ、生きようではないか。

    ●渋めのサリー着用は70代以降(!)に先送り。ショートカットばかりの未来も退屈だ。久しぶりに、来年は髪を伸ばしてみようかとも思う。

    * * *

    上記を残した3年後、2021年7月現在。まもなく56歳になるが、むしろ派手で若々しい服を着たくなっている。ロックダウンの日々がきっかけで、図らずも髪が伸びた。思ったほど白髪も出ないから、当面はロングでいけそうだ。4年後の還暦パーティで赤い服を着こなすべく、60歳にちなんで、せめて60キロまで絞りたい(遠い目)と、おぼろげに計画しているところだ。

    最後に。あなたが、歳を重ねて自由な人の様子を見て「痛い」とか「歳を考えたら?」と思ったとしても、口に出すのはやめたほうがいい。それはやがて、自分自身に返ってくる。

    ファッションに限ったことではない。人の生き方に干渉することは、気づかぬうちに、自分の自由を狭めてしまうことにもなる。人の嗜好も思考も、生き方も、外部の影響を受けながら、歳月と共に変化する。あなただっていつ、「派手な服が着たい」と思う日が来るかも知れぬ。

    人に歴史あり。自分の尺度で他人を測るな。

    未来の自分に唾しないよう、囚われずに生きよう。そのほうが、楽しいぞ。

    *****************

    なお! 場をわきまえた服装をすることは、もちろん重要。就職活動にミニスカで行けなどと言っているわけでもなければ、日本の結婚式で真っ白のワンピースを着て行けと言っているわけでもない。あくまでもその国、土地、環境の中で、プライヴェートでの自由を尊重してほしいということだ。

    ちなみにこういうことをして、日本ではTPO/Tはtime(時)、Pはplace(場所)、Oはoccasion(場合)と表現されるが、これは100%和製英語なのでご注意を。

    TPOで調べると、Thyroid peroxidase(甲状腺ペルオキシダーゼ)と出てきます。😸

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    4年前、空港に近いヤラハンカというエリアに購入したヴィラを見に出かけた。

    予定どおりに進んでいれば、現在、完成していることになる。

    1年前に来た時よりは、だいぶ形になってはいたし、モデルルームもできていて雰囲気を掴むことはできたが、我が家のプロットは、作っているんだか壊しているんだか、わからない感じの廃屋感。

    「ここがリヴングで〜」

    「ここがキッチンで〜」

    などと、イメージするのも、相当に困難。ていうか、危険! 日本なら絶対に、部外者を入れないであろう、足場が悪い作業現場だ。
    完成は、早くて1年後、だろう。急がないとはいえ、気の長い話だ。

    インドに暮らす上では、元気で長生きしなければなあ……としみじみ思う真夏の午後。

    ★ ★ ★

    帰り道、ローカルの定食屋でミールスのランチ。

    バターミルク。日本ではなじみがないが、生乳を攪拌して分離させ、バターを取り除いた残りにつき、低カロリーながらも栄養のある、身体によい飲み物なのだ。

    これでパンケーキを作ると、生地がもちもちとした歯ごたえになる。米国では「バターミルクパンケーキ」が一般的だ。

    ★ ★ ★

    このごろはもう、歳月の流れが早く感じられすぎるので、1年後が遠い先とも思えない。バンガロールの街の光景は、刻一刻と変化しているし、なにしろ世界はめまぐるしい。

    少し、速度を落とした世界にも、身を置かねばと思う日々の暮らし。芯を持って、屹立すべし。

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    宗教と音、音楽は、密接に関わり合う。

    初期イスラム教の神秘主義思想家たちによる教団としてのスーフィー。彼らにとって、音楽は神との合一を果たすための、修行のひとつだという。旋律に合わせてグルグルと旋回する「セマー」と呼ばれる舞踏もまた、修行だとのこと。

    2018年2月、ラジャスターン州でスーフィーの音楽を体験するため、我々夫婦はジョードプルの城塞で4日間を過ごした。World Sacred Spirit Festivalと呼ばれる音楽祭だ。

    パンデミックの影響を受けた今年を除いては、毎年2月、ジョードプルで開催されてきたこの音楽祭。かつては、スーフィー・フェスティヴァルと呼ばれていたが、昨今は、他の地域の伝統音楽を奏でる楽団も集うことから、宗教の垣根を超えた「神聖なる魂の祭」とされている。

    城塞にて、夜明けから深夜まで、音楽、スーフィーの渦に耽溺した。インド南北の人々の、気性が異なる決定的な理由を、難攻不落の砦に見た。東西が交差する、乾いて豊かな砂漠の地。4日間の記録を、下記のブログに残している。音楽を届けられぬのが残念だが、ぜひご覧いただければと思う。

    World Sacred Spirit Festival
    ➡︎https://www.worldsacredspiritfestival.org/

    [Jodhpur 01] わずか2カ月ぶりに、ジョードプル再訪。
    ➡︎https://museindia.typepad.jp/2018/2018/02/jodhpur01.html
    初日はジョードプルの街中でのショッピングの様子。テキスタイル、パシュミナなどの写真もたっぷり。見ているだけで、あの喧騒、土の匂いが蘇ってくる。

    [Jodhpur 02] 夜明け前から深夜まで。ひたすらの、音楽。
    ➡︎https://museindia.typepad.jp/2018/2018/02/jodhpur02.html
    日の出を眺めつつ揺蕩うカンクレスの音色。ラジャスタンの伝統音楽。モロッコから届くアンダルシアの叫び。スィクとムスリムとヒンドゥの弦楽器打楽器それらを貫く人間の声。国境宗教超えて地球を包む音楽。日本人の妻には異郷の旋律。パンジャブ出自の夫には根源の旋律。

    [Jodhpur 03] 時空を超えて音楽は。森羅万象に響き渡り。
    ➡︎https://museindia.typepad.jp/2018/2018/02/jodhpur03.html
    ブルーシティを見晴るかす砦にて。愛と情熱を叫ぶジョードプルの楽団。アルメニアのやさしき縦笛。アニミズムの島、イタリアはサルジニア島の旋律。遥か遠い時代に、遊牧民が、羊飼いが、西へ東へ運んだであろう楽器や音。口琴や笛やカスタネットの音色が溶け合う。言語を介さずとも、疎通できる音楽。躍動と呼吸。気を揺るがす振動。必然の即興。得もいわれぬ目くばせ。人々は血を沸き立たせて踊る。最後には、踊る。歓喜の踊り。狂喜の踊り。此の国の人々が、踊らずにはいられない理由が浮かび上がる夜。

    [Jodhpur 04] マハラジャ主催のプライヴェートコンサートへ
    ➡︎https://museindia.typepad.jp/2018/2018/02/jodhpur04.html
    最終日。ウメイド・バワン・パレスにて、マハラジャ主催のプライヴェートコンサートへ。ジョードプルで知り合ったインドのコンテンポラリーダンスの第一人者、アスタッド・デブー氏に招待されたのだ。あの、贅沢なひと時よ。アスタッド・デブー氏とは、その後もFacebookでやりとりを続けていたが、昨年、他界された。もう一度、お目にかかりたかった。🙏

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    2001年9月11日、米国を襲った同時多発テロ。旅客機4機がテロリストグループに乗っ取られた。

    当時、わたしが住んでいたニューヨークのワールドトレードセンターに2機が激突、そして夫が住んでいたワシントンD.C.(正確には郊外のヴァージニア州)にあるペンタゴン(米国国防総省)に1機が激突。

    ホワイトハウスかキャピトル(アメリカ合衆国議会議事堂)を目指していたとされる1機が、乗客らの尽力で激突を回避されたものの、しかしペンシルヴェニアのシャンクスヴィルに墜落した。

    以来16年。決して訪れることはないだろうと思っていた場所へ、今回はなぜか旅の前から訪れようという気持ちが芽生えていた。

    ひとつは、「自由の女神」を、改めて見て見たいと思ったこと。マンハッタン島の南端に行くとなれば、ワールドトレードセンターの跡地を訪れることにもなるだろう、と思っていた。

    National September 11 Memorial & Museum。通称、911メモリアル。

    アメリカ同時多発テロ事件の公式追悼施設として、2011年にオープンした国営の施設。ニューヨークのグラウンド・ゼロにある。

    実は前日、日系の美容院で髪を切った折、スタイリストの女性が、911メモリアルのことを話してくれ、行かれたほうがいいですよ、と勧めてくれたのだった。

    わたしは、ワールドトレードセンターのあとに、再び高層ビルやミュージアムが建てられたのだと思い込んでいて、だから、とてもじゃないけれど、その地を踏めないと思っていたのだが、それはわたしの、大いなる思い込みだった。

    「2棟のあとが、滝みたいになっているんです」

    と、彼女から聞いて初めて、その場の状況が想像でき、行ってみようと思ったのだった。

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    その日は朝から、ひどい雨だった。雨降りの中の外出は極めて苦手なのだが、しかし、雨だからこそ、訪れるにふさわしい気もした。地下鉄でひたすら南下し、その場所へ。

    ちなみにミュージアムの情報を調べたところ、チケット売り場はたいてい長蛇の列だとのことで、あらかじめネットで予約、支払いをすませておいたのだった。実際、雨の中でさほど待つことなく入場できたのはよかった。

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    そして遂には、16年ぶりに、キャナルストリートより南へ踏み込んだ。あの、途方もなく衝撃的な日は、人生における分岐点となり、今の自分に連なる。

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    二棟のビルディングの跡が、それぞれに、このようなプールになっている。周囲には、亡くなった人たちの名前が刻まれている。

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    ふと、日本人男性の名前が、目に飛び込んできた。タカハシケイイチロウさん。あの日、24名の日本人が亡くなった。どれほどの恐怖と、無念であったことだろう……。

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    雨が降っていて、周りに観光客が少なかったのは、本当によかったと思う。笑顔でセルフィーを撮る人たちが、数えるほどしかいなかったからだ。

    当事者ではないわたしですら、その姿を見るのは、嫌なものだった。遺族には、とても耐えられないだろう。

    水辺で手を合わせながら思う。ここに、宗教を超えた「祈りの場所」があればいいのにと。写真の撮影や会話を禁止する、できれば静かに、死者を悼むことができる場所があればいいのにと。

    ミュージアムの展示について、言葉を添えるのは控える。写真だけを何枚か、残しておく。

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    先日、旅の途中に記した9/11に関する個人的な記録へのリンクをはっておく。

    あれからテロが減るどころか、益々増え続ける世界にあって、自分自身が、自身の過去の記録から改めて学ぶところ多く。

    当時の記録には、自分を取り巻く人々のエピソード、世の中の動きなどを、かなり克明に残している。

    ■2001年9月11日から連なる日々。大切な記録の転載〈超長編〉 (←CLICK!)

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    7月の日経新聞「私の履歴書」を彩ったラタン・タタのストーリーは、本当に興味深かった。若かりしころの彼の話にはじまり、現在に至るまで、彼の人となりの魅力を、一層感じることができた。

    パールシー(ゾロアスター教徒)としての、彼の幼少時。家庭の事情。

    タタ財閥の身内として、しかし一から築き上げてきたキャリア……。

    信頼していた人の裏切り。

    会長職に就いてからの功績。

    プライヴェートの趣味など……。

    どの回も、興味深く読んだ。自分がインドに暮らし始めて以降のことは、大きな出来事の背景を知ってより、楽しめた。

    しかし、2008年の同時多発テロのときの記事は、最初の数行を読んだだけで、泣けてきた。あのときは、個人的にも本当に、辛かった。辛かったけれど、マンハッタンで世界同時多発テロを経験した時に、よりいっそう、ニューヨークが好きになったように、ムンバイに対する思い入れが強く増した。

    最終回のテーマは社会奉仕(慈善財団の活動に献身)だった。

    彼が口にすると、重みがある。真実味がある。大財閥の会長職に就いていながら、華美なライフスタイルを送るわけでもなく、「身の丈」をぐっと低く据えていらした。

    一度、ムンバイの空港でお見かけしたことがある。記事にある通り、取り巻きの方などつけておらず、おひとりだった。が、それはそれは強い存在感、いわゆるオーラを発していらした。一緒の飛行機に乗っていきたいとさえ思った。

    また、彼が自分で運転する車が、我が家がムンバイ在住時に購入した「ホンダ・シビック」だというところが、自分勝手にうれしかった。わたしたちが住んでいた2008〜9年のムンバイでは、デリーやバンガロールなど他都市に比べ、ホンダ車が強い人気だった。今はどうだかわからないが。

    尊敬するべき人々の生き様の断片をかきあつめ、自分なりに大切に咀嚼しながら、自分自身の在り方について、学ばせてもらう。インドに来て以来、そういうすばらしい人々にたくさん出会い、関わり合えていることを、本当にありがたく思う。

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    まるで結婚式の会場のような写真だが、さにあらず。先週の水曜日、新物件の着工の儀式(プジャー)に訪れた際の様子である。

    約1年前、バンガロール北部郊外、空港からほど近い場所に建設予定の物件を購入した。ゲーテッド・コミュニティとも呼ばれる、広大な敷地内に一軒家が立ち並ぶプロジェクトである。

    去年の3月に物件巡りをした際、あらゆる面において一番気に入った、Total Environmentと呼ばれるデヴェロッパーによる、この新規プロジェクトを選んだ。

    詳細は、そのときの記録に残しているので、下にリンクをはっておこうと思う。

    インドで家を持つということの困難は、インド移住からちょうど1年後に現在の物件を購入し、内装工事などの一切を仕切り、頻発するトラブルに一つ一つ対応するという経験を通して、切に実感している。

    その経験を踏まえたうえで、この物件はかなりよいと判断した。もっとも、今あるのは「大地」だけ。ここから、建築の様子を折に触れて目撃できるのは、非常に意義深い。

    大まかなレイアウトはもちろん決まっているが、微調整は可能。間取りも自分の嗜好を反映できるのがいい。

    現在の家は、内装工事のすべてをわたしと大工との間で行ったことから、たいへんな労力を擁したが、今回はもちろん、デヴェロッパーが入ってくれる。

    作り付けの家具や浴室、キッチンなどの備品すべて、彼らが高品質のものを手配してくれるので、その点は助かる。

    このデヴェロッパーの最大の魅力は、その名前から察せられるように、環境との調和を重視したエコロジカルな思想があるところだ。

    緑がふんだんに配され、庭も広い。

    建材の大半は、ソリッドウッド、すなわち天然木が用いられる。またフロアなども大理石や御影石などの天然の石を多用するなど、非常に心地がよいのだ。

    過去の記録にも記したが、その様子は、フランク・ロイド・ライトのプレイリースタイルを思わせる。また、緑がふんだんに配された建物などは、スリランカの、ジェフリー・バワの建築を彷彿とさせるのだった。

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    ここが建設予定地。インターナショナルスクールや乗馬クラブが間近にあり、少し離れたところにはゴルフコースなどもできている。バンガロール国際空港までわずか15分ほどの距離だというところも、魅力だ。

    わたしたちが購入した物件は、第一次のプロジェクトにつき、2016年9月には完成予定というが……。物件購入にあたり、このデヴェロッパーを勧めてくれた友人知人らによると、物件の建築に際しては信頼できるが(インドでは、信頼できない不動産業者、開発業者が非常に多い)、工期は遅れる、というのが異口同音のコメントであった。

    しかるに、2017年以降を見越しておいたほうがよさそうだ。別に、急いではいないので、きちんと工事をしてくれた方がよい。
    会場の一隅では、延々とプジャーが行われている。最後に、オーナーたちが呼ばれ、わたしたちも儀式に参加する。

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    普段は洋服姿のスタッフだが、このような儀式の日には、サリーやサルワールカミーズなど、伝統的な衣装を身に着ける人が多い。インドでは、いくら時代が変わっても、こうした宗教儀礼は重視される。しかも、占星術上の「良き日時」、即ち Auspicious day が選ばれるため、この日のプジャーも水曜の午前中という、働く人々にとっては不都合な日時が設定されていた。

    プジャーが名目ではあるが、デヴェロッパーのスタッフや未来のご近所さんたちとの交流を図るのもまた、集いの意味合いを高めている。会場では、コーヒーやチャイ、スナックが準備されており、ランチの準備も進められていた。我々は仕事の都合上、1時間程度で退散したが、ゆっくりと過ごして帰る人もいるのだろう。

    同じようなコンセプトの物件は、バンガロール郊外のホワイトフィールドや、プネなどにもある。それらの物件の建設を通して得たノウハウ、問題点などを、新規プロジェクトには前向きに反映させてくれるとのことだが、どうなることだろう。ともあれ、問題発生にはすっかり慣れているので、今の家同様、暮らし始めて数年は「家を育てて」いくことになるだろう。

    内装工事が始まるころには、わたしもインテリアのプランに介入することになるので、少し忙しくなるだろう。それはそれで、楽しいことではある。

    今の家は、市街の中心部にあることから利便性も高く、今となってはこのような広い庭付きの物件を見つけるのも難しいご時世なので、確保しておくつもりではある。が、いずれはこの新しい家が、暮らしの中心になるであろう。

    プロジェクトの中でも最も広いスペースの物件を購入した。敷地面積、居住面積ともに、それぞれが約5,000スクエアフィートと、現在の家の1.5倍以上はある。

    たった二人の家族にしては、十分すぎるほどのスペースだが、この家は二人だけの家に非ず。

    家族や親戚、親しい友人らが常に出入りし、滞在できるような、今よりももっと「気の流れがよい」場所にしたいと思っている。

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    ミューズ関連のプロジェクトも、いろいろとダイナミックにできそうだ。地下には広いメディアルームがあるので、そこでセミナーなども実施できる。セミナールームとして貸し出してもいいくらいだ。

    鉄の棒で土を3回掘り、鍬で土を3回すくい、バターミルクのようなものを、土に3回垂らす。

    わたしも、やらせてもらった。これで、きっといい家を育てられることであろう。

    2007年に現在の家作りの一部始終を記録した「プチ家作り」のレポートは、後に読み返すと、インドという国の、ある側面を知るための要素が凝縮されていたことを痛感する。

    あのたいへんな作業を通して、インドという国への理解が少し深まったともいえる。

    あくまでも氷山の一角。少しだけ、だけれど。

    今回の家作りに際しては、わたしの役割は限られているし、そこまでの発見はないかもしれないが、それでも「創造すること」は楽しく意義深いものである。というわけで、 今後、折に触れて、家作りに際しての記録を残すことになるだろう。

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