深海ライブラリ📕

深海の底に眠る過去の記録に光を当てる。揺り起こす。

  • 22LOTUS

    上の写真は、週末、久しぶりに開花した庭の蓮華。その麗しさとは裏腹に、本日の話題は……。

    本日の話題は、愉快ではない。愉快ではないどころか、不愉快だ。この状況下、不愉快な話題を綴ることに、抵抗はある。

    ただ、書かずにはいられないし、書いておくべきだろうと「今は」判断するので、書く。でも、いつか消すかもしれない。そんな内容であるので、爽やかな一日を過ごされたい方は、どうぞ今日は、読まずにいただければと思う。

    🌸

    土曜日の夜、米国のMBA同窓生からなるイヴェントに参加した。わたしは、もちろん同窓生ではないが、夫とパッケージでの同行だ。インフォシス元CEOのナンダン・ニレカニ氏と、その妻ロヒニ・ニレカニ氏のレクチャーが行われた。

    テーマはフィラントロピーについて。ロヒニが運営するNGOについてなどの話が興味深かったので、今日はその話題を記そうと思っていたのだが……。

    そういう気分ではなくなってしまうことが、昨夜、発覚した。

    こういうところに書くべきかどうか悩んだ。

    しかしこのまま、1年半に亘って記して来た「キレイなブログ」(当時「Kirei Style」というサイトがあり、複数の人々がブログを設置していた)を消滅させるのはあんまりだと思い、こちらに簡単な経緯だけを記しておこうと思うに至った。

    🌸

    インターネット上に文章を書き始めて久しい。最初のメールマガジンを発行してから11年がたった。メールマガジンの他に、ホームページ上で「片隅の風景」という散文と写真の記録、それから日記を記していた。

    日記に関しては、会員制(無料)とし、読みたい方にパスワードで入り口をお知らせするという方法をとっていた。

    当時はブログなどなかったので、コメントなどはメールで受け取るのみだった。

    みなに好感を持たれる文章を書くことなど不可能である。

    そんなことは、経験上、十分に承知している。加えて、何を書いてもいちゃもんをつけてくる人、要するに、わたしの存在自体が気に入らない人、というのも必ずいる。

    反対意見や反論は、もちろん、耳を傾ける努力をしている。わたしとて、自分の意見が絶対に正しいなど思ってはいない。わたしの誤解や勉強不足もある。

    間違いを指摘されれば認める。不適切な発言があった際には、100%自分の過失だと思っていなくても、自分に問題があったとするならば、非を認める努力はしてきた。

    しかし、「誹謗や中傷」となると話は違う。

    「いやがらせ」のメールを受け取ったことも、この11年のうち、少なからずあった。メールであれば、不快感を与えられ、それなりに傷つけられるが、しかし看過できる。

    だが、ブログのコメント欄は異なる。放置しておくと、調子に乗って人を責め立てる人が、次々と出て来る。それをして、日本の世間は「炎上」というらしい。

    わたしも少なからず、そのような状況に陥ったサイトを見て来た。その匿名性ゆえか、おぞましいほどに人を非難する人々のパワーには、驚かされるばかりだ。

    わたしは、この、個人のブログにおいては、コメント欄を敢えて設けていない。そもそもブログを通して人とのコミュニケーションを図りたいという目的ではなく、自分の書きたいことを書くのが目的だからだ

    次いで、コメント欄を設けると、あれこれと問い合わせが増える。対応が面倒だ。更には、中傷が書かれる可能性もある。そんなこんなで、ここでは一方通行の場としていた。

    だからといって、外部の意見を遮断しているわけではない。

    わたしは、自分の本名も、顔も、家族も、メールアドレスも、ここで明らかにしている。

    そこには、自分の言葉に責任を持つという気持ちがある。なにも「目立ちたがりだから」ということはかりが理由ではない。更にはライターだからという職業の問題ではない。

    🌸

    「キレイなブログ」をお読みでない方は、なぜわたしが「胡蝶の夢」などという、怪しげな会員制ブログを設けたか、奇妙に思っていらっしゃるだろう。

    ほかでもない、「キレイなブログ」のコメント欄が「プチ炎上」したからである。

    正直なところ、こちらのブログに比して、あちらのブログは読者数が少ない。

    読者ブログを書いている人は現在250名ほどもいるようだが、わたしはたいてい、ランキングの上位に載せられていることから、たいそうな読者数を想像されている方もいらっしゃるようだ。

    あちらのブログの訪問者は、一日あたり500人程度に過ぎない。

    世間の人気ブログなどに比べたらもう、地味もいいとこ、である。

    そもそも、こちらの個人ブログは、自分の身近な人たちに加え、米国在住時からの読者、及びインドに関心がある人たちが主な読者層であった。

    しかし、インドに暮らし始めて数年経ったころから、インドにまったく関心のない人たちにも、もっとインドのことを知って欲しいと思い始めた。

    何かの折に、あのKIREI STYLEを知り、読者ブログを募集していたことから書き始めた。

    当たり前だが、原稿料などもらってはいない。

    こちらのブログには、インドのあらゆる側面を書いていたが、あちらでは「キレイ」「楽しい」「おいしい」「すてき」と、インドのよき部分に焦点をあてて書いてきた。

    そのことで、インドに関心を持ってくださった方々は少なからずいらっしゃる。

    批判や、辛辣な意見からは遠く、比較的平和なブログだと思っていたので、コメント欄についても警戒をすることはなかった。物議を醸すようなことを、あちらには書いているつもりはなかったからだ。

    🌸

    3月11日。大地震が起こった。「キレイなブログ」に、思うところを書いた。

    3月12日。夜。延々と、恐ろしい光景がテレビやインターネットから流れる中、わたしの心にあったのは「平常心を」「いつも通りに」という気持ちだった。

    自分が9/11/2001(米国)や11/26/2008(ムンバイ)のテロを身近に経験し、種類が異なるとはいえ、その恐怖感や圧迫感、緊張感の持続を経験し、それがどれだけ、心身を蝕むかを知っていたからこその、である。

    被災地にあり、危機に直面している人が、わたしの「キレイなブログ」を読んでいるとは到底思えない。あくまでも、当事者ではない読者に向けて、「いつも通りを」を提言したつもりだった。

    わたしはその前の週に訪れたレストランや、テキスタイルの店を紹介した。

    それがまず、反感を買った。

    13日。「乱れる心を鎮めるために」というタイトルで、緊張感を和らげるための具体的な提案を書いた。そして最後に、ルイ・アームストロングの「ワンダフルワールド」の音楽(動画)を添えた。

    それが、小さく、袋だたきにあった。

    後ほどわかったことだが、それは一人の読者が「複数の人物を装って」書いていたことであった。しかしそのときのわたしは、3、4人の人が不快に思っているのだと判断した。

    この混乱のなか、敢えて読者の神経を逆撫ですることは書くまい、内容が時期尚早すぎたかもしれぬと削除した。

    それにしてもだ。その書き方が、巧みにも、意地悪い。人がグサッとくるようなことを、さらっと少ない文字数で的確に表現している。

    こんなときこそ、生きることに望みを抱くような音楽を、と思ったわたしが、まるで痛みのわからぬ不謹慎な人間であるかのようないい方で。

    これまで、わたしの文章から得た、なんかよかったことの一つや二つあるだろうに、そういう善いところを思い返す余地ゼロ、といった感じの。

    そのような言葉は、わたしよりもむしろ、わたしの言葉を好意的に受け止めてくれている読者の方々、そしてわたしの母や妹など、身近な読者の心をかき乱すのに十分な威力を持っていた

    それだけではない。わがブログは、仕事関係者やクライアントの方々も読んでいる。いくらわたしがオープンな性格だからといって、そういう次元の低いやり取りを、仕事関係者に見られるのは、いやなものである。

    ここは穏便にすませようと、反発を食らった箇所を削除しても、しかしネガティヴなコメントが終わらない。

    やがて、わたし個人を中傷するコメントも現れた。それはもう、文章とは関係のない、単に「あなたが嫌い」ということを公言するものである。

    匿名の人間からの暴言は、まるで背後から不意に刃で切りつけられるような、フェアじゃない感じである。

    あまりにも目に余ったので、受信直後にそのコメントを削除。ここ3回分、つまり地震後に記した記事のコメント欄を閉鎖した。

    そうしたら今度は、わざわざ過去の記事にまで遡り、しつこく追いかけて来る。そこは、マンゴーの話題だろ! という話だ。

    当面は静観する構えであったが、いい加減、腹がたったので、コメントを承認制に変えた。

    🌸

    好意的に読んでくださる読者が、少なからず、いや大勢いらっしゃるにも関わらず、わずか数名の言葉の暴力に屈して、「キレイなブログ」をやめてしまうのは、残念すぎると思った。

    従っては、事態をもう少しきちんと調査したく、送信元を見極めるべく、読者コメントのIPアドレスをチェックした。

    反論コメントを送って来たのは、実質5名。

    500人の読者中、5人。1%。一見少なく見えるかもしれぬが、この1%の背後に、同じようなことを考えている人が少なくとも10倍はいると考えるのが妥当だ。つまり1割。

    わたしのブログを好きではないが、つい気になって読んでしまう。そういう人たちの数である。

    さて、その5人のうち、1人は、4人になりすまして、批判コメントを矢継ぎ早に送って来た。

    別の1人は、わたしの文章というよりは、わたし自身に不快感をぶつけてきたものの、他の読者のコメントにいさめられて、謝罪をされていた。

    もう1人は、ご丁寧にも別々のコンピュータ(東京と神奈川)から、日夜交互に送って来た。

    この方からのメールがあまりにひどく、しつこく、1通を削除した。

    そうしたら、「美穂さんに批判的なことを書いたから削除されたのでしょうか? 北朝鮮みたいです。」と、さらに追い打ちのコメントが来た。

    北朝鮮ってあんた……。

    これ以上の詳細はもう、あまりにもアホらしく、情けなく、ここで暴露する気にもならないので、これくらいにしておく。

    🌸

    普段のわたしであれば、一切合切、看過してしまうところだと思う。今、敢えてこの嫌な話題をここに載せるのは、こういう人間の心理があり得るということを、悲しいが伝えおかずにはいられないからだ。

    っていうか、単に腹を立てている、黙っちゃおられんのだ。

    わたしは、特定できる個人のことをいわれなく悪く書いたり、誰かを心底傷つけるような悪意ある表現を、していないつもりだ。

    もしもわたしが、そういうことを書いたならば、それは因果応報であり、自分が同じ目にあっても仕方ないと思う。

    だからといって、匿名で書き手を叩きまくることが正しいとは、もちろん思っていない。

    わたしは自分の経験を元に、「こうした方がいい」と思われることを提言しただけである。更には、批判を受ければ速やかに削除し、事態の収束を図る努力をした。

    そんな人間に対し、執拗に嫌がらせをするというのは、いったいどういうことなのか。嫌なら読むな! という話である。

    しかも、この非常事態に。

    しかも、この非常事態よ。

    ちなみに、残りの2人は、批判コメントに便乗して、「なんか、気に入らん、この人」な思いをぶつけて来た人たちであると思われる。

    ここぞとばかりに、こういう人たちがあらわれるのがまた、忌まわしいことでもある。

    ちなみに、気分の悪い話は、まだまだ終わらない。のちに衝撃の事実が発覚するのである。

    🌸

    わたしが、「キレイなブログ」を更新する気が失せるのも、おわかりいただけよう。

    しかし、楽しみに読んでくださっている方が確実にいらっしゃるのはわかっていた。

    どうしたものかと考えた結果、パスワード制で入れるブログ「胡蝶の夢」を暫定措置のつもりで設けた。個人のこのブログは、有料サーヴィスを使っているので、広告も入らないし、いろいろな機能が使えるのだ。

    いろいろな機能をちっとも使いこなしていなかったので、ここは一つ新しいことをやってみようとの思いもあった。

    「胡蝶の夢」を開設以来、本当に、いろいろな方からメールをいただいている。そのコメントを拝見しているうちに、これはけがの功名だと思った。

    年齢層は20代から70代まで。主に女性。

    ニューヨークのメルマガ時代からの読者の方、被災地付近にお住まいの方、日本から遠い場所で日本を案じている方(複数名)、闘病生活中の方(複数名)、津波の現場へ取材にいかれたジャーナリストの方、インドに住んでいらした方、インドのテキスタイルがひたすら好きな方(複数名)……。

    とにもかくにも、多彩なバックグラウンドの、大勢の方が、わたしの文章の何らかの楽しみにしてくださっている、あるいは励みにしてくださっている。

    そのことがわかっただけで、本当にうれしかった。これからも書き続けたいと思った。

    ただ、このような会員制にしてしまうと、「何気なく訪れていた」人が読めなくなってしまうことが気がかりである。

    特に男性の方など、敢えて会員になってまで……と思われる方も少なくないはずだ。

    そんなこともあり、ほとぼりが冷めたら、「キレイなブログ」を再開しようと思っていたのだが……。

    🌸

    昨日、思うところがあって、しつこかった批判メールの送り主2名の、IPアドレスの発信元を検索にかけた

    そうしたら、衝撃の事実が発覚したのである。

    まず、1人4役をやったあと、「いくつかの名前で、コメントをしたのは私です。」と自ら申し出てくれた、「意地悪だけど素直な人?」だと思っていた人が、実は、読者ブログを書いている人のひとりだったのだ。

    彼女は、自分の住まいや経験を偽って、書いていた。ニューヨークに住んだことがあるふり。東京に住んでいるふり……。

    IPアドレスというのは……とここで説明するのは面倒なので、知らない方は自分で調べていただきたい。ともかくIPアドレスは、コメントの管理画面で見ることができる。

    そのIPアドレスを、「IPアドレス検索サイト」にかければ、居住国や居住エリアばかりか、プロバイダまでもわかるのだ。プロバイダの住所や電話番号までもわかることがある。

    読者ブログを書かれているある人と、1人4役の人の文体に類似点があった。

    従っては、以前、彼女がわたしのブログに残していたコメントのIPアドレスと、今回のコメントのIPアドレスとを比べたところ、同一人物であることがわかったのだ。

    好意的なコメントを残してくれていたあの人が?! あんなにいい感じのあの人が?!

    開いた口が塞がらんとはこのことだ

    前述の通り、読者ブログの書き手は250人もいるから、ここでみなさんが特定するのは不可能だとした上で、個人攻撃にならぬよう、書いている。

    ブログ上のその人と、わたしのコメント欄のその人との差が、あまりにも強烈で、夕べのわたしはもう、3月11日以来の、相当な衝撃を受けた。

    あまりの衝撃で、お腹が下りそうになった。

    茫然として、IPアドレスの検索結果を眺めつつ、何が何だかわからない。

    こういうときにいつも思い出すのは、鞏俐(コン・リー)主演の映画『紅夢』だ。富豪の第4夫人として嫁いだコン・リー。

    第1夫人や第3夫人の、あからさまな「いじめ」を受けていたのだが、いつもやさしい第2夫人が心の支えだった。ところが、実は、やさしい顔をした第2夫人が、一番おっそろしいことを考えていた……という話だ。

    あの映画を観たときの、衝撃といったら。

    こういう女同士のドロドロとした戦い、もう、絶対いや。男同士のドロドロもいやだが、ともかく、その「覆面なやさしさ」が怖すぎる。

    まじで、バチがあたるよ。

    🌸

    どうにも気持ちがおさまらず、夫アルヴィンドに、概要を説明したく、

    「ちょっと2分、ちょうだい。わたしの話に集中して」と、声をかける。

    最初は面倒くさそうに聞いていた彼だが、最後の展開に急に身を乗り出して来た。

    「彼女は、かなり巧みな攻撃をしかけてくる人だな。気に入らない敵を叩きのめす方法を知っている。

    彼女って、意外と人生に成功して来たタイプに違いない。

    成功する人は、敵の制し方に長けているんだよ」

    ちょっと待て。わたしは彼女の敵になるつもりなど、ないんだけど。

    「中国の古い戦法*に、こういう話があるんだよ。敵の弱点を知らない者は勝てない。敵の弱点を知っていていも、自分の弱点を知らない者は、やはり勝てない。敵と自分、双方の弱点を知っている者が勝利する

    いや、だから、そういう話じゃないんだってば。

    「つまり、君は今、敵の弱点を知った。彼女がIPアドレスの存在を知らなかったという大きな弱点を! 今が反逆のチャンスなんだよ!」

    いや、だから、戦(いくさ)じゃないんだって。闘う気など、ないんだってば。

    「寝る前に、ブログに実名を公表してしまいなさい! すっとするよ! 気分よく寝なさい」

    こっ、この男は……。普段は温和そうに見えて、実は根性悪? 

    歯を磨きながらも、

    「ミホ、ブログに書いた? え? なんで書かないの? 相手がやっているのは身分詐称罪だよ。そこでミホがブログをやめたら、彼女の思うつぼじゃないか。彼女の勝利だよ」

    としつこい夫。こういう不思議なリアクションをかましてくれる夫で、本当によかった。自分を冷静に見つめざるを得ん。

    そんな次第で、話が過激長編になってしまった。

    🌸

    結論を言うと、あちらのブログを今後再開することはないだろう。その人の思うつぼだろうが勝利だろうが、この際、どうでもいい。勝手に勝ってろ! という話だ。

    実は先月より、ブログではなく、ホームページを作っている途中であった。

    米国在住時のように、きちんとインド発のホームページを作るべきだと思っていながら、ついつい5年もたっていたのだ。

    中身はまだ埋まっていないが、器だけはそれなりに仕上がっている。今後、過去の「キレイなブログ」の情報を適宜そちらに移行しつつ、公表する予定だ。

    もう、汚れちまった「キレイなブログ」を書き続ける熱意は失せた

    【教訓】
    ・たとえ1%でも、負のパワーは、強い。
    ・ネット上のマナー、倫理について、利用者は再考すべき。
    ・気に入らん、と思ったサイトのブックマークは、ここを含めて即刻解除!

    *中国の古い戦法とは、「孫子兵法」というものらしい。英語で”SUN TZU”。夫の言ったことが正しいかどうか定かではないが、参考までに。

  • 18HOPE01

    不安なニュースが渦巻く日々。見聞きするだけで、胃がきりきりする、頭がカーッとなる、胸が締め付けられる、呼吸が苦しくなる……それは、人間としての、普通の反応だと思う。

    それでも!

    今、元気で生きている人は、元気で生き続けなければならない。

    少なくとも、被災地からは離れた場所に暮らしている「直接の被害を受けていない人たち」は。

    誰もが経験したことのないことが起こっている。これからも起こるかもしれない。だから、誰もが試行錯誤だ。

    本当をいえば、わたしは楽観主義者ではない。今回のことにしても、特段、楽観視できる要素がない。

    だからといって、心身を硬直させ、悲観にさいなまれていても、事態は好転しない。

    不安、心配、懸念、悲哀、罪悪感、苛立ち、恐怖……。

    負のパワーは絶大だ。たとえば10人いたとする。9人が、前向きにがんばろうとしていても、1人が絶え間なく不安を口にしていると、2人、3人と、たやすく負に転じる。

    瞬く間に、どんよりムード満点だ。自分の心の中にしても同じこと。正と負の葛藤が、日々展開される。

    だからこそ、心に芯を通そう。ぐっと腹の底に力をいれよう。

    窮地に立たされている人たちを、間接的に救うためには、元気でいることが基本なのだ。

    🌿

    人は、必ず、何らかの形で、いつかは死ぬ。

    それは紛れのない事実だ。誰も明日の自分を知らない。その死が、あまりにも身近に、具体的に、そして悲惨な形で、一気に現れたことで、わたしたちは参っている。

    しかし、参っていても仕方がない。

    このごろのわたしは、自分の中の「正の感情」を天使、「負の感情」を悪魔として、ヴィジュアル化しながら、感情をコントロールしている。

    天使のパワーを維持するのは、簡単なことではない。天使は丁寧にケアしてやらねば、すぐに弱る虚弱体質だから、意識的に、励まさねばならない。

    悪魔は不安や緊張や苛立ちなど、ネガティヴな感情を糧にして生きているから、このような環境下では元気はつらつだ。

    悪魔が心身を席巻するとき、病気になる。免疫力をつけておかねば、身も心も病んでしまう。

    そのために、今大切なことは、睡眠、食事、運動(労働)、愛、希望、笑顔、娯楽……。

    それらはすべて、天使の養分になる。

    🌿

    不謹慎を恐れて、前向きに生きる力を封じ込むのは、やめよう。

    笑うことに罪悪感を覚えるのは、やめよう。

    先だって、わたしは「いつも通りに」と書いた。しかし、今は思う。「いつも通りに」では、追いつかない。

    「いつも以上に」元気でいる努力をするべきだと感じている。

    元気を維持するために有効と思われる具体的な事柄を、記したい。

    ■睡眠:自分の身体の労をねぎらい、感謝して眠る。

    このような状況下で平常心を保つために大切なのは、熟睡すること。睡眠時間が十分に取れない人は、少しでも心身を休める時間をとろう。寝付けない人、夜中、何度も目が覚めて熟睡できない人は、下記をひとつでもいいから、お試しあれ。

    ・温めたミルクにハチミツを少量入れて飲む。ターメリック(うこん)をいれるとなおよい。
    ・睡眠の少なくとも30分前には、テレビやコンピュータから離れる。
    ・灯りを落として、夜空を眺める。
    ・お香やアロマをたく、あるいは好みの香水などを、わずかにつける。
    ・自分の好きな、しかし静かな音楽を聴く。
    ・手書きでノートに日記を書く。
    ・足の裏や手のひらをマッサージする。

    ベッド(布団)に横たわったら、下記のことをする。

    合掌した手を上下にすりあわせて、軽く熱を起こす。そのあと、両手でやさしく自分の顔や頭部を包み込むように撫でながら、「今日も一日お疲れさまでした。神様ありがとう」と、労をねぎらい、一日を終えられたことに感謝する。

    そのあと、まず左足の指先に気持ちを集める。左足のつま先から足の裏、かかと、甲……と、自分の身体の各部位ひとつひとつに対して、「お疲れさま。ゆっくり休みましょう」と、心で唱える。ふくらはぎや脛、膝、太もも……と順番にイメージしながら労ったあと、今度は右足にうつる。

    次いで、左手、右手、胴体下部から徐々に丈夫へ移行しながら、同様に慰労する。最後に頭(脳みそ)に到達したところで、改めて、一日よくがんばった自分の身体にお礼をいい、ゆっくり休んでくださいと唱える。

    実はここ1週間、夜中に何度も目が覚めていたのが、久しぶりに昨夜、このテクニックを思い出して実践したところ、左脚の付け根くらいのところで、記憶が途切れている。

    あの日以来、初めて、一度も夜中に目を覚まさずに、今朝、爽やかに起床できた。試す価値ありだ。

    ■呼吸:ゆっくりと息を吸い、息を吐く。

    不安や緊張が高まると、鼓動が早まり、知らず知らずのうちに「息を詰めて」しまう。これは身体の諸々の機能に悪影響を与える。

    ときどき、意識的に呼吸をチェック。目を閉じて、ゆっくりと鼻から息を吸い、再びゆっくりと、鼻から息を吐き出す。

    長寿の亀は、呼吸が非常に遅い。ゆっくりとした呼吸は、身体のためによい。

    ヨガや呼吸法、瞑想などを行うのが一番だが、それができない人でも、意識して呼吸を整えるだけで、気持ちがぐっと落ち着く。

    ■温め:手足の冷えは心の冷え。お湯で温める。

    手足が冷えるのは、なにも気温が低いことだけが理由ではない。呼吸が早まると、緊張感が高まり、身体の先端が冷たくなる。

    そういう冷えは、靴下を履いてみたところで解消しない。手足の冷えに気づいたら、その状態を放置しない。身体を動かして温める。手足が温かいと、気持ちが落ちつく。

    あるいは、湯で温める。洗面器に湯を張って低い椅子に座り、足と手を同時につけて温める。少量の湯で身体全体が暖まる。

    手足に加え、疲れ目も温めると癒される。神経がピリピリすると、目の奥が熱くなり、頭がオーヴァーヒートする感じになる。頭の中が真っ白になる、という状態。

    作業の手を休めて、深呼吸をしたあと、横たわり、熱いタオルで目を温める。

    ■食:消化によいものを、よく噛んで、しっかり食べる。

    ストレス下におかれ、緊張状態が続くと、胃の働きが正常ではなくなり、消化不良を起こしやすくなる。一方、腸の方は、自律神経が失調し、収縮してしまうことから、下痢の症状に見舞われる。

    胃腸の具合が不全の人は、刺激物や添加物の多い食品を控え、健康的な粗食を。食欲がなくても、食べる努力をしよう。

    たとえば、お粥、あるいは柔らかめに炊いたご飯、おにぎりなどの主食に、野菜や海藻入りの味噌汁、卵焼きなど。

    食欲が旺盛な人は、それはありがたいことだと感謝すべき。いつも通りに、好きなもの、おいしいもの、健康によいものをたっぷり食べよう。

    食べることに罪悪感などを覚えるのは無意味。そこで我慢すれば、被災地の人に食事が届くというのなら話は別だが、違うだろう。苦しみを共有して、具合を悪くしている場合ではない。

    外食OK。デパ地下OK。こんなときだからこそ、可能な人が前向きな消費活動をせねば、日本経済は益々下るばかりだ。これ以上、不景気風を吹かせてはならない。

    ただし「資源の無駄を省き、節電する」ことは大切。

    ■娯楽を守る:人と会う。遊ぶ。楽しむ。自分のために。未来のために。

    地域によっては学校も閉鎖、会社にもいけない。散歩する公園もなければ、楽しい観劇も憚られる。そんな状況で、健全な人たちが、家に引きこもって、悪いニュースに疲労困憊するのは、あまりにも、不条理だ。

    こんなとき、遊べる場所をなくしてどうする。

    こんなときだからこそ、エンターテインメントを持続させるべきなのだ。誰だって、心が重い。だからこそ、動こう。アミューズメントパークも、コンサートも、ライヴも、お芝居も、パチンコ屋も、ゲームセンターも、続けるべきだ。

    節電しながら、ぎりぎりのところで、続けるべきだ。

    身内を喪った人は別として、当事者以外は、明るい色の服を着て気持ちを高めよう。好みのジュエリーを身に付けて、お守りになってもらおう。

    身ぎれいにしよう。口紅をさそう。お化粧をしよう。人と会う約束をして、出かけよう。

    花を飾ろう。そろそろ、桜のころだろう。季節の移ろいに、心を配ろう。

    新芽の息吹は希望だ。

    ■動く。働く:こんなときこそ、自分にできるヴォランティアを。

    身体を動かして働く機会のない人は、社会のために、自分ができることを見つけ、身体を動かすのがいいだろう。じっと家にいるよりも、働く方がずっと心身によい。

    近所のゴミ広い、草むしり、老人ホーム訪問、食料の配達……。自らできることを探しに、街へでかけよう。

    ■子供を守る:不安なニュースを見せない。温かい手で包み込む。

    わたしが小学3年生のころ、『ノストラダムスの大予言』の映画が上映されていた。その予告編の、どれだけ恐ろしかったことか。たいへんな恐怖感に陥り、その後、久しく「地球滅亡」を恐れていた。

    ちなみにその前年公開の映画『日本沈没』にも、恐怖に陥れられた。

    子供時代のわたしは、体型こそ今と同様、たくましかったが、非常に繊細で神経質、不安に陥りやすい性格であった。小学5年生のときが、そのピークだった。

    だからこそ、子供たちの不安が、痛いほどにわかる。ノストラダムスの大予言の予告編の恐怖を、著しく上回る現実が、テレビで、ネット上で、展開されているのだから。

    それが、どれほどの衝撃を、子供たちの心に与えているか。

    大人は子供に、悲惨なシーンを見せてはならない。見せたところで彼らになにができよう。世の中で今起こっていることを、静かに、伝えるべきだ。

    そして、大人が必ず守ってあげるのだと、約束するべきだ。

    温かな手で、子供の手を温めよう。身体を撫でてあげよう。抱きしめてあげよう。たとえ「いや〜」と言われても、一日に一回は、抱きつこう。

    反抗期入りしている子供でも、絶対に不安なのだ。返事がなくても、「お父さんがついているから大丈夫」「お母さんがついているから大丈夫」と声をかけよう。

    実際、大丈夫な自信がなくても、だ。

    そして、質素でも、簡単でもいいから、「手をかけたもの」を食べさせよう。たとえ、店屋物しか用意できなくても、おにぎり一つくらいは、手で握ってあげよう。愛の籠った食べ物は、間違いなくシールド効果を高める

    最後にひとつ。

    泣きたいときは、おいおいと、盛大に泣こう。泣いたあとに、新しい力が沸き上がって来ることもある。

    18HOPE03

  • FLOWER

    インターネットのお陰で、日本のニュースをライヴで見ることができる。いくつかのサイトを見てみたが、USTREAMのNHK総合テレビにつないでいる。

    ときおり、テレビでCNNやBBCのニュースを見る。BBCでは、原子力発電所の爆発シーンが繰り返し放送されている。NHKで見られるよりも、むしろすさまじい津波の模様が、これでもか、これでもか、というほどに流されている。

    昨日、今日と、インドの友人知人、いろいろな人から電話やメールが届く。日本の家族や親戚を案じる言葉に胸が詰まる。

    母が通っていたアーユルヴェーダの診療所のドクターも、母を案じる電話をくれた。近い人、遠い人、どんな人からであれ、やさしい言葉をかけられるたび、ぐっとくる。そういうときは、舌の先を噛む。

    遠い昔、黒柳徹子が、「泣いちゃいけないときに涙が出そうになったら、舌の先を前歯で噛むと涙がとまる」と言っていたのが、心に残っているのだ。

    父の葬儀の際にも試してみたが、かなり効果的だった。妹にも教えたら、葬儀のあと「舌を噛みすぎて、舌の先が痛い」とこぼしていた。あまり強く噛みすぎないようにするのがポイントだ。

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    日本の友人、知人、仕事関係者と、メールや電話で連絡を取り合っている。東京では、携帯電話が通じる人、ランドラインしか使えない人、それぞれ事情が異なるようだ。

    身体的に無傷とはいえ、みなそれぞれに、たいへんな思いをしていることが伝わって来る。数時間かけて帰宅した人、家の中が無茶苦茶だった人、ご主人が海外出張中で不安な人……。

    木曜日の夜にインドから日本へ帰国された方は、成田着陸の5分後くらいに地震が発生し、8時間近くも機内で待機だったという。

    ニュースには流れないところで、どれほどたくさんの人たちが大変な目に遭われていることか、察するに余りある。

    子供がいる人はまた、子供の心が心配だ。子供だけを、遠くに避難させることを考えているという友人もいる。そうして深刻に話していたかと思えば、

    「余震が恐いから、一緒に寝よう、って娘と寝たんだけど、朝になったらベッドにいないのよ。どうしたの? って聞いたら、ママのいびきがうるさすぎて、地震よりいや、って言われちゃった!」

    と言って笑う。地震よりいやないびきって、どんないびきよ!

    「みぽり〜ん(と呼ばれている)、いざってときは、インドに子供たち送るから、預かってね」

    「もちろん! いつでも送って! あ、でもこっちは停電もしょっちゅうだし、コンビニとかないし、道路とか普通に歩けないし、むしろ、子供たち、いやがるかもよ」

    などと言いながら、ともかくは、元気でがんばってね、何かあったら連絡してね……と、電話を切る。

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    直接の被害を受けていない人は、「いつも通りの生活を」することが大切だ、とわたしは思っているのだが、そのいつも通りを、いつも通りにレポートしたことで、不快に思われた方がいらしたことを、コメント欄を通して知った。

    未曾有の大惨事。夜があけるたびに、被災のすさまじさ、ひどさが明らかになってくる。わたしにしても、まさか原発があんなことになり、惨事が大きく拡大することになるとは、想像していなかった。

    12日のその時点で、食べ物やら服のことやらをレポートしたのは、確かに不適切だったと思い、削除した。

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    わたしがホームページを持ち、インターネット上に言葉を発しめたのは今から11年前。10年前の9/11のテロのころは、メールマガジンを発行していた。

    テロ直後の思うところをあれこれと綴った際には、やはり今回と同じように、賛否両論のメールがたくさん届いた。

    ニューヨーク時代の方が、読者数(メルマガ登録数)は圧倒的に多かったので、一つ一つに返信するには時間がかかったが、しかしそれは同時に、自分の考えをまとめるのに、役に立った。

    人の、物事の捉え方、考え方、行動の仕方はそれぞれだ。ただ、強いて言えば、こういう事態において、心を痛めていない人は、多分、ほとんどいない

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    反感の言葉をぶつけている方も、多分、ご自身がたいへん苦しい思いをされているのだろうと思う。そこへきて、お気楽そうに見える日常は許し難いと思われたのも、理解できる。

    ただ、同じ方が名前や文体を変えて、いくつもの批判のコメントを送られるのは、ルール違反だ。編集画面を見れば、IPアドレスが出てくるので、発信されている地域などがわかる場合がある。

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    今回の惨事以外の部分で、心が塞ぐような思いをしないよう、もちろんわたしもそうだが、誰もが「誰かを責めすぎないように」することも、大切だと思う。

    地震発生以来、広く大きな部分で、政治家や、東電の人や、メディアや、その他諸々、あちこちで、誰かを非難する声、文字を目にする。

    それぞれの対応に、反論、不満ははあるだろう。しかしこの状況下において、誰が事態を悪くしたいと思うだろう。みな、なんとかしようと一生懸命であることは、間違いない。

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    これがテロであれば、怒りの矛先をテロリストに向けることができる。そこに怒りをぶつけることで、心身に満ちた不条理を、緩和させることもできるだろう。

    しかし、今回は、天災である。怒りのぶつけどころがない。だからといって、誰かを責めても、何も得られない。

    今後、多くの人々の、緊張や疲労が、怒りや不満に移行し、心のバランスが崩れてしまう方も増えるだろう。

    今、この不安定な状況にあって、自分の、明日の気持ち、来週の気持ちはわからない。わからないが、わたしは自分のできること、インドからのレポートを、その表現を模索しながら、続けるつもりだ。

  • JAPAN

    なんということだろう。

    テレビに映し出される光景。

    海が迫り、大地に轟々となだれ込み、水があふれ、

    瞬く間に車も家も道路も、そして人々の飲み込まれて海の藻屑。

    大地は溶けて、ゆるゆると頼りなく。

    川はあふれて、街を飲み込み。

    崩れ落ちた家屋。

    恐ろしい勢いで燃え盛るコンビナート。

    まるで、昔の、ウルトラマンの、戦闘シーンのように、

    それが現実とはとても思えぬような有様で。

    あまりにも、太刀打ちできなさすぎる、その自然のすさまじい威力。

    * * *

    今日は、終日自宅で原稿を書くために、書斎にこもっていた。インターネットをつながずにいたところ、夫から連絡。夫のボスがニュースを知って、わたしの家族を案じてくれたとのこと。

    デリーの実家や、ご近所さんからも、気遣いの連絡が入る。

    そのうち、DECCAN HERALDや、TIMES OF INDIAの取材の電話が入る。それらの対応は、お断りする。

    福岡は問題ないとはわかっていたが、夫がしつこく「お母さんに電話をしなさい」というので電話をしてみる。が、なかなかつながらない。

    今日は妹の誕生日でもあるので、電話をしようと思っていたのだが、妹にもつながらない。スカイプも、電話も、つながらないときはつながらない。

    午後、つながったときには、母は外出から戻ったばかりで、地震のニュースを見ておらず。

    まるであの日のようだ。9/11/2001。ニューヨークで同時多発テロが起こった時、日本の父からの電話で事態を知った。

    驚いて、窓を開けたら、ペンタゴンから黒煙が吹き上がっていたのだった。

    その後、メイドのプレシラの義姉から電話。やはり、わたしの家族を案じての。TSUNAMIという言葉に敏感に反応したプレシラ。

    彼女たちは、2004年に起こったスマトラ沖大地震の際、折しもクリスチャンの巡礼でチェンナイを訪れており、被災したのだという。

    彼らの泊まっていたホステルは、1度目の津波で床上浸水、2度目の津波で倒壊、洗い流されてしまったという。幼子を抱え、海水に浸かりながら、命からがら、逃げ延びたという。

    無数の死体を目にし、それはもう、悲惨な光景だったと言う。

    * * *

    テレビをつけてみた。

    ニュースチャンネルは、すべて、日本の地震を伝えていた。ヒンディー語のニュースはいずれも、センセーショナルに騒がしく、衝撃的な映像を次々に映し出す。

    胸が詰まる。息が詰まる。

    CNNや、BBCの、比較的穏やかな口調のニュースを、冷静に状況を伝えるニュースを見る。

    しかし、画面の向こうに広がる、目を疑いたくなるような、現実とは思えない、まるで映画を見ているような、光景の連続に、愕然とする。

    いったい、何人の人たちが、流されたのだ?!

    ノアの方舟のようなものがあったら……と、思わずにはいられない。

    「日本の人々は、非常に冷静」

    「パニックが起こることなく、静かである」

    そんな言葉を聞くにつけ、母国の人々を誇らしく思うと同時に、哀しみが迫る。

    日本に住む友人らのことが気になるが、主には東京以西在住。東京は揺れたとはいえ、東北ほどではないようだし……と思いつつも、やはり気になる。

    FACE BOOKを開いてみれば、以前インドに住んでいたユカコさんがコメントを残していた。ハズバンドのビルと連絡がとれないという。

    心配になって電話をしたら、つながった。日本国内同士、東京内同士の方が、むしろつながりにくいのかもしれない。

    激しく揺れて、キッチンのものが割れて、本当に恐ろしかったようだ。ビルがまだ戻らず、とても心配していたけれど、電話で話している途中に帰宅! オフィスから1時間半かけて歩いて帰って来たのだという。

    本当に、安心した。

    災害に見舞われたときは、たとえ大丈夫だと信じていても、本当に、不安なものだから。

    そして、家族が、大切な人が、そばにいるというだけで、もう、本当にそれだけで、ありがたいことなのだ。

    まだ、ご家族と連絡がとれぬ方々のお気持ちをお察ししつつ。

    ひとりでも多くの方が、救われることを、心の底より、願うばかりだ。

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    クールグ旅に出発する前、夫がガイドブックを目にしながら、「バイラクーペ (Bylakuppe) に立ち寄ろう」と言った。「チベット寺院があるんだよ」ともいう。

    夫はここ数カ月、ダライ・ラマに関する書籍を読んでいたこともあり、ガイドブックにあったチベット寺院の情報を見逃さなかったようだ。

    本来は、仏教徒であるわたし自身も、チベット寺院の存在に少なからず関心があったので、それでは最終日、オレンジ・カウンティからの帰路に立ち寄ろうということにしていたのだった。

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    オレンジ・カウンティから車で1時間足らず。道中は、コーヒー農園や田畑の風景が広がっている。と、夫がある看板を見つけて車を停めた。

    ITCが農民に対して行っているサポート。農家にコンピュータとインターネット環境を提供し、彼らに直接、農作物の取引をさせるというシステムが、このコーヒーの産地でも行われているらしい。

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    この画期的なシステムの構築により、それまで中間業者の取り分が多く、農民に渡る現金が少なすぎたのを、是正することが可能になったとのこと。
    ■ITC/ Agri Business Division

    この件については、NHKスペシャル『インドの衝撃2』で、非常に綿密な取材がなされていた。ITCをして、「農村に格安でインターネットを巡らし、農家と直接取引するビジネスを始めるインドの巨大IT企業」と紹介されている。

    詳しくは、過去の記録(↓)を参照されたい。
    ■NHKスペシャル『インドの衝撃』を観て思うことたっぷり。

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    さて、バイラクーペの集落に入るや否や、法衣に身を包んだチベット僧らの姿がそこここで見られるようになる。

    チベット寺院がなぜここにあるのか、なぜ多くのチベット人がここに住んでいるのか、まったく下調べをしていなかったわたしは、この状況に違和感を覚えて、夫に尋ねる。

    聞けばここは、亡命してきたチベット人たちが「数万人」も暮らしているというのだ。もっとも、カルナータカ州では、このバイラクーペだけでなく、ランスール、ムングット、コレガルといった土地にも、チベット人の居住区があるという。

    以下、「ダライ・ラマ法王日本代表部事務所」のウェブサイトにある情報をもとに、概要を簡単にまとめてみた。

    1949年、中国の人民解放軍はチベットに侵攻、全国土を占領しはじめる。1959年、ダライ・ラマ14世はインドへ亡命。その後、約8万人のチベット人がインド、ネパール、ブータンへ亡命し定住する。インド政府は、チベット亡命者のために、インド北部とインド南部カルナタカ州の数カ所を提供した。

    ダライ・ラマ14世は、インド北部ヒマチャル・プラデシュ州のダラムサラに仮宮殿を置き、チベット亡命政権を樹立。また、カルナタカ州の数カ所で大規模なチベット人難民入植地が開かれ、1970年代にはガンデン寺、セラ寺、デプン寺というチベット仏教の三大僧院が再建された。

    中国支配下のチベット本土では、宗教活動が著しく制約されている。仏教を本格的に学んだり修行できる環境ではないため、現在でも毎年千人を超える僧侶や尼僧、出家を目指す若者たちが、ヒマラヤを越え、インドの亡命チベット人社会へ殺到している。インドで生まれた者を含め、合計13万人以上のチベット人がインドに暮らしている。

    ※詳しい内容は、以下のサイトを参照されたい。

    ■ダライ・ラマ法王日本代表部事務所

    ■チベット亡命政権関連サイトのリンク集

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    バイラクーペは、南インド最大、ダラムサラに次ぐ規模のチベット人居住区だとのこと。居住者の人数も資料によってまちまちで、1万5000人というものもあれば、4万人というものもある。

    いずれにしても、年々、その人口が増えていることにはかわりないようだ。1960年代に、インド政府から提供されたこの土地は、当時未開墾だったという。

    周辺に村落はあったのだろうが、土地の開墾はチベットから訪れた彼らが自分たちの手で行わねばならなかったといい、いかにたいへんな作業であったことだろうかがしのばれる。

    人々を取りまとめ、寺院を建立し、暮らしの環境を整え、更なる移民を受け入れる。故国から遠く離れた南インドのカルナータカ州の、鬱蒼とした緑が広がる場所で。

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    まず訪れたのは、バイラクーペの中でも最も規模が大きいとされる通称「ゴールデン・テンプル」へ。正式名称はThe Namdroling Nyingmapa Monasteryというこの寺院は、世界最大のチベット仏教教育機関でもあるという。

    観光客も自由に出入りできるので、早速中へ入ってみることにした。入り口で靴を脱ぎ、預けて、素足で館内へ。

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    随所に装飾が施されているものの、建築物そのものは、体育館のような雰囲気で簡素だが、その祭壇の、三体の仏像のきらびやかさ、存在感に圧倒される。また、壁面に飾られている絵画にも目を奪われる。

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    伽藍には、何列もの敷物が施されており、修行僧らの教典やガンダー(五鈷鈴)、チャイのためであろうカップなどが、そのままに並べられている。

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    目が覚めるような紺碧に浮かぶ天上界の神々。その壁画を背景に鎮座する、黄金色の仏像。

    先ほどまで身を置いていたはずの、コーヒー農園やジャングルが遠く、まるで別世界に放り出されたかのような気分だ。

    観光客らの喧噪も遠く、何かを祈らずにはいられないような清澄さに満ちている。

    わたしにとって、2004年は、死別の年だった。4月には友人の小畑澄子さんが、5月には父が、6月には祖母が他界した。今年はその3人の、七回忌である。

    3人の七回忌を、ここで静かに祈らせてもらった。

    ちなみに小畑澄子さんはクリスチャンだったが、それはそれとして、彼女は寛大に受け止めてくれるだろう。

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    やがて、伽藍に銅鑼の音が響き渡り、入り口から一斉に、若い僧らが入場し始めた。その人数たるや、たいへんなもので、一気に空気が薄くなる感じだ。

    観光客が外に出される様子もないので、隅の方の床に座り、彼らの読経の様子を眺める。わからない言葉の連なりが、単調な音楽のようにあたりに満ちるのを、茫然としながら聞き入る。

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    この人たちは、ここで生まれたのだろうか。

    それとも、チベットから亡命してきたのだろうか。

    いつか故国の土を踏めることを信じているのだろうか。

    それとも、生涯をこの、隣国とはいえ異国の、

    不自由な世界で過ごすのだろうか。

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    こんなにも、明らかで、鮮やかで、力強く、確固たる「チベット」という国の文化を、宗教を、本国で受け継ぐことができないとは、どういうことなのだろう。

    それでも、こうして、他国に生き延びる道が用意されているということは、幸運なことなのだろうか。

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    インドとチベットの間の取り決めや、この居住区における法的なルールなどについては、調べてみなければわからない。しかし、周辺村落には当然、インド人たちが暮らし、このバイラクーペにも、インド人とチベット人が混在している。

    なんの諍いもなく、平和に共存しているばかりだとは思えないのだが、しかし目に見る限りでは、不思議な調和を見せている。

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    僧侶たちの読経の様子を、インド人の観光客が眺めている様子は、なにやら違和感があり、不思議な様子だ。

    入場料などを取られることもなかったので、わたしと夫、それぞれに、お布施をさせていただいて、伽藍をあとにしたのだった。

    それにしても、だ。少なからず、情報の窓口を広げ、インドに暮らしているにも関わらず、自分が住んでいる州の、こんなに明らかなことさえも知らなかったことにも、少なからずの衝撃だ。

    インド。住んでも住んでも、よくわからない。住めば住むほど、「わからなさ」が明らかになる。

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    ゴールデン・テンプルの敷地内にある小さな書店に立ち寄り、夫が数冊の本を買った。なぜか「竹取物語」もあった。かぐや姫。これまた、神秘的な日本最古の物語である。

    なよたけのかぐや姫。月。不死の山。富士山……。

    生まれ出づる以前からの、遺伝子の中に刻み込まれたノスタルジアが、沸々と。

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    ゴールデン・テンプルの向かいにある、小さな商店街のような場所をふらりと歩く。中国で着ていたら、多分逮捕されかねないTシャツなども売られている。

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    さて、そろそろお昼時。衝撃を受けても、お腹はすくものである。チベットといえば「モモ」(水餃子風)である。本屋のお兄さんの勧めで、小さな食堂へ赴き、モモを一皿注文する。

    が、あまりおいしくない。

    別の店で、別の人にお勧めの店を聞き、再び気を取り直して赴く。野菜モモと豚肉モモ、2種類を頼む。が、あまりおいしくない。おいしくないどころか、むしろまずい。

    二人とも無口になり、チャイを飲み干し、店を出た。

    ちなみに、この日のモモによる不完全燃焼がわたしの心に火をつけ、数日前、餃子を大量に作って食べたのだった。その様子はキレイなブログに記しておいた。→ひたすら手作り餃子と豊かな水菓子。(←Click!)

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    さて、不完全燃焼なランチのあと、そろそろバンガロールへ戻ろうと車に乗り込めば、夫がもう一つの寺院を訪れたいという。

    わたしはもう、ゴールデン・テンプルで気持ちがいっぱいいっぱいだったのだが、彼が「どうしても見ておきたい」と主張するので、同意した。

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    見晴らしのよい、広大の丘の上にたつこの寺院。先ほどとは打って変わり、観光客は誰もいない。がらんとした空き地に車を停め、歩く。

    先ほどの寺院よりも小規模ながら、太陽光が差し込み、明るく清澄な空気が流れているこの寺院。小さな子どもの修行僧が、ここで学んでいるようだ。

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    わたしたちも、再び隅の方に座り、彼らの勉強の様子を拝見させてもらう。

    ほどなくして、「給食係」の少年たちが入ってきた。チャイと、数枚の食パン、そして果物。子どもたちは本当に行儀よく、静かに、黙々と食べ始めるのだった。

    彼らが食事を始めたので、わたしたちはおいとましたのだが、それにしてもまた、諸々が胸に迫る様子であった。

    さて、車に乗り込み、バンガロールへの長いドライヴが始まる。束の間訪れた、このチベット人の居住区での数時間は、今ここで簡単に言葉で総括できない、諸々の思いを与えてくれたのだった。

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    バンガロール市街に入る直前に、夜の渋滞に巻き込まれることを見込むと、家につくのは9時ごろになるだろう。

    従っては、途中で軽く食事をしていこう。ということになり、またしても! 夫の要望により、行きと同じ店へ。「ティファニーで夕食を」である。

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    今回もヴァダと、そしてプレーンドサを注文。プレーンの、三角帽子のような形がかわいらしい。ちなみにティファニーはここ数年のうちに2店舗を増やし、行きに訪れた古い店の隣に、新店舗を開店していた。

    今回はその新店舗に行ったのだが、メニューも料金ももちろん同じであった。

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    インドで長距離ドライヴをすると、必ず一度は遭遇する事故現場。本当に、哀しいかな、必ず一度は。なのである。これは、トラックが横転している様子。

    荷台にココナツの実が積まれているのが確認された。中央分離帯に乗り上げてひっくり返ったらしく、多分居眠り運転であろう。運転席とは反対側にひっくりかえっているので、運転手は怪我も少なかったのではなかろうか。

    ともあれ、インドのトラックは荷台が「むきだし」の場合が多いのだが、少なくともこのトラックはカヴァーがあり、ココナツが周辺に散乱しなかっただけ、幸いだったといえるだろう。

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    今回もまた、予想通り、市街に入る前で大渋滞。メトロの工事もまた渋滞に拍車をかけているようで、なかなか車は動かず、家に到着したのは9時少し前。バイラクーペを出たのが午後3時だから、やはり6時間かかった計算だ。

    ともあれ、今回の旅。訪れた土地は一カ所だったが、しかし、異なる場所を見たことで、旅の濃度が増した気がする。

    まだまだ、知らない場所が多すぎるインド。まさに、「点」ばかりで「面」を見ていないわたしたち。これからも、少しずつ、小さな旅を重ねて行きたいものだと思う。

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    GAURAV SARIA(infinitea 経営)JULY, 2007

    「僕は、殊更、父親にビジネスを学んだ経験はないけれど、子供のころ、ときどき父のオフィスを訪れては、仕事をしている様子を眺めていました。あるとき、僕は父に尋ねたんです。毎日毎日、同じようなことをやってて、退屈しないの?って。すると父はにっこりと笑いながら言ったんですよ。自分の好きなことを仕事にしたら、毎日がホリデイなんだよ、って。あの一言は、僕に大きな影響を与えました」

    [Introduction]

    2005年11月、バンガロールへ移住し、住まいとなるアパートメントをカニンガムロード沿いに見つけた我々夫婦は、大家と最終契約をする前に、界隈を散策することにした。

    カニンガムロードは、交通量が非常に多く、排気ガスの立ちこめる劣悪な環境だが、それは同時に繁華街であることを意味し、飲食店やオフィスビル、銀行、病院、商店やモールなどが立ち並んでいる。

    ほんの数十メートル歩いただけで、精神的に疲労困憊した我々は、ちょうど目の前に見つけたinfiniteaというティールームに入ることにした。目の前、といえど、交通量の多い通りを横切るのは簡単ではなく、怒濤のように流れ去るバスやバイクやオートリクショーの合間を縫って、対岸にたどり着いたのだった。

    店に入り、中二階のテーブルに席を取る。インドにしては珍しく、高級茶葉の種類が記されたメニューだ。インドは紅茶産出国でありながら、そのほとんどが輸出向けで、国内で質のいいお茶を口にする機会は非常に少ない。だから、その茶種の充実ぶりに、感銘を受けたのだった。

    メニューには、チベット風の餃子「モモ」もある。紅茶とモモの組み合わせはユニークだ。どんなものだろうかと、一皿を注文することにした。

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    と、我々の傍らに青いTシャツを着た青年が立ち、「いらっしゃいませ」と挨拶をする。聞けば彼は、この店のオーナーだという。彼の父親はコルカタで茶の貿易を、叔父はダージリンで茶農園を経営しているらしい。そして彼は、「良質の紅茶を出すインドで初めてのティールーム」を、このバンガロールに開いたとのこと。

    夫は彼の話に興味を持ち、売り上げや利益率など、込み入ったことまであれこれと話題にのせ、しばらくの間、話をしていた。

    さて先日、久しぶりに、今度はわたし一人でinfiniteaを訪れ、ダージリンティーを頼み、モモを注文した。テーブルに届いたモモの写真を撮っていたら、”May I help you?” といいながら、例のオーナーがやってきた。メニューを食い入るように見ていたかと思えば、急に写真を撮り出したりするものだから、ちょっと気になったのかもしれない。

    彼はわたしのことを覚えてはいなかったので、改めて挨拶を交わし、少々の世間話などをする。そのうち、彼をインタヴューしたいと閃いた。

    わたしはライターで、プライヴェートのホームページを持っている。先日より、インド人インタヴューの連載記事を書き始めた。ついては、あなたをインタヴューさせてもらえないだろうか。そう切り出すと、彼は迷いなく快諾してくれた。

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    とはいえ、彼は明日から長期不在で、バンガロールに戻るのは1カ月以上あとだという。わたしは後日の取材でも構わなかったのだが、むしろ彼が積極的だった。今日、これから所用があるけれど、20分ほど待ってくれるなら、その後30分ほど時間が取れるという。20分待ちではすまないであろうことは覚悟の上で、待つことにした。

    さて、ようやく1時間後。

    「待たせてごめんなさい」

    と言いながら、彼は慌ただしく現れて、わたしの向かいの椅子に座った。

    「気にしないで。こちらこそ、忙しいときに時間をいただいて……どうもありがとう。」

    わたしは冷たくなった紅茶を一口、飲んだあと、インタヴューをはじめた。

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    ◉インド人インタヴューシリーズ/第2回

    彼、ガウラヴ・サリアは、1979年、コルカタのマルワリ(marwari)の家庭に生まれた。マルワリとは、北インドを拠点とする商人のコミュニティで、ビジネスの才覚に長けた人々を育んでいる。インドには、マルワリ出身の財閥も少なくないようだ。

    ガウラヴは幼少期から、家族や親戚の仕事に打ち込む姿を見ながら育ってきた。彼の叔父は、ダージリンに茶園を持ち、茶の生産に携わっている。一方、彼の父はインドの茶ビジネスの中心地であるコルカタで、茶の貿易を生業としてきた。

    一族郎党の旺盛なビジネス精神を目の当たりにしながら、しかし高校時代の彼は「音楽」が大好きで、地元のクラブなどでDJをやり、将来は音楽業界に身を置きたいと思っていた。しかし、両親は大反対。ともあれ、将来を確定するにはまだ早い。ひとまずは、オーストラリアのメルボルンにある三年制大学で、コンピュータサイエンスを学ぶことにした。

    「音楽業界に入れないとすれば、ITビジネスかな、と思ったんです。それでコンピュータサイエンスを専攻したんですけれどね。学校に行き始めて気づいたんです。ITは僕の”Cup of Tea” (好み)じゃないってことに」

    それでも、ともかくは大学を卒業し、2001年、21歳で故郷のコルカタに戻る。ついには大学を卒業したのだから、身の振り方を決めなければならない。IT業界で働くつもりはない一方、「商売」への関心はあった。しかし、音楽の道に進みたいという気持ちは、未だに強い。

    親の反対にあいながらも、音楽業界に進むために、ムンバイ行きの手段を考えていた。そんなとき、父親が仕事で、久しぶりにバンガロールを訪れ、この街の急変ぶりに驚くと同時に、ビジネスチャンスがあることを直感した。

    「父は言ったんです。僕がムンバイで音楽をやるというのなら、絶対に手を貸さない。けれど、バンガロールで茶のビジネスをやるなら、全面的に支援すると。その話は、僕にとって、とても魅力的なものでした」

    彼のサリア一族は、三代に亘って茶のビジネスに携わってきたものの、茶専門の喫茶店を開くという試みは初めてだった。

    「海外では、お茶専門のティールームは、決して珍しくありません。でもインドでは、初めてのことだったんですよ。インドは世界最大の紅茶産出国でありながら、高級茶の100%はすべて輸出用でしたからね。今だって、ほんの0.00数パーセントくらいしか、いいお茶は国内に出回っていないんです」

    たとえば、我々日本人の多くは、ダージリンのファーストフラッシュがどうの、セカンドフラッシュがこうの、アッサムがどうした、と、茶種を知り、飲み方を知り、英国流ティータイムが模倣し、ときに滑稽なほどのこだわりを見せる。

    翻ってインドでは、紅茶が一般的に飲まれるようになったのは1900年以降のこと。厳密には、ここ50年ほどのうちに浸透した新しい「文化」なのだ。

    更に言えば、国内流通の紅茶は、高級茶製造過程で生じる「屑」、つまりダストティーを集めたものが主流。無論これは、ミルクと砂糖がたっぷりのインドの国民的飲料「チャイ」を作るのに好適ではある。一方、海外渡航経験があり、お茶の味に一家言を持っている富裕層などは、国内ではなかなか入手できない茶を、海外旅行の際に購入するなど、「個人逆輸入」してきた状態だった。

    「バンガロールで新しいビジネスを」という父の提案は、ガウラヴの音楽業界に対する思いを断たせるのに十分だった。

    「父は、IIT(インド工科大学)を卒業した後、米国に渡り、ニューヨーク大学へ進み、1980年に茶の仕事を始めました。非常にコスモポリタンなビジネスマンで、尊敬すべき人です。音楽業界に進めないのなら、いったい何をすればいいのかと悩んでいた僕にとって、父のバンガロール進出のアイデアは、新しくてリスクも高い分、エキサイティングだと直感しました。父はまだ55歳ですから、一緒にビジネスをやっていこう、という感覚で接してくれるのが助かります」

    そもそも独立心が強いガウラヴ。しかしまだ23歳になったばかりだった彼にとって、新しい業態への試みは、責任の重い仕事でもある。

    「もちろん、責任は感じていますよ。でも僕は、ストレスOK!なんです。人の下で言われた通りの仕事をするよりは、責任を持たされる方が遥かにいい。父よりも、いい仕事をやりたいですからね!」

    ガウラヴはまず、父のもとで1カ月ほど、茶や茶のビジネスについて学んだ。それからバンガロールに移り、ティールームの物件探しを開始する。2カ月ほどの間に500軒以上の物件を見て回ったが、なかなか思うような店舗が見つからない。

    「ちょっと煮詰まっていたある日、この空き店舗を見つけたんです。店に入った瞬間、ここだ!と思いました。大家さんが近くに住んでいるというので早速訪れ、話をしました。家賃は、父と決めていた予算の2倍もしたのですが、もう、ここしかないと思い、父親との相談なしに、即決したんです」

    彼が大家と契約を取り決めたわずか2日後、インド有数のコーヒーチェーン店 “Cafe Coffee Day”が、この店舗を借りたいとやってきたという。まさにぎりぎりのタイミングだった。

    「ところで、この店、飲食店が何度も入ったらしいんですけれど、1年と持った店はなかったという悪いジンクスがあるんです。でも、僕はそのジンクスを塗り替えてやる! と思いました」

    開店にかかわる殆どの段取りを、ガウラヴは一人で始めた。飲食店の経験が全くない彼にとって、全てが試行錯誤である。そんな最中、バンガロールで広告代理店を経営する、やはり若手のインド人男性が現れ、彼のビジネスに共鳴。店内のレイアウトにはじまり、インテリア、メニューの構成、ロゴマークの制作など、採算度外視で関わり始めた。

    そして2003年の7月4日、晴れてinfiniteaがオープンする。ガウラヴ、23歳のときだ。

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    「最初はお茶とスナックだけを出していたんですが、それでは利益が上がらないことがわかったので、半年後には朝食、昼食、夕食と料理を出すことにしました。メニューは主にコンチネンタル。周囲やカスタマーの声を聞きながら、自分で考案してきました。なにしろ決めるのは自分だから、変更はどんどんやっています。この3年間で、実は4回もメニューを変えているんです」

    お茶を引き立てるための料理を考案することは、難しいが同時に楽しい仕事でもある。ダージリンでよく食べられているモモは、この店の人気メニューに育った。

    新しい時代の、新しいビジネスを始めるのに、マーケティングリサーチは必要ない。実践し、試行錯誤しながらやっていくのが自分に合っていると言い切るガウラヴ。それは一族のバックアップがあってこそできる冒険だとも思えるが、実際、infiniteaは、着実に業績を上げている。

    「この店をオープンして8カ月後には収支が均等になりました。あのときは、本当にうれしかったです。それからは、少しずつ利益率が上がっています」

    今のところ、利益率は25~30%。利益率の上昇に伴い、彼は新たな試みを始めている。たとえば茶葉やティーバッグの製造、販売。ティーバッグは、茶葉がきれいに開くよう、インド初のナイロン製を採用した。これも「インド初」の試みだ。

    消費者の立場から見れば、パッケージなどに再考の余地ありと思われるが、これもまた、試行錯誤を経て変遷していくのだろう。

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    来年には、やはりインドで初めての、「ボトル入りティー」を発売する予定だ。また、年末から来年にかけては、コルカタに2軒、バンガロールのインディラナガールに1軒、infiniteaをオープンする予定でもある。

    「まだまだこの仕事を始めたばかりで、先のヴィジョンは明確に描けていませんが、今、ダイナミックなうねりを見せているインド市場の中で、確実にブランドを定着させるつもりなんです。そのうち道筋が見えてくるでしょう」

    インドの人たちに、本当においしい紅茶の味を知ってほしいと、ガウラヴは切望する。ダストティーを紅茶だと信じて、小さなカップにミルクをたっぷ入れ、更には砂糖を、スプーンが立つほどに入れる。それもまた、インドならではのチャイの楽しみではあろうが、しかし、真なる茶葉の味を広めたい。

    Infiniteaのメニューには、茶の飲み方も記されている。良質の茶葉の箇所には、「ミルクと砂糖を入れずにお飲みください」とアンダーライン入りで記されているのだ。

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    「僕は、このinfiniteaを、インド版のスターバックスのように育て上げるのが夢なんです。そして、いつかは、ニューヨークに進出したい。マンハッタンに店を開きたいんです」

    今年から、米国の大学を卒業したばかりの妹も、infiniteaのビジネスに参入、コルカタ店開店に向けての準備をしている。彼らには、年齢やキャリアを凌駕したパワーが迸っているようだ。

    「僕は、殊更、父親にビジネスを学んだ経験はないけれど、子供のころ、ときどき父のオフィスを訪れては、仕事をしている様子を眺めていました。あるとき、僕は父に尋ねたんです。毎日毎日、同じようなことをやってて、退屈しないの?って。すると父はにっこりと笑いながら言ったんですよ。自分の好きなことを仕事にしたら、毎日がホリデイなんだよ、って。あの一言は、僕に大きな影響を与えました」

    茶に関わる仕事をはじめて、今、これが自分にとてもよく合っていると実感している。だから、毎日が充実しているし、やりがいもある。

    ところで1カ月前に結婚したばかりだという彼、実はインタヴューの翌日から不在の理由は、新婚旅行でイタリアへ行くからなのだとか。そのあとコルカタに戻り、新規店舗の準備に専念するとのこと。途中に来客が在り、とぎれとぎれの短いインタヴューではあったが、彼の熱意を十分に感じ取ることができた。

    マンハッタンの摩天楼のふもとに “infinitea”の看板が掲げられているのを思い描きながら、再び喧噪のカニンガムロードを歩き、家路に就いた。

  • 今、福岡の実家に、母と二人でいます。先月の27日にこちらに来て以来、2週間あまりが過ぎました。10日間ほどこちらに滞在していた夫、アルヴィンドも、先週帰国し、わたしも17日には、米国に戻る予定でいます。

    今年は身の回りで、さまざまに深く重い出来事が起こっていますが、個人的には心身共に元気で過ごしています。

    書きたいをまとめる精神的にも時間的にもあまり余裕のない日々でしたが、時間の合間を縫って、買ったばかりのiBookに向かっているところです。

    長々と、今回も書き連ねてしまいそうですが、どうぞおつきあいください。

    ——————————————————

    ここしばらくの、わたしを取り巻く環境は、極めて現実的だったにもかかわらず、どこか夢を見ているような、自分の心の在処が定まらないものだった。

    一時帰国していた日本から戻ってちょうど1週間後の5月22日土曜日。父はそれまで入院していた病院から、福岡市東区にある原土井病院の緩和ケア病棟、つまりホスピスに移った。

    5月上旬、わたしが帰国していたときは、まだ起き上がって食事をすることも、話をすることもできた。右側の肺がすでにがんで覆い尽くされていたため、咳がひどかったものの、投薬により、それまでの数カ月に比べるとずいぶん減っていたようだ。

    とはいえ、回復の見込みはないに等しかった。それまでは、何度入院しても復活するだろうと確信していたが、今回ばかりは違った。

    そもそもから非常に体格がよく若々しい風体の父だったので、痩せてはいたものの、傍目には重病人には見えなかったが、事実、身体は著しく衰弱していたし、話し声も弱々しかった。

    わたしが米国に戻った直後より、父の容態はどんどん悪化していき、それまでは、「まだがんばりたい」と主張していた父が、ついには、自らホスピスに行きたいと訴えたのだった。

    母と妹からの報告によると、原土井病院は看護士の方々も非常に親切で、また病室などの設備も行き届いており、とても快適な環境であるとのことだった。

    もう既に、何度か書いてきたことだが、父は1999年の年の瀬より体調を崩し、2000年3月に末期の肺がん(小細胞肺がん)を診断された。小細胞肺がんは進行、転移が早いことで知られ、父の場合、発見時にはすでに肺全体に転移してたこともあり、治療を受けたとしても、2年以上生存する確率はゼロとのことだった。ただ、進行が早い分、抗がん剤が効きやすい、という事実が、一縷の望みではあった。

    最初の入院の後、3回再発し、3度入院した。月日を追うごとに再発の間隔が狭まり、父の体力も弱り始めていた。半年前あたりに、いつものごとく九大病院で検査を受け、またしても抗がん剤投与の必要性を告げられたとき、父は西洋医学による治療を拒否したのだった。

    わたしは電話で、西洋、東洋、両方の治療を同時に勧める方法を提案したが、父には思うところがあったようで、もう抗がん剤による化学療法は受けたくないと、きっぱり拒否した。

    両親は、通い始めたクリニックのドクターの言葉を信じ、高熱や激しい咳に襲われながらも数カ月の闘病期間を共に過ごした。

    これまで入退院を繰り返しつつも、4年以上元気で生活をしていた父だったから、ひょっとするとこのままずっと、がんと共存しながら生きていけるのではないか、と楽観する気持ちもあった。

    しかし、いずれにせよ、父の体力は限界だったのかもしれない。抗がん剤を続けていたとしても、今後、日常生活に復帰できることはなかったと思われる。やりきれない病だ。

    ホスピスに移った父は、著しく衰弱していった。父のような状況、つまり末期のがん患者がホスピスに入った場合、その人の寿命を予測することは決して簡単なことではないそうだ。

    苦しみながら生きながらえる人もいるし、すぐに死ぬ人もいる。

    父の場合はどうなのか、誰にも予測することはできなかった。ただ、遅かれ早かれ、父の死は目前に迫っていることには間違いなかった。

     

    ●再び、日本へ。

    父がホスピスに移った週末、いよいよ父の容態が悪いという知らせが届いた。今度こそは、もう、だめだと思った。わたしは週明けの月曜日、再び日本行きの航空券を手配するため、旅行代理店に電話をした。

    翌日火曜日の便は、エコノミー、ビジネスクラスともに満席だった。水曜日の便は、エコノミークラスに2席空きがあった。翌木曜日はまた、全席満席だった。わたしは辛うじて空席のあったその水曜の便を、予約した。この時期、学生たちの夏休みの帰省ラッシュのため、連日のように満席が続いているとのことだった。

    今回の帰国は長引くことを予測して、仕事や経理などの事務作業を前倒しに進め、家の片付けをし、不在時の夫の食事などを準備し(良妻)、一方、彼が日本に来ることも予測し、入国の際に必要なビザの申請書類を準備するなど、慌ただしい数日を過ごした。

    そして出発を翌朝に控えての26日水曜日深夜、荷造りを終えてベッドに入ろうとした瞬間、電話のベルが鳴った。ホスピスで父の傍らにいた妹が、父の病室から携帯電話をかけてきたのだった。

    「お父さん、もう、間に合わないかもしれないから」

    妹が言った。

    その日、日中は、意識があり、なんとか話ができていた父の意識が、いよいよおぼつかなくなってきたらしく、このまま昏睡状態に入ることを心配し、妹は私と父に話をさせようと電話をしてきてくれたのだった。

    父は「いびきをかきながら、しかし意識は覚めていている」という、不気味な状況に陥っているとのことで、話せなくても、身体は寝ていても、周囲の物音は聞こえてはいるという。いや、聞こえているという以上に、細かい物音にも敏感に反応するなど、神経がとぎすまされているようだとのことだった。

    受話器の向こうに聞こえた父の声は、「虫の息」と呼ぶにふさわしいものだった。太くてたくましく、大きかった父の声からは、もう、かけはなれた、それは恐ろしく弱々しい、別の存在だった。しかし、それは紛れもなく、死に瀕した父の声だった。

    もう、父が何を言っているのかは、よくわからなかった。わたしも、自分が何を言っていいのか、わからなかった。ただ、父が何度も「ありがとう、ありがとう」と、言っていることはわかった。

    「(美穂の)心は、帰ってきてくれている」とも、言っているらしかった。

    「最後まで、キザなことを言うわねえ」と、傍らの母が言った。

    福岡に到着するまで、30時間弱。間に合わないかもしれない。前回、帰国したときに、「もう、会えないかもしれない」と覚悟していた。病室を出る間際に手を振ったその光景が、もう最後になるだろうと心の中に刻んでいた。刻んではいたが、しかし人並み外れて生命力のある、存在感の強い父が死んでしまうことは、もしかすると、ないかもしれないとも思っていた。

    電話を切ったあと、わたしは一気に数年分の涙を流した。こちらに戻って来ずに、そばにいるべきだっただろうか、と悔いているわたしに、アルヴィンドは言った。

    「ぼくは、母さんの危篤の知らせを聞いて帰国したとき、母さんはすでに意識がなかったんだ。骸骨みたいにやせ細って、死にかけた母さんのそばで3日間を過ごした。ぼくは、それを経験したことを、決してよかったとは思っていない。彼女が元気なうちに、大学を休んで帰ってくればよかったと、後悔ばかりした」

    彼は励ましとも慰めともつかないことを言い、美穂が自分を責める必要はなにもないと言った。

    確かに、自分を責めることは無意味だし、それはわたしの性に合わないことだ。わかってはいたが、自問せずにはいられなかった。

    わたしには、米国での自分たちの暮らしがある。仕事もある。帰ってこなければならなかったのだ。

    世の中の、誰もが経験するはすの痛みなのに、それを経験している人は、身の回りにごまんといるはずなのに、いざ自分の身に降り掛かると、それは特殊な痛みのように思われてしまう。

    翌朝、出発する前に、妹の携帯に電話をした。父は昏睡状態ながらも、まだ生きていた。「美穂姉ちゃんが帰ってくるまで、がんばってもらう」と妹は言ってくれたが、もう、急激に死へ向かっていく父を、わたしのために引き止めるのはいやだった。

    それにしても、ここ数日で、こんなに容態が急変するとは、予測していなかった。どうして、この期に及んで、わずか一日、二日の違いが、こんなに決定的な違いになるのだろうか。

    それでなくても長く感じる機内での14時間が、果てしなく長く感じられた。それでも、機内食を食べ、映画を見、少し寝た。父のことを考えると心が塞ぐので、思い出さないようにした。

    あふれんばかりに水をたたえた感情の泉に通じる道の途中に、いくつもの柵や塀などの障害物を立てることにした。障害物を見つけたら、即座に引き返す。感情の深みに至らない。少し、鈍感にしていよう。少なくとも、ここしばらくは。そう思った。

    そして27日金曜日。成田空港に到着して、福岡への便のチェックインをしたあと、妹の携帯に電話をした。午後、3時半ごろだったろうか。

    「あ、美穂姉ちゃん! 今どこ?!」

    妹の声は、切羽詰まっていた。福岡に到着するのは午後7時55分。病院に到着するまでには、まだあと4時間はかかる。

    「間に合わないかも……」

    妹は言った。

    空港のラウンジで冷たい炭酸水を飲みながら、飛行機が飛び交う空を眺めていた。澄み渡った五月晴れの夕方の、穏やかな空だった。どんなに気が急いても、飛行機が早く出発することはない。わたしは、ただ、そこで待機するしかなかった。

     

    ●ホスピスへ。父との対面。

    インドのニューデリーに比べると、なんてまばゆい夜景なのだろう。

    そう思いながら、色とりどりの美しいネオンに彩られた福岡の町を上空から見下ろす。父は、まだ生きているだろうか。胸騒ぎも、虫の知らせも、なにも感じなかったから、まだ生きているかもしれない。

    荷物を受け取り、タクシーをつかまえ、原土井病院の名を告げた。奇しくも運転手の義母が同じ病院に入院しているとかで、近道を通ってくれた。

    緩和ケア病棟の入り口には、ウェブサイトであらかじめ見ていた通り、赤い支柱が立っていた。写真のキャプションに「生命力あふれる赤い柱」とあったが、ここを訪れる人に、その赤い柱は、果たしてふさわしいのだろうか、とも思った。

    スーツケースをひきずりながら病室に向かう途中、看護婦さんに会った。

    「坂田の家族の者ですが……父はまだ生きていますか?」

    看護婦さんは答えた。

    「ご親戚の方も、お集まりになっています」

    父の病室の周囲には、叔父や叔母たちがいた。みな、涙ぐんでいる。広めの病室の、奥の方の、窓際のベッドで、家族や親戚らに囲まれて、鮮やかな赤いTシャツを着た父が横たわっていた。

    父はすでに死んでいた。

    肺がんを発症する前までは、元気が自慢の父だった。肺がんになり、抗がん剤治療を受けたあとでさえ、どこから見ても病人には見えない体格のよさと、若々しさがあった。

    だから大幅に体重が減ったとはいえ、まだ70キロはあった父の身体は、病の果てに死んだとは思えない頑丈さで、顔が大きく、骨太のせいか、さほどやつれても見えず、触れれば皮膚もまだ柔らかく、しかしもう身体は抜け殻で、明らかに「物」になっていた。

    「お父さん」

    声をかけても、そこにはもう、父はいなかった。亡骸を見ても、不思議なくらい、悲しみがなかった。

    この日、この病室には、本当に、うっとりするほど爽やかな風が吹き込んできたのだという。心地よい、その5月の風に吹かれながら、もう今朝からは意識のなかった父の傍らで、母と妹は、ひととき記念撮影をしたり、お茶を飲んだりお菓子を食べたりして過ごしたのだという。

    父は、わたしが成田空港のラウンジで空を見ている頃、息を引き取ったそうだ。

    母と妹は、父が最後の数日間、苦しんでいる様子を見、死に行く姿を見、どれほどか辛かっただろうかと思う。しかし、呼吸の苦しさがあったとはいえ、肺以外への転移はなく、多分、一般のがん患者に比べれば「痛み」にさいなまれることがほとんどなかったことは、幸いだったかもしれない。だから父は、とても穏やかな顔をして、永い眠りにつけた。

    ところで、恥ずかしいので書くのもはばかられるが、父と母は近年、お互いを「ジョン」「マリー」と呼び合っていた。その名が何に由来するかを書くのは、更に恥ずかしいので省略するが、その愛称は、広く周囲の人々にも知られているところとなっていた。

    父が息を引き取った直後、

    「ジョン! ジョン! ジョ~ン!!」

    と、大声で泣き叫ぶ母を見て、泣きながらも笑ってしまった妹の複雑な心境は、想像に難くない。

    夜、9時を過ぎた頃、斎場の人たちが遺体を引き取りにきた。わたしたちもまた、香椎という町にある斎場に向かった。父が生きていれば、わたしはホスピスに泊まる予定でいたが、もう初日から、斎場に泊まることになった。

    ホスピスを出るとき、お世話をしてくれた看護士の方々が、父の乗った車に向かい、玄関先で深くおじぎをして別れを告げてくれた。その様子に、まるで映画かドラマを見ているかのような心持ちになった。

    実家のある福岡市東区周辺には、最近、新しい斎場が増えたのだという。高齢化社会で葬儀が増えることに先駆けてか、わたしたちが利用したその典礼会館と呼ばれるその斎場も、まだできたばかりだった。

    前回、帰国していたとき、近くて便利だということもあり、そこで父の葬儀をしようとの話し合いを、母と妹としていた。また、宗教にはとらわれない「お別れ会」の形式をとること、つまり僧侶を招いてお経をあげてもらうこともしない、ということも決めていた。

    父方は日蓮宗(南無妙法蓮華経)で、母方は真宗(南無阿弥陀仏)と、どちらもとりあえずは仏教徒ではあるが、日頃から信心深かったわけでもなく、家に仏壇があるわけでもない。

    従って、葬儀の段取りなどは、主にわたしと妹と二人でやることになり、経済的にも精神的にも肉体的にも、できるだけ負担のかからない形で進めようと、話をしていたのだ。

    父が生前、祖父のためにたてたお墓が佐賀県の鳥栖にある。そこに父の遺骨は納めればいい。お墓があっただけ、よかったと思う。さもなくば、インド式に、最寄りの川に流すところであった。というのは冗談だが。

    宗教に囚われない葬儀をすることに関しては、近年、日本では「自由葬」とか「家族葬」というものが一般的になりつつあるということは聞いていたので、さほど世間体を気にすることもなかった。あれこれと干渉してくる親戚がいなかったことも幸いだった。

    広い座敷の間に横たわった父の遺体を前にして、母が親戚の人たちを話をしている間、わたしと妹は、斎場の担当者と葬儀の打ち合わせを始めた。

    とても、感傷に浸っていられるような状況ではない。

    あらかじめ、妹夫婦がこの斎場を訪れ、大まかな要望と予算などを申し出てはいたから、少しは楽だったものの、やはり一からリストに沿って、決めていくのだった。

    本来ならば、翌日が通夜で、翌々日が葬儀、となるところだが、翌々日が「友引」につき、最寄りの火葬場が休業だという。だからといって、葬儀を一日遅らせると、翌日が仮通夜、翌々日が通夜、そしてその翌日が葬儀、となってしまう。

    母と妹は看病で疲れきっている。わたしとて、長旅のあとだから、元気いっぱいというわけではない。担当者によれば、実際、友引に葬儀をしてはならない厳密な理由はないようだ。迷信に従うよりも「ことを速やかにすませたい」というのが、わたしたちの本音だった。

    聞けば、少し離れたところにある油山の火葬場は、友引でも営業しているとのことなので、そこで火葬してもらうことに決めた。

    後日、NHKのテレビ番組で、最近はやり始めているという「こぢんまり葬」の特集を見た。それによると、葬儀は「三日間戦争」とも呼ばれ、この慌ただしい数日の間に、さまざまなことが瞬く間に決められていくのだと言う。まさにその通りだったと思う。

    棺や骨壺の種類、祭壇の飾り付け、通夜の料理のメニュー、香典返しの品物など、カタログを見ながら一つ一つ決めていく。

    「棺はどうせ燃えてしまうから安いもので(それでも5万円也)」

    「骨壺は、あとに残る物だからちょっといいものを(7万円也)」

    「提灯やランタンはいらない。そのかわり、生花をたっぷりと(30万円也)」

    「菊は地味だから極力さけて、彩りのいい百合や蘭など、華やかな花を」

    「通夜の料理は精進料理じゃないものを。アルコールはなしで」

    通夜や葬儀の式次第も、その場で大まかに決めていく。僧侶を呼ばず、焼香もしないので、それに代わる「献花」の儀式を加えること、また、父の写真を映し出すスライドショーを行うことなど。

    一般的な仏教形式の葬儀に比べると、はるかにさまざまを省略しているはずなのに、そろえなければならないものが実に多い。リストに連なる項目も、そしてかかる費用も、みるみる増えていく。

    各項目の適正価格がわからない上、疲労困憊だから判断力も鈍る。ともあれ、葬儀に対するわたしと妹の価値観が近かったのは幸いだった。空腹だし、眠たいしで、早くすませたいこともあり、次々に即決した。それでも、数時間を要した。

    そして深夜。どうにか大まかな予定が決まったのち、わたしと妹は葬儀場の向かいにあるロイヤルホストで遅い夕食を取った。

    アルヴィンドには斎場に着いて間もなく、電話で訃報を知らせ、早急にビザの手配をして日本に来るよう頼んでいた。

    妹と二人、疲労の極みながらも豚の角煮と中国粥のセットを食べていたら、アルヴィンドから妹の携帯電話に連絡が入った。今、日本大使館に来ているが、資料の不備でビザを発行してもらえないという。ちなみに米国人は日本に入国する際、ビザは不要だが、インド人は必要なのだ。

    かような事態を予測して、あらかじめわたしは大使館に問い合わせ、必要書類を整えていたから問題はないはずだった。

    レストランの外に出て、大急ぎで米国の日本大使館に電話をかけ直すと、わたしが用意していた「日本からの招待状」が、不完全だという。日本から送られた証拠となる封筒か、ファックス送信の記録が必要だというのだ。

    わたしは、その「招待状」の内容を確認するため大使館に問い合わせをした際、「証拠は必要ないのか」とあらかじめ、わざわざ尋ねておいたのだが、その際、電話に出た男性スタッフが「必要ありません」ときっぱり言ったのだ。

    だから、必要と言われた書類に加え、請求されていない婚姻証明書までも念のため、アルヴィンドに託していたのだった。しかし、その件を電話に出た女性スタッフに告げても受け入れられず、証拠がなければビザは出せない、の一点張りなのである。しかも、非常に無礼な口調で、それはアルヴィンドに対しても同様だった。

    夫は会社を休んでビザを取りにいっている。しかも、その日を逃したら、週末をまたいでの手続きになり、いったい、何日先にこちらへ来られるかわからない。葬儀には間に合わないにしても、できるだけ早く来たいということで手続きをしているにも関わらずこれだ。

    父が亡くなって数時間後で、今、斎場にいるから、今すぐに招待状などを作って送付できる状況ではない、と説明しているにもかかわらず、「それがなければビザは発行できない」と言い張り、件の職員の説明ミスについては全く言及しない。

    どうしても諦めきれないわたしは、責任者に電話を代わってくれと頼んだ。10分以上も待たされた挙げ句、領事が電話口に出た。わたしは理性がはじけ飛ぶほど怒りをこめて、夫のビザを出してくれと頼んだ。こちらのミスならともかく、職員のミスが原因なのだ。しかし領事も、引き下がらない。

    「わなわなと怒りにうち震える」という状況を、本当に久しぶりに経験した。

    制御不能の赤ランプが点滅しているかのような感情の激しさで、大使館の不手際とこちらの正当性を訴え続けた。その結果、領事は「わかりました。ビザは本日中に発行します」と受けてくれた。いったい、何だったのだ?

    通常なら「数日」かかるところが、幸か不幸か「数時間後」に発給の手続きが済んだ。アルヴィンドは翌日、旅行代理店に航空券を取りにいき、その翌日の便でこちらに来ることになった。

    この件を通して、改めて、大使館や領事館の仕事ぶりのいい加減さと、一部職員の無礼さを実感した。これまでアルヴィンドが日本大使館や領事館で、どれほど「ぶしつけな態度」を取られてきたか知れない。しかし、今回だけは、本当に許し難かった。

    加えて、普段は感じない、夫と自分の国籍の違いによる、得も言われぬ距離感を覚えて、疲労感が増した。悲しみと憤りが入り交じり、やりきれない心持ちで、すっかり冷えきった豚の角煮と中国粥を、黙々と平らげた。

    その夜、わたしと母は斎場の広間の、父の遺体のある部屋で寝た。少しも熟睡できなかった。

     

    ●通夜の日。

    28日金曜日早朝。就寝してから数時間しかたっていないのに、カラスのけたたましい鳴き声で目を覚ました。窓を開き、ヨガをして、心を鎮め、それから近所のコンビニエンスストアに朝食を買いにいく。

    コンビニエンスストアの隣のメロンパン屋も開いていた。焼きたてのおいしいメロンパンも買った。前回、わたしが帰国したときに父が入院していた病院とこの斎場は、目と鼻の先にあり、だから前回もここでメロンパンを買い、父と分けて食べたのだった。

    それにしても、わたしは、何につけても、泣きたくはなかった。自分でも理由はよくわからないが、泣くのはいやだった。

    周囲の人々が泣いていると、ついこちらも感情がこみ上げてくるが、そんなとき、黒柳徹子の言葉を思い出した。彼女は「徹子の部屋」で人々の話を聞いていて、涙が出そうになることがたびたびあるらしいのだが、その都度泣いていたのでは、番組にならない。

    涙が出そうになったときは、それを止めるいい方法がある。舌の先を軽く噛むと、涙がすっと引っ込む、と彼女が昔、コメントしていたのだ。そのことを思い出してやってみた。ずいぶんと効果的だった。

    通夜は夕方から始まるとはいえ、さまざまな準備や段取りの打ち合わせなど、こまごまとした雑事があった。関係者への連絡などは、生前、父がリストアップしていたものに従い、妹と父の仕事仲間が電話をかけた。昼ごろには親戚らも集まり始めた。受付などの打ち合わせなども行われる。

    午後には納棺の儀が行われた。父の身体が大きいということで、棺は特大サイズとなり1万円追加なり。経帷子(きょうかたびら:死装束)は購入したものの、着せることはせず、足下に添え、父は赤いTシャツに短パン姿のまま。

    お気に入りだったヴィンテージのアロハシャツを羽織らせた。棺には、父が入院するたびに付き添っていた、「小ジョン」と名付けられた犬のぬいぐるみや、好物のサイコロキャラメル、母と二人の写真なども入れた。

    斎場の1階、入り口付近にある会場で、父の通夜と葬儀が営まれる。祭壇は、こちらの希望に近い、華やかな花々で彩られたものとなった。

    通夜、葬儀共に焼香はせず、「献花」の形を取ったので、弔問客には白やピンクのカーネーションを一輪ずつ、棺の傍らに添えてもらった。

    弔問客の大半は十数年ぶり、いや、数十年ぶりに顔を合わせる人々で、ひたすらに、歳月の流れを噛み締めるばかりだった。無論、わたしが知っている人は限られていたのだが。

    父は病気になってからの4年間というもの、それまでの仕事中心の暮らしとはうってかわり、母と過ごす時間を大切にしていた。入院していないときは、二人で一緒にあちこちに出かけた。普段の買い物も、外食も、ドライブも、いつも母と一緒だった。

    母が自宅で絵を教えている生徒さんたちとも顔見知りだった。若い女性にも積極的に話しかける父は、仕事で見せる側面とは異なるやさしさがただよっていたのか、親しみを覚えてくれる人たちも多かったようだ。そういう人たちも、訪れてくれた。

    会場の脇にいくつかのテーブルがあり、小さなカウンターキッチンがある。弔問客にはそこでしばらく、コーヒーを飲み、茶菓子を食べたりして、くつろいでもらった。

    親戚には別室に用意された料理を食べてもらいつつ、ひとときを過ごしてもらう。こういうとき、お酒が入ると話がくどくなったり、内輪もめが生じたりする可能性がなきしもあらずとの懸念から、「ウーロン茶のみ」に徹したのは正解だった。非常にすがすがしい通夜の席であった。

    弔問客は深夜まで訪れた。本来、通夜とは、一晩中起きていて、線香を絶やしてはいけない云々の慣習があるらしいが、そんなことをやっていたのでは身体が持たないので、最後の弔問客を見送った後、わたしと母は家族控え室に戻り、寝た。

    妹夫婦は久しぶりに会った従兄弟たちと飲みに行った。兄弟のように過ごした幼い頃の思い出話に花が咲き、とても楽しかったようだ。

     

    ● 葬儀と火葬と。

    29日土曜日。この日は朝10時から葬儀である。9時から斎場のスタッフと打ち合わせだというので早めに起き、風呂に入り、ヨガをする。斎場の一室でヨガマットを広げる人も珍しかろう。寝ぼけ眼の妹に、「こんなときこそ、ヨガはいいんだから、やりなさい」と、ポーズの伝授までもする。

    葬儀は「お別れ会」との名目で執り行うことにした。通夜の折、司会の女性が、やたらくねくねと感情を込めた口調でしゃべるのが気持ち悪かったので、「できるだけ淡々と、お涙ちょうだいな雰囲気にならないよう、客観的に、爽やかに、お願いします」と頼んだにも関わらず、やっぱりくねくねしていて、辟易した。

    葬儀の式次第はきわめてシンプルで、開式の挨拶に続き、キャンドルに火をともす灯火の儀、そして喪主の挨拶、友人の挨拶、電報の紹介(一部)などを経て、弔問客による献花である。

    喪主である母が挨拶の際、必要であろうとわざわざ原稿を書いたのだが(といってもきわめて短いもの)、母は「わたし、何もなくても挨拶できる」と言う。少々心配ではあったが、涙ながらにも、きちんと挨拶をしていた。さすが子供時代、お遊戯会で常に主役を務めていただけのことはある。

    父の旧友からのメッセージもまた、涙あり、笑いありの、非常に「聞き応え」のある内容で、それは同時に、わたしたちの知らない父の側面を教えてもくれ、あっさりとした式次第に色を添えてくれた。

    父は高校時代(福岡県の嘉穂高校)から野球をしており、卒業後は日鉄二瀬というノンプロのチームに属していた。プロの選手になるには実力が足りなかった父は、母と結婚したのち、三輪のトラック一台から建設関係の仕事をはじめ、やがてわたしが幼稚園に上がったころ、建設会社を興した。

    それからのち、会社は徐々に成長し、坂田家バブル時代もあった。しかし、諸事情から十数年前に会社は倒産、わたしが中学一年の時に移り住んだ、父の栄華の結晶とも思えた大きな家も、その数年前に売られていた。

    それ以降は、一言では書き尽くせぬさまざまがあったが、それでも両親は、ともかくは夫婦仲良く、優雅な精神を忘れぬよう努め、生活してきたように思う。

    話がそれたが、弔問客は父の仕事関係者も去ることながら、嘉穂高校の同級生や野球関係の知り合いなども多かった。

    会う人会う人、わたしに向かって、

    「アメリカの、お嬢さんですか? 本、読みましたよ」

    と声をかけてくれる。わたしが『街の灯』を出版したとき、父は大量に購入し、友人知人らに配っていたのだ。

    葬儀に来てくれた人ばかりではない。父の行きつけのレストラン、ブティック、クリーニング店にパン屋さん……、と父はあらゆるところで、本を配布(もしくは販売)していた。両親には、なぜか「行きつけの店」がやたらと多く、「顔見知りの店の人」が多いのだ。

    妹までもが、父の知人に会うたびに、「アメリカの、お嬢さんですか?」と尋ねられ、常に父の近くで世話をしてきた彼女に対してはいささか申し訳ない気もしたが、遠く離れていて、これといった親孝行をしていないわたしとしては、父が少なからず「娘自慢」をする機会を作れただけよかった、あのとき、本を出せておいてよかった、と、改めて思った。

    わたしは渡米以来、何度となく、父に米国を訪れて欲しいと思っていた。ニューヨークにも、雄大な国立公園がたくさんある西海岸にも、そしてベースボールの殿堂があるクーパースタウンにも。世界最古のフィールドで、いつか父とキャッチボールをしたいと願っていた。

    しかし、長時間の飛行機が嫌いだとか、仕事が忙しいとか言っているうちに病気になった。しかし2001年夏、インドで結婚式をしたあと、秋にニューヨークで披露パーティーを予定していた折には、父もついに渡米するはずだった。しかし、あのテロで、パーティーも旅行も中止になったのだった。

    父をアメリカに招くことができなかったことが、唯一の心残りではある。インドでの結婚式に出席してもらえたことは、思えば幸運なことだった。

    葬儀のあとは、霊柩車ではなく、白いリムジンカーに乗って、火葬場に向かった。骨壺を持っている母も、父の遺影を掲げているわたしも、やはりテレビのワンシーンを模倣しているような「嘘くさい」雰囲気がしてならず、どうにも我がことだという実感がわかない。

    車で1時間ほどかけて、油山というところにある火葬場へ到着した。最後の別れを告げた後、母は点火のボタンを押すのがいやだと言っていたが、幸い、それをする必要はなかった。最近ではボタンを押させない火葬場が増えているのだという。

    火葬が終わるのを待つ間、待合室で、用意していたサンドイッチ(父が好きだったロイヤルホストのカツサンドなど)を広げ、専用のバスで訪れた親戚らとともに軽くランチをとる。

    こんな場所で食欲が出るのだろうか、と思ったが、みな、思いのほか、食べた。

    わたしは、本当に久しぶりに顔を合わせる父の姉妹ら三人とともに、語り合った。幼児期を除いては、ほとんど関わることなく暮らしてきた人々なのに、わたしと仕草や表情が似ている人たち。

    父の子供時代の話、祖父母の話など、初めて聞く話に耳を傾けながら、血縁の不思議を思う。父から習ったわけでもないのに、父に似た字を書くわたしと、その父の字に似た字を書く叔母。

    棺に入れられたサイコロキャラメルを見て、姉妹が異口同音に「わたしもサイコロキャラメルが好きなの」と言うあたり。子供の頃、そろって食べていたわけでもないというのに。

    色とりどりの、たくさんの美しい花に埋もれた父の棺の、ふたは静かに閉じられた。

    予想時間を上回り、火葬には約2時間を要した。父の骨を拾うための部屋に通される。無機質な部屋の中央の、熱気が立ち上る台の、そこに転がる、白い骨々……。それらを、もはや淡々とした表情で、覗き込む親戚ら……。

    (なんて、不気味な慣習なんだろう!)

    心にこみ上げたのは、図らずも、不快感だった。

    わたしが人の火葬に立ち会うのは、父方の祖父が亡くなって以来、20年以上ぶりのことである。祖父のときも、骨に見入るような気持ちにはならなかったが、今回も、とても前に陣取ってはいられなかった。

    悲しい、というよりは、恐ろしい、気持ち悪い、という感情。辛うじて、箸で骨をつまんで骨壺にいれたあと、後方に下がる。それにしても、なぜ、箸でつまむのだろうか、骨を。古くからの慣習には、それぞれに何らかの意味合いがあるのであろうことはわかるが、生理的に耐え難く思うのは、わたしだけではないはずだ。

    骨壺に入りきれない大きな骨を、火葬場の人が、ガシ、ガシ、と砕くさまを見たときには、血の気がスーッと引いていく思いがした。

    一方、葬式慣れした親戚らは、「まあ、きれいな骨」「立派な骨だこと」と、骨の品評をしている。なんて奇異な情景なのだろう。

    こうして、大きかった父は、高級な白磁の菊彫り骨壺セットに納められた。いくら何でも、これに7万円は高すぎだったろうか……、いや、これは妥当な数字だったろうか……。そんなことに思いを巡らす。

    その夜、母と妹夫婦の4人で、夕食に出かけた。どんなに疲労困憊でも食事は大切だ。しかし、みな、猛烈に疲れきっており、食事のあとは起きているのも辛いほどだった。

    泥のように眠りたい、と思ったが、時差ぼけもあって、翌朝もまた、早朝に目が覚めた。居間の一画にもうけた祭壇で、写真の父が笑っている。

    人一倍生命力にあふれていた父の、その生命が、もうどこにもないなんて、どうにも信じがたい。

    通夜、葬儀を通して、わたしは、父にゆかりのある人々に会い、言葉を交わした。そして、わたしは父と過ごした時間がいかに少なかったかを痛感した。

    妹が生まれるまで、つまりわたしが3歳のころまでは、父と二人で出かけた記憶がある。しかし、それ以降の父の思い出は、主に父は仕事一色だった。更にはわたしが中学2年のときに「大反抗期」を迎えて以降の数年間は、父とまともに口をきいた事がなかったから、具体的な父との交流は、きわめて少ない。

    大学進学に伴い、18歳で実家を出てからも、母とは電話でしばしば話していたが、父と話すことはほとんどなかった。成人してから、父と二人で食事に出かけたことはただ一度。わたしが東京で働いていた頃、やはり仕事の都合で上京した父と、銀座の料亭で夕食をとった。

    店の女将さんがわたしたちを見るなり、

    「まあ、親子お揃いで、よろしいですねえ」

    と、微笑みながら声をかけてきた。わたしと父は、とてもよく似ているのだ。

    つまり、わたしには、父と過ごした思い出が、母や妹や、父の仕事仲間や友人らに比べると、もう、圧倒的に少ない。少ないからこそ、少し冷静な心境でいられたのかもしれない、黒柳徹子の技が使えたのかもしれない、とも思った。

     
    ●夫の来日。

    そして30日日曜日の夜、アルヴィンドが福岡に到着した。一週間ほどの滞在予定にしたかったらしいのだが、航空券がとれず、6月9日までの約10日間、滞在するという。

    幸い、大切な打ち合わせなどもなく、すんなりと休みを取れたことは幸いだった。葬儀には間に合わないにしても、日本語が話せないにしても、彼はわたしの夫であり、このような状況下においては、どんな国においても、夫婦が共にいることは自然な流れだろう。

    わたしたちはこれまで福岡を訪れたとき、ホテルに滞在するのが常だったが、今回ばかりは実家に泊まることにした。客間や和室のない実家だから、父の書斎のフロアに布団を敷き、そこで休むことになった。

    翌日からの1週間は、奇しくも妹の夫の「リフレッシュ休暇」だった。妹夫婦にしてみれば、そもそもワシントンDCに遊びにくる予定にしていたから気の毒ではあったが、一方、都合がよかったといえば、よかった。

     

    ●母とわたしと夫との生活。

    朝な夕なに泣く母に、優しく手をかけて、「ダイジョウブ?」と言うか、あとは英語で話しかけるしかできない夫。

    とはいえ、文化の違いなどにより、我々とはピントのずれた彼が一緒にいてくれたことは、ありがたかったとも言える。

    父の遺影の前に、常に置かれる父の好物。果物やお菓子だけでなく、ご飯さえも添える母を見て、アルヴィンドがわたしに耳打ちをする。

    「ねえ、美穂のお母さん、大丈夫? どうして、あんなに食べ物を飾るの?」

    わたしが日本の習慣を簡単に説明すると、

    「死んだ人に食べ物を供えるなんて、非科学的!」とのこと。

    わたしが葬儀や火葬のようすを事細かに説明すると、やはり遺骨を拾って箸で骨壺に詰めるという儀式に驚いていた。

    ちなみにインドでは、遺体は火葬され川に流される。彼の母は、一般の火葬場ではなく、彼女が経営していた農場に櫓を組み、そこで火葬し、ヤムナ川に流したそうだ。遺体への点火は長男の仕事であるらしく、アルヴィンドが行ったとのこと。あまりにも辛い経験だったらしく、細かい事は聞けなかった。

     

    ●それなりに、楽しい日々。

    父の死後まもないからといって、葬儀が終わった後は、これといった行事はない。「宗教にとらわれない」葬儀をしたため、初七日などもしない。

    無論、さまざまな名義変更など、各種手続きなどの事務処理はあるが、それは随時、片付けられることで、面倒だが仕事だと思えばたいしたことではない。

    家にいる間、アルヴィンドはコンピュータに向かい仕事をしているか、バイリンガルのテレビ番組を見るか、読書をしていた。時折やってくる訪問客には、部外者としてではなく家族の一員として挨拶をし、その様子がとても奇妙なものに思えた。

    夫には、それまでわたしの家族の詳細を、しみじみと語ることはなかった。この期に及んでも、わたしは当初、夫に詳細を語るのをためらっていた。建設業を営んでいた父は、ちょっぴり「やくざ」な側面もあり、夫に話しても理解されないであろうことも少なくなかった。

    しかし今回は、価値観や文化の違いによる誤解が生じることをも承知の上で、家族のことをできるだけ、話した。夫は、今までにない神妙さで聞き入ってくれた。彼から、的外れとも思える超客観的な意見を聞くことで、気持ちがほぐれることもあった。

    ある夜、身近な親戚に集まってもらい、お礼を兼ねての会食を催した。普段なら、わたしが通訳をしないと不機嫌になるアルヴィンドだが、日本語の嵐に巻き込まれつつ、彼は黙々と箸を口に運び(おいしい中国料理だったのは幸いだった)、ニコニコとしていた。

    「ぼくも、あいさつをしたい」と、自ら進んで親戚らの前で、父に対する哀悼の言葉などをスピーチしてくれたことも(もちろん、わたしが通訳したのだが)、ありがたかった。

    数日は外出する気にはなれないという母をおいて、わたしとアルヴィンドは妹夫婦と夕食に出かけたりした。それどころか、数日後には1泊2日で黒川温泉にまで、ドライブに出かけた。

    母も連れて行きたかったが、無理に誘うのもよくない。かといって我々も、四六時中、家にいたのでは気が滅入ってしまう。というわけで、慰安旅行を敢行したのである。

    ろくに下調べもせず見つけた宿(ふもと旅館)だったが、温泉の種類も多く、わたしもアルヴィンドも大いに楽しんだ。浴衣姿で、ひなびた、しかし風情のある温泉街をそぞろ歩きつつ、他の宿の湯巡りも体験した。

    品数の多い料理に舌鼓を打ち、ビールや日本酒を飲み、そしてしばしののち、また湯に入り、眠る。黒川温泉には何度か訪れたことのある妹夫婦も、今回はいつも以上にリラックスして、楽しめたようだ。

    父が亡くなってしまった悲しみがあると同時に、ひとつの大きな心配ごとが消え去ってしまったことへの安心感も、そこにはあるのかもしれない。

    翌日は、父が好きだったという久住高原をドライブした。見晴らしのいい緑の山道をすり抜け、フラワーガーデンにも行った。抜けるような青空と、鮮やかな緑の山並みを背景に、オレンジや黄色のポピーが、ふんわりと一面に咲き乱れるさまは、格別の美しさだった。

    ガーデンを散策するのが好きなわたしたちは、心地よい風に吹かれながら、花を眺め歩いた。オムレツカレーを食べ、フライドチキンを食べ、ジャージー乳のソフトクリームを食べた。

    妹夫婦と両親は、4人でこのあたりにもドライブに来たことがあるらしく、妹にとっては、どこを見ても父を思い出されてやりきれなかった様子である。

    この周辺ばかりでは、もちろん、ない。福岡県下および周辺地域全域において、父の足跡は至る所に残されており、どこを見ても、何を見ても、母にせよ、妹にせよ、父を思い出さずにはいられない様子である。

    特に食べることが大好きで、グルメ情報も豊富に蓄えていた父は、あちこちのレストラン情報にも精通していて、周囲に伝授するのが常だったようだ。そんな父にゆかりのある店が、道中に幾度も現れ、そのたびに、妹は父をしのぶ。

    アルヴィンドとは、時間の合間を縫って、天神や博多などへ出かけたほか、近所のショッピングモールに出かけてマッサージをしてもらったり、また、最近できたばかりのダイヤモンドシティという巨大なショッピングモールを巡った。アルヴィンドは食料品売り場での「試食」を満喫していた。

    また、海の中道にある水族館へ行き、イルカのショーを見たりもした。大規模な水族館で、わたしたちは数時間を過ごした。

    最後の日には、わたしが幼少期を過ごしたあたりを、二人で散歩した。

    わたしが通っていた名島幼稚園の前を通り、2歳か3歳のころ、祖父と散歩した山道を通過し、1歳から13歳までの歳月を過ごした小さな家の前を通った。何もかもが、信じられないほど小さく見えた。通りも狭く、1ブロックがとても短い。

    多くの家が改築されていて、しかし見覚えのある表札の名前を目で追いながら、幼い頃、よく遊んでいた、遠い日の友達の顔を思い出す。

    町内唯一のパン屋だったニコニコ堂はなくなり、汐見マーケットは廃れ、食料品の浜松やさんも、鮮魚の荒巻さんも、店を閉じていた。

    その分、新しい店や建物も、できていた。かつて、父の坂田建設株式会社だった小さなビルを横目で見がなら、こうして、アルヴィンドと二人で、自分の子供時代を過ごしたあたりを静かに歩くことの不思議さに、わたしは静かに、打たれた。

    父が行きつけだったという、わたしにとっては新しいパン屋さんに立ち寄り、父の好物だったという天然酵母の食パンを買った。アルヴィンドは好物のエクレアを、わたしはシュークリームを買った。

     

    ● 父の名残。

    母の影響もあり、おしゃれな父だったので、衣類や小物は捨てるには惜しい物がたくさん残っていた。まだ新しい革ジャンやコート、セータやジャケットなどもあるが、小太りのアルヴィンドをはじめ、妹の夫や従兄弟たちにも大きすぎて着られない。

    それでも、妹の夫や従兄弟たちは、父のキャップやベルト、ネクタイなどを喜んでもらっていった。アルヴィンドは、父のものを身につけるのは気が進まないだろうと思ったが、真新しいベルトやカフス、ネクタイをもらった。

    わたしは、父の書斎を整理しながら見つけた、父が好きなマーカーぺン(豪華10色入り)や、父が掃除の際、愛用していたというドイツ製のスポンジ「激落ちくん」(洗剤なしで本当によく落ちる)の買い置きなどをもらう。その他こまごまとした文房具類など。

    それから、まともなところでは、真珠貝でできたタイピンも。これは自分のブローチか指輪に作り直そうと思う。そうやって、父の部屋を幾日かに亘って片付けては見るものの、なかなか先に進まない。

    几帳面な文字で綴られた食事の記録や、体温や血圧などが記されたここ数年のノートに読み入ったり、仕事の書類をめくったり、埃をかぶった古いアルバムを開いたり……。

    ユニフォームの背番号、いくつもの野球ボール、同窓会の文集……。父の青春時代の名残が、次々に出てくる。ついでに自分たちの子供時代の写真に見入ったりして、作業は悉く中断する。

    一方、母は、寝室や、キッチンや、家の随所を片付けるにつけ、父のひとつひとつを思い出し、そのたびに泣く。

    父の衣服。父の薬の残り。父のおやつ入れの引き出し。父の好きな食品の買い置き。父の好きな紅茶。父の好きな寿司屋。父の好きな天ぷら屋。父の好きなパン屋。父の乗っていた車。父の買い集めた旅行雑誌……。

    あたりに満ちあふれた父の気配を、これからさき、時間をかけながら、少しずつ、少しずつ、薄めながら、でも決して消えてしまうことのない父の面影を、涙を流すことなく思い返せるまで、いったいどれほどの時間がかかるのか、わからない。

    心が迫る季節には、母にアメリカへ遊びにきてほしいと思っている。何年後かに、わたしたちがインドに移住できたなら、インドにも遊びにくればいいと思う。あるかどうかは知らないが、熟年対象のパーティーなんかに参加して、ボーイフレンドを作るのもいいと思う。

    40年以上の歳月を、共に過ごした人を失うことがどういうことなのか、想像することさえ、気が重い。が、いつまでも沈み込んだままではいてほしくない。

    今はただ、季節が一巡し、二巡し、父のいない、母の新しい思い出が増えていくことを、ひたすらに待つばかりだ。

    (6/14/2004, Copyright: Miho Sakata Malhan)

  • スクリーンショット 2023-07-17 午後3.58.19

    いよいよ12月も中盤となりました。昨日、ついに4カ月の学生生活を終えました。そして、明日の日曜日、インドに向けて出発します。オランダのアムステルダム経由でデリーに入ります。

    今日、土曜日は、部屋の掃除をして、仕事や会計処理などをすませ、そしてインドの家族へのお土産を買いに、これからA男と買い物に出かけるところです。本当は、もう、コンピュータに向かっている時間的な余裕はあまりないのですが、でも、旅行の前に一度は書いておきたいと、キーボードを叩いている次第であります。

    少々気ぜわしいなかの文章であるため、内容が散漫になってしまうかもしれませんが、ご理解くださいませ。 

    ●研究論文書きあげ、プレゼンテーションやり終え、学生生活が終わった。

    サンクスギビング・ホリデー明けの翌週は、本当に気合いを入れて勉強をした。

    学校のクラスは3つあるのだが、たまたまスケジュールの都合上、わたしのプレゼンテーション(聴衆の前で、自分の研究内容などについてを発表する)がファイナルプロジェクト(最終の研究課題)を含め、よりにもよって同じ週に重なり、水・木・金の三連続でプレゼンテーションをやらねばならなかったのだ。

    ちょうど年末進行の仕事と重なり、仕事そのものは大して時間のかかるものではなかったものの、なにしろ勉強の方が日本語ではなく「英語」にての作業だから、経験値が余りに少ないため時間が読めず、どうなることかと思った。

    プレゼンテーションは、いずれもパワーポイントというコンピュータのソフトウエアで資料を作成し、それを映写機で映し出しながら、説明していくというもの。

    従って、まずは情報を集め、全体の構想を考え、それから重要な部分を抽出し、文章や写真、地図、グラフなど図版を用いながら、パワーポイントで資料を作っていく。

    わたしは、この学校に入る前までは、パワーポイントを使ったことがなかったが、「大切なことをわかりやすく相手に伝える」という意味では、普段の仕事(雑誌や広告のレイアウトなど)と似ているので、操作方法を模索しながら学ぶうち、どんどん楽しくなってきた。

    パワーポイントを作り上げると、今度は口頭で、いかに説明するかの文章を考えねばならない。そして、プレゼンテーションごとに設定された時間(10分~20分)内にパワーポイントを用いながら、説明する。その練習もせねばならないから、結構時間がかかる。

    前号にも書いたが、初日のプレゼンテーションは、「インド経済のこれから」がテーマ。そもそもはインドの「ブレインドレイン」(頭脳流出)について研究論文を書くつもりだったが、書き始めているうちにも、米国企業がインドへと進出し始め、米国在住のインドの「頭脳」が帰国し始めている、つまり「ブレインサーキュレーション」(頭脳循環)現象がメディアにて顕著に取り上げられはじめた。

    この2カ月の間に、ニューヨーク・タイムズは台頭し始めたインド経済についてを数回取り上げ(これまではインドの天災とか貧困とか奇習などばかりを取り上げていたのにも関わらず)、さらには、論文の「提出日前日」に、ビジネス・ウィーク誌が「THE RISE OF INDIA(インドの幕開け)」というタイトルで、10ページ以上に亘る特集を組んでいるのを発見!

    読んでしまったら、気分的に書き直さねばならなくなるのは必至だから、仕方ない、気づかなかったふりをして、何事もなかったかのように提出しようとしたら、翌日、プロフェッサー(教授)が、なんとビジネス・ウィーク誌を持って授業に出てきた。

    「ミホはすごくいいタイミングで、インド経済についてをリサーチして、びっくりしたわ~!」

    と、褒め上手な教授に着眼のよさを褒められてうれしかったが、しかし、やはり新しい情報も取り込むべきだと諭され、一人、提出期限をのばしてもらい、新たに情報を加えた。はっきりいって、もういや! というくらいだったが、今となっては、やり遂げてよかった。

    論文はインドに持っていって、インドの家族に見せようと思う。ふふふ。

    そんなこんなで、水曜日は論文のテーマである「インド経済のこれから」を、木曜日は、別のクラスにて「アジアのブレインドレイン」(論文のちょっと二番煎じ)を、そして最後のクラスでは「アントレプレナーシップ(起業家精神)」をやった。

    アントレプレナーシップのプレゼンテーションの準備は、時間がない云々の域を超え、かなりの情熱で準備した。テーマは「外国人が米国で起業する方法」。これにケーススタディ(事例研究)として、自分がニューヨークで起業した経緯を織り交ぜつつ、語ったのである。

    何しろ時間が限られていたので、ずいぶんと端折ったが、これはもう、口頭説明の準備をせずとも、いくらでも言葉が出てくる。

    そしてプレゼンテーション。そもそもは人前で話すのは、日本語ですら緊張するタイプだったけれど(最初の数分がとても苦手。しばらくすると大丈夫)、これまで、クラスでも何度かスピーチをさせられることがあり、だから4カ月のうちにずいぶんと慣れてはいた。

    しかし、パワーポイントを使ってのプレゼンテーションは初めてだったから、うまくいくかどうかと、初日は少し緊張していた。2日目にはずいぶん慣れ、3日目にはもう、人前でしゃべるのが楽しく感じられるくらいだった。たいへんな急成長ぶりである。

    まだまだ文法の表現などに問題はあるし、的確な話し方や発音などは練習しなければならないけれど、自分でも最後のプレゼンテーションは、かなりうまくいったと思う。クラスメイトたちも非常に興味を持ってくれて、質問も多かった。

    1時間でもしゃべり続けられると思うくらい、次々に、訴えたいことが出てきた。むしろ不完全燃焼だったくらいだ。

    4カ月間。目に見えて、なにかがみるみる変わった訳じゃない。けれど、今まで、読むのが億劫だった新聞を、ずいぶんと気軽に読めるようになった。英語で文章を書く際の気負いもなくなった。話すときに、新しい単語を使おうと努力するようになった。

    そして、これから、どうやって勉強をし続けていけばいいのか、というヒントを得た。

    それより何より、わたしはクラスメイトに恵まれていた。本当に、すばらしい人たちに囲まれて、勉強ができたことが、何よりの財産となった。ここで、クラスメイトたちの研究論文のテーマを紹介したい。

    ◎Temporary Protective Status (TPS) for U.S. Immigrants
    米国移民の一時保護ビザ:コロンビア人女性(ロイターのジャーナリスト)

    ◎The Power of Brand Name
    ブランド・ネームの威力:メキシコ人女性(デザイナー志望の学生)

    ◎The Internet Generation
    インターネット世代:アルゼンチン人女性(心理学者&二児の母)

    ◎U.S. Public Diplomacy in the 21st Century
    21世紀の米国外交:韓国人女性(テレビレポーター→米国大学に進学)

    ◎The Role of NATO in the Kosovo Conflict
    コソボ紛争における北大西洋条約機構の役割:コソボ人女性(かつて国連勤務、一児の母&妊娠中)

    ◎The Effects of Globalization on South Korean Youth Culture
    韓国の若者文化にみるグローバリゼーションの影響:韓国人(弁護士志望学生)

    ◎The Self-Identity of Taiwanese
    台湾人のセルフ・アイデンティティ(自己認識):台湾人女性(マスコミ関係)

    ◎Controlling Weapons of Mass Destruction (WMD)
    大量破壊兵器規制:韓国人男性(政府機関勤務、本日!一児の父になる予定)

    ◎Public Support for U.S. Small Businesses
    米国におけるスモールビジネスへの公的支援:日本人男性(金融機関勤務)

    ◎A Proposal on English Education in Japan
    日本の英語教育に対する提案:日本人女性(英語教師)

    ◎International Aid for Afghan Refugees
    アフガニスタン難民への国際援助:日本人女性(通訳)

    ◎Child Labor in Mexico
    メキシコにおける児童就労:メキシコ人女性(ケイタリングビジネス計画中)

    ◎The New Indian Economy
    インド経済のこれから:日本人女性(出版社経営、ライター)

    ◎Women’s Rights under Islamic Law
    イスラム法における女性の権利:サウジアラビア女性(元教師、一児の母)

    このテーマをざっと眺めるだけでも、どんなにユニークな面々が揃っていたかが伺い知れるかと思う。テーマそのものは、少々堅苦しいが、みな気さくで朗らかで、ひとり一人のことを書き綴って紹介したいほど、魅力的な人たちだった。

    ————————————–

    ■12月13日午後10時半

    今、買い物から戻り、就寝前のひとときです。本当は、あと2、3テーマ、書きたいことがあったのですが、準備もありますので、この辺にしておきます。

    ところで、明日14日は、インド旅行に出発する前に、A男の会社の恒例のクリスマスが開かれる予定でした。

    メールマガジンの87号で、去年のクリスマスパーティーのことを書きました。以下はその一文です。

    「ワールドコムのCEOに就任した途端に破綻騒ぎに巻き込まれたジョン・シッジモア氏も来ていたが、心なしか表情に精彩を欠いていて、しかも太っていた。ストレスで太ってしまったのだろうか」

    その彼が、12日、急逝しました。腎臓系の合併症だといわれていますが、明らかに極度のストレスが原因だったと言われています。とても寛大でユーモアのある、そして若手に慕われる、人格のよさが評判の、インターネットの先駆者だった彼は、まだ52歳でした。妻と13歳の息子が残されました。

    氏はA男の会社のパートナーでもあり、A男のボスの古くからの親友でもあったため、もちろん、明日のクリスマスパーティーは中止となり、A男は明朝、シッジモア氏の葬儀に参列したあと、インドへ向かうことになりました。

    最近、命や仕事やお金について、考えさせられる出来事がとても多く、本当はそのことも書いておきたかったのですが、慌てて書ける内容でもないので、また号を改めて書くことにします。

    最後に、昨日のホームページの日記から、一部を抜粋します。

    ————————————–

    今日は卒業式だった。とうとう終わった。卒業式の間、人々のスピーチを聴きながら、もっともっと、色々と勉強したいと思った。

    さっき、クラスメイトたちの略歴を記した小冊子を読んでいた。本当に、優秀で、豊かな経歴を備えた人たちばかり。そんな彼らと4カ月、ともに学べたことを、本当に幸運に思う。

    別に、学歴がよければいいというものではない。しかし、そこには、「努力してきた人」だからこそのプロセスが、くっきりと見て取れる。どんな分野にせよ、無論、それは学業に限ったことではないが、難解な事柄を、スイスイと解決できる能力を持っているというのは、まったくもって、格好いい。

    わたしは、自分自身の責任における、挫折や努力不足で、希望する高校に行けず、かなり苦い十代を過ごした。だからその時期、努力して、さらにそれを継続しながら生きている人を見ると、ついつい、感心させられるのだ。もちろんA男も含め。

    学歴というのは、学歴そのものよりも、将来の選択肢を豊かにするという上で、あるに越したことはないと思う。無論、それをどう生かすかは個々人の問題だし、学歴のある人が=優秀であるとも限らないのは当然のことだ。

    学校に頼らずとも、自分自身の力で「学び」、知識をつけ、人生を豊かにしている人は大勢いるから、「学歴」という言葉を使用するのは適切でないかも知れない。が、便宜上、使用する。

    「学ぶこと」を通し、さまざまを知ることで、世界観が広がっていくのは楽しいことである。

    クラスメイトのサニー(韓国人女性)が、昨日、アメリカン大学の大学院(専攻は国際情勢)に合格した。26歳になったばかりの彼女は、これから2年間勉強して、更にキャリアをつける。

    その彼女が、卒業式でスピーチをした。わたしより1つ年上のクラスメイトが、スピーチを聞きながら、見守る「母親の気持ち」になったという。

    一方のわたしは、たとえ他のクラスメイトと年が離れていたとしても、まったくそういう気分にならないのだ。厚かましくも、自分はまだ、彼女たちとさほど変わらない場所にいるとさえ思う。つまり、真にクラスメイトとして、同じスタートラインに立っている気がしていた。

    だから、別のクラスメイトの一人(韓国人22歳)が、「ミホはわたしのお母さんに似てる!」と言ったときには、一瞬「?」と思った。ちょっぴり心外だった。せめて「お姉さん」にしてほしかった。もちろん、笑顔で「あら、そう?」と答えたおいたけど。

    それはともかく。わたしも、まだまだ、色々なことを勉強したいと、痛切に感じる。そして、わたしは、これからどういう方向に進んで行くべきなのだろう、かとも、考える。

    そして更には、どうやって、自分が学んだことを、社会へと還元して行くべきだろうか、ということも考える。多分、それが、一番のテーマだ。

    A男と暮らし、あくせくと働かなくても生活できるだけの基盤があり、考えられる時間が与えられているということは、本当に幸せなことでもあると思う。

    今こそ、いろいろな、周囲の声を遮断して、自分の発する声に耳を傾けるときだろう。世の中は、情報や干渉が多すぎる。アドバイスと干渉の区別をつけるのもまた、自分の判断力だ。以前も同じようなことを書いたけれど、本当に、自分の内なる声に、耳を澄ませようと思う。

    世界がぐるぐると動いていくのがわかる。めまいがするくらいだ。数日前など、ああ、本当にめまいがする、と思ったら、地震だった。そうそう、DCに来て初めて、地震を感じたのだ。午後4時くらいだったろうか。かなり揺れた。めまいじゃなかった。

    それにしても、卒業式での、サニーのスピーチは、本当にすばらしかった。本当に、目頭が熱くなった。

    やっぱり、悔しいくらいに、アメリカという国は、こうして、世界のさまざまなすばらしい人たちを集める力を持っている。その場にいられたことを、もう、しつこいくらい書いてるけれど、幸せに思う。

    式のあと、みんなでピッツェリア・パラディソに行き、ピザを食べた。明日メキシコに帰るマリアーナが涙ぐんで別れを告げるので、思わず抱き合いながら、泣けてきた。みんなが結婚式の折には、彼らの国を訪れたい。メキシコ、韓国、台湾へと、おしかけて行こうと思う。

    ああ、なんて、特別な4カ月だったろう! いろいろと、ありがとうございました!

    この機会を与えてくれた、A男にも感謝!

    ————————————–

    ■12月14日午前9時

    いつものようにヨガをして、今、お茶を飲みつつコンピュータに向かっています。窓の外は雪です。A男は葬儀に出かけました。わたしはこれから荷造りの最終チェックをして、身の回りの雑事を済ませ、午後2時にはここを出ます。

    飛行機が雪に負けず、ちゃんと飛ぶことを祈ります。インド行きの飛行機は、ともかく猛烈なこみようで、キャンセルが出たらたどり着けそうにありませんから。

    それでは、読者の皆様方。今年も発行頻度の浅い、わがメールマガジンを読んで下さって、ありがとうございました。インドからは30日にこちらへ戻ってきます。多分、次回のメールは2004年になると思います。

    なんだか、ものすごく、書き足りない気分ですが、この気分を来年への踏み台にしようと思います。

    よい年末年始をお過ごしください。

    (12/14/2003) Copyright: Miho Sakata Malhan

     

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    Outline

    I. Introduction

    II. Background of India’s brain drain

    III. Indian workers in the U.S.

    IV. Contribution of Indian workers to the U.S. IT industry

    V. Advantages and disadvantages of Indian’s brain drain

    VI. Current situation of the IT Industry in India and the U.S.

    VII. The new Indian economy

    VIII. Conclusion

    Abstract

    Soon after India gained its independence from Britain in 1947, the country’s leaders began to create the foundations for a new country. Prime Minister Nehru built the Indian Institutes of Technology (IITs), and today the country has six IITs.

    The IITs and other schools have educated excellent students, but many of them went to the West, especially to the U.S. The Indian brain drain began in the late 1950’s, and it has continued for a half century.

    In the 1990’s, with the IT boom in Silicon Valley, California, countless Indian IT specialists migrated to the U.S. The U.S. government and IT companies welcomed these workers.

    Because of the brain drain, India has lost many well-educated young people. Moreover, according to the United Nations Development Program (UNDP), India has lost 2 billion dollars per year because of the brain drain. On the other hand, India has acquired a reputation as an IT specialist country.

    The IT boom in the U.S. crashed in 2000, and many Indian workers lost their jobs. However, these days, many Indians are returning home, and now, U.S. trained Indians are contributing to their homelands’ economic development.

    Recently, there have been signs of a high-tech boom in India, and U.S. trained Indians are starting their own businesses in India. At the same time, U.S. companies are expanding their offices in India by hiring low-paid workers. If the financial benefits can be evenly distributed between India and the U.S, the trend will encourage the Indian economy.

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    The New Indian Economy

    (I. Introduction)

    Since India became independent from Britain in 1947, India has been facing a serious phenomenon which is called a’brain drain’. “Brain drain means’a movement of highly skilled or professional people from their own country to a country where they can earn more money” (Longman Dictionary). India’s brain drain began in the late 1950’s, and India has continuously exported highly educated professionals to developed countries, mainly to the U.S.

    In the mid-1990’s, an IT boom occurred in Silicon Valley, California, and the wave of prosperity resulted in a huge number of engineers and specialists immigrating from India. Year after year, the U.S. Congress raised the limit of H1B-visas, and India was issued more than 20 percent of the world wide total. “In 1993, 84 percent of new computer science graduates [in India] headed for jobs or advanced study in the United States” (Constable A23).

    After 2000, the IT bubble burst, and many people lost their jobs, including Indians who worked in the U.S. Now, there are signs the brain drain is reversing. The Indians who have work experience in the U.S. are looking homeward, especially to Bangalore, which is well known for its IT industry. It is a difficult situation for the people who lost their jobs in the U.S., but for the future of India, it is positive.

    Undoubtedly, India has suffered a brain drain for a long time, but it mustn’t be forgotten that India didn’t have enough opportunities to attract well-educated young citizens. On the other hand, the U.S. offered great possibilities. Thus, the brain drain was an unavoidable situation.

    However, the situation is now changing. Several U.S. companies are expanding their offices in India, and they are hiring U.S. trained workers who are interested in returning to India. At the same time, the Indian government and other organizations have started to encourage entrepreneurs and invite U.S. companies and investors. India’s brain drain is a relic of the past, and the phenomenon should now be called’brain circulation’.

    “They are bringing back the money and they’re bringing back the business contact, it is fantastic” said Dewang Mehta, president of NASSCOM, a New Delhi based software lobby group (CNN.com). Although India lost business opportunities because of the brain drain, now India should encourage its entrepreneurs to establish new businesses and improve the infrastructure.

    (II. Background of India’s brain drain)

    India gained its independence from Britain in 1947, and the country’s leaders began to create the infrastructure of the new country. One of the remarkable events was the establishment of the Indian Institutes of Technology (IITs) in the late 1950’s. “Prime Minister Jawaharlal Nehru founded the IITs’to train an elite that could build and manage massive industrial development projects”(Constable A23).

    The Indian government has six IITs, located in Kanpur, Kharagpur, Bombay, Delhi, Chennai and Roorkee. Each year, more than 100,000 students take the IIT entrance exam and only 2,000 of them are admitted. The competition rate is much higher than for admission to Harvard and Stanford in the U.S. (CNN.com).

    Contrary to Nehru’s vision, although, the IITs and other schools, like the Indian Institutes of Management (IIMs), Regional Engineering College, Madras University, and Pune University, offered on excellent education, many students left the country and went to the U.S. without making any contribution to their own country. The issue became conspicuous in the late 1950’s, and it has continued for a half century.

    Finally, in the 1990’s, with the IT boom in Silicon Valley, countless Indian IT specialists migrated to the U.S. In fact, the brain drain was an unavoidable phenomenon. India is a developing country with much poverty. There were not enough companies which could accept well-educated young people, and the business infrastructure was really poor.

    It was natural that energetic and smart young people headed to the West, especially to the U.S. Many of them had ambitions to grab the American dream. America was a symbol of freedom, and working in the U.S. was really exciting for young people. The trend occurred not only in India, but also in many other countries in Asia, for example, China, Taiwan, and South Korea.

    (III. Indian workers in the U.S.)

    Year after year, the process of getting a U.S. permanent resident card (green card) becomes more difficult, but compared to other industrial countries, the U.S. is more receptive to immigrants. Especially, Indians have been given priority to work in U.S. companies.

    “Although hundreds of thousand of people around the world apply for such visas annually, American employers like Indians because their English is good, their demands are minimal, and their government’s educational system has given priority to computer training far longer than many other countries” (Constable A23).

    In the 1990’s, during the IT boom, the U.S. issued a huge number of temporary (3 to 6 years), professional working visas(H1B), to Indian workers.”The US senate increased the quota of H1B visas for skilled workers from 115,000 to 195,000 in 2000. Indians now receive nearly 45 percent of such visas each year” (Creehan 6).

    (IV. Contribution of Indian workers to the U.S. IT industry)

    Indian workers in the U.S. have contributed to the progress of the IT industry and encouraged the U.S. economy. “Indians believe their culture, language and education system create students naturally suited to excel in areas like math and computer code writing” (CNN.com).

    In fact, large number of popular software applications were written by Indian code-writers (CNN.com). Kanwal Rekhi, a Silicon Valley entrepreneur and IIT alumnus, says that the Indian mind is philosophical and freethinking. Additionally he believes that mathematics is a part of the daily life in India, and Indians are mathematicians (CNN.com).

    (V. Advantages and disadvantages of Indian’s brain drain)

    While the Indians were working for U.S companies, their motherland was struggling. India had great human resources but had not profited from them. “With the exodus of many of India’s best minds to the West in the following decades, many Indians railed against what they saw as a taxpayer-financed subsidy for Western industry” (Creehan 6).

    According to a report which was issued [in 2001] by the United Nations Development Program (UNDP), India was losing 2 billion dollars per year because of the emigration of computer experts to the U.S. (BBC News). Certainly, India may have lost many resources through the brain drain, but at the same time, India acquired a reputation as an IT specialist country.

    The UNDP report said:”The success of the Indian diaspora in Silicon Valley […] appears to be influencing how the world views India, by creating a sort of “branding’. […] Indian nationality for a software programmer sends a signal of quality just as a ‘made in Japan’ label signals first-class consumer electronics” (BBC News).

    The IT boom, which swept over the U.S., burst in 2000. Afterwards, countless IT firms went bankrupt, and a large number of workers, including Indians, were fired. After the terrorist attack of September 11, 2001, the situation grew more serious.”California’s employment figures reveal that in Santa Clara—the hub for Indian information technology professionals—over 190,000 workers lost their jobs in the past two years [2001-02]” (United Press International).

    If a foreign worker lost his or her job, the person would lose the H1B visa status at the same time. Thus, if the person couldn’t find another job, he or she had to leave the U.S. immediately. However, these days, many Indians are choosing to go back home.’In the past, the only way people returned to India was when they were pushed out; now it is voluntary'(United Press International).

    (VI. Current situation of the IT Industry in India and the U.S.)

    In the past few years, dozens of Indians have returned to start up their own companies. At the same time, U.S. companies have begun to pay attention to the Indian market.”A growing number of big name American firms — led by Microsoft, which opened a research and development center in Hyderabad in 1998 — are taking advantage of newly liberalized Indian laws that allow more foreign investment and joint ventures” (Constable A23).

    For example, Oracle, a software company, has already advanced into the Indian market.”Ten percent of the 4,000 new positions in Oracle’s expanded India location are filled by Indians formerly based in the United States”(Jayadev).

    In July 2003, Silicon India Magazine hosted a job fair in Santa Clara, California, which is in the heart of Silicon Valley. About 2,000 professional tech workers of Indian origin attended the fair and handed their resumes to recruiters of U.S. companies which are starting operations in India. Intel, Microsoft and National Semiconductor Company topped the list of the 28 participating (Jayadev).

    “When countries create the right conditions, including openness to new investment and new ideas, they can recapture some of what they have lost. The Indians in Silicon Valley are an important part of Bangalore’s success” (BBC News).

    Today, India is not suffering from a brain drain. Indeed, there are many signs that the brain drain is reversing. These days the phenomenon is called’brain circulation’ and the U.S. media have started to write about the Indian economy.

    For example, on October 20, 2003, The New York Times published ‘Sizzling Economy Revitalized India’. The article mentions the optimistic prospects of the Indian economy, and it refers to other Indian industries like auto parts and motorcycles.

    One month later, The New York Times picked up a story about India again in ‘Sleepy City Has High Hopes, Dreaming of High Tech’. According to the article, not only Bangalore, which is a remarkable IT hub city, but also other small cities like Chandigarh are growing tech cities.

    The New York Times used to publish articles on the negative aspects of India, for example, disasters, poverty, disease, or strange customs, but now its point of view is changing. Additionally, the Business Week magazine, which was issued on December 8, 2003, published the article’The Rise of India’ as its cover story. Through 10 pages, the article reported on the latest Indian economy and its future.

    The U.S. Congress announced a reduction in the number of H1B visas from 195,000 to 65,000 in the next fiscal year, October 2003 to September 2004 (Einhorn). The drastic cut will hit the IT industry both in the U.S. and India.

    S. Ramadorai, who is the chief executive officer of Tata Consultancy Services (TCS), India’s largest IT service company, is hopeful: “Companies will work out new business models and push [even] more work offshore. […] The customer will simply send the project to India. This will encourage [job] emigration” (Einhorn).

    One of the current hot topics among politicians and specialists in the U.S. is’the jobs that U.S. companies have outsourced to lower-cost locales such as India and China’ (Einhorn). If the financial benefits can be evenly distributed between India and the U.S., the trend will encourage the Indian economy.

    “Most people instinctively assume that the movement of skill and talent must benefit one country at the expense of another. But thanks to brain circulation, high-skilled immigration increasingly benefits both sides. Economically speaking, it is blessed to give and to receive” (Saxenian 28-31).

    (VII. The new Indian economy)

    The new century of India has dawned with the beginning of the 21st century, and India is facing the most important period in its long history. Now, its untapped potential should be used wisely. However, there are many obstacles to grow the Indian economy, and plenty of skeptics are pessimistic on the prospects for the Indian economy.

    The Indian government and other organizations should make an effort to establish a business infrastructure and new business laws, and they should solve other fundamental problems as well. India has an enormous population – over a billion – and 26 percent of Indians live in poverty (Waldman A7). And the literacy rate in India is only 65.38 percent, which shows the necessity for more elementary education (Census of India, 2001).

    The lack of highways prevents the growth of industry and the construction of highways is one of the important priorities. In fact, the new Bombay-Pune highway shows how highways can improve the Indian economy.”Pune can ship its goods efficiently and link up with the outside world. As a result, it’s one of India’s new boom towns and is exporting globally both software and manufactured goods such as auto parts” (Business Week, 78).

    Nevertheless, India is facing a great opportunity.”The challenge for developing countries, the UN says, is to come up with strategies to keep some professionals at home and encourage other to return” (BBC News). Many young Indians who have had a relationship with the West, especially the U.S., can now build a new economy for their homeland as they become bridges to connect India and the West.

    Works Cited

    AnnaLee Saxenian. “Brain Circulation” The Brookings Review, Winter 2002. 28-31.

    Avalos, George. “Foreign Technical Workers in Walnut Creek, Calif., Area Aid Home Countries” Knight Ridder Tribune Business News, 19 Apr. 2002.

    ” Brain Drain Costs Asia Billions” BBS News, 10 Jul. 2001.

    Census of India

    “Commentary: India’s Reverse Brain Drain” United Press International, 25 Aug. 2003.

    Constable, Pamera. “India’s Brain Drain Eases Off” Washington Post, 14 Sept. 2000: A23.

    Creehan, Sean. “Brain Strain: India’s IT Crisis” Harvard International Review, Summer 2001: 6-7.

    Einhorn, Bruce. “An Irresistable Offshore Tide for Jobs” Business Week Online, 19 Nov. 2003.

    Hattori, James. “Reversing India’s Brain Drain” CNN.com, 25 Aug. 2000.

    Jayadev, Raj. “Reverse Brain-Drain: U.S.-Based Indian Tech Workers Go Home” Pacific News Service, 1 Aug. 2003.

    Longman English – English Dictionary.

    Rohde, David. “Sleepy City Has High Hopes, Dreaming of High Tech” New York Times, 20 Nov. 2003.

    “The Rise of India” Business Week, 8 Dec. 2003. 78.

    Waldman, Amy. “Sizzling Economy Revitalizes India” New York Times, 20 Oct. 2003: A1.

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    【要綱】

    I. 序文

    II. インドの頭脳流出(ブレイン・ドレイン)の背景

    III. 米国におけるインド人就労者(IT関連)

    IV. 米国のIT(Information Technoroly: 情報技術)業界に於けるインド人の貢献

    V. インドの頭脳流出の利点と不利点

    VI. インド及び米国に於けるIT業界の現状

    VII. インドの新経済

    VIII. 結論

    【概要】

    1947年に、インドが英国から独立してまもなく、インドの指導者たちは「新しい国」の地盤を築きはじめた。時の首相、ネルーは、その一環としてインド工科大学を設立、現在インド国内には6つのキャンパスがある。

    インド工科大学および他の大学は優秀な学生を輩出してきたが、彼らの多くは西側諸国、特に米国に移った。この頭脳流出現象は1950年代に始まり、以降、半世紀に亘り継続している。

    1990年代、カリフォルニアのシリコンバレーでIT(インフォメーション・テクノロジー)ブームが起こった。無数のインド人技術者たちが米国に、米国政府や企業もまた、彼らを快く受け入れた。

    頭脳流出により、インドは優秀な若者たちを失い続けてきた。国連開発計画(UNDP)によると、インドは頭脳流出により年間20億ドル損失を被っているという。一方、インドは「IT国家」という名声を獲得した。

    2000年、米国のITブームは崩壊し、多くのインド人雇用者は職を失った。帰国を余儀なくされた彼らはしかし、現在、母国の経済成長に貢献している。

    現在、米国での就労経験のあるインド人は、自分たちのビジネスを起こし、ハイテク・ブームを起こしつつある。同時に米企業は低賃金で雇用できるインドにオフィスを拡張しつつある。

    米国とインドが、均等に利益を得られるとしたなら、この傾向はインド経済の活性化を促すこととなるだろう。

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    インド新経済

    (I. イントロダクション)

    1947年、英国から独立して以来、インドは「頭脳流出(brain drain)」という深刻な現象に直面してきた。「頭脳流出とは、高度な技術を身につけた人材が母国を離れ、より高収入を得られる国へ移る現象をいう」 (Longman Dictionary)。1950年代の後半より起こり始めた頭脳流出により、インドは高学歴の優秀な人材を、米国を中心とした先進諸国に「輸出」し続けてきた。

    1990年代、カリフォルニアのシリコンバレーでITブームが起こり、膨大な数のインド人技術者、専門家らが米国に移り住んだ。米議会は年々、H1Bビザ(一時就労ビザ)の発給枠を拡大し、インド人は全世界の合計発給数の20%以上を占めるようになった。「1993年には、インド国内の大学でコンピュータ・サイエンスを学んだ卒業生のうちの84%が、米国で就職、あるいは更なる高等教育を受けるために渡米した」 (Constable A23)。

    2000年以降、米国のITバブルは崩壊し、インド人を含む多くの労働者が職を失った。現在、頭脳流出の逆流、つまりインド人らが帰国する兆候が現れてきた。米国での就労経験があるインド人らは、母国の、特に近年、IT産業の著しい発展で知られるバンガロールを目指して帰国を始めている。米国において職を失ったインド人らにとって、バブルの崩壊は困難な状況ではあったが、インド経済にとってはポジティブな要因となった側面がある。

    インドが長期に亘る頭脳流出によって損失を被ってきたのは事実だが、インドそのものに、若く優秀な人材を引きつけるマーケットがなかったのも事実だ。一方、米国は可能性に満ちあふれた土壌があった。頭脳流出は起こるべくして起こった現象と言えるだろう。

    しかしながら、この現象は今、変貌を遂げつつある。いくつかの米国企業が、インドにオフィスを拡張し、米国での就労経験があり、母国で就職することを望んでいる人々を採用しはじめたのだ。同時にインド政府や各種組織、団体も、起業家支援を開始し、米国企業や投資家を積極的に招聘しはじめた。

    「頭脳流出」は最早過去の遺物となりつつある。むしろ現在の現象は「頭脳循環」と呼ばれるべきだろう。

    「彼らは資金とビジネス・コンタクトを持って帰ってきている。これは実にすばらしいことだ」。ニューデリーを本拠とするソフトウェアのロビーグループNASSCOMの取締役、Dewang Mehtaは語る (CNN.com)。今、インドは積極的に起業家を支援し、ビジネスとインフラストラクチャーの基盤を整備する必要があるだろう。
     

    (II. インドの頭脳流出の背景)

    1947年にインドが英国から独立を勝ち取ったとき、国の指導者たちは新しい国の基盤・構造の整備を始めた。その中でも特筆すべき事業は、1950年代後半より着手されたインド工科大学(IIT)の設立だった。ときの首相、ネルーは、インド国内のさまざまな産業のプロジェクトを構築、運営できるエリートたちの養成を、主たる目的に掲げていた(Constable A23)。

    インド政府は、デリー、チェンナイ、ボンベイ、カンプール、カラグプール、ローキー、6つの都市にそれぞれインド工科大学(IIT)を設立した。毎年10万人を超える学生らが受験するが、合格者はわずか2000人程度の狭き門である。この競争率は、米国のハーバードやスタンフォードよりも高い (CNN.com)。

    しかし、ネルー元首相の思惑とは裏腹に、インド工科大学(IIT)をはじめ、Indian Institutes of Management (IIM), Regional Engineering College, Madras University, and Pune Universityといった優れた教育を行っている大学の卒業生らは、母国に何ら貢献することなく、米国へ渡っていった。この傾向は1950年代後半より顕著になり、以降半世紀以上に亘って続いてきた。

    1990年代に入ると、シリコンバレーのITブームに伴い、より一段と多くのインド人技術者らが米国を目指した。すでに頭脳流出は防ぎようのない現象となっていた。インドは貧困にあえぐ発展途上国である。ビジネス基盤は極めて劣悪で、優秀な学生らを受け入れる十分な企業が、そこにはなかった。

    知的で精力的な若者らが、西側諸国、特に米国を目指すのは、自然の流れだった。彼らの多くはアメリカンドリームをつかみ取ることを夢見ていた。米国は自由の象徴であり、その米国で働くことは、若者にとって極めてエキサイティングな挑戦でもあった。このような傾向は、なにもインドに限って起こったことではない。アジアの、例えば中国や台湾、韓国の学生らも、同じような理由で米国を目指してきた。

    (III. 米国におけるインド人就労者)

    年々、米国における永住権の獲得は困難になりつつあるが、しかし他の先進諸国と比較すると、米国は移民に対して積極的に門戸を開いてきたといえるだろう。特にインド人は、米国の企業で比較的優遇されてきた。

    「毎年、世界中から何百人、何千人もの人々が米国の就労ビザを申請するが、米国の雇用者はインド人就労者に対し好意的だ。なぜなら彼らは英語を話せるし、要求も少ない。更に母国の高度な教育機関のおかげで、他の国の人々よりも優れたコンピュータに関する技量を身につけている」 (Constable A23)。

    1990年代のITブームの折、米国は膨大な数のH1Bビザ(一時就労ビザ)をインド人就労者に発行した。「米議会は2000年、H1Bビザの年間発給枠を、それまでの11万5000人から19万5000人にひきあげた。そのうちの45%近くは、ここ数年、インド人によって占められている」 (Creehan 6)。

    (IV. インド人労働者の、米国IT産業に於ける貢献)

    米国のインド人労働者は、米国のIT産業の発展と景気の向上に貢献してきた。「インド人らは、自分たちの文化や言語、教育システムが、自分たちの数学やコンピュータのコードライティングに於ける優れた技術の背景になっていると信じている」(CNN.com)。

    事実、有名なソフトウエア・アプリケーションの大半は、インド人コードライターによって制作されている 。シリコン・バレーの起業家であり、インド工科大学(IIT)の卒業生であるKanwal Rekhi氏によると、インド人の精神は哲学的で自由であり、またインドでは、数学は生活の一部であり、インド人はみな、数学者であるとのことである(CNN.com)。

    (V. インド人の頭脳流出に於ける、有利な点と不利な点)

    優秀なインド人が米国の企業で働いている間、彼らの母国はあがいていた。インドは優秀な人材を育成しているにもかかわらず、彼らから何ら利益を得ていなかった。「何十年にも亘り、大半のインドの頭脳が欧米に流出している事実は、納税者であるインド国民らにとって、あたかも欧米の産業に助成金を与えているようなものだとの不満があった」(Creehan 6)。

    2001年に発表された国連開発計画(UNDP)の報告によると、インドはコンピュータ技術者の米国への頭脳流出により、年間20億ドル損失を被っているという(BBC News)。

    確かにインドは頭脳流出によって多くの打撃を受けてきたが、同時に「IT国家」という名声を獲得するに至った。

    「メイド・イン・ジャパンの電化製品が一級品であることを示すように、インド人のソフトウエア・プログラマーは一級品であるということを、シリコンバレーに於けるインド人らは、全世界に対して示した。つまりインド人のIT業界に於ける「ブランド化」を図ったともいえる」と国連開発計画(UNDP)の報告は続けている (BBC News)。

    2000年、米国のITブームは急速に冷え込んだ。以来、無数のIT関連企業が倒産し、多くのインド人を含む労働者が解雇された。さらには2001年9月11日の同時多発テロは経済の冷え込みに拍車をかけた。「インド人のIT技術者が最も多く働いているカリフォルニア州のサンタ・クララでは、過去2年 [2001-02]の間に19万人の労働者が職を失った (United Press International)。

    H1Bビザで働く外国人就労者が職を失った場合、それと同時にビザのステイタスも失うことになる。つまり、すぐに次なる仕事を見つけない限り、即刻、米国を離れなければならなくなる。かつては帰国を余儀なくされたインド人らは、やむを得ず帰国する、つまり悲観的なケースが多かったが、最近では自ら率先して帰国を選ぶインド人が増え始めている(United Press International)。
     

    (VI. 現在のインドと米国におけるIT業界)

    ここ数年、無数のインド人技術者は米国を去り、母国で起業し始めている。それと同時に米国の企業もインド市場に着目しはじめた。「最近、海外資本や合弁事業を優遇する方向で、インドのビジネス法が見直されたことにより、1998年に米マイクロソフト社がインドのハイデラバードに研究開発センターを開設したのを始め、多くの米IT企業が、インド進出を目論んでいる」(Constable A23)。

    ソフトウエア会社のオラクルの場合、インドオフィスで新規採用した4000名の従業員のうち10%は、かつて米国で就労経験のあるインド人によって占められている(Jayadev)。

    2003年7月、「シリコン・インディア・マガジン」は、シリコンバレーの心臓部であるサンタ・クララでジョブ・フェア(企業説明会)を企画した。約2000人のインド人技術者らが履歴書を持参し、インド国内に事業展開を予定している米国企業の人事採用担当者に手渡した。参加した企業は、インテル、マイクロソフト、ナショナル・セミコンダクター・カンパニーなど28の有名企業である」(Jayadev)。

    「新しい投資やアイデアへの開眼により、国々が正しい環境を創造するとき、彼らは失ってきたものを奪回することができる。バンガロールの今日の成功は、つまりシリコンバレーのインド人らの存在が大きく影響している」(BBC News)。

    最早、今日のインドは頭脳流出の被害者ではない。確実に至るところで、頭脳流出は逆流を始めている。いわば今日の現象は「頭脳循環: brain circulation」と呼ばれるべきで、米国のメディアもインド経済について積極的に取り上げ始めている。

    たとえば2003年10月20日のニューヨークタイムズ紙では、「Sizzling Economy Revitalized India [躍進する経済がインドを再生する]」と題し、インド経済に対する楽観的な見通しを示している。またIT業界だけでなく、インドの自動車・部品産業の成長についても言及している。

    同じくニューヨークタイムズは翌月にも 「Sleepy City Has High Hopes, Dreaming of High Tech [ハイテクの夢を見る……眠れる町が抱く大いなる希望]」と題した記事を掲載。IT産業のハブシティとして特筆すべきバンガロールだけでなく、Chandigarhといった小さな地方都市(町)までもが、テクノロジーの町として成長し始めている様子をレポートしている。

    ニューヨークタイムズは従来、天災や貧困、疫病、奇習といった、インドに対してネガティブな記事ばかりを主に紹介していた。しかし最近は、その視点が変わりつつある。

    加えて2003年の12月8日に発行されたビジネスウィークマガジンは「The Rise of India [インドの台頭]」という特集を組み、約10ページに亘って、インド経済の現状と将来の見通しを、一部、中国経済とそのバックグラウンドと比較しながら分析・紹介している。

    米国議会は次年度[2003年10月~2004年9月]のH1Bビザの発給枠を、従来の19万5000人から6万5000人へ大幅に減らすことを発表した。この大きな削減は、インドと米国両方のIT業界に打撃を与えることになるだろう。

    インド最大のITサービス会社、タタ・コンサルティング・サービスのCEOであるS. Ramadoraiは、しかし楽観的である。「[たとえ米国が]雇用を海外 [インド]に広げたとしても、企業はビジネスをうまく運営していけるだろう。 […] 顧客は単に、インドにプロジェクトを送ってくれればいいのだ。それはインドのビジネスチャンスが増えることにもつながる (Einhorn)。

    現在、米国の政治家や専門家らの間で話題になっているトピックスのひとつが、インドや中国で低賃金雇用を実施するアウトソーシングについてだ(Einhorn)。もしも、米国とインドの利益が均等に分配された場合、この傾向はインド経済を活気づける一つの起爆剤となりえるだろう。

    「技術や才能の恩恵を被る国の利益は、他の国の犠牲の上にあると、頭からきめてかかる人が大半だろう。しかし「頭脳循環」は現在のところ、高度技術者である移民たちによって、双方に利益をもたらしている。つまり利害関係がうまく成立しているといえるだろう(Saxenian 28-31)。

    (VII. インドの新経済)

    21世紀の始まりとともに、インドの新世紀も開けようとしている。インドの長い歴史の中で、今は最も重要な時機であることは確かだ。今こそ、未開拓の可能性に着目すべきだろう。しかしながら、インド経済の発展には数々の障害が横たわっている。多くの懐疑派は、インド経済の将来に対して悲観的だ。

    インド政府と関連機関は、ビジネス基盤の整備と、ビジネス法の制定に早急に着手するべきだろう。同時に他の根本的な問題の解決も急務だ。

    たとえばインドが抱える膨大な人口(10億人超)のうち、26%は貧困にあえいでいる (Waldman A7)。またわずか65.38%というインド国民の平均識字率は、初等教育拡充の必要性を示している(Census of India, 2001)。

    ハイウエイの不足もまた、産業の成長を阻む理由となっており、新設が急がれる。

    事実、ボンベイとプネ間に最近完成したばかりのハイウエイは、すでにインド経済の発展に貢献している。「プネで運び込まれるソフトウエアや自動車部品などの工場製品などは、[ボンベイに移送され]、効率よく海外に輸出されるようになった。このことで、プネはインドの新しい経済都市としての地位を築き始めている(Business Week, 78)」。

    ともあれ、インドは大きなチャンスを目前にしているには変わりない。国連によると、「発展途上国の挑戦は、プロフェッショナルな人材を自国に留めると同時に、帰国する人々を支援することによる」(BBC News)。

    現在、欧米との関わりを持つ若きインド人のプロフェッショナルたちは、母国の新しい経済基盤の構築に貢献するため、欧米とインド間を結ぶ「橋渡し」としての役割を果たすべきだろう。

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    Works Cited

    AnnaLee Saxenian. “Brain Circulation” The Brookings Review, Winter 2002. 28-31.

    Avalos, George. “Foreign Technical Workers in Walnut Creek, Calif., Area Aid Home Countries” Knight Ridder Tribune Business News, 19 Apr. 2002.

    ” Brain Drain Costs Asia Billions” BBS News, 10 Jul. 2001.

    Census of India

    “Commentary: India’s Reverse Brain Drain” United Press International, 25 Aug. 2003.

    Constable, Pamera. “India’s Brain Drain Eases Off” Washington Post, 14 Sept. 2000: A23.

    Creehan, Sean. “Brain Strain: India’s IT Crisis” Harvard International Review, Summer 2001: 6-7.

    Einhorn, Bruce. “An Irresistable Offshore Tide for Jobs” Business Week Online, 19 Nov. 2003.

    Hattori, James. “Reversing India’s Brain Drain” CNN.com, 25 Aug. 2000.

    Jayadev, Raj. “Reverse Brain-Drain: U.S.-Based Indian Tech Workers Go Home” Pacific News Service, 1 Aug. 2003.

    Longman English – English Dictionary.

    Rohde, David. “Sleepy City Has High Hopes, Dreaming of High Tech” New York Times, 20 Nov. 2003.

    “The Rise of India” Business Week, 8 Dec. 2003. 78.

    Waldman, Amy. “Sizzling Economy Revitalizes India” New York Times, 20 Oct. 2003: A1.