深海ライブラリ📕

深海の底に眠る過去の記録に光を当てる。揺り起こす。

  • 2002june

    インド未踏時の独身時代、2000年6月の坂田美穂。多分、人生初、デジタルカメラによるセルフィー。

    🍎ニューヨークで働く私のエッセイ&ダイアリー Vol. 48

    今は2001年7月9日の深夜です。ずいぶんと発行しないまま月日が流れてしまい、このままでは、インドで結婚式を挙げて戻ってくるまでタイミングを逸してしまうと、書きかけのものをひとまず仕上げました。以下、すでに時差が生じてしまいましたが、そのまま送ります。
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    今日、7月4日はアメリカ合衆国の独立記念日です。1776年の今日、イギリスから独立したのです。一年の祝日でも最も重要度の高い今日、各地でパレードや打ち上げ花火が行われます。

    今は夜の8時。あと1時間もすると、マンハッタンのイーストリバーで、恒例のメイシーズ(デパート)主催による花火大会が始まります。私はビルの屋上から眺めようと思います。

    今日は祝日ながら、集中して仕事をするのにとてもいい一日でした。先週は一週間DCにいて、月曜日にニューヨークに戻ってきました。先週末は、「私的一大イベントその1」が行われましたので、その模様もご紹介します。

    ところで、以前、紹介したジョージタウンのティーハウスの場所を知りたいという問い合わせがあったので、ホームページに掲載しています。写真も載せていますのでご覧ください。

    さて、読者の方からこんなメールをいただきましたので、一部抜粋いたします。
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    僕は27年前にネパールヒマラヤの山中にある、ホテル・エベレスト・ビューという所で、ラマ教で結婚式をやりました。まずホテルのある場所にたどり着くまでが大変でしたが、月がさんさんと輝いて、その明かりでヒマラヤの山々を照らし、そして星の輝きを消してしまうほどの夜空は、今思い出しても感動がよみがえります。

    其の事を友人に話をすると、皆感動と驚きを持って聞いてくれ、そんな素晴らしい結婚式を実行した自分を誇らしく思っていましたが、ある時妻とけんかしたときに妻が叫んだのです。

    「私だって皆と同じようにちゃんとした結婚式を挙げたかったわよ」

    一瞬その場が凍りました。その時の事を長男が覚えていて、時々妻をからかっています。坂田さんは、くれぐれも同じせりふをはかないよう気をつけてください。
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    心しておきます。

    最近のメールマガジンは、結婚関連のネタが多くて恐縮ですが、あと1カ月ほどはこの話題が続くかと思います。やっぱり、仕事や他の話題より、自分の中での優先順位はさすがに高いですから、書くこともおのずと出てくるのです。というわけで、今回は、結婚式の話題です。
     

    ●結婚式アメリカ編:マリッジライセンスを取りに行く

    以前も書いたが、アメリカで結婚する場合、婚姻届に名前を書いて判を押して届けて完了、というわけにはいかない。州によって法が異なるが、基本的に二人一緒にマリッジライセンス(結婚認可証)を受け取りに行き、しかるべき資格を持っている人物の立ち会いのもとに結婚式を行い、マリッジライセンスに必要事項を記入しサインしてもらった上で、改めて役所に届け出る、という過程を踏まねばならない。

    ニューヨークの場合、結婚式の際、立会人が必要で、DCの場合、血液検査が必要など、何かと面倒だったので、その両方が不要だったヴァージニア州(DCに隣接)で手続きをすることにしたのだ。

    先週の水曜日、会社を早退したA男と共に、ヴァージニア州アーリントンの役所(コートハウス)に、マリッジライセンスを受け取りに行く。二人の名前や住所などを記入した用紙と引き替えに、賞状のような体裁の結婚証明書(名前や日付の部分が空欄のもの)とマリッジライセンスの用紙を受け取る。受け取るとき、二人一緒に右手を掲げての宣誓が要求される。

    インドで結婚式をするのだから、式は簡単に、役所に隣接する施設で挙げるつもりだったのが、それではやはり味気ないと言うことで、予定を変更。週末1泊2日で結婚式を挙げにいくことにする。

    ちなみにインドでは、紙の上での手続きは面倒らしいので、基本的にはやらないつもりだ。当初はヒンズー教など宗教の問題があるのかと思っていたら、A男の家族いわく、日本大使館がややこしいことを言ってきたとのこと。具体的なことは後日聞くとして、もしもそれが本当だとすれば、やはり日本は閉鎖的で、アメリカという国は、開かれた国だと思わざるを得ない。

    アメリカ人でない二人が、この国で難なく結婚することができ、それが法的に認められるのだから。

     
    ●結婚式アメリカ編:シェナンドーのB&Bで結婚式を挙げる

    結局、以前にも紹介したDCから車で2時間ほどの場所にあるシェナンドー国立公園のそばで週末を過ごすことにした。ここにはワシントンと呼ばれる街がある。ワシントンDCに対し、ワシントンVA(ヴァージニア州)とよばれる小さな街は、初代大統領ジョージ・ワシントンゆかりの地らしく、彼がこの街をレイアウトしたという。なんでもDCより20年以上も前にワシントンという地名で誕生していたとか。

    この小さな街には、数軒のアンティークショップと、数軒のB&B(ベッド&ブレックファスト:英米版民宿のようなもの。漫才コンビではない)やインなど小さな宿があるばかりで、あとは豊かな自然が広がっている。シェナンドー国立公園へ出かける人たちの拠点となる街(村)でもある。

    周辺にはいくつかのワイナリーが点在していて、テイスティングを楽しめるほか、この季節はサクランボ狩りやベリー類狩りなどができる。

    ワシントンVAの宿はどこもいっぱいだったので、さらに少し離れた村にあるB&Bに予約を入れた。そこのオーナーが、結婚式を挙げる資格を持っているので、滞在中に式を挙げてもらうことにした。

    土曜日、快晴。午前中出発して、車を西に走らせる。景色を楽しもうと早めにハイウエイを降りて、牧草地帯を走る。オレンジ色の山ユリが咲いているかと思えば、ピンクや白の野の花が一面に広がり、風に揺れている。トウモロコシ畑、ブドウ畑、牛が草を食む小高い丘、取れたての野菜を売る農家の露店などを眺めながら走る。

    ちょうど昼頃、B&Bに到着。2匹の犬が尻尾を振って出迎えてくれる。オーナーはイギリス出身の老夫婦。200年以上前に建てられた家屋を改装して作られた宿は、すべて英国風のアンティーク仕立て。5つある部屋それぞれが、異なる家具、調度品で調えられている。

    私たちはスタンダードの部屋を予約していたのだが、夫妻の計らいで宿一番のスイートルームに通してくれた。

    天蓋付きのレースがかかったベッドには、フワフワのクッションがいっぱい。飾られている調度品はヴィクトリア調。しかし、あまりにアンティークすぎて、ちょっと怖い。なにしろ、リビングの一画に、シマウマの頭の剥製が突き出ていたり、鳥の剥製が棚の上に飾られたりしているのだ。鳥はまだしも、シマウマはやたら大きくて威圧的。

    A男は気味悪がって、「これ作り物だよ」と言い張るが、絶対に本物の剥製である。極力、視界に入れないよう努力した。

    「どこで式を挙げたいか、決めてちょうだいね」と奥さんに言われ、私はすかさず「ガーデンで」と答えた。野の花が咲き、小さな水辺のある、芝生の庭だ。蒸し暑いけれど短時間のことだから、室内よりも外の方がいい。

    私はこの間買ったばかりの裾がヒラヒラのドレスを着、A男はジャケットを着て、庭に出る。庭のベンチでご主人を待つ間、A男がポケットから紙切れを取りだし、イギリスの詩人が書いた愛の詩を読み上げてくれた。ほろっとしているところに、先ほどまで汚れたTシャツを着ていたご主人も、スーツにネクタイ姿で登場した。

    私たち二人を前に、ご主人が婚姻の祝詞のようなものを読み上げる。せっかく大切な瞬間なのに、急に小バエが大量発生して、私たちの周りを飛び交う。うううぅぅ、いまいましい。宿に馬小屋があるのが原因か。小バエも祝福してくれているのだと強引に自らを納得させつつ、最後に私たちそれぞれが誓いの言葉を告げ合う。交換するべき結婚指輪を用意していなかったので、取りあえず、婚約指輪を一度外して、もう一度A男に付けてもらう。誓いのキスをして、式は終了。わずか5分ほどのことだった。式が終わった途端、小バエは去った。

    式の間、私の頭の中に、佐野元春の「天国に続く芝生の丘」という曲がずっと巡っていた。7月の晴れた日に結婚式を挙げた、彼の両親のことを歌った、とてもすてきな曲なのだ。

    ちなみに、私たちが式をしたこの日は6月最後の日。はからずも私はジューンブライドとなった。

    さて、私たちが式そのものよりも心待ちにしているイベントがあった。その日の夕食である。なぜワシントンVAに来たかと言えば、ここには「全米で最もすばらしい」と言われるフランス料理店があるからなのだ。

    その名も「The Inn at Little Washington」。レストランを擁する宿そのものがまた、アメリカでも最高級なのである。最初、料金をよく確かめずここに予約しようとして、結局、満室だったから無理だったのだが、よくよく料金を調べてみて血の気が引いた。猛烈にお高いのである。

    しかし、せっかくの「特別な日」だから、食事ぐらいは奮発しようと、ゴージャスなディナーを実現するべく予約を入れた。

    レストランの予約は9時だったが、6時ごろから街を散策している私たちは、周辺の、あまりの田舎さ(何もなさ)に思い切り退屈し、近所をドライブするにも同じ様な田園風景でだんだん飽きてきて、時間を持て余していた。レストランのバーで食前酒でも飲みながらくつろぎましょう、ということで、早くも7時過ぎに「The Inn at Little Washington」に行く。

    建物の前には何台もの胴の長いリムジンが横付けしている。多分ワシントンDCなどからやってきた人たちだろう。牧歌的な周囲の風景とは似つかわしくない、みな晴れやかに正装をしている。

    「The Inn at Little Washington」の外観は、取り立てて華美でもなんでもない、シンプルな建築物。それが宿だとわかる看板さえない。しかし一歩、建物の中に足を踏み込むと、周囲の環境とはかけ離れた別世界。王侯貴族の邸宅に招かれたようなプライベートな雰囲気が漂っている。

    エントランスでは、匂い立つように美しくアレンジされた花が迎えてくれる。壁紙、天井、家具、カーテン、ランプ、ソファー、絵画、彫刻……と、目に飛び込んでくるすべてが、本物の質感と、気品に満ちている一方で、威圧的な雰囲気がない。非常に心地よい豪華さを演出している。

    「9時に予約を入れているのだけれど、食事の前にバーでくつろぎたい」と告げると、とても丁寧な応対のスタッフに案内され、サロンのようなバーに案内される。ここがまたすてきなムード。座り心地のいいソファーがうれしい。

    私はドライシェリーを、A男は白ワインをオーダー。紹興酒を思わせるシェリー酒をゆっくりと飲みながら、周囲の光景にゆっくりと視線を巡らせる。カップルや家族連れなどが、リラックスしたムードでグラスを片手に談笑している一方、これから食する料理への期待で、場の空気が少しばかり高揚しているように思われる。

    私たちにしても、一昨日から、「結婚式、どうなるかな」という会話は出ず、「夕食、どんな料理が出るかな」とそればかりが気になっていたのだ。

    話がそれるが、メールマガジンの読者から、時々「食事の話題が多いですね」というコメントをいただく。好意的なコメントが大半なので今後も書き続けることになると思うが、改めて訴えるまでもなく、「食」とは、とても大切なことなのである。

    過去の記憶を蘇らせるのに効果のある要素に、「匂い」や「音楽」に並んで「食事」が挙げられるように思う。これらを媒介にして視覚的な記憶や、思考的な記憶がひっぱりだされる。

    たとえば、今から7年前、私は欧州を3カ月間、ひとりで放浪した。その時に、旅の絵日記をつける一方で、食べたものを記録する「食事日記」だけも、別のノートに記していた。

    たとえば、

    朝:ホテルでクロワッサンとコーヒー
    昼:噴水のそばで青菜入りのサンドイッチ、ピザとジュース
    夜:白ワイン、羊肉のグリル、ベリーのシロップ漬け

    この3行を見るだけで、地名を確認しなくても、あ、これはイタリアのアッシジだ、青菜というのはホウレンソウみたいな野菜で、名称不明だったけれど、すごくおいしかったから、数日同じものを食べたのだった。そう、この日、噴水のそばでジュースを飲んでいたとき、名古屋でエアバスが墜落する大惨事があったことを観光客に聞いた。それからベリーのシロップ漬けがおいしくて、同じレストランに翌日も出かけた。窓際の席から見下ろした夕陽に映えるウンブリア平原は、一面黄金色に染まっていた……。と次々に記憶がひっぱりだされるのである。

    A男と私の5年間の記憶も、軸となるのは食である。行ったレストラン、食べていたメニューを思い出して、そのときの会話や服装、その前後のエンターテインメントなどを思い出す。

    話がそれたが、「The Inn at Little Washington」である。

    バーで、ちょうど食前酒を飲み干したころ、ちょうどいい頃合いで、「早めにテーブルが空いたので、よろしければどうぞ」と、窓際の、中庭に続くガラス扉の近くの席に案内された。8時過ぎとはいえ、まだあたりは明るく、窓越しに中庭の風景が見渡せる。池には蓮の花が浮かび、鯉が泳いでいる。

    メニューは、前菜、主菜2品、デザートにいくつかの選択肢がある。どれにしようかと思案していると、私とA男の間に舞い飛ぶ、またもや、こんどは大きなハエ!

    ちょっとちょっと! アメリカで一番のフランス料理店でハエはないでしょう。どうやら、中庭に続く扉を開けたときに、外から舞い込んできたらしい。どんなに気取っていても、この建物を出ればあたりは牧草地帯。近所では牛が放牧されているくらいだから、ハエの一匹や二匹は当たり前なのである。

    静かにウエイターを呼び、ハエをどうにかしてください、と頼むと、彼は静かに、そして真剣に、窓際へハエを追い込み、さっと手づかみで外へ出した。かなり慣れた一連の行動である。彼は小声で「ハエのことは、他のお客様には秘密にしておいてくださいね」とウインクして去っていった。さすがアメリカ。くだけた雰囲気。ヨーロッパの高級レストランだとこうはいくまい。

    さて、気を取り直し、料理を注文する。私は、ロブスターのサラダ、冷製とグリル2種のフォアグラ、ラムチョップのグリルをオーダー。ワインは、カリフォルニア・ナパ産のピノ・ノワール。

    まずテーブルに運ばれてきたのは、デミタスカップに入ったコンソメスープ。これがもう、何とも言えず食欲をそそる序章となる。コンソメスープを一口、飲んだところで、ウエイターが、トレーに盛った見た目にも美しい、おつまみのようなスナック類をサーブする。小さなスコーンに柔らかなコンビーフを挟んだもの、餃子のようなものなど、どことなく点心を思わせる数種類の中から、好みのものを手でつまむ。その手でつまむというカジュアルさもまた、やはりアメリカらしくて肩が凝らない雰囲気を演出している。

    コンソメスープとスナックの味覚のバランスがすばらしく、すでに幸せな心地。思わず頬がゆるみ、A男も私も「おいしいね」とばかり言っている。控えめに2種類だけつまんだが、もう少し取ればよかったとささやかに後悔。

    さて、次はロブスターのサラダ。蒸したロブスターの身だけを取り出し、マヨネーズ風のクリーミーなソースとキャビア、サラダを添えている。新鮮なロブスターは歯ごたえがよく、噛むほどに甘みが増す。キャビアの塩味と絶妙な相性で、マヨネーズソースがまろやかさを添えている。

    次なる皿はフォアグラ。「冷たいフォアグラと温かいフォアグラの結婚」と名付けられたその料理は、その名の通り、2種類のフォアグラが甘みのあるフルーツジャムのようなソースと共に供される。

    私がこのディナーで最も気に入ったのが、この温かいフォアグラだった。ほどよく脂ののったフォアグラが、香ばしくグリルされている。それは霜降りの牛肉に似て、口中で風味豊かにトロリと溶ける。もうたまらん、といった感じである。

    ちなみに今、深夜の12時過ぎだが、猛烈に食欲が沸いてきた。辛い。

    そしてラムチョップ。好みの焼き加減(ミディアム・レア)で供された骨付きのラムは、最早、ナイフとフォームなどを忘れ、手づかみで骨に張り付いた肉もしっかりと食べてしまいたいほど、であった。

    伝統的なフレンチのように、バターソースなどを使った重い料理ではなく、あくまでも新鮮な素材の持ち味を生かし、その風味を引き立てる調理法で出される料理は、ボリュームがあっても胃にもたれることなく、ほどよい加減だった。

    通常、アメリカでフルコースを食すると、途中で満腹になり、とてもデザートまで到達できないのが、この日はデザートも余すところなく楽しんだ。

    ちなみに私はホワイトチョコレートのアイスクリームに、温かくほろ苦いチョコレートソースがかかったもの。A男は5種類のデザートが少量ずつ盛られたサンプル風のデザートをオーダーした。

    満腹度100%でコーヒーで締めくくり、幸せな気持ちで席を立った。

    そういうわけで、幸せな一日だった。

    The Inn at Little Washington
    ➡︎https://theinnatlittlewashington.com/

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    この記録は、ニューヨーク在住時に発行していたメールマガジン『ニューヨークで働く私のエッセイ&ダイアリー』の原稿を転載するものだ。メールマガジンは、すべてホームページに転載していたことから、今でも読むことができる。

    *注/文中のA男とは、我が夫アルヴィンドのことである

    ➡︎ http://www.museny.com/essay%26diary/magcover.htm

    【以下、2001年6月の記録を転載】

    エンゲージメントリング(婚約指輪)。これまでの人生、まるで無関心に生きてきたのだが、せっかく結婚するのだし、安くてもいいからちょっとした指輪は記念に欲しいものだと、半年くらい前までは思っていた。

    ところが、数カ月前より、エステティックサロンのSさんをはじめ、かつてエメラルドのバイヤーをやっていて、宝石に詳しいHさん、そしてわが母親らの意見を聞くにつけ、心が揺らいできた。

    Sさんは、「絶対、ダイヤモンドがいい」と力説し、ダイヤモンド関連の情報を教えてくれる。Hさんは、「買うなら絶対1カラット以上がいいから。私はダイヤを卸値で買えるから、コーディネートしてあげるよ」と言ってくれ、母は「美穂、せっかくだったら、買っていただきなさい」と言う。

    「せっかく」も何も、そもそもA男には、まったくそんなつもりはないのだ。以前も記したが、彼は18歳までインドに暮らしていたから、バレンタインデーも知らなかったし、婚約指輪の存在すら、多分、よく知らないはずだ。しっかりと作戦を練る必要がある。

    ある土曜日の午後、レストランでブランチを食べながら、さりげなく話を切り出す。

    「ねえ、婚約したら、指輪を女性に贈らなければいけないんだよ。それは愛の象徴だから、最も強い貴石であるダイヤモンドでなければいけないんだって。知ってた?」

    「知らないよ。そんなこと。宝石会社のコマーシャルに乗せられているだけのことでしょ。インドではそんなこと、しないよ」

    「あら、なに言っているの? この間、あなたのおじさんも、結婚指輪をしてたじゃない。結婚指輪があるということは、婚約指輪も存在するはずよ」

    「そうかなあ。違うと思うけど。僕のお父さんはしてないよ、指輪」

    「それでね。婚約指輪って言うのは、だいたい、月収の3倍なんだって」

    「えーっ? 何だよそれ。誰が決めたんだよ、3倍なんて。それって税引き前の話? それとも税引き後?」

    こちらは、額面の3割近くが税金に引かれるから、それは重要なポイントなのだ。

    「もちろん、税引き前に決まってるじゃない。あ、でも気にすることはないのよ。私、そんなに高価なものを欲しいなんて言ってないし。私たち今までずっと割り勘だったし、あなたに何かを買ってもらうのも、なんとなく気が引けるしね」

    そういいつつも、ブランチをすませ、街をふらふら歩きながら、なぜか私の足は五番街、57丁目の「ティファニー」に向かっている。店の前に来て、いかにも偶然見つけたかのように言う。

    「あ、ティファニーだ。ちょっとのぞいてみない? 別に、今、指輪を買ってくれって、言ってるんじゃないの。マーケティングよマーケティング」

    疑惑の目を向けるA男の手をひっぱり、店内へ。週末のティファニーは一段と込み合っていて、熱気に満ちあふれている。すでに下見しておいた婚約指輪コーナーへ行く。A男に見せておきたいものがあるのだ。人混みをかき分け、ショーケースの中を彼に示す。キラキラと輝く大小のダイヤモンド。中央に、小さな表示がある。

    「Tiffany’s Diamond. Engagement Ring. $950 to $1.1 million」
    (ティファニー製ダイヤモンド 婚約指輪 約10万円から約1.3億円)

    A男、目が点になり硬直している。

    「なんなの、1ミリオンって。指輪に1ミリオン??」

    興奮を隠しきれず、私に耳打ちする。そして冷静になってまわりを見回す。若いカップルが、大粒のダイヤを試している姿を見て、急に競争心を燃やしている様子。予想通りの反応だ。

    「ねえ、あの男、ぜんぜん冴えない感じなのに、あんなダイヤ買えるのかな? あっ、あそこにいる日本人のカップルなんて、大学生みたいだよ。彼らも買うのかな? 信じられないな」

    確かに、私も信じられない。今まで宝石などにお金を使ったことがないから、ピンとこないのだ。A男は、急にのどが渇いたといって、一旦外に出て、ベンダー(屋台)でボトル入りの水を買い、喉を潤して戻ってきた。

    他の店に比べ、ティファニーは日本人好みのシンプルなデザインが多い。アメリカ人は、ごてごてしたジュエリーが好きだから、婚約指輪にしても、やたらと爪が高くて「これみよがし」のものが多いのだ。真珠などにしてもそう。以前、ミキモト・アメリカの社長をインタビューしたことがあったが、アメリカと日本とでは、全く異なるデザインが好まれると聞いた。

    こちらの新聞や雑誌にもミキモトの広告をよく目にするが、ビー玉のような大粒の真珠が、二連、三連になったもの、ゴールドやシルバーの装飾が施されたものなど、奇抜なデザインが紙面を飾っている。

    私は指輪にしろネックレスにしろ、大きめのものが好みだが、それでも、五番街などのショーウインドーで、これでもかというくらいに過度に華やかなジュエリーを見るにつけ、嗜好の違いを痛感させられる。

    さて、ティファニーの最新デザインだというシンプルですてきな婚約指輪を試してみる。大きいのを試すのは心臓に悪いから、最小サイズから3番目ほどのものを指さし、ショーケースから取り出してもらう。

    指につけながら、さりげなく値札をのぞく。A男ものぞく。こんなに小さいのに、かなりのお値段……。店員の手前、僕らは買おうとしているという姿勢を見せなければならないから、ダイヤモンドのしおりなどをもらい、積極的にダイヤモンドの品質などについて質問をする。

    二人して、かなり消耗して店を出た。しかしながら、A男の脳裏に、「婚約指輪はダイヤモンド」という刷り込みがなされたことは、間違いないだろう。第一段階、ほぼ成功である。

    アメリカの婚約指輪はなにしろゴテゴテしている。私は、できるだけ長い歳月、いつも身につけていられる、できるだけシンプルなものを求めていた。

    理想の指輪を求めてリサーチ開始。結婚関係の雑誌やウェブサイトをのぞいたり、打ち合わせなどで外出するたび、ジュエリーショップで足を止める。しかし、どうしても気に入ったものが見つからない。

    ついに私はミッドタウンにあるダイヤモンド街に足を踏み込んだ。47丁目、5番街と6番街の間の1ブロックは、ユダヤ人を中心とした宝石商たちの店舗がぎっしりと軒を連ねているのだ。中国、コリアン、ロシアなど他国の商人たちも見られる。

    ショーウインドーにきらめく、素人目には海のものとも山のものともつかない宝石の数々。私は獣を追うハンターのような鋭い目つきで、プラチナのリングのデザインを眺める。ショーウインドーには、宝石がついているもの以外に、台座の部分だけも陳列されているのだ。

    数軒目のショーウインドーで、ついに、見つけた。ティファニーの、私が求めていたデザインとよく似たシンプルな台座を。ちなみにティファニーの商品の一部は、このダイヤモンド街の職人たちが手がけているという噂も聞く。

    店内に入り、加工の具合やデザインをチェックする。その後何軒か訪ね、いくつかの店で、似たデザインのものを見つけた。

    結局、私は宝石商の友人Hさんに連絡をする。以前、muse new yorkやメールマガジンでも紹介した、エメラルドの貿易をやっていた彼女だ。彼女は今、ダイヤモンド街にある宝石関連の学校で勉強を重ねている。

    彼女と相談した結果、彼女にすべてアレンジしてもらうことにした。予算と希望のダイヤのカラット(重量)を伝える。それにより、ダイヤの質を考慮してもらう。もちろん彼女への手数料も予算に含まれる。

    中途経過はいろいろあったが、最終的に、彼女を通してベルギーのアントワープからダイヤモンドを取り寄せ、ダイヤモンド街の中で最も加工技術が上手だと思われる店で台座を購入し、セッティングしてもらった。

    もう、すでに「婚約指輪」に伴うロマンティックな雰囲気は霧散しているが、A男も「Hさんに頼んだら?」とお任せ気分だったし、二人で予算も相談したので、あとは私とHさんとのやりとりになった次第なのだ。

    ダイヤモンド街では基本的にはクレジットカードは使えず、すべて現金勝負。だから、Hさんにあらかじめ小切手を渡し、彼女が購入の際に現金化して支払うことになる。なんだかその怪しげな雰囲気が私の好奇心をかき立てる。なにしろ、ダイヤモンド街には、店頭に並んでいるのはごく一部で、それぞれの店舗が強靱な金庫を持ち、相当の在庫を保有しているのだ。

    あの1ブロックだけで、いったいどれほどの「金銭的価値」があるのか、想像もつかない。マンハッタンで最もヘビーなブロックなのである。

    さて、先々週の木曜の夕方。「ブツ」の取引を行うことになった。待ち合わせの場所は、ダイヤモンド街に近い、ロイヤルトン・ホテルのバー。あらかじめネイルショップに出かけて、指先を美しく整える。どの色がいいだろうと、いつもより長い時間、色選びに迷った結果、「アマルフィ」というイタリアの海岸の名前が付いた色を選んだ。淡い金色のそれは、柔らかな光のようである。

    Hさんより一足先についた私は、はやる気持ちを抑えつつ、マティーニを飲みながら待つ。

    ニコニコしながらHさんがやってきた。いい仕上がりだったに違いない。

    「ここで感動しちゃだめなんだよね。今日はあくまでも検品、検品。本当の感動はあとにとっとかなきゃね」

    などと言いながら、安っぽい箱を開け、中から黒いビロード製のケースを取り出し、パカッと蓋を開ける。

    きれい! すてきなデザイン! キラキラしてる!!

    指にはめてみると、とてもすんなりと収まる。私の手にとてもしっくりとくる。Hさんも「すごくいいよ、似合ってる」とほめてくれるし、私もそう思う。台座を求めて何軒も訪ねた甲斐があったというものだ。

    下世話な話だが、Hさんを通して作ってもらった婚約指輪の価格は、市価の3分の1程度。日本だともっと高いから4分の1程度かもしれない。その現実もまた、喜びを増幅させる。

    なくしたらいやだから、指輪はそのまま身につけて帰り、家に戻ってから柔らかな布で磨いて箱に戻し、家にあったリボンなどをかけて、きれいな紙袋におさめた。
    翌日、DCから戻ってきたA男に、「お祝いの件」と言いながら、その紙袋をさりげなく渡す。A男もこのときばかりは気を利かせていて、翌日のブランチとディナー、両方に、すてきなレストランの予約をいれてくれていた。

    「お祝いは昼と夜のどっちがいい?」

    と聞かれ、夜まで待ちきれないから昼にすることにした。A男が連れていってくれたのは、近所のアッパーウエストサイドにある、こぢんまりとしたフランス料理レストラン「Cafe des Artistes (1W. 67th St.)」という店だ。近所ながら、まだ一度も訪れたことのない店だった。

    まずはシャンパーンで乾杯。そのシャンパーンの色が、昨日塗ってもらったマニキュアの色と全く同じであることに気づいて、ささやかに感動した。

    前菜に生のオイスターを食べたあと、ロブスターサラダにポトフをオーダー。そのポトフのおいしかったこと。鍋ごとテーブルに供され、テーブルでウエイターからサーブしてもらうのだが、具もたっぷり入っていて、ゆうに二人分はある。トロリとした「マロー・ボーン(牛の骨髄)」、柔らかに煮込まれた牛肉、それに各種野菜。コンソメのスープもとても上品な味で、本当においしかった。

    食後は甘みを抑えたホイップクリームがたっぷりのパイに、ストロベリーやブルーベリー、クランベリーなど、ベリー類がたっぷりあしらわれたデザートを二人で分ける。さらには、食後酒にポルトガルの甘いワイン「ポートワイン」を少し。至福のブランチだった。

    「お祝い」の詳細は、公表するには恥ずかしいので割愛するが、レストランを出るときには、私の薬指にはキラキラと光る石が収まってた。

    こんな小さな石なのに、しかも、受け取ることを予想していたのに、こんなにうれしい贈り物は、これまでの人生でなかったというくらいに、うれしかった。

    小学校に入学するとき、福岡の新天町にある大隈カバン店でウサギのマークのランドセルを買ってもらい、さらにはクロガネの学習机を買ってもらったとき以来の、それは強い感動だった。

    午後の街を歩きながら、何度も石を光に翳してみた。太陽の光、電灯の光、夕陽の光、キャンドルの光……。それぞれの光によって、違う色や輝きを呈する石。小さな石の中に、無数の光の破片が息づいているように見える。

    A男に「もう、いいかげんにしたら?」と言われるくらい、折に触れ、眺めている。

    1週間以上たった今でも、そのうれしさは変わらない。毎晩、ハンドクリームを丹念に塗って、爪もきれいに整え、一人悦に入っている。

    いつまで続くことやら……。

  • 【ニューヨークで働く私のエッセイ&ダイアリー/Vol. 25】 
    2001年1月14日発行のメールマガジンを転載

    早くも1月中旬。昨日からワシントンDCに来ています。次号のmuse new yorkは、DCで春に行われる桜祭りを取り上げると同時に、DCの観光ポイントなども紹介するので、明日から1週間、こちらで取材をする予定です。

    さて、2001年を迎えるにあたり、ひとつ決めたことがあります。それは、「これはいいな!」と思ったことは、どんなことであれ、仕事を言い訳にせず、時間を作って積極的にそれを行う、ということです。

    エンターテインメントを見に行くこと、フィットネスクラブに通うこと、会いたい人に会うこと、食べたいものを食べに行くことなどなど。もっともっと時間を有意義に使って、人生を楽しみたいと思うのです。そのためには、仕事も盛りだくさん、やらなければならないのですが。

    さて、アッパーウエストサイドとミッドタウンの間に位置するわがアパート(60丁目西)からは、徒歩15分圏内に、さまざまなエンターテインメント・プレイスがあります。オペラやバレエ、クラシック音楽が楽しめる一大施設「リンカーンセンター」をはじめ、日本人にもおなじみの「カーネギーホール」、そして数々のミュージカルの劇場が点在する「ブロードウェイ」……。映画館もたくさんあります。

    そんな恵まれた環境にあるにもかかわらず、映画館は別として、昨年は数えるほどしか劇場に足を運ぶ機会がありませんでした。ニューヨークに来た当初は、気軽に、しかも手頃な料金で、音楽や演劇が楽しめるのがうれしくて頻繁に出かけたものです。しかし最近では「あ、これはおもしろそうだ!」というものを見つけても、「時間に余裕があるときにしよう」などと思い、いつのまにか忘れてしまうことがたびたびでした。

    毎年、年末に上演されるクラシックバレエの「クルミ割り人形」にしても、いつも「今年は行こう」と思うまま、すでに5年にわたってチャンスを逃しています。「ビッグアップル・サーカス」は、なんとか今年、見に行きましたけれど。

    そういうわけで、今日は、年頭に出かけたエンターテインメントについてを、ご紹介します。

    ●ジュリエット・ビノシュのことなど

    以前から見たいと思っていたミュージカルが2月で終演するのを知り、何度かチケットを取ろうと予約センターへ電話をしていたのだが、なかなかとれずにいた。そして先週の水曜日。電話をすると、一番前の席が一つだけあいているという。さっそくその夜、出かけることにした。

    ミュージカルのタイトルは「BETRAYAL」。訳すると「裏切り」「背信」。夫の親友と恋に落ちた女性の、三角関係の恋物語を描いたストーリーだ。上演期間が短く、知名度もあまり高くなく、雑誌などの評もあまり芳しくないのだが、それでも見に行きたかった理由は、主演女優をどうしても見たかったからだ。

    フランス人女優のジュリエット・ビノシュ。30代半ばの女優だ。日本でも彼女が主演の映画は何本も上演されている。「存在の耐えられない軽さ」「ポンヌフの恋人」「トリコロール/青の愛」「ダメージ」「イングリッシュ・ペイシェント」など。

    私は、ハリウッド映画よりもヨーロッパやアジアの映画の方が好きで、日本にいたころも、主にはそれらの映画を好んで見に出かけていた。日比谷のシネシャンテでは、その系統の映画がしばしば上映されていて、時間を作っては足を運んだ。パリが大好きなイラストレーターの友人がいて、ストーリーや俳優たちの話で盛り上がったものである。

    周囲の人々からは「竹を割ったような」あるいは「あらくれ」といった形容を付けられる私の性格であるが、自分自身を顧みるに、非常に「ロマンティックなシチュエーション」や「ドラマティックな展開」が好きなタイプだ。一般的日本人の感覚からすると、「うわ、クサい」と思われるようなことも、平気でやってしまう。そのあたりの感覚は、子供のころから欧米人だ。それが自分に似合おうが似合うまいが、基本的にはお構いなしである。

    人生とは、ロマンティックでありドラマティックでなければつまらない、とさえ思っている節がある。波瀾万丈だからこその人生。だから、映画も、胸がキューッと締め付けられるような愛だの恋だのの「ドラマもの」が好き。グッと泣けてくるのも好き。パリ好きの友人もやはりその手の性格だった。二人して洒落たイタリアンやフレンチのレストランに好んで出かけては、恋や愛や旅の話しで盛り上がったものだ。

    さて、水曜日である。ミュージカルの開演は8時なので、その前に軽く食事でもしようと早めに家を出る。最近はブロードウェイのエンターテインメントが集中する「タイムズ・スクエア」周辺は、次々に新しい見どころなどが誕生して、ちょっと見ないうちにも様変わりしている。マダム・タッソー蝋人形館やサンリオのキティちゃんの専門店もオープンしていた。

    タイムズ・スクエア周辺にはあまり気の利いたレストランはないのだが、ふと脇道に入ったところに、こぢんまりとしたフレンチ・ビストロを見つけたので入った。今日はフランスの気分で行こうと決めて。一人だとなかなかいい席に通してもらえないことが多いのだが、あまり込んでいなかったせいか、広いテーブルに案内してもらったことがうれしかった。

    スパークリングワイン(一般にシャンパーンのことであるが、シャンパーンとはフランスのシャンパーニュ地方で作られている物だけを指す呼称なので、他の場所で作られたものはこう呼ばねばならないらしい)をグラスで頼み、シーザーサラダとムール貝のワイン蒸しを頼む。どちらも前菜だが、高級店ではないので、このようなオーダーをしても差し支えはない。

    穏やかな物腰の初老のギャルソン(給仕)の、「Bon Appetit!」(どうぞ召し上がれ!)という一言が、ヨーロッパ旅情をかきたてる。

    リーズナブルで、しかも思ったよりおいしい食事ですっかり幸せな気持ち。最後はエスプレッソで締めくくりたかったが、開演時間が迫っていたので劇場に向かう。

    一つだけ空いていた、その一番前の席。見るのに首が痛くなるほど舞台に迫っていたが、俳優たちをすぐそばで見られるのは何ともいいものだ。

    ジュリエット・ビノシュは、決して美人ではないのだが、仕草や表情の変化がとても美しく、深みのある印象を与える女性である。煙草の吸い方、グラスの持ち方、そんな一つ一つに独特のニュアンスがあるのだ。特に、彼女が「怒りと悲しみ」を同時に表現したときの表情が美しい。口を固く結び、悲哀を帯びた目つきをする。私が「怒りと悲しみ」を同時に表現すると、鼻の穴がプーッとふくらんで、見るも無惨な顔になってしまうのだが。

    舞台装置はシンプルながら美しく、光の微妙な加減で彼女が引き立つ、絵画的なライティングだった。しかし、ミュージカルのストーリーそのものは、正直なところいまひとつだった。彼女の夫と愛人どちらもアメリカ人俳優で、翳りがなさ過ぎた。会話の端々に「コミカルな要素」を織り込んであるものだから、不倫の話なのに、観客が笑うシーンが多すぎる。

    アメリカ人と日本人は、笑いの観点が違うから、全然おかしくないところで、だれかが高笑いするのを聞くと、すっかり白けてしまう。ジュリエット・ビノシュのフランスなまりの英語が、本来なら、味わい深く感じられるものが、滑稽にさえ聞こえてしまう。

    しかしながら、彼女の姿を間近で見られたことで、私はとても満足だった。

    私が彼女を初めて見たのは、「存在の耐えられない軽さ」だった。「存在の耐えられない軽さ」は、チェコ出身の作家ミラン・クンデラの同名の小説に基づいて作られた映画である。そもそも、チェコスロバキア(現チェコ)という国に興味があった私は、「プラハの春」とその凋落の時代を背景に描いた恋愛小説に興味を持ち、そして映画を見た次第。この映画のヒロインがジュリエット・ビノシュだった。

    チェコ、もしくは「プラハの春」について興味のある方は、春江一也著『プラハの春』上下巻をおすすめする。日本国大使館員としてチェコスロバキアに暮らしていた彼が、1960年代後半のプラハを、恋愛を通して描いたフィクションだが、当時の政治的背景が手に取るように伝わる、緊張感に満ちた作品だ。

    私がそもそもプラハに興味を持ったのは、中学生のとき、スメタナの連作交響曲「わが祖国」の第二楽章「ヴルタヴァ(モルダウ)」を聴いたのがきっかけだった。その旋律に心を引かれ、レコードを買い、そのレコードジャケットにあったヴルタヴァ川が横たわるプラハの光景に心を奪われた。8年前、実際にプラハを訪れたが、想像を裏切らない、濃密な美しさと魅力を秘めた街だった。

    ところで、今、アメリカではジュリエット・ビノシュ主演の『ショコラティエ』(チョコレート)という映画が上映されている。日本でも知られているジョニー・ディップが相手役。今夜はその映画を見に行く予定だ。

     

    ●小澤征爾によるマーラーを聴きにカーネギーホールへ

    木曜日の夜は、カーネギーホールに出かけた。この日一日だけ行われた、小澤征爾指揮による斉藤記念オーケストラの公演が行われたのだ。マーラーの交響曲第九番。デザイナーのE女史が、夫と行く予定だったのを、夫が出張に出かけてしまったため、私を誘ってくれたのだ。

    小澤さんは現在、ボストン交響楽団の音楽監督を務めているが、2002年からは、ウィーン国立歌劇場の音楽監督に就任する。「世界のオザワ」はもちろんアメリカ人の間でも有名だが、それでも開演前のカーネギーホールの前は、日本人でいっぱいだった。小澤さんのポスターを前にして、パチパチと記念撮影をする人もいて、あたりは賑わっていた。

    私自身は、マーラーの曲に余り親しみがなく、持っているCDも、旋律の堅さが苦手で、じっくりと聴いたことがなかった。しかしながら、この日の第九番の演奏は、四楽章、いずれもすばらしいものだった。クラシックコンサートとなると、必ず退屈になって「眠りに落ちる時間」があるのだが、インターミッション(休憩)なしで、四楽章を通して演奏されたにも関わらず、このコンサートには引き込まれた。

    小澤さんの後ろ姿は、小柄でとても細く、しかし頭がとても大きくて、敏捷な動きのカマキリのようであった。

    最後に演奏された「アダージョ」は、その流れるような、厚みのある弦楽器の旋律がすばらしく、鳥肌が立つようであった。最後は、息が詰まるほどに小さな音に絞り込まれたピアニシモ。ホール全体が張りつめた静寂に包まれて、私はお腹の音が鳴りそうで、気が気ではなかった。

    CDなどでは伝わらない、生の迫力を実感し、E女史も私も感激しながらカーネギーホールをあとにした。

    そのまま軽くワインでも、という気分だったが、おなかも空いていたし、二人して近所の日本食レストランに入り、アサヒスーパードライで乾杯し、博多とんこつラーメンを食べて解散した。

    外はマイナス3、4度と寒かったけれど、ラーメンでほどよく温まって、気分も軽やか。足早に家路を急いだ。今度、小澤さんのCDを買おうと考えながら。

    ——————————————————

    今年はできるだけ、時間の都合をつけて、違う空気に触れようと考えています。その分、コンピュータに向かう時間が減るわけで、メールマガジンの頻度が落ちるかもしれませんが、無理のない程度に続けていこうと思っています。

    ところで、以前も何度かお伝えしましたが、一部の読者の方に、改めてお願いが一つあります。皆さまからのメールは、たいへんうれしくお読みしていますが、中には、必ず返事を要求するような内容のメールを受け取ります。起業に関するアドバイスや、ニューヨーク情報などについてです。インターネットが一般に普及するようになって以来、そのような情報を無料で提供している方は、大勢いらっしゃるようですが、私自身は、メールマガジンは別として、ビジネス以外で、個別に情報提供をする余裕はありません。

    情報を提供するには、然るべき労力を要するわけで、見知らぬ方のために、個別にそれを行う必要性も感じていません。ただ、メールマガジンに取り上げて欲しいテーマを提案していただいたものについては、参考にさせていただいています。今回も、映画やミュージカルについて知りたいという方が何名かいらっしゃったので、私自身の体験を断片的に記してみました。

    ニューヨークの情報を入手されたい方は、いろいろなサイトで情報交換などをやっていますから、サーチエンジンなどで検索することをおすすめします。

  • Fire2

    J_自分史.037

    ミューズ・パブリッシングのオフィス兼坂田の自宅があるビルは、1998年の年末、火災に見舞われた。出火元がマコーレ・カルキン(映画「ホーム・アローン」の主人公をやっていた男の子)の家族が住んでいた部屋だったこと、煙に巻かれて住民4名が亡くなったことで、大々的に報道された火事だった。日本のテレビニュースでも報道されていたようである。月日の流れと共に、火事の恐ろしさの記憶も薄れていく。忘れてしまわないためにも、このことは、日記から書き起こして改めて活字にしておこうと思う。

    J_自分史.033

    J_自分史.034

    1999年1月9日の日記

    年末年始を日本で過ごし、昨日ニューヨークに戻ってきた。出発の日。12月23日の惨事を思うと、今でも心が痛む。

    その朝、わたしは1年半ぶりに日本へ帰国するために、荷造りをしていた。深夜の便でニューヨークを発つ。荷物の準備をしたあとは、洗濯や掃除などをするつもりでいた。午前10時頃、外のフロアから非常ベルの音が聞こえた。しかしその音のあまりのか細さに、特に緊迫感を覚えず、いつものことかと無視していた。前日にも同じように非常ベルが鳴っていたからだ。

    ところが、間もなく、多分1分もたっていないだろう、外から消防車のけたたましいサイレンの音が響いてきた。まさか、と思いつつ窓を開ける。ふと見上げると、まさに斜め上の部屋、19-Dの窓から、灰色の煙がもうもうと吹き出しているではないか。瞬時に鼓動が高まるのがわかった。なぜ、よりによってこんな日に、しかもこんな間近な部屋で火災が発生するのか。わたしの部屋は18-C。相当近い。このアパートメントは52階建てで、少なくとも600世帯はあるのに、運が悪すぎる。

    憤りと焦りとが入り交じった思いを抱きつつ、どうしようかと部屋を見回す。まずはスーツケースに詰め込んでいたスニーカーを取り出して履く。上下グレーのスエットスーツを着ていたが、上にコートを羽織るなどという発想は沸かなかった。結局、洋服を詰め込んでいたスーツケースに財布と鍵を放り込んで抱え、外へでる。パスポートやチケットなどをいれたバッグを置き去りにしたまま。

    外のフロアでは、すでに消防士たちが行き来しており、アパートのハンディマンも一名見られた。住人の姿はない。仕事に出かけている人が多いことに加え、ホリデーシーズンなので旅行に出かけている人も多かったせいだろう。二つある非常階段のうち、どちらから下りるべきかもわからない。どちらも消防士たちが占拠しているのだ。「あっちを使え」「こっちから下りろ」と双方から指示されたわたしは数回往復したあげく、最後には「どっちから下りればいいのよ!」と声を荒げた。

    結局、どちらかは覚えていないが下り始めると、階段の途中で二人の女性に出会った。一人は20-Dに住んでいる女性。まさに火災が発生した部屋の真上だ。彼女はキルティング風のナイトドレスを着、裸足のまま。妊婦である。眠っていると突然煙に包まれて、靴を履く余裕もなく飛び出してきたという。もう一人の女性も20階から避難してきたという。3人で、いったい何が起こったのかと話しながら階段を下りる。

    9階の非常階段から病院のビルへ移る際(このビルは2階から8階が病院になっている)、勤務している看護婦の一人に出くわす。彼女はまだ火災発生をしらず、わたしたちの姿に驚きながらも、裸足の妊婦にスリッパを貸してあげるといって彼女を導いていった。

    1階のロビーにはすでに避難してきた50人ほどの住人たちであふれていた。わたしは荷物をフロントへ預け、火災の状況を見ようと外へ出る。歩道いっぱいにたむろする野次馬。行き交う報道陣。この日は、この冬初の冷え込みで気温は氷点下だった。わたしは寒さを感じる余裕もなく駆け出し、道路を横切ってビルを見上げる。

    部屋から見たときは灰色に思えた煙は、どす黒く変化しており、とどまることを知らず窓から吹きだし続けている。濃いオレンジ色の炎も共に吹き出す。「舐めるような炎」とはよく言ったものだ。本当に、ビルの壁を這うようにめらめらと燃えさかっている。最初は南側のリビングルームの窓からだけ吹きだしていた炎は、やがて北側のキッチンの窓へ広がっていく。こんなに消防車が来ていて、消火活動がなされているはずなのに、なぜくい止められないのか。

    わたしの部屋の方に、炎がどんどん近づいてくる。ついにはキッチンをこえてベッドルームの方まで至った。火災に気づいてから1時間たとうとしているのに、火勢は弱まるどころか、勢いを増すばかりである。いったい消防士は何をしているのか、いらだちを覚える。一瞬で大量の人々を殺戮できる原爆のような武器を作れる技術がありながら、なぜこの程度の火を一瞬で消す技術を編み出せないのか、などと不条理なことを思う。

    ついに、わたしの部屋の真上の部屋(19-C)の左端の窓ガラスが消防隊によって割られた。炎は上に向かうだろうから、燃え移ることはないだろうと思いつつも、不安で胸はいっぱいである。たとえ燃え移らなくても、消火水で水浸しには間違いないだろう。火災保険には入っていないし、もしも家財がめちゃめちゃになったら、いったいどうすればいいのだろう。

    会社を立ち上げたばかりなのに。コンピュータをはじめとするオフィス機器がだめになったら、どうやって仕事をすればいいのか。買い換える余裕なんて全然ないし……。最悪、すべてが燃え尽きたら、あるいは水浸しでダメになったら、わたしは志半ばで日本へ帰るしかないのだろうか……。炎を見つめながらあれこれと考えを巡らす。

    そんな風に焦る気持ちを抱えて見つめるわたしの横で、シャッターを切りながら「いい写真が撮れた」「まったくいい被写体だ」などと悦に入っている野次馬のおやじがいる。不謹慎なヤツだと怒りがこみ上げるが、文句をいう気にもなれず、ひたすら状況を見守る。

    そのうち、報道陣を通して4人が亡くなったという知らせを耳にする。なんということか。クリスマスを控えたこの時期に、こんな惨事に見舞われるとは。亡くなった方への哀悼の意をとなえつつも、自分の部屋と、日本への旅行が気になって仕方がない。

    この旅行は日本がはじめてのボーイフレンドと一緒に出かける予定で、富士山や京都、実家のある福岡、そして湯布院温泉など、盛りだくさんの企画を組んでいて、二人とも随分楽しみにしていたのだ。しかし、こんな状況で、今夜出発できるのかどうか、なんとも怪しいところである。

    火災の様子を見守っている間、新聞やテレビのインタビューを受ける。住民の殆どは、寒いこともあり皆、避難場所に待機しているようだが、出火元から近いわたしには、状況を見守り続ける以外、身動きが取れなかった。そういうわけで、薄着ですっぴんで悲壮的な表情のわたしは一目で住民とわかるため、次々とインタビューを受ける羽目になったのだ。

    興奮していて何を話したかは明確に覚えていないが、非常ベルの音がとても小さかったこと、スプリンクラーもなく、消火器も設置されていなかったこと、今夜日本に発つ予定なのに、どうなるのだろう、といったことを話した。避難してきた状況も加えて説明した。

    インタビュアーの女性の一人が、薄着の私に気づいて手袋をくれた。また、レッドクロス(赤十字)が差し入れたホットココアを持ってきてくれた。カメラマンの一人がジャケットを貸してくれた。そこでようやく、落ち着きを取り戻した。しかし、1時間過ぎた辺りで炎は消えたものの、煙はまだまだ激しく窓からあふれ出し続けている。結局12時頃まで、煙は消えなかった。

    煙が消えるまで、気が気ではなく、向かいにあるフォーダム大学の玄関フロアからしばらく状況を見守る。時々ジムで見かけていた中国系の女性と話をする。彼女はジョギングに出て帰ってきて火災を知った。人が亡くなったことにとても心を痛めた様子だった。

    わたしは、火災の様子をもう少しはっきり見たくなり、正面玄関のある60丁目から、火災の現場側に近い59丁目の方に回ってみた。そのとき初めて、火元の家(マコーレ・カルキンの家族)が19-Dと19-Eの2部屋をぶち抜いて住まいにしており、東西両方の部屋に等しくダメージが与えられていることを知る。これまでは東側しか見えていなかったが、西側も燃えさかっていたのである。

    たまたま見かけた日本人の野次馬に携帯電話を借り、フィラデルフィアに住んでいるボーイフレンドに電話を入れる。日本人の彼らは、わたしの部屋をして、「多分、あの部屋だったら水浸しでしょうね」と、冷静な判断を下して立ち去っていった。

    ビルの隣の教会にある寄宿舎のダイニングルームが、住人の避難場所として開放されていた。レッドクロスによって差し入れられたスナックやドリンクを口にしながら、人々はひたすら状況が変わるのを待っている。わたしは取りあえず、もう一度ホットココアを飲み、レッドクロスに名前や住所を登録し、待機する。それにしても落ち着かない。

    周りにいる人々と火災の状況などの情報交換をしながら、時間を過ごす。心配ではあるものの、お腹が空いてきたので、差し入れのさめたマクドナルドのハンバーガーを頬張る。トレーナーにすっぴんのわたしにとっては、どこに行くこともできず、そこで待つしかないのだ。

    寄宿舎で電話を借り、日本の両親に連絡する。火災のため帰国できないかもしれない旨を告げる。改めてボーイフレンドに電話をいれる。最初の電話で火災の重大さを理解していなかったが、人が4人亡くなったと聞いてはじめて、やや事の大きさを理解したようだ。

    結局、朝の10時に火災が発生して以来、延々と待機していた住民たちが部屋に戻れたのは夜の7時を過ぎた頃だった。9時間ほども不安な時間を過ごしたのである。夕刻近くになり、火事を知らずに仕事を終えて帰ってくる人たちも、次々に待機場所であるダイニングルームに現れてくる。

    隣の部屋から若い女性の泣き叫ぶ声が響き渡り、人々の間に沈黙が走る。夫が亡くなった旨を告げられたらしい。同じ部屋に、赤ちゃんを抱きかかえ、顔面蒼白になったスーツ姿の男性も入っていった。激しく心がきしんだ。亡くなった人たちは、みな、非常階段の途中で、煙に巻かれて亡くなったのだ。27階のあたりで、遺体が見つけられたという。非常階段は、死の煙突と化していたのである。

    顔をすすだらけにして避難してきた人の中には、40階から駆け下りてきた人もいる。出火元は19階だから、間近の部屋でもない限り、本来は部屋の中にいて、煙が入り込まぬよう、濡れたタオルなどでドアの隙間を塞ぐなどの対応が正しかったのだろう。しかし、出火元を知らせるアナウンスもなければ、対処方法を知らせる手だても打たれなかった。2時間もの間、である。

    ジュリアーニ市長が「高層ビルは通常、ファイアープルーフになっているのだから、火災の際は、むやみに逃げず、部屋にいるべきだ」などとテレビで言ったものだから、住民の感情を逆撫でた。上空にはヘリコプターが旋回し、報道陣が駆けつけ大騒ぎしているのだ。スピーカーなどで部屋にいる住民たちに指示を送ることができなかったのか。

    結局、火災の原因ははっきりとはわからなかったようだ。ヒーターから火がでたと言われているが、どうも確実ではないらしい。マコーレ・カルキンの母と弟、妹たちは、一番に逃げ出し、消防署への通報も遅れたということで、悪評の的となっているが、詳細はわからない。

    さて、その夜、8時頃、ようやく入り口のロープが解かれ、ビル内に入った。エレベータは使えないので、18階まで階段で上る。非常階段のドアをあけ、フロアに出るなり目を見張った。水浸しのカーペットにすすだらけの壁、電気は壊れ、臨時の電球がともされている。まるで廃屋、お化け屋敷のようだ。どの部屋も、ドアノブが破壊され、大きな南京錠がかけられている。幸いわたしの部屋はオートロック解除しているので、鍵がかかっておらず、ドアを壊されず済んだようだ。

    胸が締め付けられるような思いで、部屋のドアを開ける。ああ、ちゃんと部屋がある。コンピュータも無事だ。慌てて部屋中を確認する。床とバスルームに水がたまり、クローゼットの隅から水がもれて服が濡れてはいるものの、想像していたほどのダメージではない。安心のあまり、涙がこぼれてきた。神様ありがとうございます、と、何度もつぶやきながら、大急ぎで部屋の掃除に取りかかった。バスタオルで床の水を吸い取り、クローゼットの服を取り出し……。

    少し心に余裕が出てきたら、19階の火災現場が気になり非常階段を上ってみた。そして愕然とした。非常階段もフロアも、一面、墨汁をたらしたように真っ黒なのだ。煤けている、なんてものではない。ただ、べったりと黒いのである。火炎の力をまざまざと見せつけられた。

    荷物を詰め直し、パスポートとチケットを確認したわたしは、興奮さめやらぬまま、帰国の途についた。中途半端に片づけたまま、落ち着かない気持ちで部屋を後にするのは不安だったが、それでも帰ることができたことを、ありがたく思う。

    火災から半月後の様子。窓の部分に板が張られているのが燃えた部屋。上部の壁がすすだらけになっている。白いカーテンが左右で束ねられているのがミューズ・パブリッシングのオフィス(兼坂田自宅)。際どい場所である。

    【火災騒動の後日談】

    年が明けてニューヨーク戻ってきた後、他の住民から話を聞いた。火災から1週間以上、暖房が効かず、ガスも通らなかったこと。19階から上の部屋は煙の匂いでいっぱいだということなど。もちろん、わたしの部屋も煙臭かったが、上のほうが当然きついだろう。一年で最も寒い時期に暖房が入らなかったのも辛かったに違いない。

    あの火災が、もし平日の深夜などに発生していれば、死者の数は相当数に上っていただろうとの見解もあった。火事の際は逃げればいいというものではないということを、思い知った。

    わたしの隣室、および斜め前の部屋は水浸しの壊滅状態だった。もちろん顔を合わせる機会もなく隣人たちは去っていった。どろどろの水浸しになった家具が隣から運び出されて来るのを見るにつけ、自分の部屋が多少の水漏れで済んだことを幸いに思う。向かいの部屋の人も引っ越したようだ。火事の後は、ぼろぼろの部屋を改装する工事の騒音に悩まされたが、仕方のないことである。

    壁や天井の水のシミは、アパートの管理事務所によって補修工事がなされたが、クリーニングに要した数百ドルは戻ってこなかった。フロアの工事も長引き、結局すべてが元通りに機能しはじめたのは春を過ぎた頃だった。

    火災から1カ月ほど経ったころ、住民たちの間で組織が結成され任意の参加で訴訟することになった。会合の席ではさまざまな問題点が指摘された。最近のニューヨークの高層アパートは、スプリンクラーや消化器の設置を義務づけられていないことも改めて知った。

    一度、会合に出席して以来、わたしはその訴訟団体に参加しなかったが、慰謝料をもらうまで家賃を支払わないなど強硬な手段に出ていたようだ。その後、わたしは火災保険に入り(年間200ドル程のプラン)、管理事務所が支給する消火器(任意で借りる)を受け取りにいった。

    このビルの火災が起こって間もなく、マンハッタン内の高層アパートメントに、火災の際のガイドラインが記されたチラシが配布された。消防局とニューヨーク市が共同で発行している「BE SMART BE SAFE」というもので、火災発生の際の対応の仕方が記されている。

    ニューヨークは、セントラルヒーティングの老朽化や火気の不始末による火災が多い。知人たちの多くは「火事を見た」「隣のビルが燃えた」といった経験をしている。せめて、火事が発生したときにどう対処するべきかを考えておいても悪くはないと思う。

    この火災を通して、わたし自身は、精神的にストレスを感じた以外、幸いにも失うものはなかったに等しい。クリーニング代だけで済んだのだから。それにしても、このような状況に直面すると、考えさせられる。わたしにとって絶対に失うことのできない大切なものとは何なのか、ということを。結局、コンピュータも、机も、なにもかも、お金さえあれば、買い換えることができるのである。

    あの日の、夫の死を知らされて泣き叫ぶ女性の声が、今でも耳に残っている。(M)

    J_自分史.035

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