深海ライブラリ📕

深海の底に眠る過去の記録に光を当てる。揺り起こす。

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    【2021年4月20日現在の追記】

    以下の記録は、わたしが、ムンバイの日本山妙法寺を訪れたときの記録だ。初めての訪問から10年。この歳月の中にも、実に多くの出会い、数奇な命運を感じさせる出来事があった。それらをまとめたYoutube動画を、今年2月に公開している。このブログをお読みになったあと、ぜひご覧いただければ幸いだ。

    【セミナー開催に際して/坂田マルハン美穂を取り巻くご縁】(動画の概要欄より一部転載)

    資料を紐解くにつけ、目に見えぬ糸で操られ、南天竺に流れ着いた気さえする。インドで生まれた仏教の変遷。憲法の草案者アンベードカル。ダリット出自の彼が仏教に改宗した背景。その偉業を引き継ぐように、龍樹のお導きで、佐々井秀嶺上人がナーグプルにたどりついて半世紀余り。

    日蓮宗の藤井日達上人と近かった我が父方の祖母政子。ゆかりの資料や写真を見るにつけ、ご縁を感じてきたが、自分が年を重ねるにつれ、すべては定められた道の上を歩いてきたに過ぎないのかもしれないとの思いが強くなる。

    建設業者だった父の泰弘は、福岡県久山町の仏舎利塔建立に携わった。1988年に日蓮宗の平和行進(長崎ー広島)が行われた際には、道中の福岡にある坂田の実家に、多くの日印僧侶が1日滞在、母や伯母たちが、寝食のお手伝いをさせていただいた。

    1996年3月、わたしが表参道を猛スピードで歩いている時、すれ違いざま、占いをしているという男性に呼び止められ、「珍しい顔相をしている」「額から光が出ている」「今年は3回ある人生の転機のうちの一つ」「今年、強い縁がある」と告げられた。

    その4カ月後の七夕の夜、インド人男性のアルヴィンド(サンスクリット語で蓮の花の意味)とカフェで相席になった。そこからはもう、完全に、インドへと導かれていたと、今はそう思う。

    初めてアルヴィンドと一緒に食事をした後、帰り際に彼から勧められた本が、ヘルマン・ヘッセの『シッダールタ』だったことも。彼の姉の名前がスジャータだということも。結婚式を挙げるために訪れた2001年7月のデリーで、「こんな国、絶対に住めない」と思ったのに、3年後には住んでみたくなったことも。自分でも理解できない熱意と執着で、嫌がる夫を説き伏せ、紆余曲折を経て、2005年11月に、インド移住を実現したことも。

    2011年、ムンバイの日本山妙法寺で森田上人とお会いしたとき、上人は上記、平和行進を実現された人物だとわかったことも。そして、2018年4月、『破天』を読んで、発作的にナーグプルへ行かねばと思い、折しも仏陀聖誕祭の日に、佐々井秀嶺上人とお弟子の竜亀さんと、行動を共にさせていただいたことも。

    その年の一時帰国時、東京から福島の原発事故後の様子を見に行くつもりで唯一開けていた日。折しも佐々井秀嶺上人はブッダガヤ大菩提寺の返還運動のため日本にいらしていたことを知り、急遽、増上寺で再会させていただいたことも。

    半世紀以上を生きてきた今。自分の人生は、自分で切り開いてきたような気がしていたけれど。定められた道の上を、右往左往しながら歩み続けているような気さえするのだ。(追記はここまで)

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    🙏絆が見えた日。父と、仏舎利塔と、日本山妙法寺。そして日本人墓地 (2011/5/4)

    ムンバイに、日本のお寺があることは、以前から知っていた。日本山妙法寺。それから日本人墓地があるということもまた。

    このブログでも、幾度か記したことがある。しかし、お寺の前を、車で何度も通過したことがあるにも関わらず、足を踏み入れたことはなかった。

    二都市生活をしていたころも、「訪れたい」と思いつつ、気がつけば何年も過ぎていた。

    先週、夫が「来週、ムンバイ出張だけど、ミホも来る?」と聞かれて、すぐに行くと返事した。すでに「芝生作業」のアポイントメントが入っていたにも関わらず、ムンバイに行きたいと思ったのだ。

    そして次の瞬間、今回こそは、「日本山妙法寺を訪れよう」と思った。

    理由のひとつは、今の日本、特に東日本のことを、きちんと祈りたかったから。

    自分の家の「なんちゃってプージャー(儀礼)コーナー」や、ニューヨークのセントパトリックス・カテドラルなど、随所で祈ってはいるものの、きちんと、日本とゆかりのある場所で、日本のことを、祈りたかった。

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    泊まっているのは北ムンバイのバンドラ。ここからシーリンク(橋)を渡った先にあるウォルリに、日本山妙法寺がある。

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    ウォルリに入ってすぐの花屋で、車を止めてもらう。捧げる花を買うために。インド的、シンメトリーで平面的な花のアレンジメントを一つ選ぶ。

    04mumbai11 すでに、熱さでぐったりしている花を、新しいものにさしかえてもらう。

    さらには、追加でオーキッドの花も加えてもらう。

    非常に「インド的」なアレンジメント。

    こまめに水を補給せねば、あっというまにぐったりとしてしまうのが玉にきず。

    とはいえ、お兄さんが新鮮な花に差し替えてくれたおかげで、ユニークながらもそれなりにいい感じに仕上がった。

    器の水を切り、形を整えて、静かに車へ運び込む。

    どんなアレンジメントであれ、花とは、いいものだ。

    日本山妙法寺は、花屋の目と鼻の先にあった。門をくぐり、靴を脱いで、お堂に入る。

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    ここには日本の森田上人という方が、古くからお寺と日本人墓地を守っていらっしゃる。

    今から約100年前に日本人墓地が、そして約50年前にこのお寺が建立された、ということ以外、失礼ながら詳細はウェブサイトで、ざっと流し読んだ程度であった。

    仏教に明るくないにもかかわらず、特に下調べもせず……。

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    お堂には誰もいらっしゃらず、とりあえずは奥へ進む。震災で落命された方々を弔う言葉が記されているその祭壇に、花を捧げさせていただく。

    いい感じで、おさまった。

    手を合わせて祈る。誰もいないお堂は、外の暑さとは裏腹に、ひんやりとしていて、空気がしんと静まり返っている。心の波が鎮まり、平な気持ちになる。

    祈りながら、般若心経を唱える。と、また気持ちが高ぶる。高ぶって、胸がいっぱいになる。が、般若心経がうろ覚えなことに「まずい」と自覚し、ハンドバッグのポケットを探る。

    あった。

    Hannya 父の形見の「お守り 般若心経」と、やはり父の形見の数珠。

    今回、なんとなく持って来ていたのだ。

    肺がんに苛まれていた晩年の父は、この「お守り 般若心経」を何冊もまとめて購入していたらしい。

    数年前、実家に帰省し、父の引き出しなどを開いていたときに見つけ、「お守り 般若心経」と数珠を、もらってきていたのだった。

    そう、ちょうど2008年11月、ムンバイでテロが勃発したとき、わたしとアルヴィンドは京都を旅していたのだが、その帰り、福岡へ戻ったときに、引き取って来たのだ。

    テロなどがおこると、いつもにまして、なにか祈るための、守られるためのものを、欲しくなる。般若心経を覚えたのも、あのときだ。

    しばらく祈りを捧げ、そして気持ちを落ち着けたあと、しびれる足をかばいながら、じわじわと立つ。

    04mumbai18 お堂を出ようと、ふと傍らをみたところ、懐かしいものが目に飛び込んで来た。

    団扇太鼓だ。

    南無妙法蓮華経。南無妙法蓮華経。

    わたしの父方の祖母は、日蓮宗に帰依していた。

    かなり熱心な信者であった。

    法事のたびに、この団扇太鼓をバチで叩きながら、大きな声で、

    なむみょ〜ほうれんげ〜きょう なむみょ〜ほうれんげ〜きょう

    と唱える祖母の声が、今でも耳に焼き付いている。祖父の葬儀のときには、参列者一同が、唱えた。

    わたしもこの太鼓を持たされ、唱えさせられた。

    高校時代のわたしには、心の底から祖父の魂を弔うというよりも、親戚一同がどんどこ太鼓を叩きつつ唱和する様子が、少々異様に思えて居心地が悪かった。

    団扇太鼓を見つめながら、ああ、ここは日蓮宗のお寺なんだ……。

    と、はっきりしない頭で、今更ながら、理解したのだった。

    今、目の前にある太鼓を手に取って叩きたい衝動に駆られたが、とりあえず我慢。入り口にいたお寺の人が、森田上人が奥にいらっしゃるからと、案内してくれた。

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    奥の事務所のようなところで、森田さんは、笑顔で出迎えてくださった。

    簡単な自己紹介を皮切りに、このお寺のこと、そしてからゆきさんのお話などをする。先刻、団扇太鼓を見て、祖母の帰依する日蓮宗のことを思い出し、それに連なる父のことを思い出した。

    「わたしの父は、日蓮宗を信仰していた母親(わたしの祖母)の影響もあって、お寺の方々にも関わりがあったんです。今から30年近く前になりますが、仏舎利塔を立てさせていただいたんですよ」

    そう。建設会社を経営していた父は、当時祖母がお世話になっていたお寺の方々が、仏舎利塔を建設したいということで相談され、最終的に、父が引き受けた経緯があったのだ。

    あれはわたしが高校生か大学生のときだった。

    父から仏舎利塔の図面を見せてもらった記憶がある。父曰く、お寺の方々は、特段、建築の知識もないままに、仏舎利塔を建てようとされている。

    最初は、まさか素人にそんなものができるまい、と思っていたが、熱意に打たれたとのことだった。正直にいえば、率先して建築を買って出たわけではない様子だった。

    しかし、信者の方々の働きぶりには、感嘆している様子で、「宗教の力は計り知れない」といった言葉を、父の口から聞いた記憶がある。

    そんなことを思い出していたところ、森田上人が一言、

    「その仏舎利塔は、久山じゃありませんか?」

    という。

    そう。糟屋郡。篠栗などに近い、久山にある仏舎利塔だ。

    森田さん曰く、その仏舎利塔建立に関わった僧侶の方々とも深い交流がおありのようだった。同じ日蓮宗である。

    関わりがあってまったく不思議なことではないのだが、このご縁がもう、とてつもなく、深く有り難いことに思えて、しゃべりつつも、言葉がない。

    「仏舎利塔を建ててくださったとは……。ありがとうございます」

    と、お礼を言われて、いやもう、それはわたしではなく、父がやったことであり、なんら関係がないとはいえ、胸がいっぱいになる。

    記憶は遡り、そういえば、わたしたちが結婚していたとき、母がしみじみと口にしていたことを思い出す。

    「うちには、インドのお坊さんたちが、泊まられたものね。インドにご縁があったのかもね」と言ったことを。

    あれは、わたしがすでに実家を離れていたから、大学生のころか、あるいは就職したばかりのころだった。

    インドから仏教の僧侶たち数十名が、平和行進のため日本へいらしたとき、福岡を訪れたご一行を、わが両親が、宿泊先を手配すべく、奔走したことがあった。

    当時は広かった実家(その後、父の会社は倒産し、実家は売却された。いろいろあった)にも、何名かの僧侶が宿泊したという話を、わたしも聞いていた。

    実家だけでは足りず、公民館を借りたりするなどの手配をし、さらにはたくさんのおむすびや天ぷらなどを作って、みなさんへ振る舞い喜ばれた……といった話をしていた。

    その旨を森田さんにお話ししたところ、なんと森田さんご自身が、その行脚を率いていらっしゃったという。

    我が家にはお泊まりになった様子ではないようだが、ひょっとすると、母が握ったおにぎりを、口にされていたかもしれない。

    わたしが知らないところで、こんな絆があったとは。頭の中が真っ白になるような思いだ。

    父や祖母のことが、鮮明に思い返された。

    父。わたしと父は、折り合いが悪かった。ぶつかりあった日々の方が多く、楽しい思い出は正直に言えば、少ない。

    「なんの遺言も、形見も残さんで、死んだよね〜。おやじ」

    などと、死後の父に対して、冗談半分、軽口を叩くことのほうが、むしろ多かった。父を敬わぬ娘を、父は空から苦々しく見下ろしていたのかもしれぬ。

    04mumbai25 さまざまな資料を見せていただく。

    なかに、藤井日達上人に関する記事もいくつかあった。

    日本山妙法寺は、20世紀初頭、藤井日達上人(1885~1985)によって創設された日蓮宗系の教団だという。

    藤井日達上人は、それまでの日本仏教界の在り方に納得せず、「真の仏教者としての生き方を追求」するため日本山妙法寺を創設したという。

    写真の中の、そのお顔を拝見して、懐かしさがこみ上げて来た。

    祖父母の家の壁に掲げられていた方だ。

    藤井日達上人について、Wikipediaから一部抜粋させていただく。

    1924年(大正13年)に最初の日本山妙法寺を日本に建立する。1930年(昭和5年)にインドに渡り、1933年(昭和8年)マハトマ・ガンディーと出会い非暴力主義に共鳴。第二次大戦後は、不殺生、非武装、核廃絶を唱えて平和運動を展開。1954年(昭和29年)、ネルー首相より贈られた仏舎利を納めた仏塔を熊本駅裏の花岡山山頂に建設。「世界宗教者平和会議」や「世界平和会議」の開催にも尽力。

    「福岡には、日蓮の大きな像がありますよね」

    と、森田さん。

    またしても、懐かしい記憶が蘇る。

    東公園の近く。

    子供のころ、祖父母に連れられて、よく訪れた場所だ。

    「日蓮さんに行こう」と言われて。

    子供のころのわたしは、日蓮像を見るのを楽しみにしていたわけではもちろんなく、鳩にエサをやるのが楽しかった。

    日蓮さん……。

    信心深さのなにもなく、苦しいときには、八百万神(やおろずのかみ)に手を合わせ、宗教に対する知識も浅く、ここまできた自分。

    そんな自分の中に、ひっそりと根付いていた宗教との関わり……。

    数々の興味深い資料の山。

    「また来てください。好きに持って帰って、コピーを取ってください」

    と森田さんは仰る。本当にありがたい。

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    そのあとも、森田さんからは、実にさまざまなお話をお聞きし、強い好奇心のきっかけをいただいた。

    04mumbai27 このお寺の建立の支援をしたのはビルラ財閥で、今でも支援を続けているとのこと。

    04mumbai21 スニール・ダットもまた、支援者の一人だったこと。

    04mumbai26 「からゆきさん」を記した森崎和江氏のこと。

    Nishi 西日本新聞と、インドにいらした情熱的な記者のこと……。

    階級差を超えて、インドの人々の、宗教者に対する姿勢。態度。

    インドの人々の精神性。宗教性。

    1970年代からムンバイに住まわれ、年に一度、故郷の北海道に帰られるとのこと。

    5月中旬から1カ月のご帰国を前にして、こうしてお目にかかれたことを、本当に幸いに思う。

    この日本山妙法寺。今後もまたしばしば訪れることになるだろう。

    突然の来訪にも時間を割いてくださった森田上人。今日のところは次のご予定もおありのご様子だったので、おいとました。

    次回は、お寺から少し離れた場所にある日本人墓地へ連れて行っていただきたく、お願いした。この次は、からゆきさんたちのお墓を詣らせていただこう。

    今度は森田さんから、森田さんご自身のお話を、もっとたくさんお伺いできればとも思った。

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    車に乗り、携帯電話から日本の母へ電話をした。一部始終を説明したら、とても驚いていた。

    「お父さんは、いろいろあったけど、いいことも、ちゃんとしてたのよ〜」

    本当にそうだと思った。

    これまでは、父が仏舎利塔を立てたということを、ただ一つの事実として、心をこめずに、とらえていた。

    ホテルへ戻り、インターネットの検索サイトを開いた。

    「久山」「仏舎利塔」

    をキーワードに、入力したところ……、

    日本山妙法寺福岡久山仏舎利塔

    と出てきた。

    日本山妙法寺。同じ宗派なのだから、同じ名前で当然なのだが、その同じ名前を目にした途端、泣けた。

    インドに、日本の家族に通じる場所があったということ。自分にもきちんと祈れる場所が、インドにあったとは。

    ちなみに日本山妙法寺は、ムンバイのほか、デリーやコルカタ、ブバネーシュワル、ラージギル、ダージリン、マドゥライなどにも建立されているという。

    今日はもう、ともかく、胸がいっぱいだ。まだまだ、いろいろと、書き記したいことは山とあるのだが、これで精一杯。

    5月27日。父の命日を間近に控えて、今日は本当に、有り難き、一日だった。

    ありがとうございました。南無妙法蓮華経!

    ★日本山妙法寺 
    https://nipponzanmyohoji.org/tenku.htm

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    🙏1年ぶりのムンバイで、100年前の日本人を思う。(2013/5/23)

    ムンバイの最南端、カフパレード(コラバ地区)に暮らしていたのは、2008年から2009年にかけての約2年間だった。夫が一時、ムンバイ拠点の会社に勤務していたことから、バンガロールとの二都市生活を送っていた。あのころは、月の大半をムンバイで過ごし、毎月1週間ほど、バンガロールに戻っていた。

    2008年9月のリーマンショック、そして11月のムンバイ同時多発テロは、わたしたち個人の暮らしにも、少なからず影響を与えた。その詳細はさておき、わたしたちの濃厚なインド生活の中でも、特に波乱に満ちた2年間だった。だからこそ、この街に対する心情は、ニューヨークとはまた異なる形で、個人的に強い。

    年に数回は訪れたいと思いつつ、今回は1年ぶりの来訪となった。年々、目覚ましい勢いで増え続ける高層ビルディングに目を見張り、しかし以前から変わらぬ様子の町並みに、少し安心したりもする。

    今回、北ムンバイのバンドラにあるホテルに滞在したものの、訪れたのはすべて、南ムンバイであった。ニューヨークで購入した一眼レフのカメラを持参して、今回は積極的に写真を撮影した。インドに暮らし始めて以来、撮り続けている写真は、大切な資料としてデータを残している。仕事でも使う機会が少なくなく、「これは!」と思う光景は、撮っておくにこしたことはない。

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    新しいブティックが次々に開店している高級モールのパラディアム。

    ムンバイの一大洗濯場、ドビーガート。

    貧困層の女性たちによる手工芸品を販売する団体、WIT。

    アルフォンソ・マンゴーがあふれるクロフォードマーケット。

    なじみの老舗パン&チャイ屋、ヤズダニ・ベーカリー。

    1年前にオープンしたばかりのスターバックス・カフェ。

    インドの伝統的なテキスタイル、サリーを扱うカラ・ニケタン。

    おしゃれなブティックが並ぶオベロイ・ショッピング・センター。

    コラバ地区の、最先端ファッションを扱うセレクト・ショップ数店。

    インド門、そしてタージマハル・ホテル。

    お気に入りのテキスタイル&サリー店、靴専門店のJOY SHOES、

    そして、いつものシーラウンジ……。

    わずか2泊3日の間、数々の場所を巡ったが、しかし今回のハイライトは、日本山妙法寺への訪問と、初めて訪れる「日本人墓地」であった。

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    ムンバイに到着した日。ホテルでチェックインをすませ、ランチをとったあと、バンドラ・ウォルリ・シーリンクを渡って南ムンバイへ。橋をおりてすぐのウォルリの目抜き通り沿いにある日本山妙法寺へ、まずは立ち寄った。この寺院はムンバイのビルラ財閥によって創設された。

    実は、ムンバイに住んでいるときには一度も訪れる機会のなかった日本山妙法寺だが、2011年、初めて訪問し、森田上人とお会いした。

    「日本山妙法寺」とは、日本山妙法寺大僧伽(にっぽんざんみょうほうじだいさんが)と呼ばれる日蓮系の宗教団体のお寺。この宗教団体は、1917年、藤井日達によって創始された。世界各地で太鼓を叩きつつ平和行進を続けていることでも知られている。

    わたしの父方の祖母が日蓮宗、ことに藤井日達上人の熱心な信者であったこと、また福岡県糟屋郡久山町にある仏舎利塔の建設に際し、建設会社を営んでいた亡父がお手伝いをしたことなどの背景があることから、わたし個人は信者ではないものの、日本山妙法寺とご縁があった。

    その詳細に関しては、2年前の記録に残している。また、昨年訪れたスリランカのゴールでも、日本山妙法寺を訪れた経緯がある。

    ■絆が見えた日。父と、仏舎利塔と、日本山妙法寺:2011/5/4

    ■海へも行かずフォート。夕暮れ南無妙法蓮華経:2012/1/27 

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    今回、2度目にお会いする森田上人。最初にお会いしたときにも、ゆっくりお時間をいただいて、いろいろなお話をさせていただいた。森田上人は、非常に溌剌とお元気で、気さくな方である。我が祖母と信仰の話題に始まり、インドでの暮らし、わたしの仕事、インドに暮らす日本人のこと、そして過去の日本人のことなど、さまざまな話題を語り合ううちにも、瞬く間に時間が過ぎてゆく。

    今回はまた、わたしが日本に帰国した際、実家に残されていた祖父母のアルバムから、日蓮宗に縁のあるものを数枚、インドに持って来ていたものをお見せしたのだった。

    その中の一枚、昭和14年に熊本県の花岡山行勝寺で撮られた一枚の写真が、森田上人がお持ちの、信者の方の自費出版の冊子の中に見いだされ、二人して、深く感じ入る。

    当時は福岡県に暮らしていたはずの祖母が、熊本の花岡山まで訪れ、藤井上人はじめ信者の方々とともに、一枚の写真におさまっているのが認められる。写真から、若かりし祖母を見つけるヒントとなるのは、その「なで肩」で、それがわたしにも引き継がれていることが血縁。古い写真に思いは巡る。

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    森田さんは、現在、藤井上人の足跡をまとめるべく、写真などの資料をお集めになっているとのことで、これらの写真は後日、きれいにスキャンをしてキャプションを添え、お渡しする予定である。

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    これは、我が七五三のときの写真。このときわたしは、慣れない着物が気持ち悪くて、始終泣き、大人たちを困らせたことを覚えている。

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    晩年は恍惚の人となって久しく、数年前に他界した祖母。このころはまだ50代だろう。若い。母も若い。そしてわたしも超若い。が、今とあまり変わらない顔をしている気がする。ちなみに、幼児期のわたしは、体格もよく、男子のようであった。

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    祖父母とお出かけ、といえば必ず訪れていた福岡市の東公園。ここには日蓮像があるのだ。日蓮さんはさておき、わたしは「ハトに餌をやる」のが好きで、喜んでついて行っていた記憶がある。思えば祖父は、機械が好きだった。当時、上質のカメラを携え、折に触れてわたしたちを撮影していた。新しもの好きでもあり、ナショナル(松下電器)の商品を愛用。電子レンジやヘアドライヤー、ミニカセットレコーダーなど、新製品が出るたびに購入していた。昭和40年代のことだ。

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    祖父とわたしと、妹と。少々成長しても、まだハトに餌をやるのを楽しんでいる模様。素朴な時代だ。

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    個人的な記録はこの辺にしておこう。

    さて今回、日本山妙法寺を訪れたあと、そこから1キロほど離れた場所にある「日本人墓地」を訪れた。その存在を知ったのは、2年前。しかし訪問するのはこれが初めてである。

    ウォルリの、ショッピングモールや高級ホテルとスラムが混沌と共存するエリア。フォーシーズンズ・ホテルの真向かい。道路に面しているわけではなく、低所得者層の暮らす古びたアパートメントビルディングの門をくぐり、その裏手へと向かわねばならない。そこに、ひっそりと、その墓地(墓石)はあるのだった。

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    上の写真は、スラムの中に屹立するフォーシーズンズホテル。そして左下の写真が、墓地に連なるアパートメントの入り口。

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    同行してくれたのは、大学を休学してインドに来訪、日本山妙法寺にしばらく滞在して奉公されている日本人女性のアヤメさん。太鼓を叩きつつ、「南無妙法蓮華経」と唱えながら、墓地へと赴く。

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    墓地自体は、1908年に設置され、この墓石は1933年に立てられたという。「供養塔」とある。

    100年以上前、この地に3000人ほども暮らしていたという日本人。最初に訪れたのは「からゆきさん」で、そのほか、「綿」の貿易に関わる仕事に携わる人々などが、この国際都市を訪れていた。この地で命を落とした人々のほか、第二次世界大戦中、捕虜になっていた日本兵の御霊も祀られている。

    こんなにも、ひっそりと。

    墓石の側面には、亡くなられた人々の名前が刻まれている。名前は祀られている人の一部だと思われる。

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    敷地内にある御堂。中には仏壇があり、戦没者の霊も祀られているが、寂れている感は否めず。墓守の女性がいて、手入れをしてくださっているが、しかし蜘蛛の巣があるなど掃除が行き届いている様子はなく、少し、心が痛む。ともかくは、自宅から持参した日本のお線香を焚いて、手を合わせる。

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    墓石と向かい合うようにして立つ、日本山妙法寺の宝塔。威風堂々と。

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    ムンバイ滞在の最終日、改めて、日本山妙法寺を訪れた。折しもその翌日、5月25日は仏陀の生誕祭であったので、そのお供えのマンゴーをカゴに詰めて、日本山妙法寺へお持ちした。そして、花のない墓石が寂しかったので、改めて花を手向けに、日本人墓地へ。墓石を水で清め、花を添え、線香を焚き、手を合わせる。心が澄む。実は5月27日は亡父の命日でもあったので、日本へ帰れぬわたしは、ここで、父の命日を祈らせてもらったのだった。

    異国の地にあって、母国に縁のある場所で、こうして祈りを捧げられるということは、本当にありがたいことだ。異郷に暮らしながらも、ささやかに、しかし確実に、ひとつの心の寄る辺のようなものが、ここにあるような気がして、とてもうれしい。

    またムンバイを訪れる際には、ここへ立ち寄りたいと思う。もっと多くの方々にも、この日本人墓地の存在を知っていただけたなら、とも思う。この墓地の存在を知ることで、日印の歴史の一端をまた、知ることもできるのだ。実はそのことが、また非常に興味深いものである。

    以下、明治維新以降、この墓地が作られるまでの日印の関連について、資料から拾い上げて見た。この簡単な年表を見るだけでも、当時の様子が透けて見え、非常に興味深い。

    1868年:[明治維新]
    1868年:ジャムシェトジー・タタが綿貿易会社を創業(タタ財閥の母体)

    1877年:日本へのインド綿糸輸入が増加

    1882年:大阪紡績設立

    1889年:日本のインド綿業視察団がインドを訪問

    1893年:ジャムシェトジー・タタ訪日
    1893年:日本郵船がボンベイ〜神戸間航路開通
    1893年:三井物産がボンベイに出張所を開設

    1894年:[日清戦争勃発]
    1894年:在ボンベイ日本国領事館開設
    1894年:横浜正金銀行がボンベイ支店開設

    1902年:岡倉天心がインドを訪問し、ラビンドラナート・タゴールと親睦を深める

    1903年:東京に日印協会が設置される
    1903年:タタ財閥がボンベイ(ムンバイ)にタージ・マハル・ホテルを創業

    1904年:[日露戦争勃発]

    1907年:在カルカッタ日本国領事館開設

    1908年:ボンベイに日本人墓地が設置される

    ムンバイの日本人墓地の100周年にあたる2008年を記念し、ムンバイの日本人会がその記念誌を発行している。非常に読み応えのある冊子だ。どの方が書かれた記事も、それぞれに、学ぶところ多く、 わたしもたいへん勉強になった。

    幸いにも、ムンバイ日本人会のサイトに内容がアップロードされているので、ネット上でも読むことが可能だ。インドに暮らす方々は特に、知っておいて損はない事柄だと思われる。

    下記、お時間のあるときにでも、ご一読をお勧めする。

    『西海の地に眠る大志と孤愁』

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    それにつけても、と思う。自分が生まれる以前からの縁が、今の自分に映し出される。

    わたしが、ミューズ・クリエイションの活動などを行っているお話をした折、森田上人が、

    「わたしたち、同じようなことをしてますね」

    と、ありがたくも畏れ多いお言葉をくださった。森田さんが数十年に亘ってこの地でされてきたことを思えば、わたしが行っていることなど、足下にも及ばぬことは承知している。

    更には、信心深いわけでも、慈悲の心に富んでいるわけでも、私欲がないわけでもなく、ただ、「衝動を優先で」行動しているわたしではあることも、重々自覚している。しかし、敢えてそのことをここに記すのは、そのような言葉をかけてくださる方のお心の広さが切にありがたく、うれしかったからだ。

    そのお言葉が契機となり、わが気持ちが格段に引き締まり、そして、少しでも世の中の役に立つことをしていこう、という思いを新たにさせられる。褒められて伸びる。喜ばれると張り切る。まるで子供のようではあるが、まさにそれだ。

    もちろん、自身の矜持を保つためには、少なくとも今のわたしは、ビジネスとしての仕事を継続して行くことは必要で、これからも慈善活動と並行して行うつもりだ。しかし、それを前提としながらも、たとえ微力であったとしても、日印の間を結ぶためにできることを、模索していきたいものだと、痛感するのだった。

    本当に、いい旅だった。

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    🙏モンスーンのムンバイ。日本人墓地とアンベードカルと(2019/7/8)

    小雨が降るなか傘をさし、ムンバイに来たときには必ず訪れている日本人墓地を目指す。フォーシーズンズホテルだと、道路を挟んで真向かいにあるのだが、セント・レジスからは裏道を歩いて徒歩10分ほど。肌に重い、蒸し暑い空気の中、わずか100メートルを歩くだけで、1キロほど歩いたような気になるストレスフルな通りが、しかし懐かしい。

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    ビームラーオ・ラームジー・アンベードカル。マハトマ・ガンディと同じくらいに、世に知られて然るべき偉大なる人物。ダリット(不可触民/アンタッチャブル)という、ヒンドゥー教におけるカースト制度の最底辺の出自でありながら、大学に進み、ニューヨークのコロンビア大学はじめ、ロンドン、ドイツへ留学した。インド国憲法の草案を作成し、反カースト運動に身を投じた。

    インドが発祥地でありながら、インドではほぼ絶滅していた仏教に、ダリットの未来を見た。仏教に改宗すれば、カーストの縛りから解き放たれる。最晩年の1956年、インドの中心に位置するナーグプルにおいて、50万人ものダリットとともに、仏教に改宗した。アンベードカルの死後、ナーグプルを拠点に活動する日本人僧侶、佐々井秀嶺上人にお会いするため、昨年4月、ナーグプルを訪れたことは、この一年、何度となく記してきた。

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    さて、この日本人墓地は、1908年、即ち111年前に建立された。19世紀後半、熊本や長崎の貧村から、多くの若い女性たちが、東南アジア、南アジア、果てはアフリカへと売られて行った。「からゆきさん」と呼ばれた彼女たちはまた、このムンバイ(ボンベイ)にもいた。からゆきさんほか、当時、綿貿易に携わっていた日本人駐在員、第二次世界大戦の際、捕虜となってマハラシュトラ州の収容所にて落命した兵士らの英霊がここに眠っている。

    この墓地は、近くにある日本山妙法寺によって管理されているが、掃除などを任されているのは、敷地内のバラックに暮らす一家だ。ダリット出自で仏教に改宗した人たちである。初めて訪れた10年前以降、毎回ヤショーダヤというおばあさんが、笑顔で出迎えてくれる。一緒に掃除をし、蝋燭に火を灯し、わたしが持参する日本の線香を焚き、手を合わせて南無妙法蓮華経を唱える。今回は、あいにく近くに花屋がなかったので、花を手向けられず。代わりに近所で掃除道具を買った。

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    初めて訪れたときには少女だった長女のジャグルティ。21歳の今はカレッジを卒業後、商学士 (B com)を専攻している。今回、彼女といろいろな話しをした。そもそもは、ヤショーダヤのお兄さんが、この墓守をしていたが、彼の他界後、ヤショーダヤと夫が引っ越してき、子供や孫らもこの狭いバラックで暮らしているという。……綴りたいことは多々あって尽きず、インスタグラムの文字数上限2000文字を超えてしまう。

    ☟日印の歴史に関心を持たれた方は、ぜひ以下の動画もご覧ください。

    🇮🇳パラレルワールドが共在するインドを紐解く③明治維新以降、日本とインドの近代交流史〈前編〉人物から辿る日印航路と綿貿易/からゆきさん/ムンバイ日本人墓地/日本山妙法寺

    🇮🇳パラレルワールドが共在するインドを紐解く③明治維新以降、日本とインドの近代交流史〈後編〉第二次世界大戦での日印協調/東京裁判とパール判事/インドから贈られた象など

    🇯🇵「からゆきさん」を探る〈前編〉貧しい時代の日本。身を挺して海外で働いた女性たちの歴史を紐解く

    🇯🇵「からゆきさん」を探る〈後編〉「からゆきさん」を経てボンベイでマッサージ店を起業。タフな女性の生き様に見る民間外交。誇り高き信念。

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    今年初頭に開港したベンガルール(バンガロール)国際空港のターミナル2。まだ、限られた航空会社のフライトだけが離発着している状況につき、利用する機会がなかった。

    しかし遂には今朝、初めて利用することができた。ターミナル2を利用したいがために、敢えてVistaraを選んだのだった。

    2008年に新空港が開港する以前の、前時代的な空港を利用してきた者として、この進化は極めて感慨深く、隔世の感あり、だ。

    このターミナル開港に際しては、昨年、庭園に植樹をしたり、開港式典に参加したりと、すでに情報をまとめてシェアしている。我々夫婦は、空港(BIAL)のCEO夫妻と懇意にしていることもあり、彼らの情熱や尽力を目の当たりにしてきた。その分、レポートも、表層の描写にとどまらぬ、深みがあるものになっている。

    バンガローリアンにおかれては特に、この空港のコンセプトなどを知ってもらえればと思う。

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    ✈︎数百年先の未来が見える! 再誕する緑の空港で、わたしたちの木を植える。(2022/10/22)
    https://museindia.typepad.jp/library/2022/10/future.html

    ✈︎バンガロールの新しい玄関口。ターミナル2の開港式典へ!(2022/11/23)
    https://museindia.typepad.jp/library/2022/11/airport.html

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    H8

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    今朝は1カ月以上ぶりに、新居で朝を迎えた。昨日は、業者に来てもらってディープ・クリーニングを依頼。この現場監督をするのが、本当に体力&精神力勝負なのだが、無事終わった。バンガロールでも、デリーでも、福岡でも、行く先々で、掃除ばかりしている。わたしは、そういう宿命なのだろう。

    しかし、掃除はいい。成果が忽ち顕れる。家の「気」があっという間に好転する。旧居もさることながら、新居はやはり、心地いい。「気」がいい。「磁力」が心地よい。縁もゆかりもないはずの大地なのに、心の奥底の郷愁を、静かに揺さぶる空間だ。

    しかしまだ、周囲のヴィラは工事中。平日は騒音や埃に苛まれて落ち着かない。

    Total EnvironmentのプロジェクトのひとつであるAfter the Rain。この開発会社の手掛ける家は、凝っている。凝りすぎている。CEO夫妻が敬愛する建築家(フランク・ロイド・ライトや安藤忠雄など)が、わたしの好みと合致していることもあり、彼らの熱意が具現化した家を迷いなく選んだ。

    作り手が芸術性や理念を追求しすぎて、工期が大幅に伸びることや、実践面(使い勝手や実用性)での問題は少なくないことも知ってはいた。それをわかっていてなお、購入を決めた。遅れるのを覚悟で、2013年、まだ更地のときに物件を購入。

    覚悟していたのだけどね……。長い。プロセスが異様に長い。

    2017年に完成の予定が、案の定、遅れに遅れに遅れたので、押しに押して押しまくり、なんとか去年のちょうど今頃、2022年5月にハンドオーヴァー(譲渡)された。

    「バンガロールのサグラダ・ファミリア」と呼び続けてきたこのプロパティ。いったい何時になったら完成するのか。ちなみにバルセロナのサグラダ・ファミリアは2026年に完成予定。奇しくも同じ時期になるかもしれない。長生きしないとな。

    ところでわたしは1989年、バルセロナ・オリンピックを数年後に控えたスペインを取材した。その後も何度か訪問したが、最後に訪れた2016年のサグラダ・ファミリアの変化は顕著で、深い感動を覚えたものだ。

    インドでの家選びの際に気をつけるべきことを、各方面で語り記してきたが、避けるべきは「新居」。誰かが数年暮らした実績のある家を選ぶのが肝要だ。なぜなら、インドにおける家の完成とは、「子どもの誕生」と同じ。

    不完全な子どもが独り立ちできるようになるまでは、教育が必要。

    インドの家も同じ。どんなにそれが、高級物件であっても、出来立ては子ども。育てねばならない。

    これがね、もう本当にね、たいへんなのよ。旧居は我々が移住して1年と少し後の2006年1月に購入。スケルトン(家具などがなにもない状態)から、「壮絶な怒涛内装工事 by 坂田マルハン美穂仕切り」で、驚異の2カ月弱のスケジュールで完成した。

    思い返すに信じがたい。日本人ばかりかインド人の友人らも驚く仕上がりだった。インテリアデザイナーやコーディネーターを通さず、極めて廉価であの旧居を仕上げたのは、今、自分で振り返っても奇跡的だったと思う。わたしは多分、運命に自動操縦されている。わたしの意思とは思えない。

    どれほど怒涛なプロセスだったがは、当時の記録を克明に記しているので、関心のある方はご覧ください。インドにおける労働現場の現実。及び、マネジメント、現場監督の重要性を間接的に知っていただけるかと思う。

    そこからさらには、配管の不具合、水漏れ、電気配線の不具合、電圧の調整、その他諸々諸々、それはもう、インドに住んでみなければわからない次元のトラブルが次々と発生し、それを修繕しながらの日々。

    だから、駐在員家族が新居に暮らすと、「育ったころ」に帰任となってしまう。なお住まい選びのポイントは『バンガロール・ガイドブック』にまとめている。

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    今回、日本から、「和の工芸品」を持ち帰ってきた。実家に眠っていた漆器や陶器。あるいは、銀座のすてきなお店で見つけた陶器やガラス類。これまでの人生、極力、ものを増やさないように生きてきた。

    20代のころから、遊牧民の暮らしを夢想し、モンゴルのゴビ砂漠に寝転び、「もの」ではない「記憶」の大切さを痛感した。今も、旧居/新居を、「モノ」で埋め尽くすつもりはない。ただ、日本やインド、そしてわたしが歩いてきた人生を象徴する「愛しいもの」や、心を豊かにする「文化や歴史を伝える工芸品」は、目の届く範囲で、調えていこうと思っている。

    量より質。

    今回、銀座では限られた時間しかなかったが、限られたお店で、とてもいいものに出合った。持ち帰り、新居に並べ置く。いい感じだ。後日、店舗の詳細をシェアしたい。

    ⏰移住直後、コマーシャル・ストリートの骨董品店で見つけ、5000ルピーで買った明治時代SEIKOSHA の掛け時計。この家にもよく似合う。

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    ◉インド生活/プチ家づくり(なにが「プチ」だ。と、今のわたしは突っ込みたい)
    https://museindia.typepad.jp/blog/new_home/

    ◉『バンガロール・ガイドブック』
    https://lit.link/en/bangalore

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    ☀️4月から5月にかけてのバンガロールは、盛夏だ。日本から戻り、暑さを覚悟したが、時折、雨が降るせいか、今年は凌ぎやすい。

    昨日は1カ月ぶりに、夫と共にヤラハンカの新居へ赴いた。インドにおいて、「長期間、家を空ける」というのは、極めてスリリングな賭けだ。

    電源が落ちる。水が漏れる。何かしらのトラブルが発生するのは日常茶飯事。尤も、週に1度、ドライヴァーに点検をしにいってもらっていたが、それでも自分の目で確認するまでは落ち着かない。

    出発前には問題があって疎らだった外庭の芝生が、見事に瑞々しい。パッと見、OK。しかし、内庭の植物は剪定がされておらず、盛大に成長している。バンガロールの緑は、この季節は特に、呆れるほど豪快に成長するから、しばしばハサミを入れねばならないのだ。

    家には入れば全体にうっすらと、埃の膜。天井ほか隅々で、蜘蛛らが張り切った成果が見て取れる蜘蛛の巣……。

    新居を得て1年になるが、まだ周辺のヴィラは工事中につき、当面新居はウィークエンドハウスの位置付け、猫らの住む旧居と行ったり来たりの生活だ。なんにつけても落ち着かない。それもまた、ライフの一つの過程だと思い、楽しもう。

    昨日は新居に夫の友人が来訪したことから、急ぎ、表面的な掃除だけをすませた。近々、業者を手配して、ディープ・クリーニングをしてもらわねば。まだ日本旅の記録を書き終えていないが、そちらも今回は放置せず、きちんと残そう。

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    🐾北バンガロール。空港に近いこのヤラハンカの地に新居を構え、街中の旧居と往来する日々が始まって、まもなく1年。

    全部で200以上のヴィラが建設予定だが、完成しているのはまだ30程度。クラブハウスやスポーツジムなどの公共施設などを含め、全体が完成するにはまだ数年かかるだろう。

    北バンガロールは昨今、随所で開発が進んでいる。空港周辺はもちろんのこと、数キロ先にはこの街最大のショッピングモールが完成するし、市内のカボンパーク(ニューヨークにとってのセントラルパークのような存在)に並ぶ大きな公園の建設も計画されている。

    旧居と新居は車で約40分程度の距離。二つの家の管理は手間がかかるが、今のところ、問題はない。問題があるとするならば、4猫らが旧居にいるということ。我々が不在の週末は、ドライヴァーが朝晩、訪れて餌を与えてくれる。

    猫らは自由にやっているようだが、人間らは寂しい。

    昨夜、ご近所を散歩していたら、半野良さんを見つけた。片耳に切れ込みが入っているので、避妊手術を済ませた女子猫のようだ。ぴょんぴょん跳ねるように、元気に走り回るかわいい猫。

    同じく散歩をするご近所さんと挨拶を交わしつつ、皆フレンドリー、平和なコミュニティでよかった。

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    夜中、激しい雨音で目が覚める。有り難き乾季の雨。雨音に包まれて、脳裏には、大好きな曲、”RAIN”が巡る。坂本龍一のアルバム、『1996』に収録された曲。

    ちょうどわたしが日本を離れてニューヨークに暮らし始めたころに発売されたこのアルバムが、わたしにとっては、もっともよく聞いた、坂本龍一のアルバムだったと、思い返しながら……。

    昨夜は何度も目が覚めて、よく眠れなかった。

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    🙏自分の中で、一つの扉が閉じたような思いだ。

    高校時代。YMO。シンセサイザー。バンド活動。戦場のメリークリスマス。ラストエンペラー。シェルタリング・スカイ……。アルバム『1996』。……1996!

    渡米直後の1996年。マンハッタンの小さなライブハウス。最前列の席で。数メートル先で、ピアノを奏で歌う彼の姿が今でも鮮やかに蘇る。

    その数年後。ウエスト・ヴィレッジの路上で、わたしとアルヴィンドは、立ち止まり、毎度の口論していた。

    そのとき、マウンテンバイクを実にゆっくりと走らせていた男性が、我々を凝視しながら通過した。目が合った。

    ……ん? ……ん!! 坂本龍一氏!? 口論、中断。

    そんな瞬間の出会いすらも、宝物のように、際立って蘇るのだ。

    かつて、ほんの短い間ご夫婦だった二人の、東風、連弾。この動画が、本当に好き。矢野顕子さんとの思い出もまた、いつか綴りたい。

    僕には 始めと終わりがあるんだ
    こうして 長い間 空を見てる
    音楽 いつまでも続く 音楽
    踊っている僕を 君は見ている

    (作曲/坂本龍一、作詞/矢野顕子、ピーター・バラカン)

    May his soul rest in peace.

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    1992年、見渡す限りの砂漠、荒野を見たくて、このページを広げた。1971年初版発行ブリタニカ世界国際地図。

    「そうだ。ゴビ砂漠へ行こう。」

    点よりも線の旅がしたくて、指先で鉄道をなぞった。青いマーカーで線を引いた。

    北京発、モンゴルの首都ウランバートル。その鉄道はやがて、イルクーツクを経てモスクワに至る。

    シベリア鉄道に連なるその、毎週土曜日にだけ走る国際列車に乗って、36時間の国境を越える鉄道ひとり旅。

    ペレストロイカの直後。北京とモスクワを往来する商人たちが、大荷物を携えて乗る列車に紛れた無謀。

    インターネットもデジタルカメラも情報もない時代。だからこそ、できたのかもしれない冒険。

    🌏繁田女史を通して知った沢木耕太郎の『天路の旅人』は、日本から取り寄せた。

    1994年、東京に住んでいたころに買った『チベット偽装の十年』と重なる。

    傷みはしても。色褪せはしても。

    腐ることなく消えることなく溶けることなく残る紙。その経年劣化すらも愛おしい。

    長いこと、生きてきたからこそ。経験を、重ねてきたからこそ。

    若いころには至れなかった感慨に浸れるということを、思う。今だからわかることの多さよ。

    インド地図。滑らかな紙を指で撫でながら。南天竺が、終の住処になろうとは。

    🔍近々、繁田女史が訪れるというカリンポンの地名を探すのに四苦八苦。ルーペ、買わねば。

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    🌏「思いを残さない年にしよう」と決めた2017年の新年。以来、その気持ちを大切にしている。

    「今度、機会があれば」

    「ぜひ近々お会いしましょう」

    「今後とも、よろしくお願いします」

    インターネットが誕生し、オンラインでの出会いが増え始めて20年余り。さらにはソーシャルメディア(日本で言うところのSNS)の台頭で、ヴァーチャルな「知人/友人」は、たやすく増える。そこからリアルに発展し、有難い出会いに結びつくことも多く。とはいえ、実際に会い、言葉を交わせる人の数は限られている。

    意識的に行動せねば「機会」は来ない。

    関わる人間の数が増えるからか、対人関係が「雑」な人も増えている気がする。「礼儀を期待するのは無粋」、「反面教師にせよ」と、自らを戒める機会も増えた。長所短所は表裏一体。この世界でいかに理想を見失わず生きていくかが肝要か。

    人間関係の形成の変容は、わたしたちの精神にどのような変化を及ぼしているだろう。この先、世界はどうなるのだろう。

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    🌏個人差はあれど、生涯で、実際に出会い語り合える人の数は限られている。そのことを、年齢を重ねるにつれて痛感する。「一期一会」を大切にしたいとの思いが強くなる。たとえば、わたしが「ミューズ・クリエイションのメンバーは過去228名だった」と正確に記すのは、関わってくれたひとりひとり、丁寧に記憶しておきたいとの思いがあるからだ。

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    🌏一月往ぬる。二月逃げる。三月去る。毎年のように、同じことを記している。年の始まりは、いつも瞬く間。1年ぶりの一時帰国を来月早々に控え、しかし、急遽「SOCIAL MUSE」の開催を決めた。5月中旬に、3年ぶりにリアルで開催されるジャパン・ハッバ(日本祭り)のことを、少しでも多くの人に詳しく知ってもらいたかったというのもある。
    縁あって、土曜の午後を共に過ごした人々。

    ミューズ・クリエイションの古株メンバーであるShinoさん。「228人分の1人」の彼女。ミューズ・クリエイションの足跡を知る彼女が参加してくれるとき、自分がやってきたことの「確かさ」を認識できるような気がして、ありがたい。

    日本語が流暢なジャパン・ハッバの実行委員のインド人女性。

    インド人と結婚してカンナダ語が流暢な日本人アーティスト女性。

    福岡県久留米市に暮らしていたインド人男性とネパール人女性の夫婦とそのご子息。

    日本の伝統建築をインドで具現化すべく訪れている数寄屋大工の男性。

    チェンナイ→バンガロールと、インドでキャリアを開拓する女性。

    ライヴに行くため、たまたまバンガロールに来訪していたチェンナイで働く女性。

    インドに希望と可能性を見出し、家族そろってバンガロールに住まうご夫婦。

    音楽制作やDJが趣味だというバンガロールで働く女性。

    ニューヨークで出会った日本人女性と結婚した猫煩悩なインド人男性……。

    ポジティヴで楽しい気(Vibe)を創造するMUSEにて。それぞれに、交流を楽しむひととき。今回の目的だったジャパン・ハッバについての簡単なプレゼンや質疑応答の場も提供できて、実り豊かな午後だった。ジャパン・ハッバについては、また別途、記したい。

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    新居の庭に、数カ月前から暮らしているトカゲ。猫らは旧居なので、生き物が恋しい我々は、ときどき姿を見せる彼に「チャーリー」と名づけ(夫が命名)、声をかけている。以前は、わたしたちが外に出ると逃げていたが、この頃は、かなり近寄っても、逃げなくなった。

    かわいい。

    今日は、庭に遊びに来る小鳥が、チャーリーにぐいぐいと近寄っていた。こうして見ると、似ている二つの生き物。おもしろき様子。

    最後の写真は、昨日の旧居の庭。大きなトンビが遊びに来た。以前、トンビの子どもが猫らの餌を狙って舞い降りた時、まだ子猫だったJACKが果敢に飛びかかり、撃退したのを思い出した。自分がトンビに攫われるぞ! と慌てたものだ。

    なにかとワイルドなインドの日常。

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    🇯🇵千葉県で『巡るインド』というインド料理店を営むKAORUさん、そして、健康志向なダイエットサロンを運営する妻のSAKIさんが、バンガロールにやってきた。

    土曜日に実施した慈善団体訪問は、実は二人の要望で設定したもの。せっかくなので他の方々にも声をかけ、実り豊かな時間を過ごした。参加者各位からの感想も届いている。慈善団体訪問の記録は改めてしっかりと残したい。

    ミューズ・クリエイションの慈善団体訪問は、寄付をするだけではなく、施設にいる人たちと交流を図ることが目的。なかでも「言葉のいらない」ダンスやスポーツ、歌は、コミュニケーションを図るのにとてもいい。

    ヒップホップのダンサーでもあるSAKIさんと、「子どもたちと一緒に踊ろう」と計画。振り付けを考えてもらっていた。

    今回、ヒップホップ初挑戦の我。ボリウッド・ダンスも好きだけど、実はヒップホップに憧れていたのだ。うれしい。即席ながらもSAKIさんに、的確なご指導をいただき、それっぽく踊れるようになった。

    ユニット名はThe Foresight。昨日の朝、この音楽Soul Flower (Remix) のミュージシャン、The Pharcydeにかけた、いい名前を……とみなで考えていた時、我が夫が提案してくれた。

    ちなみにわたしがニューヨークで起業し会社名を考えていたとき、夫が出してくれたアイデアのひとつがMUSEだった。そしてMuse Publishing, Inc.という社名に決めたのだった。

    というわけで、今後もHIP HOP、踊る予定。日曜の朝、張り切って踊った余韻が、全身の筋肉痛になって蘇る今朝。マッサージ、受けたい。