深海ライブラリ📕

深海の底に眠る過去の記録に光を当てる。揺り起こす。

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    🌱昨夜の食卓。Gourmet Gardenの「小松菜」。そう、Komatsuna。生姜焼き的味付けにした豚バラ肉と共にごま油で炒める。そして、米よりもむしろ多いほどのグリーンピーと共に、「ピースご飯」を作る。このグリーンピーも、Gourmet Gardenのもの。炊いて混ぜれば、豆の存在感は弱まる。

    味噌汁をマグカップに入れる適当が許される食卓でよかった。昨日は夫が長年苦戦していたディールがようやくクローズしたので、祝杯。いや、ほとんど毎日祝杯だが🥂

    🌱グリーンピースを見ていたら、ふと幼児期の記憶が蘇った。妹が生まれる前後、わたしはしばしば、父方の祖父母の家に預けられた。父が運転する三輪トラックの助手席に乗せられ、福岡市から、福岡県京都郡苅田町まで。小さなわたしに助手席は広く、不安定だった。シートは太陽の光を吸って、熱かった。

    「お姉さんになるんだから」「しっかりしなければ」と、強がってはいたけれど、父がわたしを置いて、トラックで去っていくのを見るときには、涙をこらえた。遠くのシェル石油の看板が、かすかに潤んだ。

    祖母は、そんなわたしにとてもやさしかった。畳の上に敷かれた布団。眠るわたしの傍らに座り、時に横たわり、子守唄を歌いながら、団扇で仰いでくれた。夏だったということは、3歳になる直前か。

    🌱幼児期はまだ、前世の記憶が残っているというのは、確かだと思う。あのころのわたしは人生経験がほとんどなかったにも関わらず「懐かしさ」や「郷愁」が心にあって、「帰る場所」を探していた。

    たまたまわたしは記憶力がいいので、その心情をはっきりと覚えているが、きっとほとんどの人間が、そうなんだと思う。

    🌱ある夕暮れ時。わたしは祖母と一緒に、グリーンピースの皮を剥いていた。多分、その小さな手でゆっくりと。……とある瞬間に、途轍もない悲しみが込み上げてきた。堰を切ったように涙が出てきた。大声をあげて泣いた。

    泣いても泣いても、涙が止まらなかった。台所のガラス窓や、棚に並んだ鍋が、涙で歪んで見えた。祖母は驚いてわたしをなだめる。大声を聞きつけた隣家の伯母が、まだ小さな従兄弟のKくんを連れて来た。

    「ミホさん、どうしたとね?! Kくんもびっくりしよるよ」

    伯母さんに抱かれ、きょとんとした表情でわたしを見つめるKくん……。

    翌日、祖母は近所の雑貨店のおもちゃ売り場のようなところへ、わたしを連れて行ってくれた。何か欲しいものを買ってくれるという。わたしは理不尽に泣いたことを申し訳なく思っていた。しかし、そのことをうまく伝えられる術もなく。ごめんなさいと謝ったかどうかは、覚えていない。

    目に止まったのは、小さな小さな電気スタンドだった。ピンク色のランプシェードがかかった、高さが15センチほどの、本当に小さな豆電球のスタンド。その傍らに、ふさふさと白い毛のスピッツの、小さな小さなぬいぐるみがついていた。当時の日本、キャンキャンと鳴く、あのスピッツを飼うのが流行っていたのだ。

    それを、祖母に買ってもらったのだった。

    🌱ピースご飯を食べながら、そんな半世紀以上も前のことを、思い出す。子どもは、わかっている。結構、わかっている。

    多くの人は、ただ忘れているだけ。わたしたちは、この世に生を受けてまもないころから、いろいろなことが、わかっていたのだ。きっと。

    * * *

    😲今、まさかないよなと思いつつ「スピッツ」「電気スタンド」で検索したら……出てきた! これよこれ! 昭和もののオークションサイトに同じようなものがあった!! この写真とほぼ同じ。ピンク色のランプシェードだった。この温度計にも見覚えがある。ああ、今思い切り、時空が飛んだ。

    おばあちゃん、あのときは無駄に泣いてごめん。

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    🙀肌のトラブルに悩まされた30代前半、ニューヨーク在住時代

    20代までを日本で、30代を米国で過ごしたわたしは、自分のことを「敏感肌」だと思っていた。しかし、40歳を過ぎてインドに移住し、シンプルなスキンケアに移行したことで、それが間違っていたことに気づいた。わたしは敏感肌というよりは、化粧品に含まれる添加物に反応していただけだということに。

    30代のころ。移住したニューヨークで出版社を起業し、印刷や広告の仕事を手掛けていたころのクライアントには、美容関係も複数、含まれていた。勧められるがまま、「試しに」と購入した高価なフランス製のコスメや、あるいは「試しに」と受けたケミカルピールで、むしろ肌を痛めた。

    フランス製の基礎化粧品を使い始めて数日で、顔じゅうに吹き出物が出た。すぐに止めればよかったが、クライアントに問い合わせたところ「好転反応です」と言われ、使用の継続を促された。1週間ほど経過しても悪化するばかり。挙句、皮膚科のお世話になり、即使用をやめるよう言われた。それから半年近く、吹き出物は治らなかった。

    米国でも自然派の基礎化粧品は売られていたが、当時は選択肢が少なく高価だった。そんなとき、当時ニューヨークで販売開始されたばかりの「AWAKE」の商品にたどりついた。日本のコーセーが米国進出を果たしたブランドだ。五番街にあるデパートメントストアのコスメティックフロアで展開、高級感のあるコンセプトで、ヴィーガン対応の商品を販売していた。

    香りも刺激もなく、物足りない気もしたが、これは肌に合った。以来、インドに移住するまで5年以上は、愛用していた。先ほど調べてみたら、ブランドは残っているものの、パッケージデザインが子どもっぽくチープなイメージになっていて驚いた。なぜこんなことに……。😅

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    😺インド移住後。アーユルヴェーダ処方の最低限スキンケアに移行

    わたしが実施するセミナーに『インドでの食生活と健康管理』というものがある。そのセミナーで語る重要ポイントのひとつは、「健やかな肌のためには、栄養のバランスがとれ、滋養のあるものを食べましょう」ということ。

    当然ながら、我々の身体は、食べたものでできている。ゆえに、添加物だらけの加工食品を日々食べていたり、睡眠不足だったり、ストレスを溜めていたりしたのでは、どんなに高価な化粧品を使っても意味がない。

    さて、最近でこそ、インドのコスメ業界でも「ヘアコンディショナー」や「化粧落とし」が普及しているが、それは2010年ごろからのトレンド。それ以前は、ファウンデーションを塗る人も少なかったし、ヘアケアは、「多彩な天然オイル」を使う人も多いので、コンディショナーの需要は低かった。

    かくいうわたしも、未だ、コンディショナーを使うことはほとんどない。ナチュラルなシャンプーで洗髪するだけ。数日に一度、軽くオイルマッサージをする。季節によっては乾燥するし、最近はロングにしているので、もう少しきちんと手入れをせねばとも思っているが、そのあたり、面倒くさがりだ。

    50歳を過ぎたころから、白髪が増え始めたが、今のところ、あまり目立たない。2年くらい前から、数カ月に一度、染めてはいるが、それも部分的に。このあたり、おすすめのヘアカラー情報も含め、動画で語っている。

    😺「植物由来の天然オイル」が豊富なインドだからこその多彩な選択肢

    わたしは、化粧落としも使わない。そもそも、カヴァー力のないマイルドなファウンデーションしか使っていないからだということもあるが、インドにはオイルが潤沢にあるからだ。入浴前にヴァージン・ココナッツ・オイルなどを顔につけてマッサージする感じで化粧を落とせばOK。我がインド友の一人、ハイデラバードのロイヤルファミリー一族の麗しきアンジュム(肖像画の女性)の言葉を聞いてからは、自信を持ってココナッツオイルを愛用している。全身、このオイルだけで潤える。

    忘れもしない、インド女子友とダライ・ラマ法王14世にお目にかかるべく、ダラムサラを訪れ、トレッキングをしていたときのこと。あれこれと話しながら、山道を歩いていた。スキンケアの話になったとき、彼女が言ったのだ。

    「みほ。わたしね、今までいろんなハーブが配合された、いろんなブランドのオイル試してみたんだけど、結局いちばんいいのは、ココナッツ・オイルだって気がする。高品質のココナッツ・オイルを使えば、それで十分。余計なものはいらない

    彼女は現在53歳。お肌は生き生きと輝き、美しい。説得力がある。

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    🤓シュウウエムラ創始者の植村秀氏に学んだ「オイル・クレンジング」の威力

    わたしは1996年4月にニューヨーク移住後、1年通う予定だった語学学校を途中でやめてしまい、その年の9月から約1年半、日系出版社に就職していた。そのころ、マンハッタンのソーホーにSHU UEMURAがオープン。創業者の植村秀氏を取材する機会を得た。彼の話で忘れられないエピソードがある。

    メイクアップアーティストだった若かりしころ、ハリウッド女優をメイクするときに、その肌の美しさに驚いた。1日に何度も化粧をするのに、肌が痛んでいない。その理由は「オイルで化粧を落としていた」からだと知って衝撃を受けた。SHU UEMURAがオイルクレンジングを販売している背景は、そこにある。

    当時、2種類のオイルが販売されていた。参考までに2本購入したわたしは、彼に尋ねた。

    「この2種類、どういう風に使い分けたらいいんでしょうか」

    すると彼は笑いながら言った。

    「二つを並べておいて、今日はこっちを使いたい! と思う方を使えばいいんですよ」

    その本能めいた答えがとても気に入って、25年経った今でも、わたしは「その日の気分」でオイルや香りを選ぶことが多い。

    ……だめだ、導入だけで、話が芋づる式で終わらない。とりあえず、以下、動画やブログのリンクを貼っておくので、インドのコスメティクスに関心のある方は、じっくりもれなく、ご覧いただければと思う。

    *坂田は過去16年間のインド生活において、ビジネスでも、インドのコスメティクスやFMCG(日用消費財)市場の調査を行っていることから、その変遷やトレンドについては、かなり詳しい方だと自負している。手元にも公開できない資料がたっぷりあるのに加え「ひとり人体実験」による16年間の経験値も生きている。なんとなくのレポートではないことを、書き添えておく。

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    💄インドの自然派コスメティクスを紹介するYoutube動画①
    坂田の雑なメイク実演/日本のMiMCのコスメ/オーガニックなハーブ使用のヘアカラー(この動画は、2020年7月に撮影し、個人のチャンネルにアップロードしたものを転載している)

    【CONTENTS】
    0:18 メイクアップアーティスト、MICHIRUさんとのインスタライブの話
    1:29 みちるっちが関わっている日本のコスメティックブランド、「MiMC」
    3:00 ファウンデーション使用前&使用後。愛用「MiMC」の商品紹介
    4:12 アイメイク……の話題に入る前に、インド女子友の「まつ毛」事情 
    5:00 インドならではのアイライン、カジャル KAJALについて
    6:15 MiMCの口紅と、インドのハーバルコスメブランドの新しい自然派な口紅
    11:30 アムステルダムのオーガニック・コットンブランド Lien & Giel
    12:18 ハンドメイドのビーズ・ペンダント(スワロフスキー)の話 
    12:36 ヘアスタイルの話と、おすすめの自然派ヘアカラー
    16:36 福岡で訪れたヘアサロンの「斎藤工」に似たスタイリストの話 

    【動画で紹介したブランドのサイト】
    ●MiMC 日本の自然派メイクアップコスメ
    ➡︎https://www.mimc.co.jp/shop
    ●Soultree インドの自然派コスメ
    ➡︎https://www.soultree.in/
    ●JustHerbs インドの自然派コスメ
    ➡︎https://www.justherbs.in/
    ●Lien&Giel アムステルダムのオーガニックコットン・ファッション
    ➡︎https://www.lienengiel.nl/
    ●Indus Valley インドのナチュラルヘアカラー
    ➡︎https://www.indus-valley.com/

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    💄インドの自然派コスメティクスを紹介するYoutube動画②
    【MICHIRU & MIHOのインスタライブ (2) 】アーユルヴェーダの処方に基づく坂田のお勧めインドの自然派コスメ&非常に雑なスキンケア情報(*この動画は、2020年5月に撮影し、個人のチャンネルにアップロードしたものを転載している)

    TOKYOで活躍するメイクアップアーティストのMICHIRUと、BANGALORE在住のライター坂田マルハン美穂のコラボレーションによるインスタライブ第2回目。

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    💄インドの自然派コスメティクスを紹介するYoutube動画③
    【MICHIRU & MIHOのインスタライブ (1) 】アーユルヴェーダのある暮らし/インドにおける健康的な日常生活のアイデア(*この動画は、2020年5月に撮影し、個人のチャンネルにアップロードしたものを転載している)

    TOKYOで活躍するメイクアップアーティストのMICHIRUと、BANGALORE在住のライター坂田マルハン美穂のコラボレーションによるインスタライブ第1回目。

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    💄インドの自然派コスメティクスを紹介するYoutube動画④
    【インドはステキなものであふれている、略してインステ 001】

    インドはステキなものであふれている〈インステ 001〉クリスタル入りの使い心地最高なナチュラルソープやマルベリー・シルクのマスクなどお気に入り商品を一挙にご紹介

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    💄インドの自然派コスメティクスを紹介するYoutube動画⑤番外編
    【肌のトラブルの原因は「銀歯」だった! 坂田おすすめの歯磨き粉情報など】

    皮膚疾患や肩こり、頭痛……。その不調、古い銀歯が原因かもしれません! 日本→米国→インド/半世紀に亘る波乱の歯科治療の経験を通して学んだ、歯を守るポイントなど。

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    😴アーカイブに眠る美容と健康関連のブログ記事をピックアップ

    💝語るブログ/音声付き 〜国際女性デーを愉しむ@高級ビューティサロン〜
    ➡︎https://museindia.typepad.jp/2021/2021/03/beauty.html

    💝名画の中の、友人一家。伝説のインド画家の子孫が描く現在のインド
    ➡︎https://museindia.typepad.jp/2021/2021/03/varma.html

    💝オーガニック商品もたっぷり。オリジナル福袋〈RESCUE BAG〉
    ➡︎https://museindia.typepad.jp/2020/2020/08/rescue.html

    💝Urban Company (旧Urban Clap)のマッサージ秀逸
    ➡︎https://museindia.typepad.jp/2020/2020/12/uc.html

    💝インドはステキなものであふれている
    ➡︎https://museindia.typepad.jp/2021/2021/03/inste001.html

    💝DASTKAR Nature Bazaar/ 手工芸品に息づくマハトマ・ガンディの精神など(たくさんあるので2019年分のみ)
    ➡︎https://museindia.typepad.jp/2019/2019/07/gandhi.html

    💝A Hundred Hands. 素晴らしき、インド手工芸のバザール(1)
    ➡︎https://museindia.typepad.jp/2019/2019/11/100.html

    💝A Hundred Hands. 素晴らしき、インド手工芸のバザール(2)
    ➡︎https://museindia.typepad.jp/2019/2019/11/200-2.html

    💝HIMALAYA HERBALSへ工場見学に行った時の記録(2010年11月)
    ➡︎https://museindia.typepad.jp/beauty/2010/11/%E5%B7%A5%E5%A0%B4%E8%A6%8B%E5%AD%A6himarala-herbal-healthcare.html

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    🎁動画内で紹介している一部ブランドのホームページなど

    ●BIOTIQUE
    ➡︎https://www.biotique.com

    ●KAMA AYURVEDA
    ➡︎https://www.kamaayurveda.com/ingredient

    ●FOREST ESSENTIALS
    ➡︎https://www.forestessentialsindia.com

    ●HIMALAYA WELLNESS
    ➡︎https://himalayawellness.in

    ●JUST HERBS
    ➡︎https://www.justherbs.in

    ●DOWN TO EARTH ORGANIC FOOD
    ➡︎https://www.downtoearthorganicfood.com/

    ●FIRST WATER SOLUTIONS
    ➡︎https://www.facebook.com/fwsbodycare/
    ➡︎https://www.amazon.in/s?k=First+Water&ref=bl_dp_s_web_0

    ●KERALA AYURVEDA
    ➡︎https://www.keralaayurveda.biz

    ●SATLIVA
    ➡︎https://www.satliva.com

    ●CINNAMON SOUL
    ➡︎https://cinnamonsoul.in/

    ●OCEAN IN A DROP
    ➡︎https://oceaninadrop.blue/

    🎁動画内で紹介している商品からいくつか写真をピックアップ

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    ⬆︎ミューズ・クリエイション主催のチャリティバザールへの出店したこともあるSATLIVA。高品質のヘンプオイルほか、天然オイル配合のソープ、各種クリームなどスキンケア商品を販売。寝る前にヘンプオイルを頭に塗ると、熟睡できる。

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    ⬆︎CINNAMON SOULの洗練されたナチュラルソープ

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    ⬆︎OCEAN IN A DROPのパワーストーン入りナチュラルソープ

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    ⬆︎SOUL TREEのカジャール(アイライン)

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    ⬆︎デリーのDASTKARバザールで見つけたFIRST WATER。インスタライブで力説している商品、お勧め

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    ⬆︎自然派ではないけれど、こういうラグジュリアスなビューティーサロンもありますよ。これは国際女性デーのイヴェントでの一コマ

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    ⬆︎みちるっちとのインスタライブの時に着ていたパールシー刺繍のサリー

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    ⬆︎FOREST ESSENTIALSが昨年より販売開始したメイクアップ・コスメ。選択肢は少ないが、リキッドファウンデーション、口紅、どちらも気に入った。透明のマスカラは、ほぼ意味がない気もするが、気分がやや「あがる」気がするので、使っている。

    ……情報がエンドレスになってきたので、今回はこのくらいにしておく。

    *ちなみに坂田が実施しているセミナー(有料)の資料は、さらに充実している。実践的な商品情報なども満載だ。いまや宝の持ち腐れ状態につき、いずれ、何らかの形でオンラインセミナーなどを実施したい。

    【おまけ】2015年、フリーペーパーの『シバンス』に連載していた記事をシェア。すでにパッケージなどが変わっているものもあるし、これ以外にもお勧めの商品がたくさんあるが、これもそこそこ参考になるのでシェアしておく。洗濯用洗剤や食器洗い、ティッシュペーパーやトイレットペーパーなども、今はエコロジカルでナチュラルな商品が本当に増えている。そのあたりも別の機会に紹介したい。

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    ⬆︎バンガロールのコーヒー省にある販売店&コーヒーハウス。昔ながらの食堂で軽食を楽しんだ後、サウスインディアン・コーヒーで締めくくる。

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    ⬆︎伝統的なサウスインディアン・コーヒーを淹れる際に用いる器具

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    ⬆︎ローカルの食堂でドーサやワダを食べた後、このステンレスの容器に入ったサウスインディアン・コーヒーを飲む。飲み方は下に添付の動画を参照のこと。

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    ⬆︎最近、日本でも飲める店があるらしきBLUE TOKAI。インド国内は、他のブランド同様、オンラインでも手軽に購入可能。いろいろ試したが、坂田は個人的に、Blue Tokai誕生以前から、Monsoon Malabarが好き。ちなみにアルチザンコーヒーのブランドが、インドのハーブティーやアルチザンチョコレート(カカオ豆も南インド産)のブランドとタイアップしているケースも多い。アルチザン系をMake in Indiaでまとめるマーケティングは、消費者にとってもうれしいものだ。
    BLUE TOKAI https://bluetokaicoffee.com/

    ☕️このところ、日本でも「南インドのコーヒー」のことが、「ちらっと」話題になっているようなので、ここに南インドのコーヒーに関する情報を整理しておこうと思う。今後も過去の情報を「発掘」したら、ここにまとめる予定。コーヒー好きの方はブックマークをどうぞ。

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    *『AGORA』2020年5月号に掲載。文字数1000文字のところを、間違って2000文字書いてしまった。書いた後に気づいたので、オリジナルを残し、削ったものを入稿した(上の写真)。

    【AGORAアゴラ(JALカードの上級会員誌)に寄稿した原稿のオリジナル】

    インドを代表する嗜好品といえば、紅茶を思い浮かべる人が多数だろう。しかし、ここ南インドでは、昔から紅茶よりも、コーヒーが愛飲されている。南インドは赤道を中心に南北25度の範囲内であるところの「コーヒーベルト」に位置しており、ここカルナータカ州とケララ州、タミル・ナドゥ州は、コーヒー豆の一大産地なのだ。
     
    インドにおける紅茶の歴史は19世紀の英国統治時代に始まるが、コーヒーの歴史はさらに古く17世紀に遡る。当時、コーヒー豆は、生産者や商人らの利権を独占すべく、アラビア半島から持ち出すことは禁止されていた。そんな時代、ここカルナータカ州チッカマガルール出身のイスラム教聖人ババ・ブーダンが、メッカ巡礼の帰路、現在のイエメンに滞在。その際、「7粒のコーヒー生豆」を盗み、こっそりと隠し持って帰国、故郷で発芽させることに成功した。
     
    18世紀になると、英国人によって商業プランテーション(大農園)が本格化、南インドのコーヒー産業は発展を始めた。コーヒーの木の疾患(サビ病)によって壊滅的な被害を受けた時代もあったが、現在は世界7位の生産高を誇る。
     
    インドのコーヒー生豆は、主にアラビカ種とロブスタ種の2種類。高地で栽培されるアラビカ種は、マイルドで香り豊か。繊細で栽培が難しい分、市場価値が高い。一方、タフで栽培しやすいロブスタは、芳香が強めであることから、ブレンドに使用されることが多い。
     
    ここベンガルール市内には、インド経済産業省下のコーヒー委員会があり、コーヒー豆の生産や輸出を管理。6〜7割が輸出、残りが国内で消費されているという。

    伝統的な「サウスインディアン・コーヒー」の飲み方は、「フィルターコーヒー」と呼ばれれ、二層になった円柱形の器具を用いる。底にたくさんの小さな穴が開けられた上層のフィルターに、たっぷりのコーヒーパウダーをいれ、軽く内蓋を載せ、少量のお湯を注いでゆっくりと抽出。デコクションと呼ばれる濃縮液を作る。下層に溜まったそれを少量、金属のカップに入れ、煮立たせた牛乳を注ぐ。たっぷりの砂糖を入れ、金属の器をふたつ使い、高い位置から繰り返し注いで撹拌する。そうすることでいい香りがあたりに漂い、ほどよく飲みやすい温度になり、まろやかな味わいになる。
     
    インドにおけるコーヒーの革命を起こしたのは、チッカマガルールを本拠地とするコーヒー豆の貿易会社「カフェ・コーヒー・デー」だ。アラビカ種のコーヒー豆生産及び輸出においてインド最大規模を誇る同社は、1996年、ベンガルール市内にコーヒーショップをオープンした。従来のインドにはなかった「若者たちの集いの場」「WiFiカフェ」として、瞬く間にインド全国に店舗を拡大。現在では、ウィーンやプラハなど海外にも店舗を展開している。同店のコーヒーは、シアトル系コーヒーで知られる、いわゆる「セカンドウェーブ・コーヒー」。伝統的な南インドの飲み方とは異なる、カフェラテやカプチーノ、エスプレッソほか、コールドコーヒー、軽食類が楽しめる。

    そんなインドのコーヒー業界に、数年前、新たなトレンドが生まれた。米国発のサードウェーブ・コーヒー、すなわちコーヒーブームの「第三の潮流」だ。「ブレンド」ではなく「シングルオリジン」の良質なコーヒー豆を用い、焙煎や抽出方法にも配慮、1杯ずつ丁寧に淹れるのが特徴だ。米国では「ブルーボトルコーヒー・カンパニー」がそのパイオニアとして知られている。ベンガルールでは、コーヒー・エステートを持つ一族に生まれた若い世代が新たな試みとして、あるいはコーヒー豆農家を支援するスタートアップが「アルチザン・コーヒー」と称して、高品質のコーヒーを販売する旗艦店をオープン。産地直送のコーヒー豆を用い、焙煎したばかりの香り豊かな深みある味わいのコーヒーを提供している。
     
    マイルドに優しいもの、やや酸味があるもの、フルーティなもの……と、同じ南インドのコーヒー豆でも、その産地やブランド、焙煎方法によって味わいが異なる。
    代表的な店に、「サードウェーヴ・コーヒー・ロースターズ Third Wave Coffee Roasters」「ブルー・トカイ Blue Tokai」「アラクAraku」「ザ・フライング・スクアラルThe Flying Squirrel」「カフェ・メカニクス Coffee Mechanics」などがある。

    どの店のカウンターにも、日本の喫茶店文化を彷彿とさせるHARIOのドリッパーやサーヴァー、ケトルやサイフォンが恭しく並べられている。ほとんどの店は、若者たちでいっぱい。ラップトップ持参で、オフィスよろしく真剣に画面に向かいつつコーヒーを飲む人もいれば、大きなテーブルで活発に議論する人たちもいる。ここもまた、次代を担う人々の、大切な社交の場でもあるようだ。

    そんな洗練されたコーヒー文化が浸透する一方で、「ハッティ・カーピHatti Kaapi」のように、昔ながらのサウスインディアン・コーヒーの飲み方をモダンにアレンジ、金属製のカップに注がれたミルクたっぷりの甘いコーヒーを出す「温故知新」系の店もオープンしている。
     
    ちなみにサウスインディアン・コーヒーを試せる場所は大きく3つのカテゴリーに分けられる。昔ながらのローカルな味わいを体験するなら、ドーサやイディリ、ワダといった、典型的な南インドの朝食が楽しめるローカル食堂で。この場合、コーヒー豆は廉価なものが用いられており、カサを増すためにチコリが配合されている場合もある。それはそれで、砂糖をたっぷり入れて飲むと風味も増し、独特の味わいがある。次に、既述の「温故知新」系のカフェ。こちらはコーヒー豆の品質も比較的よく、モダンな店内で伝統的なコーヒーを味わえる。
     
    優雅な雰囲気で良質のサウスインディアン・コーヒーを楽しみたいなら、タージやオベロイといったインドの高級ホテルにあるカフェがおすすめ。ただし、注文時には必ず「サウスインディアン・フィルターコーヒーを」と伝えるべし。さもなくば、一般的なカフェラテやカプチーノを出されてしまう。コーヒー一つをとっても、多彩な楽しみ方ができるベンガルール。これからも時代に応じた「愉しみ方」を提案する店が誕生することだろう。

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    ♨️必見動画♨️
    南インドのコーヒー。歴史と伝統、そして現在。飲み方も説明

    *この動画は、2020年5月18日に、坂田マルハン美穂個人のチャンネルにて公開したものを、ミューズ・クリエイションのチャンネルに転載したもの。ちょうど1年前、動画の撮影&編集を始めたばかりの時期で、動画をトリムする方法すらわからず(先に調べろよと自分に言いたい)流しっぱなしにつき、冗長な点もあるが、内容は濃く充実しております。それなりに面白いので、お楽しみください。

    [CONTENTS]
    ●南インドのコーヒー文化を語るに際しての背景 日本航空発行の情報誌『アゴラ』に坂田マルハン美穂が寄稿した記事に関する説明。
    ●南インドのコーヒーの歴史
    ●インド産コーヒーの拠点バンガロール
    ●サードウェーヴ・コーヒー(高品質)のブランド。BLUE TOKAI, ARAKU COFFEEなど
    ●伝統的なサウスインディアン・コーヒーの楽しみ方(淹れ方)
    ●旅のお供にコーヒーを
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    ☕️南インド産コーヒー豆を使ったアルチザン・コーヒーのブランド

    🌱Third Wave Coffee Roasters
    ➡︎https://www.thirdwavecoffeeroasters.com/

    🌱Blue Tokai
    ➡︎https://bluetokaicoffee.com/

    🌱Araku
    ➡︎https://www.arakucoffee.in/

    🌱The Flying Squirrel
    ➡︎https://www.flyingsquirrel.in/

    🌱Coffee Mechanics
    ➡︎https://www.coffeemechanics.co.in/

    🌱Toffee Coffee Roasters
    ➡︎https://toffeecoffeeroasters.com/

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    ⬆︎ケララ州コチを旅したときに立ち寄ったローカル食堂。やっぱり締めくくりはサウスインディアン・コーヒーで。

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    ⬆︎2016年ごろから、いくつかのアルチザン・コーヒーのブランドが誕生、瞬く間に普及している。

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    ⬆︎高級ホテルで注文する「サウスインディアン・コーヒー(もしくはフィルターコーヒー)を、デコクションで。しかもコーヒーとミルクをセパレートで出してほしいと頼むと、実演してくれるところもある。過去十数年の間にも、イタリアンなマシンで出されるカフェラテやカプチーノが一般的になったけれど、わたしはこの「昔ながらの出され方」が好き。自分で「濃度調整」しながら飲むのも楽しいのだ。

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    【南インドのコーヒーに関する坂田の過去の記録】 

    ☕️カフェ乱立の昨今、南インドコーヒー取材(2020年2月)
    ➡︎https://museindia.typepad.jp/eat/2020/02/coffee.html

    ☕️南インドはコーヒーの産地。伝統的な飲み方があるのだ。(2018年5月)
    ➡︎https://museindia.typepad.jp/eat/2018/05/southindiancoffee.html

    ☕️今しばらくは、翼を閉じて。2020/05/10
    ➡︎https://museindia.typepad.jp/2020/2020/05/ld046.html

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    【ワールドクラスのコーヒーを提供するARAKU COFFEE関連】 

    ☕️ARAKU COFFEE(夫の友人マノジが経営するコーヒー会社。マノジはソーシャル・アントレプレナーとしても社会に貢献する実業家。下に動画あり。
    ➡︎https://www.arakucoffee.in

    ☕️ARAKU COFFEEのすてきなカフェレストラン、パリに次いで、遂にオープン
    ➡︎https://museindia.typepad.jp/2021/2021/03/araku.html

    ☕️まちがいなく常連と化す。I had lovely lunch at ARAKU COFFEE again.
    ➡︎https://museindia.typepad.jp/2021/2021/04/araku.html

    ☕️お好み焼きではありません。ARAKU COFFEEで、日本男児2名とランチ
    ➡︎https://museindia.typepad.jp/2021/2021/04/araku-1.html

    💝ARAKU COFFEE/ 高品質オーガニックコーヒーを生産するソーシャルアントレプレナー。アラク・コーヒー創業者マノージが語る日本との関わり/撮り下ろし

    💝通販を賑わせるおしゃれな手工芸&天然素材のマスク/農家支援のワールドクラス高品質コーヒーARAKU

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    【南インドのコーヒーの産地クールグへ。旅の記録】 

    ☕️クールグ。コーヒー農園のリゾートにて(2010年の旅記録)
    ➡︎https://museindia.typepad.jp/2010/2010/06/coorg.html

    ☕️4年半ぶりのクールグ。コーヒー豆の産地にて(2014年の旅記録)
    ➡︎https://museindia.typepad.jp/miphoneindia/coorg-2014/

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    【サウスインディアン・コーヒーをより深く知りたい方へ、おすすめのリンク集】

    ☕️COFFEE BOARD IN INDIA(インドのコーヒー委員会のサイト)
    ➡︎https://www.indiacoffee.org

    🇮🇳サウスインディアン・コーヒーの淹れ方がわかりやすく紹介された動画

    🇮🇳南インドにコーヒー豆がもたらされた経緯がよくわかる動画

    🍰2012年にミューズ・クリエイションを立ち上げて以来8年間、バンガロールにいる限りは毎週金曜日をオープンハウスにして、毎週のように20人前後のメンバーのために、お菓子を焼いてきた。コーヒーを出してきた。写真のファイルから「コーヒー」「お菓子」を検索すると、山のように溢れてくる過去。よくやってたなあと、しみじみしつつ……お腹空いてきた!

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  • 【追記】2021年5月30日

    ナーグプルにて半世紀以上に亘り、逆境に生きる多くのインドの人々を救済し続けている佐々井上人。北米アンベードカル協会が主催する「Dr. Ambedkar International Lifetime Achievement Award 2021」に選出され、昨日、オンラインでの授与式が開催された。誰でも視聴できるとのことだったので、参加させていただいた。

    昨年、COVID-19に感染されたあと、体力を落とされ、お声も出にくそうだったが、昨日の上人は、お話される間、エネルギーが迸っていて、とてもお元気そうだった。あいにくわたしはヒンディー語がわからないのだが、主に仏教徒の向上、ブッタガヤ裁判の現状を熱く語っていらした模様。ジャイビーム!

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    🌕満月麗し、お釈迦様お誕生日おめでとうございます。この世にいでて半世紀たったあたりから、これまでの自分は、「宿命」の上を歩いてきたことに気づいた。その道を歩きながら、何をやるのかが、多分、大切。半ば自動操縦状態で語る4時間のわたしは、自分の制御下から、すでに逸脱していた。

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    ニューヨークへ渡って数カ月後の1996年。ちょうど25年前の七夕の夜、マンハッタンで夫となるインド人男性と出会った。まだ付き合う前、初めて夕食を共にしたあと、帰路、「お勧めの本がある」と教えてくれ、ノートにメモを記してくれたのが、『シッダールタ』だった。翌日、当時ロックフェラーセンターにあった「紀伊國屋書店」で購入し、帰路、ホテルのロビーで一気に読んだ。

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    🍷もしも、このKRSMAワインが存在しなかったら、わたしは3年前の4月、『破天』を読むことはなかったし、ナーグプルを訪れることもなかっただろう。そんなご縁については、過去のブログに記載している。

    ◉世界遺産の都市遺跡ハンピ、そしてKRSMAワイナリーへ4泊5日ドライヴ旅
    ➡︎https://museindia.typepad.jp/2018/旅ハンピ/

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    インドの中心〈ナーグプル〉で仏教を叫ぶ。
    5月26日(水) 🇯🇵日本時間/午後8時〜 🇮🇳インド時間/午後4時30分〜

    *坂田は特段、信仰心が篤いわけでも、また仏教の知識があるわけでもありません。今回、アンベードカル、そして佐々井秀嶺上人の足跡をたどるに際して、「最低限」知っておいたほうがいいと思われる情報を整理している。

    *昨日5月26日は、以下のセミナーで語った内容に加え、質疑応答のほか、インド仏教を研究されている方のお話もお聞きするなど、とても実り豊かな4時間だった。なにしろ時空を超えて、夢現(ゆめうつつ)のエピソードが満載につき。長かった。しかし、有意義であった。昨夜の話は、「語りたい」よりも「語らねばならない」が勝っていた。参加くださった各位。ご縁を有り難く思います。

    *佐々井秀嶺上人は、昨年のインドにおけるCOVID-19第一波の際に感染されました。体調を落とされつつも、人々の救済のために、日々尽力されています。そのご様子については、時折、お弟子の竜亀さんとのやりとりでお伺いしています。恒常的にご支援が必要と察せられます。佐々井秀嶺上人のご活動、及びご寄付などの情報は、以下のホームページをご覧ください。
    ◉南天会/佐々井秀嶺上人公認後援会
    ➡︎https://www.nantenkai.org/

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    ◉インドの中心で仏教を叫ぶ。佐々井秀嶺上人を訪ねて。2018/05/27
    訪問時の情報が満載のブログ(マンセル遺跡などは動画よりも多く写真を掲載)
    ➡︎https://museindia.typepad.jp/2018/2018/05/nagpur.html
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    🇮🇳パラレルワールドが共在するインドを紐解く④ インド国憲法の草案者、アンベードカルとインド仏教、そして日本人僧侶、佐々井秀嶺上人

    *この動画への理解をいっそう深めるために、ぜひ過去のセミナー『パラレルワールドが共在するインドを紐解く①〜③』をご覧ください。下部に概要とリンクを記しています。

    *動画内で、アンベードカルの仏教改宗をして「新仏教」と表記していますが、これは英語 “Neo Buddhism” を訳しての表現です。佐々井秀嶺上人の活動は純然たる「仏教」であり、伴って改宗した人々も「仏教徒」と認識されるべきだとのこと。敢えて表現するならば「仏教の復興」とされるようです。

    【CONTENTS】
    00:00 導入
    00:20 ファシリテーター柴田氏もナーグプルを訪れていた
    02:17 本セミナーに連なる坂田の過去3回のセミナーの簡単な振り返り
    02:56 セミナー開始
    🌕03:31 仏教の概要
    ・仏教のはじまり(初期仏教)
    ・仏教の源泉と広がり(上座部仏教/大乗仏教)
    ・日本に伝来した仏教。その背景
    ・仏教の教え(苦の輪廻からの解脱)
    ・インドにおける仏教(誕生と繁栄、衰退、そして復興)
    🌕14:45 アンベードカルについて
    ・アンベードカルの略歴
    ・アンベードカルの活動とその偉業の断片
    ・アンベードカルとガンディ。カースト制度をめぐる対立
    ・アンベードカルとインド国憲法
    ・アンベードカルと仏教
    🌕27:41 インドの中心点、ナーグプル。蛇(龍)という名
    ・ナーグプル市は仏教徒が非常に多く、識字率が高い
    🌕31:28 佐々井秀嶺上人について
    ・インドに至るまでの経緯
    ・南天龍宮城へ行け。龍樹のお告げ
    ・坂田の祖母の話
    ・龍樹(ナーガルジュナ)とは?
    ・大日如来とは?
    ・南天鉄塔とは?
    ・佐々井秀嶺上人の主な活動
    🌕53:46 坂田マルハン美穂、ナーグプル旅
    ・佐々井上人によって発掘された2000年以上前の仏教遺跡「マンセル遺跡」
    ・早朝から深夜まで。仏陀聖誕祭に因んでのイヴェントにご同行
    ・佐々井上人のことば
    🌕01:27:14 佐々井秀嶺上人の現在/2020年に新型コロナウイルスに感染されるも、使命を遂行されている。ご縁を受けた者に、なにができるのか。

    【セミナー開催に際して/坂田マルハン美穂を取り巻くご縁】

    資料を紐解くにつけ、目に見えぬ糸で操られ、南天竺に流れ着いた気さえする。インドで生まれた仏教の変遷。憲法の草案者アンベードカル。ダリット出自の彼が仏教に改宗した背景。その偉業を引き継ぐように、龍樹のお導きで、佐々井秀嶺上人がナーグプルにたどりついて半世紀余り。

    日蓮宗の藤井日達上人と近かった我が父方の祖母政子。ゆかりの資料や写真を見るにつけ、ご縁を感じてきたが、自分が年を重ねるにつれ、すべては定められた道の上を歩いてきたに過ぎないのかもしれないとの思いが強くなる。

    建設業者だった父の泰弘は、福岡県久山町の仏舎利塔建立に携わった。1988年に日蓮宗の平和行進(長崎ー広島)が行われた際には、道中の福岡にある坂田の実家に、多くの日印僧侶が1日滞在、母や伯母たちが、寝食のお手伝いをさせていただいた。

    1996年3月、わたしが表参道を猛スピードで歩いている時、すれ違いざま、占いをしているという男性に呼び止められ、「珍しい顔相をしている」「額から光が出ている」「今年は3回ある人生の転機のうちの一つ」「今年、強い縁がある」と告げられた。

    その4カ月後の七夕の夜、インド人男性のアルヴィンド(サンスクリット語で蓮の花の意味)とカフェで相席になった。そこからはもう、完全に、インドへと導かれていたと、今はそう思う。

    初めてアルヴィンドと一緒に食事をした後、帰り際に彼から勧められた本が、ヘルマン・ヘッセの『シッダールタ』だったことも。彼の姉の名前がスジャータだということも。結婚式を挙げるために訪れた2001年7月のデリーで、「こんな国、絶対に住めない」と思ったのに、3年後には住んでみたくなったことも。自分でも理解できない熱意と執着で、嫌がる夫を説き伏せ、紆余曲折を経て、2005年11月に、インド移住を実現したことも。

    2011年、ムンバイの日本山妙法寺で森田上人とお会いしたとき、上人は上記、平和行進を実現された人物だとわかったことも(その際、平和運動に熱心だった俳優スニール・ダット(サンジャイ・ダットの父)が同行されたとのこと)。

    そして、2018年4月、『破天』を読んで、発作的にナーグプルへ行かねばと思い、折しも仏陀聖誕祭の日に、佐々井秀嶺上人とお弟子の竜亀さんと、行動を共にさせていただいたことも。

    その年の一時帰国時、東京から福島の原発事故後の様子を見に行くつもりで唯一開けていた日。折しも佐々井秀嶺上人はブッダガヤ大菩提寺の返還運動のため日本にいらしていたことを知り、急遽、増上寺で再会させていただいたことも。

    【関連サイト/書籍案内】

    ●南天会/佐々井秀嶺上人の活動支援
    ➡︎https://www.nantenkai.org/

    ●『破天』山際素男著
    ➡︎https://www.amazon.co.jp/破天-光文社新書-山際素男/dp/4334034772

    ●『アンベードカルの生涯』ダナンジャイ・キール著
    ➡︎https://www.amazon.co.jp/アンベードカルの生涯-光文社新書-ダナンジャイ・キール/dp/4334032958

    ●『ブッダとそのダンマ』B.R.アンベードカル著
    ●『社会苦に挑む南アジアの仏教: B. R. アンベードカルと佐々井秀嶺による不可触民解放闘争』
    ●『求道者』佐々井秀嶺著
    ●『不可触民と現代インド』山際素男著
    ●『龍樹の遺跡の発見: インド、マンセル・ラームテク遺跡』アニル・クマール著
    ●『龍樹』中村元
    ●『変貌と伝統の現代インド: アンベードカルと再定義されるダルマ 』(嵩満也)
    ●『佐々井秀嶺、インドに笑う』白石あづさ著

    ●映画『ジャイビーム インドとぼくとお坊さん』
    ➡︎https://www.jaibhim-movie.com/

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    ◉[DAY 05/ Dharamsala 04] 僥倖の朝。ダライ・ラマ法王14世とお目にかかる
    ➡︎https://museindia.typepad.jp/2019/%E6%97%85%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%83%AA%E3%83%88%E3%82%B5%E3%83%AB%E3%83%80%E3%83%A9%E3%83%A0%E3%82%B5%E3%83%A9/
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    北インドだけではない。インドには各地に、風化しつつも確実に、久しく人々の目から離れたままの、仏教遺跡が残されている。
    実はお隣のアンドラ・プラデーシュ州は、仏教遺跡の宝庫なのだ。

    【参考資料】
    🙏アンドラ・プラデーシュ州政府による仏教遺跡巡りの資料(必見)
    ➡︎https://tourism.ap.gov.in/assets/img/Brochures/AP%20Buddhist%20Places%20Brochure.pdf

    🙏India Buddhism Tour
    ➡︎https://indiabuddhismtours.com/

    🙏Buddhist Tour Packages
    ➡︎https://www.tourmyindia.com/packages-tour-india/buddhist-travel-packages/

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    🙀「自然を貫く果てしない叫び」。今、地球の叫びは、いよいよ強くなりて。

    1986年。35年前、20歳の春休み。発作的に描いた2枚の曼陀羅。

    大学の寮から帰省し、実家で過ごしていたある日。実家に掛かっていた曼荼羅の絵を見て、自分も描いてみたくなった。部屋にあった、高校時代の絵具や筆、画用紙を使い、アルバイトの合間を縫って、わずか数日で2枚描いた。

    1枚目は、ほとんど模倣。ただ、自分の名前を「隠し絵」のようにして紛れ込ませた。先日の『アンベードカルとインド仏教、佐々井秀嶺上人』のセミナー動画で、その写真を紹介した(動画では19歳と言ったが調べたら20歳のときだった)。すると、ご覧になった方から、曼荼羅に感銘を受けたとのメッセージをいただいた。

    動画で紹介した1枚は、実家に飾られている。もう一枚は、手元にあるはずだ。今朝、クローゼットを開いて久しぶりに発掘、しみじみと眺めた。描いた当初は、暑苦しい画になってしまった気がして、あまり気に入ってはいなかった。しかし35年ぶりにじっくり眺めると、かなり感慨深い。

    当時のわたしは、その半年前に初めて海外旅行を体験、1カ月の米国滞在した直後で、感性が炸裂していた。それはこの年、大学祭実行委員長を引き受けて、準備、実施するまで続くのだが、まさに若い力が漲っていたころだ。

    インターネット台頭以前。絵の素材は印刷媒体を参考にした。

    子どものころから自然破壊や環境問題に敏感だったことは過去にも記したが、その思いは多分、常に根底にあったのだろう。

    この絵を描く数カ月前の1月28日。スペースシャトルのチャレンジャーが発射73秒後に爆発。飛行士7名が死亡した。その経緯をレポートする『ニューズ・ウィーク』誌の特集にあった写真を見て、スペースシャトルを描いたことは覚えている。

    月の満ち欠けは、歳月の流れを表している。その上には涅槃。

    しかし右上は、ゴミの山。埋立地に林立する団地に押し寄せる津波……。

    昭和40年代、わたしが育った福岡市東区名島、千早界隈。かつては海辺だった場所が埋め立てられ、「城浜団地」ができた。かつて山だった場所が造成されて「三の丸団地」ができた。

    その変遷を、この目で見てきた。高度経済成長に伴う環境の歪みを、本能的に感じ取っていた。思えばあれは、野生の勘のようなものだった。

    中学2年のころ。大反抗期で成績は急下降していながらも、作文の宿題はしっかりやり、それが福岡県知事賞を受賞、テレビに出演し、朗読した。その作文も、同様のテーマだ。

    試験管はそのまま、「試験管ベイビー」を意味している。1978年、英国で初めて「体外人工受精」により、子供が誕生した。今ではごく一般的な治療と生誕の形になっているが、当時は物議を醸した。

    ちなみにわたしは卒業論文で「安部公房」を取り上げたのだが、彼は1977年に発表された『密会』という作品の中で、すでに「試験管ベビー」という表現を使い、人工授精で生まれた女性を登場させている。

    そもそも理系である安部公房の先見の明や世界を見る目には驚嘆すべき点が多々あるのだが、この予見には、今改めて、鳥肌が立つ。

    ミツバチのモチーフは、多分、ミツバチがいなくなると、人間の存在が危うくなるという話をどこかで知り、使ったのだと思う。農薬などへの危機感も、わたしの中にあったのかもしれない。嫌な予感は当たり、今やミツバチは減少の一途を辿っている。

    そしてリンゴ。当時は、アダムとイヴの禁断のリンゴ=原罪を表すために描いた。しかし、今の世界を席巻しているAppleのiPhoneを予見していた……とは、こじつけだ。

    そして、ムンクの叫び。これは、絵の中の人物が叫んでいるのではない。

    彼は「耳を塞いでいる」。以下は、ムンク本人が、この絵に言及した一文だ。

    「私は2人の友人と歩道を歩いていた。太陽は沈みかけていた。突然、空が血の赤色に変わった。私は立ち止まり、酷い疲れを感じて柵に寄り掛かった。それは炎の舌と血とが青黒いフィヨルドと町並みに被さるようであった。友人は歩き続けたが、私はそこに立ち尽くしたまま不安に震え、戦っていた。そして私は、自然を貫く果てしない叫びを聴いた。」

    自然を貫く果てしない叫び。

    35年前には、耳を澄まさなければ聞こえなかった叫びは、今、地球全体に轟轟と響き渡っている。

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    先日も紹介したデイヴィッド・アッテンボローの『地球に暮らす生命 (NETFLIX)』。地球環境を改善するために我々人間ができることが、最後の最後で提案されている。一人でも多くの人に見て欲しいと思う。

    STUDIO MUSEの動画から、坂田のセミナー動画、ぜひご覧ください。
    ♨️特におすすめは、パラレルワールドが共在するインドを紐解くシリーズ①~④
    ➡︎https://www.youtube.com/playlist?list=PLtS91Qr_YL53TioXolCLop5pTKNZJuJ_U

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    今年、米国の東海岸にて、17年ぶりに湧き上がっている蝉。「周期ゼミ」もしくは「素数ゼミ」と呼ばれるそのセミは、成虫になるまで17年間、地中に眠り続ける。

    2004年。17年前の今ごろ、わたしはワシントンD.C.に住んでいて、17年ぶりに大量発生する蝉らの、うなるような命の叫びの、渦の中にいた。

    38歳から39歳になろうとしていた、あのころ。

    2001年7月に、夫の故郷ニューデリーで結婚した。10月にはマンハッタンで、披露宴を開く予定だった。しかし2カ月後の9月11日。わたしが住むニューヨークと、夫の住むワシントンD.C.が、世界同時多発テロの標的となり、世界は一変した。

    遠距離結婚を続けるつもりだったが、人生の優先準備を見直した。

    2002年1月。断腸の思いで、ニューヨークを離れ、ワシントンD.C.で新婚生活を開始した。まだ会社(ミューズ・パブリッシング)は維持していたとはいえ、仕事は激減、半ば専業主婦のような日々だった。

    当時、わたしの親しい友、そして父親が、共に末期癌を患っていた。

    結婚すれば授かるものと思っていた子どもに、恵まれないことがわかった。

    同じころ「ワシントンD.C.エリア連続狙撃(スナイパー)事件」が発生した。

    そこそこ、精神がやられた。

    2003年。自分の未来が見えなかった。国立大聖堂の斜向かい、大使館通りに面した、瀟洒な住まい。よい環境のもとで暮らせているというのに、楽しくなかった。毎月のようにマンハッタンへ出かけ、最早、経費がかかりすぎて利益がでない仕事を、しかし続けていた。

    年々悪化する腰痛。冬ごとの喘息のような咳。思えば体調も、ひどく悪かった。

    その秋、英語の勉強をやりなおすべく、ジョージタウン大学の3カ月英語集中コースに通った。その際の研究論文に、インドの頭脳流出を経ての頭脳還流(循環)を背景とした、「インドの新経済」をテーマに選んだ。それを書いているうちに「インドに住みたい」と思った。

    2004年。投資関係の仕事をしている夫にも、インド市場投資の話が入ってきた。ここぞとばかり、嫌がる夫を説き伏せて、「インドに移住しよう」ともちかけた。以来、夫のインド出張には尽く同行した。

    2004年4月7日、約2年半の闘病の末、友が他界した。その数日後、インドへと飛んだ。インドから戻った翌日、5月1日。日本から、父が危篤との知らせ。今度は福岡へ。数日のうちに、地球をほぼ一周した。

    しかし父は持ち越した。ゆえに一旦、ワシントンD.C.に戻った。それが17年前のちょうど今ごろ。D.C.が「蝉時雨」ならぬ、「蝉集中豪雨」に晒されている時だった。

    新緑麗しく、ポトマック川畔やロック・クリーク国立公園を歩くのが楽しい時期。17年の眠りから覚め、地中から無数の蝉が這い出して、そこそこで脱皮を始めていた。その数日後から、蝉の大合唱は始まったのだった。

    確かに、うるさかった。うるさかったはずなのに、煩わしいとの記憶がない。当時のわたしは、心、ここにあらず、だったのかもしれない。心も耳も、半ば、閉ざされていた。

    わたしが福岡からD.C.に戻って10日も経たぬうちに、父が、今度はいよいよ最期になりそうだと連絡があった。17年蝉の合唱に見送られ、再び日本へと飛んだ。

    人の死にまつわる一連のあれこれを終えて、6月下旬にD.C.へ戻ったときにはもう、蝉らの姿は消えていた。

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    ソーシャルメディアはおろか、ブログさえもまだ一般化していなかったころ。

    わたしはホームページ上に、シンプルなフォーマットを作り、日々の記録を残していた。その名も「片隅の風景」。ブログとインスタグラムの間のような存在感だ。

    「17年前のわたしは、大学4年生だった。17年後のわたしは、何だろう。」

    と、記していた17年前の今ごろ。

    17年後のあなたは、願い通りバンガロールに移住しています。相変わらず、人生模索中のご様子です。

    17年後のわたしは、何だろう。

    70代となってなお、スーツケースを携えて、「東西南北の人」でありたい。故に、健康第一。よく食べ、よく寝て、よく笑え。人間万事、塞翁が馬。この先まだまだ、旅路は続く。

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    ミューズ・クリエイションのチーム歌。改めミューズ・クワイアのメンバーだったヴァイオリニストの恵美子さんと昨年始めた「SAREES」。7曲目の今回は、やはりクワイアのメンバーだった亜沙美さんが、ピアノ伴奏を引き受けてくれた。インドを離れてなお、遠隔に住む3人が、こうして一つの曲を仕上げ、形にできるご縁。

    今回の選曲は、インドにCOVID-19の第二波が襲いかかる前に決めた。昨日、歌いながら、今の世界の状況を思う心に染み入る。

    アヴェ・マリア。「聖母」にまつわる個人的な物語で思い出すのは、ドレスデンの聖母教会。1991年、1994年、そして2018年。過去3回、訪れたドレスデンの、聖母教会を巡る物語を、写真と共に紹介している。聴いて、読むのは忙しいかもしれないが、ともあれ、楽しんでいただければと思う。

    ◉1958
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    ◉1991/ドライヴ旅の情報誌の取材で、初めて訪れたドレスデン
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    ◉1994/欧州3カ月一人旅のノートから
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    ◉1994/欧州3カ月一人旅のノートからIMG_5956
    ◉2018/夫と欧州旅の途中で
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    【ドレスデン旅の記録ブログ/ぜひご一読ください】

    ◉27年越しの念願。遂には、奇跡の光景をこの目で。
    ➡︎https://museindia.typepad.jp/2018/旅ドイツ/

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    無数の国を旅し、無数の教会を訪れてきた。そして無数の聖母マリアに出会ってきた。中でも忘れ得ぬ場所。旧東ドイツ、ドレスデン。

    ベルリンの壁が崩壊し、東西ドイツが統合してまもない1991年。旧西ドイツのフランクフルトから、旧東ドイツのベルリンまで、ドライヴ取材をした。滑らかな旧西のアウトバーン(ハイウェイ)は、旧東に入った途端、ガタガタの舗装路に。

    かつて栄華を極めたドレスデン。第二次世界大戦時の爆撃の傷痕を残し。あまりにも緩やかな時の流れ。灰色の街の中央には、異様な存在感を漂わせた瓦礫の廃墟があった。

    3年後の1994年。わたしはひとり、欧州を列車で3カ月間、放浪した。ドレスデンに立ち寄った。そして、瓦礫の廃墟があった広場を訪れ、驚愕した。

    廃墟は他でもない、かつてドレスデンを象徴する聖母教会で、だから人々は、「同じ姿に戻す」ために、再建を始めていたのだ。

    聖母教会。正式名称、フラウエン教会。予定よりも早く、2005年に完成していた。以来わたしは、ずっとずっと、再訪を望んでいた。そしてついに実現した2018年。欧州旅の途中、プラハから列車でドレスデンへ。

    ツヴィンガー宮殿の前にあるホテルにチェックイン。寒風吹き荒ぶ街を、逸る心を抑えながら、市街中心部へと歩く。

    24年前、瓦礫の山だった場所。そこには、圧倒的な存在感で、そびえ立つ聖母教会があった。史上最大の、立体的なジクソーパズルは、確かに完成していた。

    言葉なく、滂沱の涙を流す妻を、不思議そうに眺める夫。

    礼拝のあと、キューポラを駆け上る。「膝が痛いんじゃなかったの?」と夫。痛みなど忘れるほどの、込み上げる衝動だった。

    フラウエン教会の奇跡。それは奇跡のひとことでは片付けられない、国境を越えて、人々の、祈りと願いと希望の象徴だった。

    聖母教会の頂にある英国から贈られた「和解の十字架」。十字架を作った鋳物師は、ドレスデンを空爆したパイロットの息子だった。それは「偶然」から生まれた、「数奇な縁」だった。

    LOVE & HOPE, NO BORDERS.

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    【MIHO着用のサリー】

    ◎2007年、ムンバイへ出張に行った時、タージ・マハルパレスホテルのグラウンドフロアにある老舗テキスタイル&サリー店で購入。クライアント女史をアテンドしつつ、気がつけば取材の合間の買い物が増えていたのも良き思い出。ブラウスは、2015年にバンガロールで開催された手工芸品展でコルカタの職人から購入した。ブラウスは後ろからの見え方が決め手。サリーとは異なる色柄のブラウスを着ることで、印象が変わって見えるのもサリーの楽しさだ。

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    【これまでのSAREES♪サリーズ】

    (1)『いのちの名前』/映画「千と千尋の神隠し」より/“The Name of Life” from Spirited Away

    (2)『ユー・レイズ・ミー・アップ』You Raise Me Up/DIWALI SPECIAL ヒンドゥー教の新年「ディワリ」。

    (3)『カブトムシ』Kabutomushi/ Beatle by Aiko

    (4)『Your Song 僕の歌は君の歌』 by Elton John, Lady Gaga 

    (5)『灰色と青』by 米津玄師 (+菅田将暉 )

    (6) 『旅路』by 藤井風

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    2001年9月11日。米国同時多発テロが起こった時、我々夫婦はニューヨークとワシントンD.C.の二都市生活を送っていた。

    2008年11月28日。ムンバイ同時多発テロが起こった当時、我々夫婦はバンガロールとムンバイの二都市生活を送っていた。

    どちらのテロも、極めて身近に経験し、思うこと尽きぬ。わたしの言葉は、いずれも、自分が肌身に経験したことに基づいて、考えを巡らせ、表現してきたということを、敢えて記しておきたい。

    善し悪しを結論づけられないことが、世界には満ち溢れている。ただ、自分はどうありたいか、と思うとき、諍いや、傷つけ合うことの少ない場所で暮らし続けたいと思う。人と関わるからには、共に食べて飲んで、話して笑って、歌って踊って、楽しみたい。一人でいるときには、心静かに穏やかに、働き、学び、伝え、ときに助け、助けられ、さらには猫らを慈しみながら、できれば笑顔で過ごしたい。

    そのために、自分ができることを、日々、つとめて、やっている。

    * * *

    インドがこの状況にあって、さまざまな取材の依頼が届く。9/11から今年でちょうど20年。あのときよりもはるかに、「雑な形」でのメッセージが届く。嘆かわしくも不安が勝る。

    「誰彼構わず雛形メールを送りつける人たち」が取材し、自分の持っていきたい方向に「再構成される報道」と、「あらかじめ相手を知ったうえできちんと取材依頼」をし、「なるたけ現実に即したバランス感覚のある報道」。その玉石混交を、読み手はどれほど見極められるだろう。

    この件については言いたいことが尽きぬので、この辺にしておく。

    わたしはインドに住んでいるが、特にインド映画のファンだというわけでも、よく知っている方でもない。しかし、心に残る好きな映画は、もちろんたくさんある。そんな中でも、インドに関わる人には、いつも勧めている複数の映画がある。その中のひとつが、『MUMBAI MERI JAAN』。

    見るに耐え難い、辛いシーンの多い映画。エンターテインメントではない。ただ、この国の抱える「闇のかけら」と、その一方の「光のしずく」を、多分、見ることができる。

    以下は、2009年12月のブログから転載したもの。内容に手を加えず、ほぼそのままに転載する。10年以上の歳月が流れ、今、読み返すに、映画のシーンが蘇って泣けた。自分で言うが、よく書けている。

    ぜひ、読んで欲しい。

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    映画『MUMBAI MERI JAAN(ムンバイ・メリ・ジャーン)』2009/01/24

    ようやくインドでも公開された『スラムドッグ・ミリオネア』を明日、見に行く。しかしその前に、先日もここで記した映画『MUMBAI MERI JAAN』についてを、記しておきたいと思う。

    『MUMBAI MERI JAAN(ムンバイ・メリ・ジャーン)』。英訳すると”MUMBAI MY LIFE” という名の、ムンバイを舞台にしたこの映画。物語の軸になっているのは、2006年7月11日にムンバイを襲った列車連続爆破テロだ。

    『MUMBAI MERI JAAN』は2008年8月に公開された。劇場へ見に行くタイミングを逸し、先日DVDを購入して鑑賞し、ムンバイの現状を巧みに表現してると深く感銘を受けた。

    先ほど夫とともに再び観て、そのよさを再認識した。ムンバイをよく知らない人には、一度観ただけでは理解しにくい映画かもしれない。しかしながら、インドやムンバイに関心のある方には、ぜひ観ていただきたい映画だとも思う。

    ボリウッド的な「歌って踊って」の要素は一切なく、テーマも重いが、ショッキングなシーンを抑え、心の機微を描いた、非常に冷徹な映画だと感じた。残念ながら日本では上映されていないようなので、ここであらすじを紹介しようと思う。

    普段、映画について詳細を語ることはしないのだが、この映画については例外である。今後観る予定のある人は、内容がわかってしまうので、お読みにならない方がいいだろう。

    * * *

    映画を語るその前に、ひとこと。インドを語るとき、幾度となく使う言葉に「貧富の差」「階級やコミュニティの違い」「宗教の違い」「言語や生活習慣の違い」などが挙げられる。

    しかしながら、「貧富の差」の実態を知らない相手に、その有り様を伝えることは簡単ではない。テロの背景にある「異教徒が共存する世界」についても、何がどのように共存しているのか、知らない人にとってはイメージするのは難しいだろう。

    折しもオバマが大統領就任宣言で口にした。米国は、キリスト教徒とイスラム教徒、ユダヤ教徒、ヒンドゥー教徒、そして無宗教の人々らから成る国であると。たとえばマンハッタンを闊歩しているとき、そのことを、少しは肌で感じることができるかもしれない。

    しかし、「メルティング・ポット(人種のるつぼ)」と呼ばれるニューヨークのそれよりも、より多くの素材、そして濃厚な味付けで構成されているのが、ムンバイにおける「るつぼ」である。

    このブログを久しく読んでいる人であれば、少しはイメージできるかもしれない。しかし、まったくインドを知らない人が、「異教徒が共存する世界」という言葉から、いったい何を想起するだろう。そのことを思ったとき、せめてこの映画についてを説明してみたいと思ったのだった。

    * * *

    2008年7月11日、ムンバイ市内を襲った列車連続爆破テロ。一等車ばかりが狙われたこのテロで、200名を超える人々が殺され、700名以上が負傷した。

    ストーリーはこのテロを軸にした、境遇の異なる5人のムンバイカー(ムンバイ人)の日常を、巧みに編み込みながら展開される。5人のバックグラウンドの差異は、ムンバイの一部を象徴しているようでもある。

    この映画は、ヒンディ語で作られているため、わたしは英語字幕に頼って見た。会話が早く、読むのが追いつかない箇所も多々あり、内容を完全に理解しているとはいえない。また、一部記憶違いなど、事実誤認があるかもしれぬ。

    ともあれ、本筋を理解していただくに大きな影響はないだろうと判断の上で記しているので、細かな突っ込みはご容赦いただきたい。まずはそれぞれの登場人物のバックグラウンドについて説明する。

    * * *

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    ルパリ(ソーハ・アリ・カーン)
    ムンバイのニュース番組のレポーター。若くて美しい、才色兼備の女性。市内高級アパートメントの高層階に、家族と暮らす富裕層の一人娘だ。ジャーナリストとしての矜持を持ち、現場からのレポートも歯切れがよく、社内でも彼女の仕事に対する評価は高い。

    あるとき、自宅でフィアンセとともに、自分がレポートするニュースを見ていた。ある村で、夫を失った女性にマイクを向け「今のお気持ちはどうですか?」と尋ねる彼女に、フィアンセは、君は美しいし、レポートもうまい。しかし、不幸な人に向かって、どういう気持ちですか、と尋ねることには同意しかねるといったことを告げる。

    ルパリは予想しなかった彼のコメントに動揺し、憤慨する。

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    トゥカラム(パレーシュ・ラワル)
    引退を目前にした警察官。汚職や闇取り引きの多いどろどろとした社会にあって、「事なかれ主義」を通して来た。不義を黙認し、トラブルを避けるようにしながら、任務をこなし、大した手柄もないまま35年が過ぎた。横柄で態度の大きい警察官が主流を占めるなか、しかし温厚で人当たりがよく、人柄に温かみがある。

    しかし、彼の部下であり、ともにパトロールを続けている若手のスニールは、トゥカラムに敬意を表しながらも、その弱腰の姿勢を受け入れられない。スニールは、理想と現実の狭間でストレスをためつつも、愛妻とともに近々休暇を取って旅行に行くのを楽しみにしている。

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    スレーシュ(ケイ・ケイ・メーナン)
    敬虔なヒンドゥー教徒。中流層の下、低所得者層の上、といった位置づけか。コンピュータの販売業をしていたが、現在は失業中で、借金取りから督促を受ける日々だ。しかし特に働きもせず、なじみの食堂で仲間ら4人とつるんで過ごす日常を送っている。

    ムスリム(イスラム教徒)を毛嫌いしている。

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    トマス(イルファン・カーン)
    自転車にポットやカップを載せて路傍で商売をする、ミルクコーヒー屋。一週間の収入が1200ルピー(2500円)ほどの低所得者であり、質素な家屋に妻と娘と3人で暮らす。仕事がないときも、自転車で市街をうろうろとしていることが多い。

    あるとき、路肩のチャイ屋で高級車に乗る富裕層の若者に遭遇する。店主に対する横柄な態度をとるその若者は、会話をしている相手の話が気に入らないのか、高級機種の携帯電話を地面に叩き付け、自動車で踏みつぶして去る。その姿をチャイにビスケットを浸して食べつつ、呆気にとられて眺めるのだった。

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    ニキル(R. マダヴァン)
    国際的なソフトウエア会社に勤めるビジネスマン。そこそこに豊かな生活をしているが、環境問題に対して非常に真摯な姿勢を貫いており、自動車の排ガスは環境汚染に結びつくからと列車で通勤している。ちなみにインドにおいて、列車やバスなど公共の交通機関で通勤する富裕層は少ない。

    ドアは開いたまま、満員時は乗客がぶら下がるようにしたまま移動する通勤電車は、主には中流層、低所得者層の移動手段である。ニキルは普段、若干料金が高い一等車の車両で通勤している。臨月の妻、両親とともに暮らしている。

    * * *

    7月11日午後6時過ぎ、ムンバイ市内と郊外を結ぶ南北に伸びる満員の通勤列車にて、わずか11分の間に7つの爆弾が次々に爆発、209名が死亡し、700人以上が重軽傷を負った。警察によれば、実行犯はラシュカレトイバ及びイスラム過激派組織であるSIMI (Students Islamic Movement of India) とのことである。

    実際に起こったこのテロを主軸に、映画のストーリーは展開される。あくまでもフィクションだが、しかし非常に現実味を帯びた内容で、実際に彼らのような人物が存在していても、なんの不思議もないリアルさがある。

    テロを機に、登場人物たちの身の上に、どのような変化が起こったかについてを、以下で紹介する。彼らの行動を巧みに交錯させながら、映画は流れていく。それは異なる色の糸できれいに織り上げられた一枚布のようでもある。

    彼らの数日を追うことで、ムンバイの現状がいかなるものかが、伝わると思う。

    * * *

    ルパリ:レポーターの彼女は、テロの直後、ずたずたに破壊された列車から死傷者が運び出される中、現場に駆けつけて果敢にレポートをする。その後、オフィスに戻ってボスや同僚とともに報道の戦略会議を開く。視聴者に対して、いかに興味深く”interesting”にレポートするかが決め手だと力説。

    被害者の家族などを取材して、生前の写真などとともに、土曜夜9時半のプライムタイムに、センセーショナルに報道しようと、意気込む。

    しかし、会議の途中、弟から何度も電話が入る。彼女のフィアンセが行方不明だという。フィアンセの写真を片手に、町中の病院を奔走する彼女。オフィスでの戦闘的な表情とは裏腹に、不安と恐怖とが入り交じり、緊張感に満ちている。

    目に飛び込んでくるのは、手足を失った人々や、血だらけで廊下に放置された人々の姿……。

    とある病院の前で、同僚のレポーターが現場からの報道を続けている。そこにボスから連絡が入り、「2分」だけでいいから、簡単に今の自分の状況を話してほしいと依頼される。いたたまれない気持ちでマイクに向かって心境を吐露する彼女。一刻も早く、フィアンセの消息を知りたいと告げる。

    ようやく到着したのは、遺体収容所。身体がずたずたに引き裂かれ、身元の判明できない遺体が転がった薄暗い部屋に導かれた彼女。フィアンセが履いていたベージュのストライプ入りのスニーカーが目に飛び込んで来た。

    覆われていた布がはがされる。付け根から下の「脚だけ」が、無惨にも転がっていた。崩れ落ちるルパリ。

    深い嘆きに包まれた彼女は、外に出ることもなく数日を自宅で過ごす。涙が止めどなく流れ落ちる。ある午後、印刷屋から包みが届いた。ルパリとフィアンセの結婚式のための招待状カードだった。滂沱の涙を流す彼女。

    茫然自失の日々を過ごしていたある日、ボスと同僚のレポーターが訪れる。家にこもっているばかりではなく、動き出さねばと励ますボス。しかし、真の用件は、彼女の身に起こったストーリーを、30分のドキュメンタリーとして報道させてほしいという依頼だった。

    彼らの言葉を、うつろな精神状態で聞きながらも、プロとしての矜持もあるのか、承諾する彼女。後日、レポーターとカメラマンが、再び自宅を訪れて撮影は開始される。冒頭で、自己紹介と、今回のテロでフィアンセを失ったことなどを、ルパリ自身が説明するべくカメラに向かうが、うまく話せない。

    何度も何度も撮り直される。20テイクを超えて、しかしついには泣き崩れ、「できない」と訴える。

    その後、夜、母親がテレビを見ているとき、偶然、自分の娘のストーリーが番組になっているのを見つける。弟とルパリも気づき、母親とともに、無言で画面を見つめる。

    二人が婚約式を行っている時の映像や、過去の写真、結婚式の招待状など、思い出のシーンが次々に映し出さる。そして、泣き崩れるルパリの映像が大写しに映し出される。

    二人の写真が稲妻のように引き裂かれる映像などが流れるなど、非常にセンセーショナルに、しかもエンターテインメント性を帯びた語り口調とで紹介されていく。

    これまで自分自身が行って来たことと、今、自分の身の上にふりかかった悲劇との狭間とで、言いようのない憤りと悲しみに襲われるルパリ……。

    トゥカラム:テロの直後、部下のスニールとともに市街をパトロールする。テロのために休暇が返上になったスニールは不機嫌で、テロ当日の夜にも営業をしていたバーのオーナーにも難癖をつける。

    袖の下(賄賂の札束)を受け取ったものの、山分けを示唆するトゥカラムに首を横に振り、現金の受け取りを拒否する。

    日常のストレスのうえに、テロが起こり、楽しみにしていた休暇もだめになり、さまざまな悲しみがこみ上げているスニールに、トゥカラムは、「制服を着たまま泣いちゃダメだ。泣くならトイレに行って泣きなさい」とやさしく諭す。

    抵抗ができそうにない貧しい人たちには、ちょっとした不都合を見いだしただけで平気でビンタを食らわすスニール。感情的になりがちなスニールを、トゥカラムは戒めるが、「わたしはこれから35年間も、あなたのようではありたくない」と、暴言を吐いてしまう。そして二人は、それぞれに、うなだれる。

    あるとき、深夜の車内で麻薬を吸っている若いカップルを見つけ、暴行を加えながら厳重注意するスニール。その青年の父親は有力な政治家だった。警察に怒鳴り込んでくる政治家。彼に頭が上がらない上司から、厳しくたしなめられるスニール。

    またしても憤慨に打ち震えるスニールに、トゥカラムは過去のエピソードを話す。以前、ある男の所持品から大量のコカインを見つけたことがあった。しかし、それらは「砂糖だ」ということで処理された。なぜならその男が政治家だったからだ。

    退職の数日前、同僚たちとお別れのランチを食べるトゥカラム。しかし隣席のスニールは相変わらず元気がない。「泣くのなら、トイレで泣きなさい」と諭すトゥカラム。トイレに立つスニール。直後、トイレから銃声が轟く。

    みなで体当たりをしてドアを開ければそこには、銃を抱えて座り込むスニール。天井には穴があき、自殺は未遂に終わっていた。トゥカラムはスニールを抱きしめ、二人して、泣く。

    スレーシュ:テロの現場付近に居合わせた彼は、負傷者の救出に手を貸す。悲惨な現状を目の当たりにして、テロリストへの憎悪を深める。いきつけの食堂に出入りしている若いムスリムの男ユースフが、テロの当日から姿を見せなくなったことから、ユースフがテロに関わっているのではないかとの妄想を抱く。

    ある夜、友人らとつるんでいたところ、ムスリムの老人が自転車で通りかかる。「おまえの鞄に入っているものは、爆弾か?」と、酒を片手に絡むスレーシュ。老人は鞄の中の「パン」をスレーシュに見せる。しかしそのパンを食べながらも、しつこく絡みつづけるスレーシュ。

    そこに二人の警官、バイクに乗ったスニールと、後部座席に乗ったトゥカラムが現れる。事情を聴取するトゥカラムに対して悪態をつき、突き飛ばして倒してしまう。激怒するスニール。仲間たちと逃げるスレーシュ。

    仲間たちからは、お前の妄想だと諭されても、ユースフを疑うスレーシュ。彼の自宅を見つけ出し、友だちのふりをして母親に彼の消息を尋ねる。

    ある日、街角でユースフを見つけた彼は、バイクに乗る彼を、やはりバイクで追跡する。ユースフは黒衣(アバヤ)に身を包んだガールフレンドと、ハジアリ(イスラム寺院)でデートをしているだけだった。

    そのハジアリで、コンピュータ販売の仕事をする知り合いに偶然会い、セールスの仕事に興味があるならすぐに連絡をしてくれと名刺を渡される。友人から「仕事が見つかってよかったじゃないか」と言われるが、「ムスリムと仕事をする気はない」と吐き捨てるように言う。

    ニキル:友人と共に列車に乗ろうとしたところ、ホームで顔見知りのセールスマンが声をかけてきた。煩わしく思いつつも彼の巧みな誘いにのって、話を聞くことになる。友人はいつものように1等車に乗り込んだが、ニキルはセールスマンが2等車の切符しか持っていないことから2等車に乗る。

    列車が動き始めてほどなくして、1等車が爆破される。血みどろの現場で、呆然と線路に座り込むニキル。

    帰宅後、心配症で臨月の妻にはもちろん、両親にも、自分が爆破された列車に乗っていたことを告げることができない。それからというもの、事故のシーンが何度も脳裏をよぎって不安にさいなまれる。

    1等車に乗っていた友人は、命はとりとめたものの、右腕を失っていた。見舞い先の病院で、慟哭する友人を前に、呆然とするニキル。以来、列車に乗ることがままならず、タクシーを利用し始める。

    街を歩いていても、どこかに爆弾が落ちているのではないかと過度に恐怖感に囚われ、悪夢を見る。いたたまれなくなり、診療所を訪れたところ、女性のサイコロジストから「恐怖感を抱くことは、決して珍しいことではない」と言われる。

    また、テロの経験を誰かに話したのか、と尋ねられる。自分の中に恐怖を抱え込んでいるニキルに対して、ドクターは「恐れることは、いけないことではないのよ」とやさしく諭す。

    一時帰国している米国在住の友人夫婦からは、米国に移住するべきだと何度も誘われる。今すぐ引っ越して、アメリカで出産すれば、子供はアメリカの国籍を取れるよ、とも言う。たまにインドが恋しくなるけれど、アメリカの暮らしはすばらしいと力説する彼ら。

    車を買うことに対しても、米国へ移ることも対しても、心が揺れはじめている。

    トマス:テロ後のある日、新品の白いパンツに黄色いシャツという一張羅の服を身に付け、やはり美しいサリーをきた妻と、着飾らせた娘を連れて、ショッピングモールへと赴く。

    モールを初めて訪れる妻と娘は、エスカレータに乗るのも初めてで、うまく乗ることができない。自分たちの貧しい暮らしとは異なる世界に戸惑いながらも、妻と娘は大喜びだ。

    トマスは彼女らを香水売り場に連れて行く。たくさん並んだ試供品をふりかけて、いい匂いだろうと家族にも試させる。はしゃいでいるところに、店員がやってきて、買うつもりはあるのかとトマスに詰め寄る。トマスはしばしばここを訪れて試供品を使っていたことから、店員に目をつけられていた。

    1本の香水が10,000ルピー(約2万円)を超えることを知って愕然とする夫婦。「誰も買わないでしょ?」と問うトマスに、「みんな買っている!」と断言する店員。店員はマネージャーを呼び、マネージャーは警備員を呼び、無理矢理モールの外へつまみ出される家族。

    泣き叫ぶ娘。激しい屈辱を覚え、やり場のない怒りに襲われるトマス。

    モールへの憎悪、富裕層への恨みを静かに募らせたトマスは、それから数日に亘って、警察に電話をかけ、あちこちのショッピングモールの「爆弾予告」を始める。電話をした数分後、ショッピングモールから大勢の人々が慌てふためいて逃げる様子を見て、世界を撹拌しているのは自分だとの思いで、愉快さをかみしめる。

    しかしあるとき、爆破予告をしたモールで人々が逃げ惑う様子を見ていたとき、心臓発作で倒れ込む老人とその娘の姿を見て、我に返る。タクシーで病院に向かう彼らを自転車で追いかける。

    誰かの命を奪うところだったという事実に、自分の愚行を思い知り、自責の念にかられるトマス。病院を訪れ、老人の容態を確認するなど、気に留めずにはいられない。

    * * *

    やがてテロから1週間が過ぎた。テロ以前とは多かれ少なかれ、異なる心境に置かれている人々。登場人物のエピソードを通して、ムンバイが抱えている「問題点」が浮き彫りにされて来た。そのことについても、それぞれに箇条書きで記したい。

    ルパリ:家に閉じこもり、悲嘆に暮れる日々だが、テロから一週間後、街に出る。呆然とした思いで街を徘徊する。

    と、突然、サイレンが鳴り、町中の動きが止まった。1週間前の同時刻に起こったテロの死者を追悼するための、2分間の黙祷を促すサイレンだった。

    街角でレポートするTVクルーの姿から目を背ける。静止する街に、一人たたずむルパリ。

    ・テロの様子を、エンターテインメント的に報道するメディアの在り方。
    ・被害者の心に土足で踏み込むような、配慮のない取材態勢など。

    トゥカラム:退職の前夜、路上でスレーシュを見つける。突き飛ばされたことをとがめるのではなく、ヒンドゥー教徒とイスラム教徒の、延々と続く終わりなき諍いの不毛さを、押し付けることなく、淡々と説く。

    互いを憎しみ続けているのでは、永遠に戦いは終わらないと。

    そして退職の日。同僚たちの前で、自分の警官人生を振り返ってのスピーチをする。背後には、自殺未遂のあと姿を見せていなかったスニールが、私服姿で、彼の話を聞いていた。

    オフィスを出る間際、スニールを認めて抱擁するトゥカラム。感極まって泣き出す二人。スニールに、「許してくれ」と泣きながら言うトゥカラム。その直後、出口へ向かう廊下で、1週間前のテロの死者を悼むべく、動きを止める。

    ・汚職、賄賂など、諸悪が横行する政界、公務員(警察、役所)の実態。
    ・理想と現実の狭間で苦悩し、やがては悪に染まりゆく人々の心。
    ・非暴力で、人の心を動かすことの重み。

    スレーシュ:突き飛ばした警官、トゥカラムから、責められるのではなく、不毛な諍いをするべきではないと諭され、頑にイスラム教徒を毛嫌いしていた心が氷解しはじめる。

    ハジアリで出会ったムスリムのコンピュータ会社に赴き、仕事をもらう。前金としてまとまったお金を受け取ったことで、借金の返済もできた。

    いつも出入りしている食堂への「つけ」も返し、給仕の少年にチップを渡す精神的な余裕も生まれていた。

    食堂で作業をしていたら、隣のテーブルに自分がテロ犯だと思い込んでいたユースフが座る。顔をそむけるスレーシュに対し、親しげに「マッチを貸してくれ」と声をかけるユースフ。フレンドリーなユースフは、自分と彼のためチャイを二つ注文する。

    世間話を始めた二人。自分がいかに偏見に基づいた行動をとっていたかを認識するスレーシュ。やがていつもの仲間もやってきて、二人が親しげに話していることに驚くが、しかしあくまでも自然に、5人は打ち解けて話を始めるのだった。

    1週間前のテロの同時刻、食堂に居合わせた人々は、みな起立して黙祷する。

    ・異なる宗教間に起こる不毛で無駄な諍い。
    ・思い込みの恐ろしさ。

    ニキル:テロから一週間後、オフィスで仕事をしているところに、妻が出産間近だとの連絡が入る。病院へ行こうとタクシーを捕まえるが、渋滞がひどくて1時間半はかかるという。電車の方が早いと勧められて駅に向かうが、テロ以来、列車には乗れなくなっていた。

    しかし、不安を押し殺し、必死の思いで列車に乗り込む。途中で突然、列車が止まった。驚いて他の乗客に声をかければ、「1週間前の、今、テロが起こったのだ。死者に黙祷を捧げるため、列車は停止した」と言われる。

    しんと静まり返った列車のなかで、人々の顔を静かに見回しながら、さまざまな情念が去来する。涙をこぼしながらも、やさしみと安堵のほほえみが浮かぶ。

    ・著しく汚染されている環境に対する警告。
    ・テロのあとに襲いかかる、精神的なダメージ。
    ・米国(先進諸国)へ移住するインド人の心理。
    ・過度の恐怖心にさいなまれることの不毛さ。
    ・苦しみを誰かに吐露することの必要性。

    トマス:心臓発作を起こした老人のことが頭から離れない。再び自転車で病院を訪れたところ、ちょうど退院するところだった。

    病院の前で、しかしなかなかタクシーを見つけられない老人とその娘に、タクシードライヴァーを呼んで、「あなたのタクシーです。どうぞ乗ってください」と促す。大急ぎで、露店の花屋で買った一輪のバラの花を、窓から老人に向けて差し出す。

    ほっとする思いで自転車をこぎながら街を行くと、警官に呼び止められる。事情がわからずに、ひたすら謝罪するトマス。しかし、ポリスは「静かにしろ」と言うばかり。落ち着いて周囲を見れば、みなが動きを止めて、テロの被害者に向けての黙祷しているのだった。

    ・著しい貧富の差。貧しい人々の暮らしぶり。
    ・富裕層の、一部若者の、スポイルされた態度。
    ・近年次々に誕生しているショッピングモールへ訪れる低所得者層の実情。
    ・爆破予告など、愉快犯の存在。

    * * *

    ……ずいぶんと、長くなった。

    なお、この映画では、登場人物が心情を語るシーンはほとんどない。表情や様子で、心の動きが表現されている。

    すなわち、ここに記している登場人物の心情は、あくまでもわかりやすく内容をお伝えするために、わたしなりの解釈で記したもので、それが真実かどうかは、不確かだ。

    ともあれ、ムンバイのイメージの断片を、掴んでいただけたらと思う。

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    『バンガロール・ガイドブック』は、バンガロールに暮らす人々のため、ミューズ・クリエイションによって2019年4月に創刊されたオンライン・ガイドブックだ。

    そもそもは、わたしがニューヨーク在住時から、自分のライフにおいて考察したいと考えてきたテーマの一つ「異国で子どもを育てるということ」を、メンバー有志と話し合うことを目的として「Edu Muse」というチームを立ち上げた。ところが、最初のミーティングで、はじめに向き合うべきテーマがあることに気づく。

    数カ月の間、打ち合わせを重ねて案を出し合い、情報を集めて提供しあい、このオンライン情報誌を立ち上げた。なにしろ旧式のホームページソフトを使っていることから、内容はしっかりしているものの、体裁が地味だ。別のフォーマットに移行させるべきかと思いつつも歳月は流れ、COVID-19世界に突入してからは更新も滞り、この1年余り、眠ったままだ。

    さて、わたしは今年2月から始めたClubhouseを通し、「子どもの教育」に関するルームを訪れては、世界各地で暮らす日本人の声を聞いている。そんな中、先日、なんとなく立ち寄ったルームの主催者が、偶然にもニューヨーク在住時代の知人だったことがわかって驚いた。

    20年ぶりに言葉を交わしつつ、しかし彼も、わたしも当時と変わらず、思うところを発信し続けているということがわかり、うれしく思った。当時、彼は日系の新聞社に勤務する傍ら、個人的にミニコミ誌を発行していた。一方のわたしは、日系出版社の広告営業を経て、自分で出版社を立ち上げ、『muse new york』というフリーペーパーを出版していた。

    ちなみに昨日立ち寄った「日本文化を海外へ広める」というコンセプトの部屋でも、ニューヨーク在住の方と言葉を交わし、『muse new york』をご記憶だということがわかってうれしかった。過去と現在の往来が、このごろは頻繁だ。

    さて、この『バンガロール・ガイドブック』は、「バンガロール生活マップ」や、「バンガロール生活Q&A」など、ミューズ・クリエイションのメンバーから寄せられた、実体験に基づく情報をもとに編集されている。

    しかしながら、バンガロールに限らぬ、インド各地、あるいはインドを超えて異郷の地に生活する上で役立つ情報も掲載されている。眠らせておくにはもったいない情報も多々あるので、ぜひご覧いただきたく、下に冒頭の挨拶文を転載するとともに、『muse new york』の最終号「異国で子どもを育てるということ」という特集も転載する。ぜび、目を通していただければと思う。

    *バンガロール・ガイドブック* オンライン情報誌(2019年4月創刊)
    インド生活に役立つコンテンツが満載です。ぜひブックマークを🔖
    ➡︎https://lit.link/en/bangalore

    *内容の例/CONTENTS
    〈暮らしのための、実践的な情報〉

    ●超便利! バンガロール生活に役立つ生活マップ
    ●バンガロールでの住まい選びと、暮らしの注意点
    ●バンガロール生活〈Q&A〉食生活
    ●バンガロール生活〈Q&A〉ショッピング
    ●バンガロール生活〈Q&A〉暮らしのあれこれ
    ●バンガロール生活〈Q&A〉医療、妊娠、出産
    ●便利! オンラインショッピングを使いこなそう
    ●バンガロールでの食生活と健康管理
    ●インド生活に役立つ日本語サイトのリンク集
    ●バンガロールの各種コミュニティ、イヴェントサイト

    〈子どもの学校や教育について〉
    ●バンガロール生活〈Q&A〉育児、教育、学校
    ●バンガロール生活〈Q&A〉帰国後の教育・進路
    ●バンガロールの教育機関、学校情報
    ●異国で子どもを育てるということ

    〈バンガロールを知る。インドを学ぶ〉
    ●知れば楽しい。バンガロールは、こんな都市
    ●混在する新旧の価値観。究極の多様性国家を見つめる
    ●バンガロール歳時記:祝祭日や風物詩
    ●インドのエンターテインメントに触れ合う
    ●インド・パキスタン分離独立の背景と二大政党を知る
    ●日本とインドとの深い関わり
    ●インドの中心〈ナーグプル〉で仏教を叫ぶ

    〈インドで働くあなたへ〉
    ●日系企業のCEOによるビジネス勉強会や日系企業の工場見学などの記録
    ●インド・ビジネスに役立つ日本語サイトのリンク集
    〈バンガロールの社会問題に目を向ける〉
    ●在バンガロール日系企業によるCSR活動の実践例
    ●ミューズ・クリエイションが支援する慈善団体一覧
    ●バンガロールのゴミ問題と向き合う
    ●インフラ事情を知り、無駄のない暮らしを心がける

    〈心の健康も、たいせつに〉

    ●ストレスを抱え込まないために。メンタルヘルスケア
    ●うさぎのアリスの猫レポート(やや強引にアニマルセラピー)
    〈バンガロールを遊ぶ。インドを楽しむ。〉
    ●在住者が勧めるバンガロールのお気に入りスポット
    ●インド国内旅行、インド発海外旅行情報(リンク集)

    〈インドでは働きたくても働けないあなたへ〉
    ●退職 or 休職し、家族帯同ヴィザで赴任した妻の課題
    ●異国に暮らし働くことについて。個人的な体験と所感

    ☟以下、『バンガロール・ガイドブック』の冒頭あいさつ文を転載している。

    ◉インドに暮らす方々へ/はじめに

    インド赴任が決まった日。「やった~!」と喜び勇んで帰宅し、家族に報告。家族みんなで手を取り合い、祝杯をあげる……という人は、多分、稀だと思います。妻からは「なんでインドなわけ?」と悪態をつかれ、子供からは「毎日カレーなの?」と困惑の表情で尋ねられ、赴任前から不安を抱えている人が多いことでしょう。

    もっとも最近では、自らの意思でインドを選び、語学留学をする学生や、新規ビジネスの設立に携わる人、あるいはインド駐在を志願する人など、インドの未来に可能性を託して、この国に暮らしている人も少なくありません。

    しかしながら、住み始めれば、何かにつけて手強いインド。日本の約9倍の国土に、約10倍の人々が住む多様性の国インドでは、 宗教、地方、階級、コミュニティなどにより、ライフスタイルは千差万別です。わたしたちが日常生活を通して知り得るインドは、広大無辺の国の、氷山の一角に過ぎません。

    無数の価値観が渾然一体となって漂っている国を前にして、「一般的な日本人」は、たいてい怯み、動揺します。憤慨することもあれば、途方に暮れることもあるでしょう。インド人同士ですら、異文化を受け入れ合って共存しているこの国において、「母国、日本の常識」は、とてもはかないものです。

    それでも、縁あって暮らすことになったインド。公私を問わず、有意義な歳月を送りたいものです。この国の背景、文化や習慣などを知っているのと知らないのとでは、日常生活のあり方や、心持ちが大きく変わります。

    『バンガロール・ガイドブック』は、インド、特にバンガロールに暮らす日本人のために創刊された、オンライン上の情報誌です。日常生活に役立つ実践的な情報から、インドへの精神的理解を深め、知的好奇心を高めるべく情報に至るまで、これから少しずつ、掲載していきます。どうぞ、ご活用ください。

    ここからは、『バンガロール・ガイドブック』の編集者である坂田マルハン美穂の私事を交えつつ、創刊の背景について言及したいと思います。

    ◉インド以前。はじまりは、ニューヨーク

    わたしは、高度経済成長期の日本に生まれ育ち、バブル経済の最中に成人しました。大学卒業後、上京。20代は海外旅行誌の編集や執筆、広告関係の仕事に携わっていましたが、英語力をつけるため30歳のとき、語学留学目的でニューヨークに渡りました。

    1年間の滞在予定だったはずが、ニューヨークを殊の外、気に入ってしまい、やがて出版社を起業、就労ヴィザを自給自足して約5年間、マンハッタンで働きました。そこで出会ったインド人男性(夫)が、わたしをインドへ導く契機となりました。尤も2001年、結婚式を挙げるため、初めて彼の故郷であるデリーに降り立ったときには「こんな国、住めない」と、思いました。

    結婚の2カ月後、米国を襲った同時多発テロを機に、わたしはニューヨークを離れ、夫が暮らすワシントンD.C.に移転。その数年後、わたしは、インドに住んでみたくなりました(詳細は割愛)。「これからは、インドが面白い」と直感したわたしは、インド移住に消極的な夫を説き伏せること1年。事前のインド旅行で「バンガロールが一番住みやすい」と思っていたところ、夫が、バンガロールで米国企業のオフィス創設に関わることが決まりました。数カ月に亘る米国ベイエリアでの準備期間を経て、 2005年11月、我々夫婦は、バンガロールへ移住しました。

    ◉1991年の市場開放を端緒に、インド社会は変化

    1947年、久しい英国統治時代を経て、印パ(インド・パキスタン)分離独立を果たしたインドは、社会主義的政策を推し進めていました。夫の子ども時代は、電話回線を引くにも数年待ち、自家用車を購入するにも数カ月待ち、テレビをつければドゥールダルジャン(国営放送)がメインで、番組も「収穫を祈る農民の踊り」みたいなものしかなかったと言います。多少、話が盛られているかもしれませんが、夫にとって「インドは遅れた国」との印象しかありませんでした。

    1991年、 ソビエト連邦のゴルバチョフ書記長が推し進めた社会主義体制の改革、即ちペレストロイカ(再構築)の影響で経済危機に陥ったインドは、経済の自由化を図るべく市場を開放しました。その前年の1990年、米国の大学に進学し、その後、ニューヨークの企業に勤務していた夫にとって、インドは「第三世界」でしかありませんでした。「今でもそうじゃないか」という声も聞こえてきますが、だいぶ違います。

    「半年はお試し期間だからね。嫌になったらアメリカに帰るから!」

    と言いながら、かれこれ14年。 夫は、今でも母国に対し、愛憎の念が入り混じっている模様ですが、ここを離れるには至っていません。米国生活とは異なる魅力や利点も多々あるインド。わたしにとっては、米国と並んで、第二、第三の祖国です。夫の意向はさておき、わたしは今のところ、この国を拠点に、生涯を過ごすつもりでいます。

    ◉2006年からインドで仕事を開始。多彩な情報を日本へ

    インド移住以来、わたしはインドと日本を結ぶさまざまな仕事に携わってきました。 情報誌への寄稿、 新聞への連載、ラジオを通してのレポートのほか、市場調査や日本からの視察旅行のコーディネーションなど、多岐に亘ります。

    なかでも、個人的に極めて意義深かった仕事は、日本の大手広告代理店の研究開発局に所属する女性との、10年に亘るビジネスでした。彼女からの依頼を通して、インド各地のライフスタイル、ビジネスに関わる多彩な市場調査を行い、レポートを作成し、ときには日本の本社でセミナーを行うなど、山ほどの貴重なプロジェクトに関わる機会を得ました。

    2006年から、彼女が退職した2017年にかけての、変貌著しい時期のインドを、自分の興味や関心、また単発的に依頼される仕事では決して得られない視点から眺め、調査することができたのは、わたしの人生にとって大いなる収穫でした。

    ◉情報が溢れる時世にあって、欲しい情報を得にくい実情

    ビジネス、文化、ライフスタイルとあらゆる面において、刻一刻と変化し、栄枯盛衰が激しい昨今のインド。日本の約9倍の国土に、約10倍の人々が住む、この多様性の国ではまた、宗教、地方、階級、コミュニティなどにより、ライフスタイルは千差万別で、無数の価値観と、時代の新旧が、渾然一体と存在しています。一つの国でありながら、その濃度は欧州連合 (EU) に勝るとも劣りません。

    ゆえに、ピンポイントでの情報を、的確に得にくいのが実情です。

    インターネットの普及により、遍く情報が流通している現在でもなお、インド、特にバンガロールに関して、日本人が知り得る情報源は極めて少ないとの印象を受けます。多くの日本人がインドに対して抱くイメージは、十数年前にわたしが移住したころから、さほど変わっていないとも感じます。

    ◉駐在員夫人との会話を通して、問題点が明るみに

    わたしは、2012年に日本人有志からなるNGO「ミューズ・クリエイション」を創設し、以来、多くの日本人(特に駐在員夫人)と関わってきました。メンバーは常時約40名が在籍し、のべ200名を超えています。

    彼女たちから異口同音に聞くのは、「インド赴任前の、情報収集の困難さ」です。バンガロールへの赴任が決まっても、まとまった情報を入手できる情報源がなく、当地での暮らしをイメージしにくいとのこと。夫の帯同で赴任したものの、知り合いもおらず、外出するのも不安で、何カ月も自宅に引きこもっていたというメンバーもいました。

    また、バンガロール赴任に際しては、特に子どもを連れて行くことに不安を覚え、悩んだ末に、単身赴任を選ぶケースが多いこということも、数多、耳にしてきました。

    一方、家族そろってバンガロールに赴任したものの、入学を予定していたインターナショナルスクールの試験に通らず、数カ月間、語学学校に通う子どもがいるという話を、数年前に聞いたときには、衝撃を受けました。

    義務教育下の子どもが、たとえ数カ月でも、海外赴任によって正規の学校に通えない状況に置かれるというのは、由々しき事態です。その状況は改善される様子もなく、未だに情報不足で、速やかに転校できない子どもがいるとのことを、昨年もまた、メンバーから聞きました。

    学生時代「国語の高校教師」を目指していた時期もあったわたしは、子どもの教育に関して、少なからず関心があります。海外に暮らし始めてからは、『異国での子どもの教育』に対する思いが、萌芽しました(詳細は割愛)。

    ◉異国に育つ子どもの未来を考える。EduMuse始動

    わたしは、これからの日本が、真にグローバルな社会を築き上げていくに際し、海外で暮らした経験のある「帰国子女」たちが、大きな役割を果たすと確信しています。ゆえに、ミューズ・クリエイションのメンバーに声をかけて有志を募り、昨年の師走、新たなチーム、EduMuse(異国に育つ子どもの未来を考える)を始動しました。

    EduMuseのメンバーとのミーティングを通し、この『バンガロール・ガイドブック』は誕生しました。 当初は子どもの教育情報に特化する予定でしたが、「基本的な生活情報が知りたい」「住まいを決めるにも、家や学校、会社の位置関係がわからなかった」といった声があがったことから、Googleマップのオリジナル地図作成機能を利用しての『バンガロール生活マップ』を作ることにしました。また、現地での体験談が貴重だとの意見が出たことから、ミューズ・クリエイションのメンバーによる生きた情報が募られた『バンガロール生活Q&A』を作るに至りました。

    ミューズ・クリエイションのメンバーから集められる情報の編集にとどまらず、さらには、坂田が個人的に書き溜めてきた記事を整理し、有効な情報をピックアップして加筆修正をし、この『バンガロール・ガイドブック』に集約するべく、掲載することにしました。

    ◉「情報は、無料ではない」と、思い続ける一方で

    インターネットが普及し、過去20年余りにおける情報の伝達形態は劇的に変化しました。誰もが瞬時に「活字」を世界中に発信できる世の中にあり、誰もがライターに、あるいは出版者になれる時代です。

    原稿用紙に文字を記し、それを写植(写真植字)会社、あるいは印刷所に持ち込み、紙に印刷してようやく、出版物が誕生するというワープロ以前のアナログな出版業界で仕事をした経験のあるわたしにとって、「情報は無償で誰もが得られるべきもの」だとの趨勢に、違和感がないといえば嘘になります。

    わたしはプロのライター、編集者、リサーチャーとして、過去30年以上、仕事をしてきました。時間をかけての取材や調査、あるいは経験に基づいてまとめた情報を、本業の傍らとはいえ無償で提供し続けたのでは、プロとしての矜持を保つことも困難です。

    ただ、その一方で、自分が抱え持つ知見を、セミナーなどを通して限られた人たちだけに伝えることに、限界を覚えているのも事実です。バンガロールには住んでいない、しかし赴任を目前にして、バンガロールのことを知りたいと切望している人に、リアルな情報を届けることができないからです。

    時代を経て生き続ける情報がある一方で、時の流れとともに価値がなくなる情報があります。

    わたしが10年ほど前に執筆したバンガロールのライフスタイルに関する記事を、今なお、赴任前の家族に配布している日本企業があるとの話も聞きます。10年前と今とでは、バンガロールの暮らしは劇的に変化しており、その資料の記述が現実に即しておらず、むしろ混乱を招く原因になりかねません。数年前に知人を介して、その資料の配布をやめてもらうよう頼みましたが、未だに配られているようです。バンガロールの現実的で実践的な情報が届いていないことへの懸念もまた、ひとつの契機となりました。

    個人的には、それなりに逡巡しつつ、着手を決めた『バンガロール・ガイドブック』。創刊した以上は、これからも少しずつ、改訂を重ねながら、バンガロールに暮らす日本人のために、実践的な情報をシェアしていきます。

    バンガロール在住、あるいは在住経験のある方からは、今後、情報提供などのご協力を仰ぎたいとも思っています。

    ◉最後に。読者のみなさまへの、お願い

    もしも、この『バンガロール・ガイドブック』に記載されている情報が、みなさまの暮らしに少しでも役立つ部分があったならば、公私を問わず、金額の大小を問わず、どうぞ、ミューズ・クリエイションへ寄付をお願いします。

    ミューズ・クリエイションは2015年にCharitable Trust (NGO) の登録をしており、2017年9月には、課税控除のための資格(直接税法第80G条に基づく第12A条の証明書発行)申請を経て、「12A」及び「80G」フォームを取得しています。

    即ち、寄付金をいただいた際には、領収書及び「12A」の写しをお渡しするので、課税控除となります。寄付金は、ミューズ・クリエイションが責任をもって、ローカルの慈善団体へ寄付します。あるいは直接、各慈善団体へ寄付していただいても構いません。寄付先のご相談や、CSRに関するご相談などは、当方が無償で承ります。どうぞご連絡ください。(muse.india@me.com)

    バンガロールに暮らす日本人の生活が、少しでも快適なものとなり、日印友好、さらには日印ビジネスの活性化に微力ながらも貢献できたとすれば、幸いです。(2019年4月1日 坂田マルハン美穂)

    ☀️以下は、昨年開設したミューズ・クリエイションのYOUTUBEチャンネルにアップロードしている動画です。かつてバンガロールに暮らしていた帰国子女たちと、2度に亘って対談しています。必見です!

    🇮🇳同時期、バンガロールに暮らした3人が、当時の経験や帰国後の生活について忌憚なく語る。楽しい会話の中にも、帰国子女が抱える課題が浮かび上がる。
    *座談会開催日/2020年9月8日
    *参加者/藤田杜、清原思香、村田倫規
    *モデレーター/坂田マルハン美穂

     

    🇮🇳子ども時代をバンガロールで過ごした3人。今はフランス、日本で学生生活を送る彼女たちの、インド生活の体験談や帰国子女の先輩としてのメッセージなど
    *座談会開催日/2020年9月15日
    *参加者/村田桐子、佐橋愛那、太田瑚己奈
    *モデレーター/坂田マルハン美穂

     

    😸おまけ/子どもだった彼女たちと、大人になって歌い踊る(笑)

     

     

    【異国で子どもを育てるということ】
    『muse new york』 最終号 2001年 秋号

    わたし(坂田)は、1999年から2年に亘り、ニューヨークでフリーペーパーを出版していました。ビジネスの傍ら、それは自己実現のような媒体でした。即ち予算がないことから、自分で取材、編集、デザイン、執筆、印刷手配など一人で行っていました。たいへんな作業でしたが、同時に有意義でした。

    2001年、インド人男性とニューデリーで結婚。ワシントンDCで働く夫との住まいと「二都市生活」を継続するなか、趣味の領域で発行を続けるには負担が大きくなったことから、ウェブマガジンに以降すべく廃刊を決めました。

    紙媒体としての最終号のテーマは「異国で子どもを育てるということ」。ニューヨーク在住時、わたしは日本人駐在員社会とはほとんど交流がありませんでした。しかし、帰国子女問題については、当時から強い関心を持っていました。同号の取材を行っていた時期の9月11日。世界同時多発テロが、わたしの住んでいるニューヨーク、そして夫が暮らすワシントンDCを襲いました。それは筆舌に尽くしがたい、衝撃的な出来事でした。

    自分の中の優先順位がバラバラと崩れ落ち、結果、わたしはニューヨークを離れ、夫と一緒に暮らすことを決意しました。その延長線上に、インドに暮らす現在のわたしがいます。

    この号を開くと、当時のニューヨークの、締め付けられるような重い空気と切迫感、焦燥感が蘇ります。それと同時に、生きているものは、未来に向けて、まっすぐに生きねばならない、次代を担う子どもに対し、大人は道標を示す手助けをせねばならないとの思いもまた、蘇ります。

    歳月は流れ、暮らす場所は変われども、異国に暮らす子どもたち、親たちが抱える課題は、当時も今も、あまり変わらないように思います。この号を編集するに際し、取材をさせていただいた方々の言葉は、今でも、誰かの心に、何らかの示唆を与えてくれるものと確信します。

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    🌸Photos/ April 2003, Washington, D. C.

    今年もまた、米ワシントンD.C.のポトマック河畔で、桜が満開になり、多くの花見客でにぎわっているとのニュースが届いた。

    毎年、D.C.の、桜の開花のニュースを目にするにつけ、2004年4月7日に他界した同じ歳の友人、小畑澄子さんのことを思い出す。

    「桜の季節以外にも、思い出してよ!」

    と、言われてしまいそうだが……ごめん。もう、そんなにしょっちゅうは、思い出さなくなってしまった。けれど、わたしにとって、彼女が掛け替えのない友だったということは、どんなに歳月を重ねた今でも、変わらないし、これからも変わることはない。

    1996年4月。当時、日本でフリーランスのライター&編集者だったわたしは、旅行誌の取材で海外出張が多かったにもかかわらず、英語力がなかった。ゆえに1年間の語学留学予定でニューヨークへ渡った。

    ところがなんだかんだあり、同年9月には、現地の日系出版社で現地採用で働くことになった。業種は「広告営業」。本来はライターか編集の仕事をしたかったのだが、社長から営業職を勧められた。短期間のことだし、新しい経験だからと、その仕事を始めた。

    小畑澄子さんは、その出版社で編集を担当するライターだった。

    その会社に在籍していたときには、ほとんど交流のないまま、彼女はハズバンドと共にダラスへ移住。わたしが1998年に出版社ミューズ・パブリッシングを立ち上げ、一人で東奔西走しながら働いていたころ、彼女たちはマンハッタンへ戻ってきた。

    当時、ミューズ・パブリッシングが発行していたフリーペーパー『muse new york』の国際結婚のカップルを紹介する記事で彼女を取材したころから、交流が深まった。

    思えば彼女は、メールマガジンや旅の記録、拙著『街の灯』など、ありとあらゆるわたしの文章を、しっかり読んで、折に触れて感想を伝えてくれる、本当に稀有な存在だった。

    嫌がる夫を説き伏せながら、じわじわとインド移住へ向けての外堀を埋めていった当時のわたし。強い決意で、何もかもを自分で決めてきたような気がしていたけれど、今振り返れば、彼女からの前向きなことばが、どれほど心丈夫だったろう。

    今日は、インターネットの海の底に眠る小畑澄子さんの記録をそっとすくいあげて、ここに転載した。転載しながら、泣けて仕方がない。

    「生きられる人間は、生きている以上、ちゃんと生きなきゃ。」

    過去の自分に叱咤される。

    以下、長い記録だが、小畑さんの生き様の断片が滲んでいる。ぜひ、読んでいただければと思う。

    思えばわたしが、夫と日々バトルを展開しつつも、なんだかんだ20年間、夫婦でいられるのは、思えばあのときの彼女の言葉が、心のどこかにあったからかもしれない。いや、明らかにあると、久しぶりに読み返して気がついた。

    「互いに対する期待値を下げたら、いい関係を保てるようになった。」

    今更ながら、本当に、そうだ。

    小畑さん、ありがとう……!

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    🌸当時、我々夫婦が暮らしていたアッパー・ジョージタウンのALBAN TOWERの斜向かい、国立大聖堂の庭園。窓からカセドラルが見える、こんなすんばらしい場所に住んでいながら、インドを目指した自分がミステリアスでしかない。
    https://www.equityapartments.com/washington-dc/cathedral-heights/alban-towers-apartments

    🇺🇸坂田マルハン美穂の海外生活25周年を記念して、ニューヨーク、ワシントンD.C.、インド生活の3本の動画を作成。動画内の資料は、坂田による若者向けセミナーで使用したものを転用しています。

    🌸『サクラ色』は、アンジェラ・アキがワシントンD.C.で暮らしていたころ、物事がうまくいかなかった時代を回顧して描いた楽曲だという。この時代のことを自ら「桜色の時代」だったと表現、ポトマック河畔の桜に託した楽曲とのこと。坂田もまた、911世界当時多発テロのあと引っ越したワシントンD.C.では、精神的にきつい出来事が続いた。ポトマック河畔の桜はまた、忘れ得ぬ思い出を運んでくれる。

    【2014年4月15日の記録】

    米ワシントンのポトマック河畔で、桜が満開になり、多くの花見客でにぎわっているとのニュースを目にして、今日。たちまち、ワシントンD.C.の春の頃に、記憶が飛ぶ。

    2001年9月11日、ニューヨークとワシントンD.C.を襲った同時多発テロを契機に、それまで暮らしていたマンハッタンを離れ、結婚したばかりの夫が暮らすワシントンD.C.に移り住んだ。当面は遠距離結婚を、と思っていたが、それは半年で幕を閉じた。

    ワシントンD.C.。その一見麗しい米国の首都での日々は、しかしわたしにとって、苦い思い出もまた、多かった。自分自身のこと。そして周囲のこと。このころは、「命」に対して考えることが多かった。

    2000年1月、父が末期の肺がんを言い渡された。2001年9月、米国当時多発テロの直後、友人の小畑澄子さんが、末期の大腸がんを言い渡された。その二人が他界したのは、2004年。ポトマック河畔、タイダル・ベイスンに桜が咲き誇っていたころだ。

    二人とも、「余命宣告」より遥かに、長く、強く、生きていた。しかし小畑さんは、2004年の4月7日に、そして父は、5月27日に、この世を去った。さらには6月、母方の祖母も、長い入院生活を経て他界したのだった。

    ワシントンD.C.の、タイダルベイスンの桜は、見事だ。その見事な桜の苗木は、1912年、当時東京市長だった尾崎行雄から贈られたものだ。この「ヨシノ」以外にも、ワシントンD.C.には、随所で、さまざまな種類の桜を見ることができる。

    あの街に暮らしていた4年間。長い冬を経て、この桜が咲くころが、本当に待ち遠しかった。

    ナショナル・カセドラル(国立大聖堂)の庭、ビショップス・ガーデンに咲くしだれ桜。わたしたちは、このカセドラルの斜向いに住んでいた。実に、実に麗しい、ご近所であった。しかし、あのころのわたしは、この街から脱出したくてならなかった。結果、インドに住む現在のわたしに至る。

    それにしても、デジタルで記録された写真の、色あせないことよ。まるでつい最近のことのように蘇り、時間の距離感が伸縮して、気持ちが落ち着かない。

    かれこれ30年ほど前、サクラカラーが、「百年プリント」というフィルムを発売した。山本寛斎が、このプリントは、百年間、美しさを保ちます……といったことをアピールするTVCMが記憶に残っている。

    当時は、「百年後なんて、誰も生きていないし、わからないし。」などと思っていた。ともあれ、あの当時、今のようなデジタルカメラが登場し、こうして一般に普及することを予測できた人は、きっとほとんどいなかったに違いない。

    Anyway.

    当時ニューヨークに住んでいた小畑澄子さんは、2003年の春、わたしの住むワシントンD.C.に遊びに来てくれた。あの数日間の出来事は、わたしにとって、かけがえのない思い出だ。

    二人で郊外までドライヴし、ヴァージニア州の「日本風の温泉」に出かけた。ワシントンD.C.に戻ってからは、彼女の夫がジュイッシュだったこともあり、彼女がかねてから行きたかったというホロコースト・ミュージアムへも足を運んだ。その衝撃的なミュージアムはまた、わたし一人では決して行くことがなかったであろう場所でもあった。

    ……彼女との短いながらも大切な思い出は、書き始めるときりがないので、このへんにしておこう。

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    生きられる人間は、生きている以上、ちゃんと生きなきゃ。

    と、強く強く思うようになったのも、テロを身近に経験したり、大切な人々の死に直面した、このころの経験ゆえだ。

    こうして当時のことを思い出しつつ、その思いを大切に蘇らせて、また再び、大切に、きちんと、生きていこうと思わせられる。

    そして、自分の心身を、大切に。

    2009年7月、小畑さんの夫であるケヴィンから、5年ぶりにメールが届いた。 彼はわたしの名を、Facebookで見つけて、メールを送ってくれたのだった。

    5年間、悲嘆に暮れていた。

    彼女の写真を見ることができなかった。

    しかし最近ようやく、彼女のことを書くことができ、ウェブサイトに載せた……との知らせだった。

    ところで、彼女が亡くなって、ちょうど半年経ったとき、奇妙な夢を見た。そのときのことを、当時のホームページの「片隅の風景」に書き残した。それを、今ここに改めて、転載する。今でも、このときの気持ちを思い出すと、本当に不思議な感覚に包まれる。

    あれは、夢だったのに夢ではなかったような気がするのだ。この夢のエピソードを、ケヴィンに送るために英訳したので、それも添えておく。

    下の写真は、夢から目覚めた直後、ベッドから抜け出して窓から眺めた、まだ明けあらぬ朝の光景を、撮影したものだ。

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    The view at dawn from our home in Washington D.C. /October 6, 2004

    「携帯電話」

    桜の花が散るころ、大切な友だちが死んだ。

    新緑が芽吹くころ、日本に住む父が死んだ。

    そして初夏の風が吹くころ、祖母が死んだ。

    * * *

    夜明け前。

    眠りの中で、わたしは、死んだ友だちと、電話で話をしていた。

    彼女の携帯電話に電話をしたら、いつもの声で「もしもし」と彼女が出た。

    「久しぶり!」

    「元気?」

    「相変わらずよ。そっちはどう?」

    「結構、居心地いいわよ。あなたのお父さまにお会いしたわよ。おばあさまにも」

    「すぐにわかった?」

    「うん、全然問題ない。お二人とも、お元気そうだったわよ」

    「またこの番号にかければ話せるよね」

    「うん」

    「また電話するね」

    電話できるんだったら、死んでしまった感じがしないな、会えないだけで。

    そして、目が覚めた。

    地平線の真下に、太陽が潜んでいる時刻はまだ、

    夢と現が入り乱れ、

    息を潜めて、携帯電話を見つめる。

    (2004年10月6日の『片隅の風景』より)

    “Cellular phone.”

    At the time that the cherry blossoms were falling, I lost my precious friend.

    At the time that fresh greens were appearing, I lost my father.

    At the time that the summer breeze was blowing, I lost my grandmother.

    * * *

    Today, before dawn.

    I was talking on the phone with my friend who had passed away.

    I called her cellular phone.

    She picked up and said “Hello”.

    “Long time no talk!” I said.

    “How are you?” She replied.

    “I am doing well. How about you? How are you doing there?”

    “Yes, this place is pretty comfortable. I met your father. Your grandmother, too!”

    “Could you make them out easily?”

    “No problem. Both of them were fine.”

    “If I call this number, we can talk again, can’t we?”

    “Sure.”

    “Great! I’ll call you again!”

    I thought, if I could call her, I wouldn’t feel that she passed away.

    Just that we can’t meet.

    * * *

    Then I woke up.

    It was the time that dawn breaks.

    The moment that the sun was under the horizon, I was in between reality and a dream.

    I stared at my cellular phone, and held my breath.

    (OCTOBER 6, 2004)

    Sumiko

    ✏️以下は、ネットの海に沈む、小畑澄子さんのことを書いた取材記事や記録。

    互いに対する期待値を下げたら、いい関係を保てるようになった。
    (“muse new york” Vol.5, Fall, 2000)

    ◉小畑澄子さん (Sumiko Obata) 1965年埼玉県生まれ/翻訳家、ライター
    ◉ケヴィン・ヘルドマンさん (Kevin Heldman) 1965年ニューヨーク生まれ、ユダヤ系米国人/ジャーナリスト

    Obata

    クリスチャンだった祖母の影響もあり、澄子さんは中学時代から、米国の大学留学を考えていた。高校卒業後、英語学校に通う傍らアルバイトで資金を貯め、24歳の時、渡米した。

    澄子さんがケヴィンと出会ったのは、ニューヨーク州立大学に在籍中のこと。彼女が1年生の時、彼は4年生。ケヴィンが卒業した後、彼が二人の共通の友達を訪ねて、学生寮に遊びに来るようになってから親しくなり、付き合い始めるようになった。

    大学の卒業を控え、澄子さんは今後の身の振り方について悩んだ。日本に帰るべきか、米国に残るべきか。その結果、コロンビア大学の大学院に進むことにした。もちろん、ケヴィンの存在も大きかった。彼女の大学院進学と同時に、二人は一緒に暮らし始めた。

    澄子さんは大学院でアジア研究科を専攻。小人数のクラスでドナルド・キーンの講義を受けるなど、刺激的な環境の中で学んだ。一方、州立大学を卒業後、コロンビア大学のジャーナリズムスクールを卒業していたケヴィンは、昼間は肉体労働、夜はレジュメや企画書を作り、ジャーナリストとしての仕事を探す日々を送っていた。

    やがて澄子さんの大学院卒業が近づいて来た。卒業すれば、ビザが切れることはケヴィンも知っていることだった。

    「私たち、二人とも、結婚願望ゼロなんです。いや、マイナスといった方がいいくらい」

    しかしながら、このままだと澄子さんは日本へ帰らざるを得なくなる。

    「結局、ケヴィンが結婚を提案してきたんです。私のグリーンカードのために。彼には色々と事情があって、家族と縁を切っていたから、周囲の干渉は一切ありませんでした」

    結婚を決めた直接のきっかけはビザの問題だったが、もちろん、お互いを生涯のパートナーと認め合ったからこその結婚である。

    「その頃、彼が言ったんです。『料理をしている時間があれば、新聞を読め』って。その言葉を聞いたとき、ああ、この人とならやっていけるなと思いました」

    二人はシティホールで結婚の申請をし、式を挙げた。指輪はケヴィンがふざけて買った、25¢のガチャガチャで出てくるおもちゃだった。

    結婚はしたものの、澄子さんの心に引っかかっていたのは日本の家族のことだった。

    「うちは両親と姉、妹、みんな仲がよくて家族愛も強い。だから、家族に黙って結婚したことが心苦しくて……」

    もし結婚したことを告げても、これまで通り、両親は決して反対したり文句を言うことはないだろう。しかし、いくら電話では言いづらかったとはいえ、相談なしに結婚したことを知れば、悲しむに違いないと思った。

    「当時、私たちは貧しくて、日本に帰るお金がなかったんです。結局、結婚して数年後、ようやくケヴィンと一緒に帰国しました」

    帰国前、二人は話し合った。この帰国は「結婚します」という報告の帰国で、アメリカに戻って籍を入れるということにしようと。

    澄子さんの家族は二人を温かく迎えてくれた。ところが、日を追うごとにケヴィンの様子がおかしくなってきた。食欲がなくなり、夜はうなされて目を覚ます……。そもそも家族愛に恵まれていなかった彼は、澄子さんの家族の優しさに触れ、自分たちが嘘をついていることに耐えられなくなったのだ。

    滞在予定の2週間も残りわずか、2日後には日本を離れるという時になって、彼は澄子さんに訴えた。やっぱり本当のことを言おうと。

    「真実を言うにしても、彼は日本語をしゃべれないし、結局私が話さなければなりません。父は仕事に出ていたから、母と姉を部屋に呼んで。本当に緊張しました」

    「母は悲しむどころか大喜び、涙もろい姉は、感極まって泣き出すし……。最後の日、ケヴィンは人が変わったように元気になって、ご飯もバクバク食べてました。今思えば、本当にバカなことをしたと思います(笑)」

    彼と結婚して、今年で6年なる。出会ったころは、自分たちは似たもの同士だと感じていたが、時が経つにつれ、違いが見えてきた。

    「映画の趣味とか、部屋のインテリアを気にしないとか、嗜好の共通点は多いけれど、性格は違うんです。彼は生まれつきのジャーナリスト。討論が好きで、とことん話し合う。行動的でじっとしていない。一方、私は家で落ち着いている方が好きだし、多弁でもない」

    お互いが、相手を自分の基準に合わせようとすればするほど、喧嘩が増えてきた。 

    「ある日、ケヴィンに、彼の将来に対する助言を求められたんです。『どうにかなるさ』という私の考え方を、彼はどうしても受け入れられない。意見を言うからには、必ず根拠も必要。そこで口論が始まって……。何が何でも突き詰めようとする彼の姿勢に耐えられず、長いこと、口を利きませんでした」

    そして2カ月後、和解し合えなければ、別れることも覚悟の上で、彼女は自分の考えを綴ったEメールを彼に送る。毎日顔を合わせてはいたものの、直接話すのには抵抗があった。

    その日の午後、彼女の勤務先に花束が届いた。添えらたカードには、彼女が以前勤めていた会社の社長の名前が。ケヴィン流のいたずらがにじんだプレゼントだった。

    この頃から二人の関係が変わった。お互いに対する期待値の尺度を、ぐっと下げることにしたのだ。相手を自分に合わせようと多くを望むから喧嘩になる。互いの存在を必要としていながら、争うのは苦痛だ。だからこそ、過剰に干渉し合わない関係を保つことにした。

    最近は、いい精神状態で付き合えるようになってきた。喧嘩によるストレスも減った。

    「去年、二人で日本に帰った時、彼が、米国人が収監されている横須賀刑務所を取材したいというので、通訳として同行したんです。彼の熱意が所長さんに伝わり、所内を見学させてもらうなど、私自身も得難い経験ができました。彼はその記事で、この4月、ジャーナリズムの賞を受賞しました」

    お互いのやりたいことを尊重し、ほどよい距離を保ちながら、それぞれが自分の仕事や好きなことに専念できる時間を大切にする。意見を交わし合い、試行錯誤を繰り返しながら、彼らは自分たちの関係を育み続けている。

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    小畑澄子さんの死 (坂田マルハン美穂のDC&NY通信:4/12/2004)

    今年も、ワシントンDCに、桜が咲いた。

    小畑澄子さんの体調は、年末から芳しくなかった。いつも前向きだった彼女が初めて、

    「もう、万策が尽きたって感じ。正直言って、ちょっと怖い」

    と、言った。けれど、わたしたちは、今まで通り、楽しいことばかりを話した。

    彼女とわたしが出会ったのは、1996年の夏。わたしが渡米して間もない時期、1年ほど勤めてた日系出版社の、彼女は同僚だった。

    当時のわたしたちはさほど親しくもなく、だから彼女が夫ケヴィンの仕事の都合で一時期ダラスに移転していたときも、連絡を取り合うほどの仲ではなかった。

    わたしがミューズ・パブリッシングを興して独立し、彼女がダラスから戻り翻訳会社に勤め始めたころから、共通の友人らを交えて数カ月に一度、食事をするようになった。

    彼女とわたしは、同じ歳で、文章の書き手であり、学生時代にバスケットボールをやっていた、ということ以外に、ほとんど共通点はない。

    彼女は子供のころからアントニオ猪木の大ファンで、格闘技が好きだ。それからフットボールの試合も大好きで、男友達とスポーツバーで観戦することを楽しんでいた。一人でラスベガスを旅行して、ギャンブルに熱中したという話しもよく聞かされた。

    何を聞いても「あ、そう……」としか返せない話題だった。一方、

    「ねえねえ、坂田さん、ルイ・ヴィトンって、何?」

    「ティラミスって、何?」

    そんなことを尋ねる浮世離れしたところもあった。食事に頓着せず、何を食べに行っても「おいしい!」と喜んで食べた。スリムだったけれど食欲は旺盛で、そしてよく飲んだ。お酒はすごく強かった。

    共通点が少なかったにも関わらず、会話は尽きなかった。わたしはなにか通じ合うものを、彼女には感じていた。

    小畑さんは、思ったことをはっきりと言い、さっぱりとした性格で、努力家だ。勉強や仕事に一生懸命で、新聞を読むことが大好きだった。彼女には、一言では表現しがたい、独特の個性があった。

    その彼女の魅力を知るきっかけになったのは、2000年夏、『ミューズ・ニューヨーク』の「国際結婚をした日本人女性」という連載で、彼女のことを取材したときのことだ。

    小畑さんは高校卒業後、英語学校に通う傍らアルバイトで資金を貯め、24歳のとき渡米した。ニューヨーク州立大学に在学中、のちに伴侶となるケヴィンと知り合う。彼はニューヨーク生まれのユダヤ系アメリカ人で、ジャーナリストでもある。

    その後、小畑さんはコロンビア大学の大学院を出たあと、マンハッタンの日系出版社に編集者として就職した。新聞を読むのが大好きな彼女は、『料理をしている時間があれば、新聞を読め』という彼の言葉を聞いたとき、この人となら一緒にやっていけると思った、という。

    ダウンタウンの日本料理店で寿司を食べ、ビールを飲みながら、彼女はいいことも悪いことも、まったく頓着することなく話してくれた。

    「ケヴィンは議論好きで、よく喧嘩になるのよ~。激激激口論も、何度もやった。ああいうときって、この男が世界で一番憎いって思うのよね~」

    「わかるわかるその気持ち。かわいさ余って憎さ100倍よね」

    彼女の英語力はわたしよりも遥かに上だか、それでも

    「やっぱり英語でウワッーッと言いくるめられると負けるから悔しいよね。日本語で勝負したいよね」

    わたしたちは、悔しさを分かち合った。

    そして最後に言った。

    「坂田さん。あなたが好きなように、何を書いてくれてもいいから」

    この言葉は、以降何度も、彼女から聞くことになる。彼女のことを書く機会があるたび、わたしは尋ね、彼女は同じように答えた。今まで何人もの人々を取材してきたけれど、そんなことを言う人は、彼女だけだった。わたしは、この取材以来、彼女を尊敬すべき友人として一目置いていたのだった。

    とはいえ、それ以降も数カ月に一度、顔を合わせる程度で、あとは仕事を通して翻訳の仕事を何度か頼んだりするくらいの付き合いだった。ただ、彼女はわたしの文章を愛読してくれ、ホームページやメールマガジンの感想をときどき送ってくれた。そんな彼女の律儀さを、当時は意外に思ったものだ。

    文章での彼女は、実際の口調よりも丁寧でやさしく、必ず励ましや同感を添える気遣いがあった。

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    2001年9月。テロの直後、ワシントンDCからニューヨークに戻り、精神的に混乱していたある朝。共通の友人Nさんから電話があった。小畑さんが、がんの手術のため入院したとの知らせだった。身体の変調に気づいて病院に行ったところ、末期の結腸がんであることがわかったのだという。

    電話を切った後、わたしは放心状態になった。何にも手に付かず、外に飛び出した。街を、ひたすら歩いた。歩きながら、人の生き死にのこと、自分の来し方行く末を、とめどなく考えた。もう、何が何だか、訳がわからなくなっていた。その日のわたしには、世界中が悲劇に満ちているとしか思えなかった。

    その夜、わたしはニューヨークを離れ、A男(夫)の住むワシントンDCに移ることを決意した。A男に何度も懇願されて、そのたびに大喧嘩になっても、わたしはニューヨークを離れないと主張してきた。しかしその主張が、最早、さほど重大なことに思えなかった。

    ニューヨークを離れる前、わたしは何度か小畑さんを見舞った。大手術をしたにも関わらず、驚くほどの回復力で、彼女は日常生活に戻っていた。

    わたしは、自分の父がその1年前に肺がんを発症したのをきっかけに、がんに関してさまざまに調べていたので、彼女に少しでも役に立つ情報があればと思い、これはと思うものを選んで、彼女に知らせた。

    彼女が退院して間もない頃、彼女の家へ、お見舞いに訪れた。少し緊張した心持ちでドアを開けると、思っていた以上に顔色がよく、元気な声の彼女が出迎えてくれた。彼女が敬愛するアントニオ猪木の顔が大きくプリントされたTシャツを着ている。部屋には千羽鶴が飾られ、「闘魂!」と大きく書かれたリボンが添えられていた。

    彼女はその夜、手術に至るまでの経緯をゆっくりと話してくれた。彼女はそれまで、タバコを吸い、お酒を飲み、食生活もデリバリーの外食中心で、「栄養のバランスなんて考えたこともなかった」というくらい健康に無頓着な生活をしていた。その分、彼女の情熱は、仕事や趣味に傾けられていた。

    そもそも身体が強かったこともあり、きついときにもかなり無理をしていたようだ。病院に行くのも、薬を飲むもの嫌いで、体調が悪いときも、極力、薬を避けて気力で治してきたという。

    だから、9月に入ってまもなく、少しずつお腹が張ってきたときには「どうしたんだろう」と思う程度で深刻に考えなかった。妊娠していないことはわかっていたから、おかしいと思ったものの、日増しに腹部が膨らんでいく。しかし痛みはない。食欲もあるし便通もいつも通りだった。

    あとから気づいたことと言えば、その前月に生理が2回あったということくらいで、それ以外は、がんを患っているなどと思わせる予兆は全くなかったという。

    彼女の身体の異常に気づいたケヴィンから「とにかくすぐに病院に行って来い」と言われ、ひどく忙しい最中だったにも関わらず、時間を見つけてしぶしぶ病院へ行った。お腹の張りが気になりだしてから2週間目のことだ。

    最初に訪れた大病院で、即刻、詳しい検査を促される。「今日は忙しいからこの次に……」という彼女を、ドクターは厳しい口調でたしなめ、事態の深刻さを告げた。結局、その日のうちに検査を受け、思いもよらなかった結果を聞くこととなる。

    ドクターいわく、お腹の膨らみは腫瘍によるもので、すぐにも手術が必要だとのこと。心の準備もなにもない、面と向かっての告知である。まさか自分ががんであるなどとは予想もしていなかったから、たいへんな衝撃だった。

    とはいえ、まだそのときは、ドクターの言葉が本当なのか、半信半疑だった。セカンド・オピニオンを得た方がいいだろうと、その直後にケヴィンと2人でメモリアル・スローン・ケタリングというがん専門の大病院を訪れた。やはり腫瘍に間違いなかった。そして数日後に手術を受けた。

    施術したドクターに、

    「君のお腹にはフットボールとバスケットボールほどの大きい腫瘍があった」

    と言われた。

    手術の際、いくつかの臓器とその一部を切除した。転移しているがんについては、通院しながらキモセラピー(抗がん剤による化学療法)により治療することになった。

    日本では、抗がん剤を投与されているがん患者は、継続的に病院に入院するが、米国は医療費が高いためか、あるいは根本的にシステムが違うのか、手術を終えた患者は即退院する。

    外科内科手術、いずれの入院期間も日本のそれより著しく短い。出産の際も、特に異常がなければ、翌日か翌々日には退院させられるという。

    従って、キモセラピーもまた、通院して受けるのが一般的だ。また白血球を上げるための定期的な注射は、本人が自宅で打つように指導される。

    「わたし、日本にいたら、ずっと入院させられる状況なんだよね。とてもじゃないけど、耐えられない。考えただけで気が滅入ってくる」

    副作用があり、体調の悪い日はあるものの、彼女はそれまで通り会社へも通勤していた。

    米国の、明るく清潔感にあふれた病院にですら、彼女はいられないというのだから、暗くてどんよりした古い病棟の、6人部屋に入院していた父が、どれほど憂鬱だったか、察せられる。

    「今回、病気になったことでね、ほんっとに思ったんだけど……。こんなに家族とか友達がありがたいものとは、思わなかった」

    思いを込めた口調で小畑さんはそういいながら、いくつかのノートやメモを私に示してくれた。彼女のお母さんが、「健康にいい料理」のレシピを書き連ねた、それは手書きのノートだった。表紙に「すみ子」と大書きされている。

    キッチンの壁には、彼女のお姉さんによる「食のアドバイス」が貼られている。がんにいい食べ物やその効能など、一つ一つにお姉さんからのコメントが添えられている。小畑さんの姪の絵も壁にある。

    手術後、家族が日本から来た折に、キッチン用品や調味料も買いそろえてくれたという。

    「今までは塩とこしょうと醤油しかなかったんだけど、今はみりんも味噌もあるのよ!」

    笑いながら彼女は言った。

    「私が料理をするなんて、ほんと信じられない」

    そう言いながら、その日彼女は、訪れたわたしたち友人のために、讃岐うどんをゆでてくれ、麻婆豆腐を作ってくれた。できあいの「麻婆豆腐の素」を使うのじゃなく、ちゃんと一から作ってくれたのだ。とてもおいしかった。

    やがてケヴィンが帰ってきた。

    「ハグしないの? ハグ? キスは~?」

    不躾なことを言って冷やかすわたしに、

    「もう、ちょっとやめてよ~。わたし、そういうの、全然、苦手なんだから」

    と小畑さんは言う。

    ケヴィンは部屋に入るなり、彼女に紙袋を手渡した。中にはきれいな色のスカーフが3枚入っていた。副作用で髪が抜け始めた彼女へのお土産だった。

    その日わたしは初めて、ケヴィンとゆっくり話した。彼らは互いに互いの仕事を尊重し、いわば「同志」のような絆を持つ二人だが、今回のことで、彼が相当に、彼女のことに心を砕いていることが、察せられた。

    人の生命力というのは、医学的な側面だけからは推測することができない、さまざまな要素が絡み合って、決定づけられるものではないかと思う。なにしろ「笑うこと」が、がん細胞の増加を阻むというデータもあるくらいなのだから。

    父だって、発病した直後は、ドクターから「2年以上生存する確率は限りなくゼロ」だと言われた。けれど、父は負けるもんかと、4年経った今も闘い続けている。

    小畑さんのことだから、徐々に生活の在り方を改善し、自分なりにうまく病と向き合いながら、これからも生き生きと暮らしていくのだろう。わたしは、そう信じた。

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    2002年1月。わたしはワシントンDCに移った。それからは、ニューヨークに行くたびに他の友人も交えて彼女に会った。むしろ、ニューヨークにいたころよりも、頻繁に合うようになっていた。

    しかし、彼女のがんは容赦なく、その春、小脳にまでも転移した。手術は幸いうまくいき、がんを切除することに成功した。ホルモン剤の副作用で、顔が丸く太ったことを気にしていたけれど、7月15日の誕生日の翌日、彼女は元気そうな顔で約束のレストランに現れた。

    食欲も旺盛で、本当に手術をしたばかりだとは思えないほど元気そうだった。

    「ねえねえ、昨日、ケヴィンがどこに連れていってくれたと思う? なだ万よ、なだ万! わたしもう、びっくりしちゃった」

    普段は二人で外食をすることなどまったくないと彼女は常々言っていた。そんな彼が、彼女の誕生日を祝って、日系ホテルにある高級日本食レストランに予約を入れて置いてくれたのだという。

    「わたしが病気になってから、気味が悪いくらいやさしいんだよね~」

    そう言いながらも、彼女はとてもうれしそうだった。

    がんは、発症以来、常に彼女の身体のなかにあった。だから、次々に、新しい薬を試した。抗がん剤は数回投与すると、身体に免疫ができるため、効果がなくなってしまう。まるでいたちごっこのような治療法なのだ。

    次々に襲いかかる副作用にも耐え、彼女は普通通りの生活を続けた。

    「わたし、スローン・ケタリングの結腸がんの患者の中で、2番の成績って言われたの。わたしよりがんばってる男性がいるらしいのよ~。悔しいわ!」

    彼女は冗談交じりでそう言った。スローン・ケタリングとは、米国で最も優れたがん専門の大病院で、数多くの患者を抱えている。

    彼女はわたしのホームページを、いつも隅々まで読んでくれていた。そして、わたしが日記に記す、A男のボケネタをこよなく愛していた。

    「昨日の日記には笑わせてもらったわ」

    彼女は律儀に、電子メールで感想を送ってくれるのだった。

    また、わたしが綴る大ざっぱな「食の記録」を読んでは、

    「私みたいに案の浮かばない人間にとって、とても参考になります。ありがとう」

    「今度、あのワッフルミックスの素、探してみたいと思っている」

    と、コメントが届くのだった。

    わたしが『街の灯』を出版したとき、彼女は真っ先に感想を送ってきてくれた。心に残った一話一話に対し、自分の感想を盛り込んだ、やはり丁寧なメールだった。アマゾンの書評にも、彼女の言葉が残っている。

    clip 著者と共にNYを感じる 2002/11/6 Sumiko

    さて、街の灯、拝読しました。正直、すごーーくよかった。とても質の良い読み物で、久しぶりに読後にいろいろと考えさせてもらいました。ひとつひとつのエピソードが、何気ないんだけど、ただの「出来事」に終わらず、坂田さんの気持ちとか考えが確実に挿入されていて、読者もあなたの「感情」と一緒に、その場の状況を共有できる感じ。それに、ひとつの章を読み終わるごとに、自分の生活とか今ある状態と、坂田さんの経験を比較するチャンスも与えてくれるような文章だった。

    今回もロングアイランドに行った時に、ふらっとその土地のダイナーみたいな所に入って、期待以上の食事をしたいなと思ったり(ギリシャ旅情)、洗濯物をたたんでいるときにシーツをたたむ老人を思い浮かべたり(シーツをたたむ二人)。私も日本語をうまく話せるキャブドライバーに会ったし(あなたなしでは)、タクシーに乗るたびにその人の「プロ具合」を評定している(プロの仕事)。

    「寒くても温かい」は大好き。私も読みながら、坂田さんとまったく同じ感想を持っていた(子供も一緒に笑ってくれるような子だったらいいなと)。学生時代にウエイトレスをしていたときは、外国人の寿司の食べ方に圧倒されたこともあるし、バスボーイの人たちと一緒に食事して、彼らのくったくのなさに心が洗われたりしたことも思い出した(しっかり、ご飯)。他にも好きな章はたくさんあるけれど、これは友人としてではなく、一読者として、良い本を読ませてもらってありがとう、と言いたいわ。これからも、どんどんと執筆を続けてくださいね。

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    2003年春。ちょうど桜の花が満開のころ、小畑さんはワシントンDCにやって来た。運転が好きな彼女は、自分の四輪駆動車に乗って、マンハッタンから4時間かけて来た。

    訪問の目的は、DCで行われる結腸がんのカンファレンスに出席することだったが、滞在中は我が家に泊まり、週末は郊外に一泊旅行をする予定でいた。

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    わたしたちは、タイダル・ベイスンの桜を見に行った。

    長生きしている桜の木から「気」をもらおうと、二人で大木にしがみついたりもした。

    一年のうちで、この街が一番美しい数日間を、彼女と過ごせたことは、真にうれしいことだった。

    週末には、アパラチアン山脈のふもと、シェナンドア渓谷にある温泉宿を目指して、彼女の車でドライブした。

    青空が広がる、天気のいい午後だった。

    この宿は、米国人男性と日本人女性が経営しており、美しい山並みを見晴す日本的な展望風呂があるのだ。

    心地よい温泉に浸かり、浴衣を着て、夜更けまでワインを飲みつつ、おやつを食べつつ、語り合った。

    翌朝は、和風の朝食が用意されていた。清らかな湧き水で作られた味噌汁、サーモンのグリル、切り干し大根やヒジキの煮付け、新鮮な卵での卵かけごはん……。二人して、朝からたっぷりとご飯を食べた。

    この次は、夫たちを連れてこようね。Cさん(小畑さんの親しい友人)と彼女のボーイフレンドも誘おうよ。できれば夏がいいね。バーベキューをしようね。わたしたちは約束した。

    しかし、その直後、再び脳にがんが転移していることがわかり、またもや手術をせねばならなくなった。

    6月には、わたしたちの共通の友人Nさんが、フランスで結婚式を挙げることになっていて、小畑さんは出席する予定だった。Nさんと小畑さんは翻訳会社の同僚で、二人はとても仲が良かったのだ。

    彼女は、フランスに行けなかったことを、本当に悔しがっていた。

    「プレゼントも買ったのに。Nちゃんのウエディング姿を見たかった……」

    彼女は何度も言った。

    インド人一家が来るため、そもそもから出席できなかったわたしに、

    「今度、秋ごろになったら、一緒にフランスに行こうよ」

    と、彼女は言った。

    夏が過ぎて、秋になっても、彼女の体調は思わしくなかった。がんによる痛みが彼女の身体を襲い、けれど、それでも、彼女は会社にも行って仕事をしていた。

    「病気になって初めて、お先まっくら状態。でも、どうしても負けたくないから、闘魂と気合いでがんばるぞ!」

    そんなメールが届いた。

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    彼女と最後に食事をしたのは、わたしが学校に通い始める直前にニューヨークへ行った、去年の夏のことだ。

    ミッドタウンの寿司屋のカウンターで、わたしたちは、食べて、語った。彼女は、インド人一家が訪れたときのエピソードを聞きたがり、聞くたびに笑い、笑う度に

    「笑うと、お腹のがんが痛いから、笑わせないで」

    といいながら、笑った。

    わたしは、本で読んだ「霊気」の方法に従い、彼女に気を送ったりした。彼女はそういう非科学的なことを一切信じない人だったけれど、わたしが彼女の背中に両手を当てると、

    「うわあ、気持ちいい。あなたの手、すごく熱く感じる。その手、持って帰りたい」

    と言った。

    わたしは、彼女が病気だから、わたしが彼女に同情したり、親切なのだと思われるのがいやだった。わたしは彼女の人柄に惚れていて、その彼女が病に直面しているのを、ただ、見過ごすことはできなかった。

    でも、わたしにせよ、多分彼女にせよ、粘着的な付き合いをするタイプでもなかったから、いくら心配でも、一定の距離をおいておくのがいいだろうとも思った。

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    去年の年末あたりから、彼女の病状は悪化していた。わたしがインドに行く前も、最近はかなり調子が悪いとのメールが届いた。それでも彼女は、わたしのホームページを読んでるわよ、と感想を添えることを忘れなかった。

    わたしはだんだん、せっぱ詰まった気持ちになっていた。何かをせずにはいられなかった。インドの旅先からは、ホームページのかわりに、彼女にたくさんの絵はがきを送った。

    「ほんっと、いつもごめんね~。わたしがしてもらうばっかりで。ありがとう」

    わたしは、してあげているわけじゃない。彼女は、わたしに色々な、目に見えない大切なことを気づかせてくれている、わたしは目に見えることをしているだけだ。わたしはそのことを、うまく彼女に伝えることができていただろうか。

    わたしが何かをすることで、むしろ彼女が気を遣うことになってもいけないと思った。けれど、何かをせずにはいられなかった。

    彼女は、わたしと電話をするとき、必ずわたしの父の病状を尋ねた。それはここ数年の、彼女の変わらぬ姿勢だった。彼女の方が多分父よりも、かなり病状が悪いのに、

    入退院を繰り返している父を察し、

    「日本は入院しなきゃだめだからたいへんよね」

    と父を案じてくれた。

    父が再発するたび、

    「わたしの場合は、再発もなにも、ずーっとがんが身体の中にある状態でも元気なんだから、お父さまにも大丈夫だってお伝えしてね」

    と、励ましてくれた。

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    今年に入ってから、小畑さんの調子が著しく悪くなり、一時、入院した。コンピュータに向かっていられなくなったと連絡があった。

    「今回はしばらく会社を休んで、治療に専念しようと思う」と彼女は言った。

    「もうすぐ別の新薬が承認されるから、それに賭けてみる」とも言った。

    ある日、ケヴィンから、彼女が入院したとのメールが届いた。1月27日、マンハッタンに雪が舞い降る日、わたしは彼女の病院を見舞った。

    わたしが訪れたとき、彼女は一日で一番調子のいい時間だったらしく、モルヒネの点滴を受けていながらも、いつもとほとんど変わらない知的で快活な口調で、自分の状況を客観的に語り、互いの近況を報告しあった。

    わたしがインド移住を目論んでいることを語ると、がんばってねと励ましてくれた。

    彼女のがんは、もう全身に転移していて、歩くのさえ辛い状況だったけれど、それでも食事をしっかり取り、読書をし、自分の病状を客観的に捉えて、なんとしても生き延びようと、その方策を考えていた。

    彼女のベッドの傍らで休憩しているケヴィンが痛々しかった。

    わたしがインド旅日記をホームページに載せたから印刷して送るよ、と言ったら、

    「元気になったら、コンピュータで自力で読むから、送らないで!」と返した。

    ワシントンDCに戻ってきたら、小畑さんからお見舞いのお礼の電話が入っていた。メッセージの最後に彼女はこう言った。

    「今日のニューヨークタイムズにインドの記事が出てたんだけど、そこにすごくきれいなインド人女性たちの写真が載ってたのよ。あなた、インドに行くのはいいけど、こんなきれいな人たちとコンピート(張り合う)しなきゃならないなんて、たいへんね~。がんばってね。また電話します」

    彼女が自宅療養に入ってからは、しばしば連絡を取り合うようになった。彼女は、今回だけは、かなり堪えていると、今まで口にしなかった悲観的なことを言った。わたしはそういうとき、何を言えばいいのかわからなくて、

    「春になったら、きっと調子が良くなるよ」

    などと、気休めのようなことしか言えなかった。もうすぐ春が来るから。冬が過ぎたら、きっと体調もよくなるだろうから、また一緒に桜を見に行こう、そして温泉に行こう。

    彼女は、いつも、周りに気を遣っていた。日本の家族を心配させることを悔やみ、ケヴィンに迷惑をかけていると悔やんだ。わたしのせいで、彼が自分のやりたいことをできなくなるのは申し訳ないと言った。わたしは大丈夫だから、仕事なり遊びなり、行ってほしいのだとも言った。

    同時に、彼女を献身的に世話をするケヴィンに、深い感謝と愛を感じていることが察せられた。

    ケヴィンはとても繊細で難しい人で、家族との折り合いも悪くて、彼をわかってあげられる真の友達はわたししかいないから、わたしがいなくなるわけにはいかないのだ、と、いつも彼女は言った。

    わたしは、弱音も吐かず、周りのことを第一に考える彼女の人間性に、心底、頭の下がる思いだった。どうして、彼女はこんなに毅然としていられるのだろう。

    2月の下旬だったか、わたしは自分が診てもらった医者の心ない言葉に憤った旨を話した。すると彼女は言った。彼女も、つい最近、スローン・ケタリングのドクターに、ひどいことを言われたのだと。どんなことでもあっけらかんと話す彼女が、

    「ごめん。内容は、今はちょっと話せる心境じゃない」

    と言った。

    彼女は、色々な事柄と闘っているのだと言うことを改めて知った。

    2月中旬。わたしがA男と、週末、温泉に行くことを知ると、

    「ああ、わたしも行きたい! 絶対に一緒に行こうね」と彼女は力強く言った。

    2月末、A男の出張に伴って出かけたロスのホテルのカフェから電話をしたときも、

    「あなた、いいご身分ね~。うらやましいわ~。5分でも10分でもいいから、今のあなたの時間を、わたしにちょうだい!」笑いながら、彼女はそう言った。

    わたしは本当に、わたしのこの穏やかな時間を、彼女に分けてあげたかった。

    わたしたちは、いつも新しい抗がん剤など新薬の話や、代替治療についての話しもした。鍼やリフレクソロジーが痛みを緩和することもあるからと、最近はセラピストに来てもらっているとも言っていた。

    今年に入ってから会社に一度も行っておらず、有給休暇をもらっていることに罪悪感をも覚えていた。

    「あなたは今まで、どんなにきつくても会社に行って、会社に貢献してきたんだから、本当に辛いときくらい、仕事のことは忘れて、自分が休憩することに専念した方がいいわよ。ともかく、無理をしないで」

    無理をしないで。ゆっくりして。おいしいものを食べて。また遊びに行こう。

    同じような台詞を、話の合間に、何度も繰り返した。わたしは彼女に、もはや何を言っていいのか、わからなかった。

    そのころから、彼女は近くに住んでいる友人のCさんに、夕食を作ってもらうことを頼んでいた。

    「Cは、ああ見えても、家庭的で料理がうまいのよ。すごく助かってる」

    年下の友人Cさんのことを、まるで妹のことを話すみたいに、彼女は話してくれた。自分とはまったく異なるタイプの性格なのに、とても気が合うのだ、とも言った。

    小畑さんにはまた、仕事を通して出会ったという友人Tさんがいた。彼女はボルチモアに住む人で、実際二人は会ったことがなかったのだが、電話やメールのやりとりをよくしていたらしい。

    Tさんが、常々小畑さんのことを気にかけ、メールやファックスを送ったり、郵便で彼女が興味を持つような記事を送ったり、生活に便利そうな何かを送ったり、ともかく、本当にこまやかに彼女のことを気にかけてくれているのだと感謝していた。

    「わたし、Tさんとは、会ったことがないけれど、わたしたちにとって天使みたいな人だねってケヴィンと話してたんだよ」

    Tさんとわたしは面識はなかったが、あるとき電話で話す機会があった。小畑さんは、彼女には、わたしには話さなかった不安を、伝えているようだった。

    「わたしとは会ったことがないから、むしろ本音をいいやすいのかもしれません」

    Tさんは言った。

    Tさんの話を聞いて、わたしは少し安心した。いつもいつも、周りを気にするばかりで決して弱音を吐かなかった小畑さんが、いったい、心の苦しみをどうやって吐き出していたのだろうと、そのことがとても気になっていたからだ。

    わたしはだから今まで通り、「もしも」の話はせず、明るく楽しい、前向きな話だけをしていようと思った。

    3月9日。ボストンから電話をしたとき、彼女は、ホスピス治療に入ったと言った。ホスピス治療に入ったけれど、わたしはまだ、諦めてないから、とも言った。この間認可されたばかりの、新しい抗がん剤を使える可能性があるかもしれない、とも言った。

    最早、コンピュータに向かえない彼女に、わたしは膨大なインド旅日記を、写真も見られるようカラープリントして郵送していた。

    「インド旅日記を、今少しずつ読んでいるよ、楽しんでるわ。ありがとう」

    一気に読むのは疲れるってこともあるけれど、でもすぐに読み終わるのはつまらないから、ゆっくり読んでいるのだ、と彼女は言った。

    彼女は、自宅と病院を行き来してのホスピス治療を始めた。

    それからは、電話を控え、ファックスを送るだけにした。

    3月16日。その日、どうしても気になって電話をした。電話にはケヴィンが出た。

    「彼女の具合が悪ければ、かわらなくていいから」

    わたしはそう言ったが、ケヴィンは、

    「大丈夫。今、Sumi、起きてるから」

    と言って、電話をかわった。でも、多分彼女はかなり調子が悪かったのだろう、

    「ごめん。あとでコールバックするね」

    そう言った。それが、わたしが聞いた、小畑さんの最後の声だった。

    もう、彼女とは電話をできないかもしれない。わたしが電話をしたところで、何もできないことは、わかっていた。周りには手伝ってくれる人もいるだろうし、わたしが遠くから案じたところで力になることはできない。

    その後、小畑さんを見舞った共通の友人から、彼女が痛みにさいなまれ、覚醒している時間が短くなっているとのことを、聞いた。

    どんなに痛みにさいなまれていても、小畑さんも、ケヴィンも、少しでも長く、一緒にいたいと思っているに違いないのだと思うと、やりきれなかった。

    一方、わたしの父の肺がんもまた、年末あたりから活動を再開していた。病院からは即入院し、また抗がん剤治療を受けるように勧められた。父は身体の健康な細胞までも破壊してしまう抗がん剤の治療を拒否し、東洋医学や民間医療を融合した統合治療を施してくれるクリニックに通い始めた。

    そのうちにも、がんは父の身体を攻撃し、3月に入ってからは、父は高熱と猛烈な咳とで、著しく体力を落としていた。電話をするたび、母の声の向こうで、父が激しく咳込むのが聞こえる。電話越しで聞いているだけでも胸が迫るのに、朝から晩まで、咳こむ声を聞き続けている母の心労を思った。

    離れていると、何もできない。

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    そして3月末。春が来て、町の至るところで桜が次々に開いた。タイダル・ベイスンの桜を見ても、カテドラルの桜を見ても、去年、小畑さんとここに来たことを思い出した。一緒に見られないことが残念でならなかった。

    そして4月6日。わたしは久しぶりに集中して長い原稿を書いたせいか、全身が凝っていたので、近所に住む指圧・マッサージの日本人セラピストのところへ電話をした。あいにくその日は予約がいっぱいだったのだが、午後になりキャンセルが出たとの電話が入り、わたしは出かけた。

    青空が澄み渡る、少し肌寒い夕暮れ時。早めに家を出て、散り始めた桜を眺めつつ、再来週にはインド旅行だというのに、なぜかやるせない気持ちでゆっくりと散歩しながら、彼女の家に向かう途中のことだ。

    このあたりは緑の広々とした芝生の空き地や庭が点在し、いつもリスたちが走り回っている。リスは普通、人間が近寄ると一目散に逃げるのだが、ある一匹のリスだけが、木の実を食べながらわたしの方をじっと見ている。

    わたしがどんどん近づいていっても、逃げようともしない。逃げようともしないどころか、わたしに近づいてくる。このあたりのリスは木の実が潤沢にあり、人間に餌を請う必要はない。第一、そのリスは、食事中だったのだ。

    なのに、わたしの足許まで来ると、立ち止まったわたしの周りをクルクルと回り、じっとこちらを見つめている。わたしはカメラを持ち歩いていて、どんな動物もたいてい、カメラに気づくと慌てて逃げるのに、そのリスはむしろ、写真を撮られることを好んでいるかのように、カメラ目線さえ送ってきた。

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    いつまでたっても逃げようとしないので、変なリス、と思いながら、わたしは歩き始めたのだが、リスはわたしの方をみて、じっと立ちすくみ、いつまでも見送ってくれている。何度か振り返っても、まだ立ち上がったまま、こちらを見ている。

    わたしはその健気な愛らしい姿に不思議な思いで、

    「バイバイ!」とリスに向かって手を振りながら声をかけたのだった。

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    その翌日。わたしは朝から、小畑さんのことが気になって気になって仕方なかった。でも、ケヴィンに直接電話をするのは怖かった。午後になり、しかし、胸騒ぎを抑えることができず、仕事に集中できない。もしかして、という気がしてならない。

    わたしはCさんの携帯に電話をした。Cさんはすぐに電話に出た。彼女の声は硬直していた。彼女はつい、数時間前に、その知らせを受けたという。

    小畑さんが今日、4月7日の早朝3時に、息を引き取ったと。

    わたしは呆然としながら、虫の知らせって、ほんとうにあるんだ。と思った。

    わたしは、何にも手を付けることができず、コンピュータに向かった。そして、今まで彼女から届いたたくさんのメールを、一つずつ開いて、一つずつ、読んだ。こうして読み返すと、改めて、彼女の大らかな性格の裏にある、律儀さ、繊細さ、思いやりが、感じ取れた。

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    夕方になって、小畑さんのためにキャンドルに灯をともし、白檀のお線香を焚いた。

    やがてA男が帰宅し、玄関のドアを開け、キャンドルを見るなり、言った。

    「わお! ロマンティック!」

    このボケを、小畑さんに聞かせたいと思った。

    数時間後、日本の母から電話があった。久しぶりに晴れ晴れとした声だった。

    父が今朝は、約一カ月ぶりに、咳をせず、静かに、穏やかに、目覚めたというのだ。こんなに気分のいい朝を迎えられたのは本当に久しぶりだから、美穂にも伝えようと思って電話をしたのだと言ってくれた。

    わたしは小畑さんのことを母には言えず、よかったね、と言って、電話を切った。翌日、父はクリニックに行き、「峠を越しましたね」と言われたという。

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    4月7日。奇しくも去年のその日、わたしは小畑さんと共に過ごし、桜を見た。

    わたしは、彼女がどこかに行ってしまう前に、このワシントンDCにも立ち寄ってくれたのではないかと思う。必ず行くから、と彼女は言っていたから、散る間際の、日本から来た桜を見に来たのだと思う。

    これを言うと、A男は哀れむような顔をして、「それはないと思うよ」とわたしを諫めたけれど、自分でもそれは単なる偶然だとは思うけれど、笑われるのを承知で、でも、敢えて書く。

    あの日、小畑さんはリスに姿を借りて、わたしのところにもお別れを言いに来てくれたのではないだろうかと。

    そして、アメリカ大陸を横切って、太平洋を横断して、日本に帰って、ひょっとすると福岡にも立ち寄って、わたしの父のところに「魔法の粉」をパラパラと振りかけてくれたのかもしれないと。

    そんなことはこじつけだということも、自己満足な思いこみだということもわかっている。ただ、彼女は律儀な人だから、そうやって、自分と関わりのあった人たちのもとに、何かをもたらして、去っていったのに違いないと、わたしは思いたいのだ。

    短い付き合いだったにも関わらず、しばしば顔を合わせていたわけではなかったにも関わらず、次々に思い出があふれてきて、この文章も、いつまでも終わらない。

    ケヴィンや日本のご家族の心中を想像するに、胸が押しつぶされる思いだ。

    わたしの悲しみは、彼らの悲しみの比ではない。

    そして小畑さん自身が、いかに無念だったか。それを思うと、言葉がない。

    「坂田さん。あなたが好きなように、何を書いてくれてもいいから」

    彼女の言葉を受けて、だから今日、わたしはこうして、心おきなく、彼女のことを書かせてもらった。

    彼女から学んだことは、今、ここで書けるようなささやかなものではない。

    小畑澄子さん、いろいろと、ありがとう。

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